空の蒼さを 見つめていると
散歩道ということで言えば。この時期の、木々の葉が落ちて穏やかな日差しが差し込むようになった近所の丘陵の尾根道を、道に積もった落ち葉をサクサク鳴らしながら歩くのが、実は一年で一番好きだったりする私。
それにしても、(暑さを避けて)早朝に歩いていたのが、つい最近のことだったような気もするのだけど。改めて、季節の移り変わりは早いものだと感心。旅行でいなかった間に、季節が変わっていただけ?
でも、先週、京都に行ったときは、かなり暑くて、ソフトクリームを食べてしのいだ記憶があったりと、今年は季節感がどうにも繋がらなくて困ってしまう。
で、その京都での紅葉ですが、例によって、アルバムにしてみました。この寺なら必ずここから、という定番のアングルのものと、やや変な撮り方をしたものとが 混在。まぁ、全体にこんな感じだったということで。…ちなみに、旅行の写真はどういう観点で選ぶべきかが決まらず、全然、手が付いていないまま。そちら側の更新は、当分先のことになりそう。
11月ももう終わりですね。あと一月か…
今では、「大体良ければ良いや」と何でも流してしまう私だが、10代の頃は、良い/悪い、好き/嫌いといった価値判断にもっとシビアで、曖昧なもの、特に通俗的な「甘さ」を持ったものには、容赦無かった。 逆に「純粋なもの」に憧れていた私にとって、スーラという画家は、「純粋な絵画」に最も近付いた画家として、崇拝と言えるほど尊敬の対象だった。
さすがに、今では崇拝の対象とは言わないけれど、スーラが特別な画家の一人であるのには変わりがない。従って、今回の展覧会は、私の目的は第一室で完了。ええ、新たに数点でも見られただけで、満足です。
ただし、展覧会は「…と新印象派展」。その後の新印象派の人々の作品が中心。内容的には、企画者の意気込みが感じられて良かったのだけど、作品の題名と解説のパネルの文字がやたらと小さいのには参った。新印象派の絵は、ある程度離れて見る必要があるのに、解説の文字は間近に寄らないと全然読めない。
スタイル優先の、見る人のことを無視した展示で、せっかく熱心な解説がされていても、印象最悪。と、ここでいくら愚痴を言っても 仕方ないので、出口のアンケートで、「ひどすぎる」と書いておいた。
「新印象派は色彩分割に拘る余り、形態の力強さを失い、フォービズム等に交代していった」のが、美術史の常識だと思うが、本当に、新印象派は方法論で行き詰まったのかという点については、 見ていてもよく分からず。確かに人間がちまちまやってられない手法かもしれないが、今の時代、CGで行うアプローチとしてはむしろ有効に思えたりするのだが…
ところで、スーラ以外の新印象派は、色遣いがどうも下品という「印象」があって、今回もその印象は変わらなかった。多分、補色を隣接して配置するという方法論自体に、そう見える絵に成りやすいという制約があると思うのだが、では何故、スーラの絵だけは、ああも「詩情」に満ちて美しいのだろうか。それもまた謎 。
「新印象派は多くの人々の試行錯誤により、色々な発展を遂げ、後の世代の絵画を生み出す母胎ともなった。ただし、出発点であるスーラを超えることはついに出来ずに終わった」というのが、今回の私のまとめ。いや、図譜には、「色々な発展」をもっと評価する解説があるのではないかと思 ったのだけど、(高いので)買わなかったため、その辺は不明。
先月は前に書いた通り、谷山浩子月間だったのだが、今月の私は、遊佐未森月間だったりする。
もっとも、遊佐未森に関しては、デビュー時は、自分の趣味にぴたりと填ったというか、非常に惹かれて、特に最初の3枚は何度と無く聴いたアーティストだったのだけど、その後のアルバムに関しては、それほど熱心にはなれず、次第にCDを買うこともなくなっていた。
…いたのだが。来月1日のコンサートのチケットを、つい何となく取ってしまったため、どうせ行くなら、少しは予習?しておこうと、急遽購入してきた最近のベスト「TRAVELOGUE」やカヴァーアルバム「檸檬」を聴いている 毎日。何だか、方法と目的で、主客が転倒している気がしないでもない。
最初は、正直言って、ぴんと来なかったのだが、繰り返し聴いているうちに、ようやく馴染んできたというか、割と良いかも、という気分になってきた。でも、アルバムの後半、新録での「地図を下さい」や「夏草の線路」が流れると、最近の曲より遙かに心地よく聞こえてしまうのは、刷り込みはもはや変えられないということ? それとも、客観的事実?
