空の蒼さを 見つめていると
部屋の掃除、終了。床面積も8割くらいは回復したし、今年はこれぐらいにしといたる、ということで。
文庫だけは著者別に並べ直したため、ようやく自分の趣味を反映した本棚になって、見ていて少しだけ幸せ。 小野不由美とか、乙一とか、加納朋子とか、川上弘美とか、火浦功とか、泉鏡花とか… Comicsやハードカバーの単行本は大雑把に入れただけで、やる気の無い古本屋の店頭みたいな凄い状態のままですが…
今迄、部屋に絵やカレンダーを貼ったりはしていなかったのだが、せっかく部屋が広くなった(気がする)ので、この前、「メトロポリタン美術館展」で買ってきたボナールのポスターをフレームに入れて飾ってみる。割と良い感じ。フレームを探していたら大きな枠も出てきたので、ついでに灰羽のポスターも部屋の隅に。何となく、これって「眼に優しい」気がするので。
年末の街に最後に買い出し。一番欲しかったものは無かったが、「ロード・オブ・ザ・リング」ズのスペシャル・エクステンデッド・エディションは入手したので、まぁ良いかと。ただし、正月中に観るかは、微妙。大体、既に持っているDVDだって、実際に再生してみたのってほとんど無いし(^^;;(買うと、安心しちゃうので…)。
あと、正月的にぼーっと見るのに良さそうなものとして「ヨコハマ買い出し紀行」の新作を買おうか悩んだけど、36分で5,000円はやはり高い、と思って止める。望月智充版「ヨコハマ」は一度観てみたい気はするのだが… 安濃高志版「ヨコハマ」の時も似たようなこと思いつつ、LDを買ったような記憶があるけど。でも、レンタルで充分でしょうね…
そんなわけで、大して代わり映えもせず、今年の年末も過ぎ去りつつある。とりあえず、掃除が終わっただけで良しとしないと(^^;;
部屋の掃除、続き。
今迄も本棚が一杯になると捨ててはいたのだけど、さすがに今回は微調整ではどうにもならず、聖域なき何とかでバサバサと撤去。子どもの頃からの、岩波書店や講談社やアリス館牧新社の児童書とか、今は亡き金の星社のSFジュブナイルとかも全て撤去(とはいえ、やはり捨て難いので、物置へ)。学生時代の教科書もまとめて撤去。 二度と読みそうにない小説や、文庫で買い直した元の単行本は廃棄。
学生時代に買った本も、存続を見直し。2回生の頃、「死」という観点から社会を見ることに関心を持った時期があったので、本棚にもそういう本が割と残っているのだけど、今の私が、自殺した小学生の遺した文章とかを読み直してもどうしようもないし、 自身の問題として「死」を捉え直すのはもう少し歳を取ってからでも良いかな、という気もするので、山崎哲 ・芹沢俊介の「子どもの犯罪と死」という対談集を、代表的な一冊として残す他は廃棄することに。いや、いついかなる時でもMement Mori、であるのがこの世の真実だとは思いますが。
地道に仕事をしていた頃の猪瀬直樹が、葬儀屋や火葬場建築家等、死に関わる職業の人々へインタビューした「死を見つめる仕事」とか、昔から際物系の社会史ばかり取り上げてい た井上章一の「霊柩車の誕生」とか、他にも面白い本も有ったのだけど、全て廃棄。
そういった苦闘の結果、とりあえず、本だけは全て本棚に入れるところまで終了。それ以外のものは床に散乱したままだけど。
DVDも今回初めて、棚の一ヶ所にまとめて置いてみる(今迄は床に積み重ねていた)。…う〜む、思っていた以上にアレな感じ。特に「御先祖様万々歳!」BOX、「エイリアン9 DVD対策箱」 、「ようこそようこ」BOXを並べてある辺りがどれも赤〜ピンク系で、曰く言い難い印象を与える。というか、「絶望的に濃い」気がする。…まぁ、実際、そうかもしれないけど。
部屋の大掃除に着手する。現状:床全体に本その他が山状に丸く積み上げられている。本棚には突っ込めるだけの本が突っ込まれている。→目標:全て本棚にきちんと収めて、床面積を回復する、ための文字通りの大掃除。
まずは、B6版のComicsを全部、本棚に整理。このサイズは増加ペースが一番速い上に、以前から収拾付かなくなっていて、シリーズものは前の巻が見付からないため、新刊を買ってきても読めない状態が続いていたのだ。何せ、今回、奥の方からは「GUN SMITH CATS」とか出てきたし(いつの時代だ(^^;;)。ようやく、B6版だけはきちんと並べたので、これからは未読のものをサクサク読むことにしよう。一日一冊のペースだと 最低、一年分以上は有るようなので。
で、今は文庫本を整理中なのだが、どう考えても、この先、本を入れる場所が最終的に不足するのは明白。「捨てる勇気」(C.ケロロ軍曹)で対処しないとどうにもならない。
言ってみれば、本を対象にした「冷たい方程式」。ただし、室外に廃棄しないといけないのは500冊、みたいなっ! …なんか、口癖、移ってますけど。なお、そういう状況なので、戯れ言シリーズは全て廃棄(or売却)扱いとしたのは言うまでもない。
結局、一日掛かって、本日の進行状況は全体のまだ2割。この分だと、今年中に終わることが出来るのか、かなり不安。ちなみに、隣室にある段ボール十数箱も近いうちに、別途、整理しないといけないのだが…
来年、神戸と上野(藝大美術館)を巡回予定の「ヴィクトリアン・ヌード」展。
このテーマの場合、ヴィクトリア朝時代の社会の裏側まで踏み込んだ内容でないと、偽善的な当時の文化をそっくりなぞる、それこそ偽善的な展覧会になってしまう危惧を感じるわけで、微妙だな…と今一つ乗り気で無かったのだけど、紹介文の最後の行に、展示品の一つとして「ルイス・キャロルの写真」が。じゃあ、行かなくちゃ(笑)
もっとも、彼の撮った数多くの「少女写真」の内、「無着衣の」写真は本人の遺言でモデルの家族に全て返却されて、現存するのは凡庸なものだけらしいので、そういう?写真を期待しているわけではないですが。「ヴィクトリア朝のアリスたち ルイス ・キャロル写真集」に有るような写真のオリジナルを是非一度、見てみたいのです。
ええと、出来たら、クシー・キッチンの写真が良いですね。でなければ、7歳の時のアリス・リデル。…でも、参考出品くらいの位置付けかもしれないので、余り期待出来ないかも。
今年もあと数日。1年を振り返ってベストでも並べてみるのが、この時期のありがちな日記というものだけど、私の場合、今年、選べる程の量を見聞きしたものと言えるのは、展覧会だけだと思うので、その中で特に印象に残った10の展覧会を選んでみる。
ベスト3はどれも、絵を見る「楽しさ」を観客に伝えようとする企画者(orコレクター)の顔が見える展覧会。
・「雪村展 戦国時代のスーパー・エキセントリック」(千葉市立美術館
、渋谷区立松濤美術館) 2回目
・「クラーク財団日本美術コレクション アメリカから来た日本」(サントリー美術館)
2回目
・「へたも絵のうち 展覧会 熊谷守一ものがたり」(茨城県立近代美術館
)
次の2つは小規模だけど、個人的に、見ていて「楽しかった」あるいは「心に残った」もの。
・「仙酷W」(出光美術館)
・「花降る時の彼方に 有元利夫展」(東京ステーションギャラリー)
客観的に、質量ともに充実していたものから、4つ。
・「没後500年 特別展 雪舟」(東京国立博物館
)
・「京都最古の禅寺 建仁寺」(サントリー美術館) 2回目 3回目
・「鈴木春信展」(千葉市美術館)
・「大レンブラント展」(京都国立博物館)
1つ余ったので、この1枚!を考えると。やはり、ダ・ヴィンチに敬意を表して。
・「チャルトリスキ・コレクション展」(横浜美術館 )
今週の十二国記の再放送を2話ほど録画し損ねていることに、先ほど気付く。実はこの「風の海 迷宮の岸」編から本放送を見ておらず、今回まとめて見よう、と思っていただけにショックが大きい… 良いや、もう、代替手段?で済ませても。原作の「風の海 迷宮の岸」自体、余り思い入れないし、と負け惜しみを言って 、気を紛らす。
観に行くまでも無いかな、と思ったのだけど、考えてみたら「AI」ですら!観ているわけだし、今さら失うものもあるまい、と思い直して。
なるほど、スピルバーグにしては珍しく、観ても「悪くない」作品。途中、この作品は実はスラップスティック超大作なのか、と思った時間帯もあるのだけど、全体としてはまともだった(^^;; だけど、安定しているのは良いのだけど、突出した「何か」が感じられないので、 一ヶ月もすれば観たこと自体忘れてしまいそうな、そんな気も。あえて記憶に残りそうなものといえば、…だから、ドタバタギャグの下り? 小物の描写とか、かなり健闘しているだけに、ちょっと勿体ないような。
スニーカー文庫、ということで、そっち系の?短編集の新刊。色々と模索しているという印象で、上手くいっているものもあれば、余り上手くいってない気がするものもあるのだけど、その辺も含めて、楽しめた。
前にも書いた「ここ」と「そこ」に対する感覚の鋭敏さが、作品に一番昇華しているのは、「手を握る泥棒の話」かと。雑誌掲載時にも読んでいた作品だけど、改めて、そういう空間を生み出す「想像力」に感心。書き下ろしの「失わはれた物語」も有る意味そうなのだけど、こちらに関しては、設定止まりというか、物足りなさが残った。
「灰羽」のcog.1とサントラの「ハノハネ」をようやく回収してきたので、現在は、後者をリピート中。
明治以降の日本人(主に文筆家、実作者)が雪舟について記した文章を、年代を遡る順序で収録したアンソロジー。今年の春に開催された「雪舟展」のいわば便乗企画、とも言えなくもない。「雪舟展」自体、既に遠い昔のような気がしているが…
それにしても、こうやってまとめて読んでみると、確かにこれは酷いな、と暗澹たる思いに駆られる。
編者の山下裕二の解説を読むと、雪舟については、「戦前」は「日本的心性」の優秀性、「敗戦後」はセザンヌに比すべき国際性、と理屈付けは変化しても、「日本美術史上最大の巨匠 」という評価は疑われることなく受け継がれてきたのが良く分かる。要するに、ここに収められている大半の文章の筆者は、雪舟の絵自体をまともに見ちゃいやしない、ということなのだ。
今年の「雪舟展」そして「雪村展」は、編者が企画に参加したこともあり、そういう「始めに評価ありき」のような愚かさから、いかに解き放たれて5百年前の絵を見るか、ということを目指した展覧会だったが、観客にとって、雪舟はどう写ったのだろうか。実際にはやはり 、「画聖」を有り難がるという意味での混雑だったのではないかと思うのだが…
ちなみに、私の感想は、「雪舟展」「雪村展」の通り。この本での僅かな例外、長谷川三郎の文章のように、時を経ても人の心を打つようなものでは全くないが、それでも、「自分自身の言葉で語る」ように心掛けてきたつもり 。
なお、この本にも収録された小林秀雄の「雪舟」という文章を分析した、編者による「小林秀雄が見た雪舟」は、色々なことを考えさせられる文章で、雪舟の語られ方、という本書のテーマを考える上では必読 。
ところで、「サンタが赤い服を着ているのは、コカ・コーラの回し者だったから」というのを、この歳になって初めて知り、多大なショックを受ける。いや、今のクリスマスがアメリカ人の作り上げたものだというのは知ってたけど、まさかコカ・コーラのコーポレートカラーを着込んでいたとは…
「本当はサンタなんていない」ことなど、これに比べれば、些細な事実。少なくとも、私は今回の方が、遙かにショックを受けましたよ。(いや、前回の方は、よく覚えてないけど。サンタなんて最初から信じていなかったのかも)
もっとも、非常に有名な話らしいので、普通の人なら皆、既に知っていること? 知らなかったのは私だけ? それもまたショックなんですけど。
思い立って、年賀状を作成する。