ところで。久し振りにCDを買って一番気になったことといえば。遊佐未森って、いつから帽子を被るのを止めたんですか?
4冊目ともなると、さすがにもう良いやというか、「いまさらエマノン」という気持ちが強かったのだけど。予想していた以上に「素直に面白かった」。今回は、まさにジュブナイル版「エマノン」という感じで、下手に環境破壊とか構えたテーマの作品でなかったのが良かったのかも。
そして、「このジャンル」をストレートに書かせるなら、やはり梶尾真治ほどツボを押さえている作家はいないわけで。傑作、とまでは言わないけれど、いつもながらの安定した上手さ。
そんなわけで、今作には満足なのだが、今後、エマノンを続けるなら、こういう他のキャラクターでも出来そうな話ではなくて、「おもいで」の巻末の対談で述べていた「ゴーギャンやラフカディオ・ハーンと一緒にゾンビ狩りをするエマノン」みたいな話こそ、早く書いてくれないものかと。 いや、それがどんな話かは全然分かりませんが。
ようやく、「大レンブラント展」の感想を一応、記入。…ちょっと長すぎたかも。その割には大したこと書いてないし。
ところで、レンブラントなら、かつて来日した「ダナエ」くらいの目玉がせめて一点あればなぁ、などと思っていたのだけど、図録を見ていて、「ダナエ」がその後、1985年に致命的な損傷を受けていたことを初めて知った次第。この「ダナエ」硫酸(とナイフによる損傷)事件は、非常に有名な話らしいですが、私はエルミタージュに行ったことなど無いので、全然知りませんでした。13年間の修復の末、今は一応見られる姿にはなっているようですけど。…まぁ、そういうことがあれば、貴重なレンブラントを遠い日本まで貸してくれない美術館が多くても、おかしくないだろうなぁ。勿論、事件が起きたのはソビエト時代のロシアですが。
そうすると、私は傷付けられる前の「ダナエ」を見たという貴重な体験をしているわけなのだけど、…何分にも小さい時の話なので、それほど鮮明な記憶ではないのが何とも勿体ない。
ジョン・ロールズ氏の訃報に、ややびっくり。…もっとも、学生の時の「法理学」の講義以来、10年以上、その名を思い出すことすら無かったけど。 というか、まぁ良い歳ではあるな。
「<古都>鎌倉」は、(京都がそうであるような)かつて都が置かれていた時代からの歴史的な継続性を保った街ではない。つまり、<古都>という捉え方は、「最近作られた」虚構 の一種でしかない。というのが、鎌倉の近隣に育った者として前々から抱いていた実感だった。
従って、『今の鎌倉のイメージが「明治以降の日本の近代化」の中で、いかにして作られていったか』を描き出すこの本の内容は、その実感を歴史的な事実で裏付けるもので、非常に興味深かった。
予想通り、明治初期の鎌倉は、「死都」と形容されるほど寂れた、畑しかない土地だったらしい。その鎌倉が脚光を浴びたのは、「近代」の「衛生」という概念の導入が大きいと 著者は言う。19世紀の西洋では、結核等の疾病に対する「療養」の手段として 、「海水浴」が注目され流行する(例えばキャロルの「アリス」の中にも海水浴という行楽に触れた箇所が存在する)のだが、その衛生思想が日本に導入される際に、選ばれた「保養地」が、鎌倉を含む「湘南海岸」だったというのだ。
「海水浴」に適した保養地として、鎌倉は発展し始める。もっとも、東海道線は出来ていたものの、東京からの交通は未だ不便で、従って、当時は別荘地としての繁栄だった。それが日清戦争という軍事的な事情から横須賀線が突貫工事で開通 すると、鎌倉は通勤圏となり、高級住宅地としての性格を強めていく。即ち、鎌倉という街の基礎をなしているのは、近代化過程での発展であって、古都などではないのだ。