と書いても、別に誰も驚かないと思うが、私が、年賀状を25日より前に書いたのは、凡そ15年振りなので、個人的には画期的な出来事だったりする。ちなみに、社会人になってからは、自慢ではないが、年が変わる前に書いたことなど1度たりとして無い(…確かに、それは自慢することではないと思う)。
とはいえ、(今回は1枚だけどうしても出しておく必要があったので、他のもついでに作成したのだけど)至って不義理な私としては、年賀状というものは出来たら取り止めにしたい、と前から思っている。ただし、来たものを無視するのも失礼かと返事を出すと、次の年、また新たな年賀状が戻ってくる。という悪循環から、いつまで経っても抜け出せない。いや、年賀状を送って貰えること自体は有り難いと思うけれど、何で今さらこの人から?という相手に限って、そういう傾向にあるのがまた悩ましいところ 。
「安倍晴明の末裔たち」という副題が付いているが、これは明らかに誤読を誘う題名で、制度としてもはや現存しない「土御門公認の陰陽師」の話ではなくて、地方にいた民間の陰陽師(と同種のことをしていた人々)についての話。
「いったい陰陽師とは何だったのか。それに答えるためには、安倍晴明のような宮中の人でなく、民間にあって古代から現代まで数々の障りや汚れを祓ってきた人々の歴史を知る必要がある。」「安倍晴明をスーパーマンとして描いた書物ではなく、本書をむしろ無名の近代人たちに光を当てた報告書にしたいと思う。」という前書きには、あんたが言うんか、あんたが、と突っ込みたくなるのは私だけではないと思うが、その辺、(過去に囚われず)機を見るに敏であるところが、ジャーナリスティックな活動を続けていく上では重要な 素質なんでしょう、きっと。
主に取り上げられているのは、吉備の上原大夫と高知のいざなぎ流大夫。特に、現存する「陰陽師」である後者に、直接取材しているのが、この本の特色かと。ただし、今までの取材結果を、経過報告として簡単にまとめてみました、という感じなので、こういう人々もいる、というフックをとりあえず作っておく(いつか興味が出てきたら、別のもので調べる)という 程度かと。
ただし、私は昨年「呪いと占い」展でのいざなぎ流の展示を見ているので、そう思ったものの、この本で初めて読む人なら、もう少し興味深く感じられるかも しれない。
「灰羽連盟」について。あの世界を隅々まで統一的に説明しよう、とかいう情熱は全然、無いのだけど、世界観に関しては割と興味深い、と思ったので、その件に関して、個人的なメモ書きを作成。当然ながら、最終話までを見た感想なので、別ページに。もっとも、 特別、独創的な内容とかでは有りませんので。
あの世界観が余り違和感なく感じられた、ということは、今現在、私達が思い描いている「世界」とは、こういうものなのかも。
エコール・ド・パリの画家を特集した、近代絵画の「教科書のような」展覧会で、顔ぶれ自体は特に珍しくはない。ただし、さすがMET、どの画家に関しても良い絵を持ってるな、とは思わされる。展示方法もゆったりしていて(背景の壁紙にも気を遣っていて)、見やすい展示だったのも、好印象。空いていたことも大きいとは思うけど。
当時の流行の変遷を、代表的な画家の代表的な作風の作品で辿るようになっているが、あちらこちらと様々な様式で出てくるピカソの多さは、やはり目に付く。
修学旅行とかに行った後日、写真を整理してみると、どこで撮った写真にも画面のどこかに必ず写っている奴が一人位は居たりするものだけど、何か、そんな感じ。まぁ、副題(ピカソとゆかいな仲間たち?)にも名前が出ているわけだし、趣旨は分かるけど 。
「青の時代」の作品を久々に見ていて、ピカソってチャップリンみたいだ、と唐突に思った。つまり、一般のイメージとは逆に、あれほど分かり易いというか、感傷的に人々の心を「掴む」画家はそういないと思う。私自身は、(チャップリンは嫌いではないけど)キートンの方が余計なものが無くてもっと格好良い、という方なので、ピカソに関しても大体、同様な感想を持ってしまうのだけど。
でも、好きなボナールが何点も来ていて、しかも良い作品が有ったので、個人的にはOK。という風に、この時代の画家の中に、誰か好きな画家がいる人なら、楽しめる展覧会かと。
ところで、出口前の、画家の生涯の一覧表を見ると、(モディリアーニ等、僅かの例外を除くと)皆、長生きしてますね。やや意外。
雨なので、「灰羽連盟」を回収しに行き損ねる。部屋で、「成恵の世界」や「最近のヒロシ。」を読むくらいの駄目な一日。と、改めて書いてみると、本当に駄目な気がしてきた。
「ヘンリー・ダーガー展」の感想については、結局、最初に書いた以上のことは思い付かず。ちなみに、最初の段落は出来れば、田口トモロヲ風に、物々しい調子で読んで下さい。末尾の「た」を強調するのも忘れずに。
Bunkamuraで「メトロポリタン美術館展」。…まぁ、「エコール・ド・パリ」を特集した展覧会なんで、タイムトラベルというほどではないですけど。
感想は、一応、後日。なお、忘年会シーズンの金曜日の夜に展覧会を見に来るような物好きは少なく、さすがに空いていた。Bunkamuraの周りは、中島みゆきの「夜会」のダフ屋で賑わってましたが(^^;;
帰りに、Book1stでComicsの新刊売り場を覗くと、暫く本屋に来なかったせいか、デフォルトで買う作品が溜まっていた。部屋(の床の本)を整理するまで、これ以上買うべきではないと思うのだが、結局、(持てる範囲の冊数として)漆原友紀、貞本義行、黒田硫黄、丸川トモヒロ、田丸浩史、川原泉、倉多江美の新刊を購入。
この中では、倉多江美の「お父さんは急がない」の続巻が、個人的には一番嬉しいかも。
その後、小説の階を歩いていると、ロバート・コーミアの単行本が立て掛けてあるではないですか! 私としては5年前から騒いでいるのに、街の本屋からは消えゆく一方のコーミアが、何故ここに?
今、何かの理由で、再び脚光を浴びつつあるのだろうか? でも、扶桑社のミステリー文庫でのコーミアが軒並み廃刊になっている現状では、如何ともし難いものが有るような。「チョコレート ・ウォー」だけ有ってもなぁ。
ともあれ、いつか探して読もうと思っていた「心やさしく」「ぼくの心の闇の声」(後者は、いかにもコーミアらしい題名だ)が置いてあったので、良い機会と、たまたま隣りにあった、最近話題のメアリー・H・ブラッドリー「ジャングルの国のアリス」と共に購入。 更に重くなる。
本当は「アラビアの夜の種族」等、年末に読みたい本も一緒に買って帰る予定だったが、普通の鞄しか持ってない状態では、これ以上はちょっと無理。
「灰羽連盟」第12話&最終話。厳しいスケジュールの中でも、綺麗な終わり方をきちんと見せてくれたことに、まずは感謝。
あと、「鈴の実」という小道具は素晴らしいと思った。というか、映画「素晴らしき哉、人生!」でのラストの鈴の音のように、気持ちを(間接的に)伝える道具としての音色に、私はどうやら弱いらしい。
スニーカー文庫のアンソロジー「悪夢制御装置」。前から探していたのだけど、ようやく発見。
前回読んだ「殺人鬼の放課後」よりは、全体の平均点が高い。とはいえ、乙一の作品が抜け出ているのは、前回同様。
今回は「階段」という短編で、自宅の階段の上と下を巡る話なのだが、読んでいて、彼の文章の非凡なところとして、空間に対する感覚の鋭敏さというのが挙げられるような気がした。「ここ」と「そこ」、hereとthereの違い。映画的なセンスと言っても良いかも 。例えば「ミツバチのささやき」のような映画と共通したセンス。
そういう「二つに分けられた空間」という設定が、今まで最も有効に使われた作品が、前のアンソロジーに収められた「SEVEN ROOMS」だったかと。
「うたかたの日々」より、来年の小津安二郎生誕百年記念プロジェクトの概要。大体、ほぼ予想通りかなと。DVDも無事、発売するようだし(「現存する 作品」ということは、近年発見された「突貫小僧」等も全て入る、ということ?)、その時期になれば、放って置いても、代表作はBS等で嫌でも目にすることになる様子。
ただし、特集時の刊行物やイベント(参加出来るか分からないが)等をより楽しむためには、それまでの間に、一通り観直しておく必要がある気もしてきた。
小津の魅力は勿論、細部に溢れているのだけど。戦後はよく似た話が繰り返される上に、どれも学生時代に一度観たきりなので、もはや記憶はアマルガム状態。全ての作品が渾然一体となってしまっている。やはり、個人的な回顧特集を再開すべきかも。
1973年、シカゴで身寄りのない一人の老人が亡くなった。全くニュースにもならない孤独な老人の死が、後に大きな関心を引くようになったのは、彼が長年住んでいた部屋から、驚くべきものが発見されたからだった。遺品を整理しに入ったアパートの大家が、雑然と散らかった部屋の中で見付けたもの、それはタイプライターで清書された1万5千ページに上る長編の物語「非現実の王国で」と、それを描いた300点余りの大判の挿絵だった…
という極めてセンセーショナルな発見と、その発見の経緯以上にセンセーショナルな内容で知られるヘンリー・ダーガーの世界だが、私は今まで、そういう人がいる、という程度のことしか知らず、その絵がどういうものか全く見たこともなかった。というわけで、今回は、ほぼ白紙の状態で、その世界を垣間見ると、どう見えるかという趣旨。
一つ一つの絵は漠然と予想していた以上に、大きい。何と呼ぶべきか(あるいは、好悪のどちらを抱くかは)はともかく、非常に優れたartであることは間違いない。
彼が書いた「非現実の王国で」という名の、架空の世界で邪悪な大人達と戦い続ける7人姉妹の物語を視覚化した絵画群。その中で、今回来ているものはというと。
多かったのは、「兵士達が、裸の少女達を扼殺している場面」かと。ほんわかと穏やかな水彩画の画面の中で。あ、全てがそうだと言うわけじゃなくて。例えば、もう少し、…酷いのも有ったりしますが。
ただ、自室から発見されるまで誰にも知られることのなかったこれらの絵に、残虐なものへの欲望を単純に読み取るのは間違っていて、絵の性格を一言で言えば、宗教画というのが、最も正しいのだと思う。全体としては、どこか崇高な印象さえ受ける。
とはいえ、可愛らしいキャラクターに、余りにも残虐な内容、しかも、あくまで美しい色彩と素晴らしい構成力に、見る側の方が、どう理解したら良いのか困ってしまう絵であるのも事実。
とりあえず、「非現実の王国で」自体に対する理解に努めた上で、もう一度、挑戦?するつもり。 期間中、何回でも入場可能なパスポートチケット制なので。
先日の「アルティメットなんとか」を聴いてみると、クリスマスですら無いものが多く混入。ビバルディの「四季」の「冬」とか。どうやら、「アルティメット」とは、「何でも有り」という意味だったらしい。2枚目の1曲目は「メサイア」のハレルヤコーラス なのだけど、あの曲は、それまでの眠い曲の後だから、感動もひとしおなのであって、1曲だけ聴くのは間違ってると思います。
絵画というのは、描かれた時代や状況(画家の人生や作画意図)の理解とは別に、「自由に」見ることが出来るものと、私は一応考えている(勿論、それらを考慮した見方 の重要性を否定するわけでは無い)。
だから、画家の生涯に関しては、一般にはさほど興味はないのだけど、レンブラントだけは、作品とその人生を離して考えることがどうも難しい。全ての絵を通して「レンブラントという一つの人生」を見せられているような錯覚にいつも陥ってしまう。
この伝記を改めて読んでみても、前半の栄光と後半の転落、光と闇のその人生は、誰もが思うように、まるでレンブラントの絵画のよう。ただし、そういう良く出来た「物語」が、却って、レンブラントの 作品を見る妨げになっているのではないか、という疑問もまた捨てきれない。
そんなわけで、残念ながら、レンブラントの見方に対する新たなヒントとはならず。「肖像画を見る」ことの意味をもっと問い直した方が良さそうな気がした。
先日のTV東京の「美の巨人たち」は、レンブラントの「ヨハン・デイマン博士の解剖講義」。
火災による損傷の結果、画面中央の解剖遺体の周り(元の画面の1/5)のみが残された作品だが、一番重要な部分が焼け残ったことに対し、「奇跡」を口にする関係者の中で、この絵の修復作業を行った修復家だけが、裸体の絵の具が難燃性だったからだ、と冷静に指摘しているのが興味深かった。
この季節、花屋の前を通ると。実は今でも「内気な心」という言葉が頭に浮かんでしまう私。もしかしたら、今後何十年経とうと、毎年、思い出し続けるのかも。…解けない呪い?