では<古都>鎌倉はいつ出来上がったかというと、それは戦後になる。具体的には、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンに始まる観光ブームへの対応(花の寺にしたといった)であるとか、街の周囲の山並みが「古都保存法」で保護されたこととか、色々あるのだが、ともあれ、そういう「雰囲気」をこの街が作り上げたのは、割と最近の話である。 著者がいみじくも言うように、鎌倉とは「古都」というテーマを擬似的に再現した「テーマパーク」だと言えるのかも知れない。
で、鎌倉好きの著者は、そういう「雰囲気」作りに長けた鎌倉の在り方を肯定して終わるわけだが、地元民としては、それには必ずしも賛成出来ない。数年間で目まぐるしく変わる小町通 りの店々が、「…名物」という旗を最初から掲げて新規開店する様を見続けてきた(例えば、あの芋ソフト屋なども実はまだ新しく、鎌倉の名物としては認め難い)者としては、そういう底の浅い「テーマパーク」で得られる「癒し」など、どうにも信用出来ないのだ。言わせて貰えば、今の鎌倉は、ある種の袋小路に陥っているというか、既往のイメージ(TV東京の旅番組にあるような)を縮小再生産する方向にしか進んでいないと思う。
個人的には、鎌倉の良さとは、そういう土産物屋等ではなく、人気のない狭い路地を歩く時にこそ、一番感じられる。勿論、<古都>に期待するものは、人それぞれだとは思うのだが…
昨年辺りから、目立つようになってきた、とは薄々思ってはいたのだが。
来年の東京国立博物館の展覧会開催予定を見ると、「大日蓮展」(1月15日〜2月23日)、「西本願寺展」(3月25日〜5月5日)、「鎌倉−禅の源流」(=建長寺展)(6月3日〜7月13日)と続く。しかも、来年だけの話ではなくて、私が知るだけでも、さ来年には「空海と高野山展」が他から巡回してくる。……ここって、いつから仏教博物館に変わったんですか?
こういう状況が訪れたのには勿論、主催者(博物館・寺・スポンサー)それぞれの思惑が存在する筈で、簡単に言ってしまえば、「大寺院の宝物展は手堅く儲かる」という認識が、ここに来て美術興業界に浸透した、ということだろう。嚆矢となった展覧会が何だったのかは、よく知らないが。
確かに普段、縁のない美術品(歴史的に言って、大寺院は日本における数少ない美術コレクターだ)を見ることが出来る貴重なチャンスではある。しかし、現状の盛況振りには、「安易」という言葉を思い浮かべてしまうのもまた事実。
バラバラに展覧会を積み重ねるのではなく、全ての展覧会を通して統一テーマを設定し、数年掛かりで仏教美術史の読み替えを(観客に分かるような形で)提案していく、というような壮大な計画でも有れば、非常に面白いと思うのだが、個々に、単に秘宝を見せるという「見せ物」展がいくら続いても、一連の展覧会が終わった後、観客に残る物は恐らく非常に少ないと思われる。
大体、国立博物館が仏教美術展に明け暮れているということは、それ以外の企画は現在、疎外されているということでもある。そのことも、もっと注意を払われるべきだと思う。いや、「…寺展」をやること自体は別に良いのだけど、費用対効果(入場者数)の手堅さという保守的な「大人の事情」で催されているとしたら、それは嫌だなと。
ちなみに、とりあえず、最初の「大日蓮展」は行く予定。
寒々しい天気。写真の整理で、日が暮れる。
何と言っても、レンブラント。混んでいて不思議ではない。とわざわざ休みを取って、金曜の夕方5時に訪ねたのだが。行列用のテントが空しく思える閑散とした会場前。時折訪れる入場者より整理のバイト君の方が遙かに多い有様で、列なんてどこにも無い。 街中が観光客で溢れている季節なのに…
会場内も、西欧の美術館並みの快適さで、正直言って、いささか拍子抜け。余りに空いているので、思わず2周してしまったくらい。
勿論、会期後半になれば、どっと混み出すのだろうけど、現状、それほど人気が無いのは、実は分からなくもない。今回のレンブラント展は、目玉と呼ばれるようなキャッチーな作品をメインに据えた展示ではなく、普通の肖像画(とそれに類する絵)が50枚余りもひたすら続く。レンブラント好きには至福の展覧会とは言え、一言でいえば、地味も地味な内容で、ウリとしてはどうにも困る感じなのだ。企画者もそれは感じたと見えて、わざわざ「大レンブラント展」という題名にしている。
……「大」って何よ、次は「小レンブラント展」でもやるのか、と突っ込みたくなるが、気持ちは分かる。しかし、そう言った時点で、内容が「大」でないと白状しているのも同然、余り上手い題名とは思えない。ちなみに原題は「Rembrandt Rembrandt」。こちらの方が、格好良いと思うのだけどなぁ。
ところで、あえて目玉を挙げるなら、大作「目を潰されるサムソン」。確かにインパクトはある。しかし、これなら、ルーベンスを見に行けば良いわけで、レンブラント展を代表する1枚とは言い難い。表紙の「ユノー」にしたって、「フローラとしてのサスキア」などと比べるとえらく地味。偏見かもしれないが、関西人に受ける展覧会とはとても思えない。
しかし、レンブラントはそもそも、混雑中の飛ばし見が出来る画家ではなく、一枚一枚時間を掛けて対面する必要があるので、結果的には有り難かった。地味地味と書いているが、それは同時に滋味でもある 、というか。非常に味わい深い。
そんなわけで、2週目は、1週目より更に良かった。2週目はガイドシステムを借りたのだが、押し付けがましく無い解説だったので、利用しても悪くないかも。
結論としては、玄人好み的展覧会。レンブラントの絵を尊敬していて、次回開催地のフランクフルトまでは行けないと思う人は、(混む前に)行って見るのをお薦めします。
ちなみに、(フランクフルトでの方が点数が遙かに多いので)少しでも多くの作品を知りたい人と、「レンブラントの絵」に関する真偽問題、即ちRRP(レンブラント・リサーチ・プロジェクト)の検討とそれに対する企画者側の見解といったことに関心がある人は、見た後に図録を購入するのが良いような。他の代表作も、参考図として載っているし。
2日ほど、京都へ絵と紅葉を見に行っていました。そんな情報が必要な人などいないと思いますが、興味のある方は、私が見た限りでの紅葉速報をどうぞ。
縦10m横6mというだけあって、さすがに巨大。2階吹き抜けの特設部屋の壁一面に展示してあって、画面の半分より上は、2階からでないとよく見えないほど。もっとも、下方の、有名な動物達の姿は、逆に2階からでは遠過ぎる。上野では、この絵を一体どういう形で展示するのだろうか。
巨大とはいえ、決して大味な絵ではなく、細部に至るまで存分に腕を振るった画面。技量を見せ付けられる、という印象。61歳時の作品とはとても思えない。信仰上の先師や家族の菩提に資するために描かれたとのことだが、しかし、信仰心の発露というよりは、いかに華麗に描いてみせるかというような野心を強く感じてしまうのは、私の気のせいだろうか。
だから、釈迦の周りで嘆き悲しむ人達も、悲しむ様を競い合って「演じて」見せている風に見えてしまう。その中で我関せずという風に横たわっている入滅の釈迦との対比が面白いといえば面白い。むしろ下方の動物達の方が、真に嘆き悲しんでいるように見える。中でも、猫とコリー犬 2匹(南蛮人が連れてきたのを見たらしい)の姿が印象的。
ともあれ、こういう巨大な絵に一人きりで対面し、色々と考えながら、ゆっくり見ることが出来たのは、幸せ。展覧会だと、さすがにそうはいかないだろうし。