最近、厚い本を読む気力に乏しいので、手元に有る薄い本、ということで、倉阪鬼一郎「内宇宙への旅」を読んでみる。
耽美な表紙とは裏腹に、「こんな内宇宙は嫌だ」的な物語。もっとも、作者にとっては、「サスペリア」のジェシカ・ハーパー似の女性編集者から原稿を依頼されるというだけで、その後がどうなろうと、既に理想の世界なのかもしれない。
ちなみに、一言で言えば、「百里の道も一歩から」という話?らしいのだが、いくら何でも、その一歩は遠回り過ぎるだろう、と正直思った。世界征服するには、まず九州某県から、の電柱組じゃあるまいし。
とり・みきの新刊「膨張する事件」を読んでいたら、EYE・COMで連載した4コマの中に、『つな引きの掛け声は何故「オーエス」か』ネタが 有った。
「ご存じの方は編集部まで」というオチだったので、恐らく後日、読者から編集部経由で作者に「答え」が届いたと思うのだが、私が改めて思ったのは、「みんな、時々は、新しい辞書に買い換えようよ」ということ。
もっとも、今ではネット上で大辞泉や大辞林を使えるわけだから、わざわざ買うことはないというのが、もはや常識なのかも。ただ、辞書の持つ最も重要な機能は、何かを引いた時に、隣の言葉もつい読んでしまう、ということだと思うので、(紙の)辞書はもう要らない、とは思わない。
というのは、私の個人的な意見だけど、これからの漫画家と(編集者)は、この手のネタを使う前には、せめてネットの辞書位は引いた方が良いと思う。
クリスマスという行事自体には、少なくとも今は余り関心は無いのだけど、年末のこの時期、音楽だけはクリスマスに関わるものが聴きたくなる。
幼い頃、クリスマスを「賛美歌を歌う日」として最初に理解したことが、今でも残っているのかも。もっとも、どこかの聖歌隊のコーラスの何番を聴かないと、といった信念があるわけでは別に無くて、年越しの第九(あ、年越しは蕎麦か)のように、何かそれらしいもの?を聴かないと、どうも物足りない、という程度。
そんなわけで、(今年は聴く期間は残り少しだが)CD屋に、適当なものを探しに出掛ける。考えてみると、肝心な賛美歌のCDを余り持っていないので、今年は基本に返って「アルティメット・クラシカル・クリスマス」という 、タイトル名に思い切り突っ込みを入れたくなる2枚組の賛美歌(それ以外も入ってるけど)集を購入。
あとは、アカペラとかゴスペルとかで1枚と思ったのだが、試聴してもなかなかピンと来るものがない。やっぱり、クリスマス音楽といえば、人の声だよなと思いながら、店内をうろうろと彷徨っている内に、何故かフレディ・マーキュリーの声が久々に聴きたくなり、棚を見たら、「QUEEN」の「GREATEST HITS」3枚組の輸入盤が3500円で置かれていたので、ついつい買ってしまう。気が付けば、クリスマスとはもはや何の関係もない買い物に。…一体、何をしに来たんだ、私は。
その後、DVDのコーナーへ。やはり「ロード・オブ・ザ・リング」ズのスペシャル何とか版は軒並み売り切れ。年末に観るつもりなら、次回入荷を探した方が良いのか、それともどこかに注文しても間に合うのか。…まぁ、2作目の公開までに観れば充分、と考えれば急ぐことは全然ないのだけど。
とりあえず、今回の目的である「ジャイアント・ピーチ」を手に取る。隣の「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、今回は映像特典が付いている「コレクターズ・エディション」らしいけど、前のDVDは持っているしなぁ、さすがにパスしよう、と思いつつ、ジャケットを一応読んでいたら。
え? 映像特典の最後の欄、「ティム・バートンによる初期の作品“ヴィンセント”“フランケンウィニー”」とは… え?え? 本当にっ?
ず、ずるい… 前から前から、すごく前から観ておきたかった作品をこういう形でソフト化しますか。しばし苦悩したが、結局、レジに持っていったのが両方だったのは言うまでもない。
帰って早速、(本編ではなく)特典の2作品を再生。
「ヴィンセント」は、怪奇映画俳優ヴィンセント・プライス好きの少年の幻想を人形アニメで描いた短編。やっていること、今に至るまで全然変わってませんね、という作品だが、クレジットを見たら、ナレーターがヴィンセント・プライス本人だったのには、笑った。さすが、ティム・バートン、本物のオタクだわ、と尊敬してしまう。
「フランケンウィニー」はタイトルでほぼ想像出来る通りのパロディ映画だが、このジャンルへの屈折した愛情をここまでストレートに語れるのは、素晴らしいとしか。作品自体はそれほど大した出来ではないけれど、これを当時観た人は誰もが、ティム・バートンは今後、絶対に活躍すると、確信したのではないだろうか。
「スリーピーホロウ」の風車が、「フランケンウィニー」に既に出ているのを、初めて知った。と言うように、ティム・バートン好きの必須アイテムという意味合いが強い(だから、今回、映像特典に収められたのかと)が、彼の名を外して、無名の監督による30分の短編映画として観ても、愛すべき馬鹿映画(ラストがまた良いです) 。
というわけで。熱心なファンなら買うしか。それほどでなくても、レンタルで、特典だけでもぜひ一度。「ナイトメアー…」を観たことのない人なら、勿論、本編も。
忘年会で、ふぐ。というわけで、この時期のささやかな幸せ>最後に食べる雑炊。
若くして亡くなったことを知って見ている、とは言え、どの絵も「遺作のような」作品だという気がするのは何故? 初めて見る私は、とりあえず、その第一印象から考え始める。
その理由は恐らく、描かれているのが、「この世」ではないから。とはいえ、「天国」というほど歓喜に満ちた世界でもない。彼の絵に仏教用語を当て嵌めるのが適当か分からないが、「この世」と「あの世」の合間に「中有」の世界があるとすれば、こういう感じかと思う。
暖かくも冷たくもない、嬉しくも悲しくもない、風のない、時間のない世界。音は… 有るのだろうか。楽器がしばしば登場するけれど。空に浮かんでいる花は、きっといつまでも浮かんでいて、青空に掛かる雲も、きっといつまでも動かない。
こうして、…ない、…ないと続けると、まるで虚無的な世界のようだが、そうではなくて、そういう世界がそこに「ある」、その存在感と安堵感。一見「遺作のように」見えるとしても、別にネガティブな意味合いで理解すべき絵では無いのだろう。大体、芸大の卒業制作以来、最初からずっと同じような絵を描いていた画家なのだ。
と思っていたのだが、一通り眺めた後、2周目に入ると、初期の絵と末期の絵との余りの違いに驚く。僅か約10年の間に、こんなにも澄んだ絵になったのかと。それだけに、画家が今、生きていたら、どれだけの作品を描いただろうと思うと、失われたものの大きさに改めて胸が痛む。
宮本輝の小説の表紙等で、誰もがその絵を一度は見ている筈だが、複製ではその良さが殆ど失われてしまっている、と画集や絵葉書を見ながら思った。大事なのは質感。それを生み出しているフレスコ画的な技法のためか、彼の絵は美術館の特色である赤煉瓦の壁に非常に良く馴染んでいた。その光景だけでも、この展覧会は行く価値があると思う。
有元利夫の絵が好きな人が多いのは、必要な物の全てが描かれている傑作だったから、ではなくて、見る人の内面を上手く投影出来る「空間」のようなものだったから、ではないか。そんなことを最後に考えた。だから、見る人は、そこに自分の大切な何かを見出すのだと。…すると、 この私は今回、彼の絵に、一体、何を見たのだろうか?
昨年も書いたことだけど、12月12日と言えば、小津安二郎監督の誕生日&命日。
そういえば、5月から勝手に始めた小津映画懐古特集も、気が付けば長期、休止中… 余裕で、今年中に「秋刀魚の味」まで辿り着 けると思ってたんだけど。まさか、こんなに旅行する年になるとは思わなかったし。
ところで、来年の12月12日は、小津安二郎生誕100年(&没後40年)という節目になる。だから、(後者はともかく)前者を理由に、来年は小津安二郎関連のイベント(それこそ、映画館でのレトロスペクティブとか)の開催や出版物の刊行が、盛大に行われるに違いない。と今から予測しているわけなのだが、その中で当然予想されるのが、DVDでの小津安二郎BOXの発売。
いや、実際の予定は全然知らないのだけど。松竹に、まともな営業センスが少しでもあれば、来年度中に何としても発売する筈。と期待することにしよう。
…あ。それじゃあ、今、ビデオ屋で1本ずつ借りてきて(無理して時間を作って)観る意味なんて、全然無い、ということでは?
「灰羽連盟」第10話、11話。この辺りになると、さすがに話を進ませるのに精一杯というか、画面に凝る余裕が無くなっているようだけど。残りは2話、「監督のゴール」も間近なので、このまま何とか綺麗に着地させてくれれば。
「ファンタジー小説ファン 度調査」。今まで、何かの既読度等のアンケート結果を載せたことは無いのだけど。これは、他人事じゃない気がしたので。
結果の既読率は、83/352。わっ、少ない。私の一応、ホームグラウンドと言うべきジャンルなのに…
ただ、このリストだと、私の思い描いているファンタジーの範囲とは少しずれているという印象が。例えば、352作品もあるのに、ジョナサン・キャロルが1つも(いや、2つは要らないが)入っていないなんて納得出来ないなぁ。などと趣味の違いを殊更言ってみせるのは、こういう場合、みっともないので、止めておいた方がよろしいかと。
う〜む、これではまるで、「展覧会の感想」サイトのような。いや、まぁ、実際そうなんだけど。他にも書くことがあるような… とりあえず、本の感想を少し増やそうかと。でも、今読み掛けの本も美術関係が多いし、 代わり映えしないかも。
ある意味、一番面白かったのは、冒頭の、ウィーン美術史美術館の館長挨拶文。
滅多に開催出来ない内容だが、それをやるのに意義があるとか、同時テロ以来、米国人と日本人の来館者が酷く減ってしまったとか、そういう状況下、美術品を海外に貸すのは大変だ(から有り難く思え?)とか、自慢と愚痴が微妙に入り交じった調子が、何ともウィーン的( なのか?)。でも、そこまで言うなら、(ピーター)ブリューゲルの一点も貸してよね、とは思った。
代わりに、何度と無く日本巡業に追い立てられる、シンデレラ(変身前)のような、ベラスケスの「青いドレスの王女マルガリータ」。「日本に来ると、いつも不安げな表情に見える」とネット上で書かれている方がいたが、確かに 、どこかおどおどしているように見えるのが不憫。ウィーンでは幼い頃の2枚の絵と一緒だからか、むしろ前向きな表情に見えるのに。
あと、この絵に関しては、皆、近付き過ぎ。あの筆致の魔法を堪能するには、もっと離れて見ないと。
全体的には、現地では「足を止めることが無かった」作品が中心なので、却って新鮮だったかも(アルチンボルドやデューラー等は、向こうでも「足を止めて」見てますが)。名前は忘れてしまったが(失礼)、ごく普通の女性の日常生活を描いたフランドル地方の絵画とか、そういう作品が今回、特に印象に残った。
ちなみに、昨年、美術史美術館を1時間半で!廻るという荒技を行った時の感想(旅行記の一部)。読み返すと、妙に気取った文章なのに笑った。
どうして横須賀線は、こうも雨雪に弱々なのか… それにしても寒かった。
溜まっている宿題の方は、一つずつ済ませることにしましょうか。
「上手い」と思う絵も有るのだが、無条件で感動する絵には出会えず。他の画家と並んでいると、なるほど探幽か、と感心することも多いのだが、探幽だけでどうよ?と訊かれても、正直言って、よく分からず。あくまで「相対的な」画家だったのではないかと。
もっとも、当時、個性やオリジナリティが求められていたわけではないので、それを以て、駄目というつもりはないけど。
今回の主催者の趣旨はどうやら、既往のイメージである『良くも悪くも「御用画家」たる狩野派の大成者』としてではなく、多様性と進取の精神に富んだ画家(例えば、虹の絵を初めて描いたのでは?という指摘は興味深い)として、再評価することだったらしい。
だが、展覧会が与えてくれるのは、「何かバラバラだなぁ」という前半の実感までであって、後半は「勉強熱心だったんだ」(その辺のおばさんに、こんな写生までしているなんて「偉いわね」とか言われていた)でお終い、な気も。
というか、探幽縮図(探幽以前の画家の絵を模写した当時の名画カタログ)が一番面白いのは、探幽展としては拙いのでは?
ところで、東京都美術館の傘立てって、半分は壊れていて使えないという、何とも壊滅的な状況なんですが、今の都知事はそういう状況を…まぁ、知らないだろうな。美術には縁の無さそうな人だから。
ケルティック・クリスマスのラストを飾る、恵比寿ザ・ガーデン・ホールでのアイリーン・アイヴァース・バンド特別公演。
参加するのも3回目だし、明日からは仕事だし。遅い整理番号なのに運良く座れた最後尾の席で、今日は最後まで、まったり楽しみましょ、と少なくとも第1部のハウゴー&ホイロップやダーヴィッシュの時までは、「曲目紹介時のネタ、僅か数日で磨きを掛けてるよ、ハウゴー&ホイロップ。芸人やなぁ」などと暢気に聴いていたのだが。
第2部のアイリーン・アイヴァース・バンドが登場すると、あっという間に、とんでもない状態に。フィドル(ヴァイオリン)中心のバンドなのに、場内、縦ノリですよ? ヴォーカルのおじさん(「ブルース・ブラザース・バンド」の一人だった人らしい)なんか、最後の辺り、跳ねてるし。勿論、アイリーン・アイヴァースのフィドルは、硬軟ともに超絶で。いや、もう、圧巻としか言いようのない2時間(第2部)でした。
なお、昨日と同様、恵比寿に出る前に、東京駅のステーションギャラリーで「花降る時の彼方に 有元利夫展」を見る。感想は、同様に後日。
一言だけ先に書いておくと。実際に見るのは初めてだったので、元々期待していたのだけど、期待以上に自分に響く世界だった。これからも、機会がある毎に、(繰り返し)見続けていくと思う。
青山Cayで、熱気に満ちた、ダーヴィッシュのライブ。…これで帰り道が、寒い雨の中でさえ無ければ。
こんな日に、一つの目的だけで外に出るのも悲しいので、その前に上野で、狩野探幽展と、ウィーン美術史美術館展へ寄ってみた。ただし、感想は後日。
昨日は、東映系の劇場ということで、「仔犬ダンの物語」という、モーニング娘。の今度の映画の予告編が流されていた。まるで一昔前のフジテレビ製作の動物映画のよう。「内容はどうでも良いが、モー娘。の映画を作る」がまず有りきで、外さない中身として、子犬との触れあい物語にでもしておくか、という流れで決まった(推測)、絶望的に安易な映画にしか思えなかったので、予告編も真面目に観ていなかったのだが、今日、駅貼りのポスターを何となしに眺めていると、監督が澤井信一郎だったので、うわっと驚く。
確かに、澤井信一郎といえば、80年代に「Wの悲劇」「早春物語」「ラブストーリーを君に」とアイドル的な女優を主演にした秀作を撮った監督ではあるけれど(その時代でも「めぞん一刻」だけは怪作と言った方が良いが)、その頃は、十代のアイドルでも 、映画女優として輝かせるという拘りを持つ監督として、知られていた筈。
それが今や、モー娘。で、子犬の映画… まぁ、澤井信一郎は撮影所育ちの監督なので、来た仕事は基本的に何でも受ける(その中で、自分の撮りたい絵を表現していく)という話 を聞いたことはあるのだが、この映画が、上記3作品のような、観客の心を動揺させる映画的な瞬間を持った作品になっているとは、どうにも想像し難い。とはいえ、数年ぶりの仕事らしいし、実際どうなのか、かなり気にはなる。観に行くつもりは全く無いが。
なお、併映の「ミニモニじゃムービー」の方の監督は、昨年の「ハム太郎」映画でのCG監督からステップアップした「ヒグチしんじ」。こっちの方は少し観てみたい気はするけど。ところで、両者の公式サイトは、こちらだが、「仔犬…」のスタッフキャスト欄で監督名が漏れている、としか思えないのは、大問題になってもおかしくないような。
ちなみに、この日記をご覧になっているような方には、澤井信一郎なら、「宇宙刑事シャイダー」の監督だった、と言う方が通りが良いのかも、と今ふと思ったが、気のせいか。
それにしても、人がコンサート/ライブに出掛ける日だけ、ことごとく天気が悪い見込みなのは、何故。
そういうわけで、果たして評判が芳しくないらしいこの映画、打ち切りになる前に観てきました。
…ええと。思ったよりは悪くはない(かも)。まぁ、今時、和製ミュージカルを撮ろうとすること自体、無謀な企てではあるので、その中では努力している、という評価が出来なくもない (かも)。ただし、無謀なら止めておく方が賢明というものだ、とガラ空きの映画館内で思った。
ミュージカル仕立て(一部だけど)にしたことで、却って、全体のテンポが停滞。金子修介映画の軽快さと、ミュージカルの持つ軽快さが、相乗せずに相殺している感じ。大体、これ位の話なら、倍のスピードで語り切らないと 。
細かい演出は、それなりに楽しめたのだけど、竹中直人の魔法使いが、余りにも想像通りのキャラクターでつまらない。むしろ、篠原ともえの魔法使い、という物語にした方が、もっと面白い話になったんじゃないか、などと改善策を練ってみるが、どう弄っても、予算の少ない(和製)ミュージカル映画に勝ち目は無い気がする。
金子修介作品を、デビュー作(笑)以来、ほぼ全て観ている者としては、そのフィルモグラフィーの中で、そんなに収まりのつかない作品でもないとは思った(だから、観たことを後悔しているわけではないです)が、他人に勧めるのは、さすがに止めておく。「F」なんかよりは、 ずっと金子修介らしいと思うけど。
「灰羽連盟」、8,9話。着実に物語を進めている、という印象。この作品を通して描かれる範囲も大体、見えてきたような。
「ロード・オブ・ザ・リング」ズのスペシャル何とか版のDVDを未だ購入していない、というのもさることながら、「ジャイアント・ピーチ」を早く買わねばと思う今日この頃。というか、問題はむしろ、購入してきたものをいつ見るか、という点にある気がするのだが…
「ケルティック・クリスマス2002 オープニングコンサート」。
亀有まで行っただけのことはある、非常に楽しいコンサートだった。メイヴの歌声も心地良かったし(α波出まくりで、意識を失い掛けた)、アイリーン・アイヴァース(アコースティック編成)のラストの超絶的な演奏も圧倒的だったのだけど、何と言っても、ハウゴー&ホイロップのステージが演奏することの楽しさに満ちていて、一番心に残ったような。
7日のダーヴィッシュと8日のアイリーン・アイヴァース・バンドの公演もすごく楽しみ。
ところで、会場で、(待望の)来春のルナサ来日公演のチラシを貰ったのだが。
渋谷は4/11、すなわち金曜ですか… う〜ん、多分、来年はこういう風に、平日の夜、仕事の後にライブに行くことは非常に困難になると思われるので、頭が痛い。その日に、休みを入れようかとも思ったが、そうやって「休む」こと自体、「非常識」(で有り得ない)というのが、「常識」の会社だからなぁ(出向中のこの2年間は、何でも有りだったのだけど)。ううっ、いっそ、翌日土曜の名古屋を考えた方が、まだ現実的かも。とにかく、ルナサのライブだけは、絶対に行きたいので、何とかする方策を考えないと。
いつ買ったかは全く思い出せないが、自分の部屋で発見。でも、買った理由は予想が付く。空腹時に、「食べる」代わりの代償行為として、つい手にとってしまったに違いない。我ながら、行動原理 、分かり易過ぎ。
この本によると、日本人が「昼食」を取るようになったのは割と新しく、約350年間の歴史しかない(それまでは朝・夕2食)。ヨーロッパでも同じ頃、一日3食となったが、加わったのは朝食であり、それぞれ最後に加わった食事が一番、軽いというか格式がない 。
という話から始まり、昼食時に良く食されている食事の形態やメニュー、つまり弁当や給食、蕎麦、カレー等の起源や発展の歴史を紐解いてみせる本。
例えば、「蕎麦」は、最初は「蒸す」麺であり(だから、今でもセイロに盛られる)、「とらや」のような菓子屋が作るものだったが、「茹でる」ようになって、うどん屋の食べ物となっていった 、といった雑学的な知識が色々紹介されているのは、興味深かった。
ただし、食物史の紹介止まりで、それ以上の思想的な深みは無い。著者は、明治製菓の新商品開発に従事してきた人らしいが、「とんかつの誕生」と似たような限界を感じた。
もっと日本人の「ひるめし」、そのものの意味を問い直す文章を期待したのだが。まぁ、新書だし。蘊蓄は多少、身に付くので、それで良しとすべき?
ここ一ヶ月、断続的に読んでいた西尾維新の「戯言シリーズ」だが、ようやく「サイコロジカル」(と「零崎双識の人間試験」の始まり)まで読了。
まぁ、何と言えば良いのやら。《奇人変人大集合!で盛り上がるコスプレ会場。ただし全員、中身は作者》みたいなっ! うーむ、いまいち。いや、それはともかく。これだけ内容に変化がないと、あと30作くらいは読まずに放っておいても 、問題ないような。
あと、「おたべ」と「夕子」は違う種類の食べ物だ、ということは、この際、やはり言っておきたい。
明日の「ケルティック・クリスマス2002」のチケットを改めて見たところ、「1階1列13番」の席だった。
…それはつまり、最前列ほぼ真ん中、ということでは? そんなに早く申し込んだわけではないので、これって凄くluckyな気はするけど。その席だと、開演後に入場したら、さすがに顰蹙を買うよなぁ。こうなったら、何とか間に合うように退社せねば。
旅行で暫く不在にしたことも響き、この秋のアニメで録り続けているのは、結局、「灰羽連盟」ただ一つになっているのだが、それも3話以降、録画するだけで放置していた。今日ようやく、未見分を5話(ついでに金曜アニメ館の「灰羽」の回も含めて)まとめて見た。
なるほど。先週から話が動き出したとは、こういうことだったのですね。ともあれ、残りの回は、(溜めずに)次の日には見るようにしよう。サントラも買い忘れないようにしないと(DVDの方は、元々、購入がデフォルトなので)
もう12月。今年もあと一月だけ。2年間続いてきた執行猶予(モラトリアム)状態も、残りあと一月…
それにしても、11月の日記は、1/3の日数を不在にしたとはとても思えない冗長さで、簡潔で透明な日記、という目標はどこへ行ってしまったのやらと、いつもながら、深く反省することしきり。ルナール「博物誌」での蛇の定義を、自分に投げつけたい気分。いわく、「長すぎる」と。
と書いている時点で、今月も既に充分、「無駄に長い」気がしないでもない。
今夜の、渋谷での遊佐未森のコンサート。
立ちっぱなしのライブは割としんどくなってきた歳ではあるので、座れるのは、有り難い。でも、席が余り良くなかったので、本人を視界に捉えるべくずっと背筋を伸ばしていないといけない(でないと見えない!)のが、やや辛かったような。それを除けば、まったりと心地良い時間を過ごせたかと。…距離感から、ステージとの一体感が薄かったせいか、少しだけ物足りなくはあったけど。
しかし、今週は、これを含め計4回聴きに行くものがあるというコンサート(ライブ)過密週間となっていて、「師走」だというのに大丈夫なのか、我ながら心配。何も考えずに、「ケルティック・クリスマス」のセット券を買ったりするから、こういう事態に陥るんだってば>自分。土日はまぁ良いとして、水曜は開演までに間に合うのか、不安。亀有は結構、遠いよ?