同じく小泉淳作が描いた建長寺の龍図は、今月に特別公開有りということで、近所だし是非見に行こうと心待ちにしていたのだが、旅行から戻ってみると、帰ってきた日までで公開が終わっていた… まぁ、来年以降、見る機会もあるだろうとはいえ、そのショックからまだ醒めやらぬ中、どうせなら京都の方を見に行こうと思ったのも、今回の京都行きの一因。この「双龍図」に関するNHKのドキュメンタリーを少し前に見て、一度、実物を見なくてはと思っていたのだ。
そんなわけで、どういう画面かは(制作過程を見ているので)既に知っていたのだが、実際に見ると、なるほどと思う。床に座って見上げていると、画面の様々な曲線(主に龍の体)が生み出す、動的なリズムの心地良さからか、いつまで経っても見飽きない。どこかユーモアのようなものまで感じられる。海北友松の雲龍図がある寺で描くだけのことは有ります ね。
ドキュメンタリーの放送時、画面の濃淡の修正のため、非常に細かい点描を、画家が執念を持って描き込んでいる様子に、そんな細かいのは、遠くからではどうせ分からないだろうに、ご苦労さんなことだ。と思って見ていたのだが、実際に眺めると、それらがよく見えるのに驚いた。細部も努々おろそかにしてはいけないのだなと、妙なところで感心する私。
こうなると、やはり建長寺の龍図と早く比較してみたいわけで。…来年には見ることが出来ると良いのだけど。
こちらは1体の龍図。四角い天井に土俵のように丸くブルーの円を描き、その中に龍を閉じこめているような構成。龍の角が長く、しかも槍のように鋭く突き出ているのがまず目立つ。ジャキーンと擬音を振りたくなる。足の爪も掴まれると痛そう。一言で言えば、 武闘派の龍。
迫力はあるし、これが天龍寺の龍図だと言って恥ずかしい絵ではないのだが、ただし、描いたのが加山又造だということを考えると、正直言って、やや期待外れ。これ位なら、日本画家なら誰でも(とは言わないにしても)描ける程度では? 胴体がどう見ても途中で繋がっていない辺りも納得出来ないし。依頼した天龍寺はこれで本当に満足したのだろうか。
ところで、龍図を見ていると、どこでも必ず手を叩くおばさんが現れるのだった。鳴龍は建物の構造で響くのであって、別に龍の絵が描いてあるからではないと思うのだが…
押井守の実写作品のDVDコレクションは定価2万円か… 高い。でも、まぁ買うしかないのだろうけど。
一つ一つの短編自体は楽しく読めるのだけど、全体としては苦手なシリーズ。正直なところ、熟年の新米探偵・仁木(とその優秀な助手・安梨沙)のやっていることが、まるで「おままごと」のように見えてしまうのだ。二人とも、探偵(の真似事?)なんかやらなくても別に良いだろうに、と読んでいてどこか苛立たしくなる。
もしかしたら、「アリス」が元ネタとして引用されていることで、必要以上に点が辛くなっているのかも。この作品でイメージされている「アリス」は、ルイス・キャロル&テニエルの それではなくて、普通、人が思い浮かべるような「アリス」、つまりディズニーアニメの方と大同小異なのだけど、人にはそれぞれ、許容出来ることと出来ないことがあって、私の場合、そういうのを「アリス」と呼ぶことは、決して許容出来ないことの一つなのだ。
だから、多分、「アリス」に思い入れのない人ほど、素直に楽しめる作品ではないかと。
ところで、「アリス」といえば、amazonに注文していた本が、旅行で不在の間に、まとめて来ていた。両「アリス」に「スナーク狩り」、そしてスティーブンソンの「宝島」。全て、マーヴィン・ピークによる挿絵付きの単行本である。いずれも期待に違わぬ出来。特に「アリス」の挿絵は、テニエル以降で最も独創的な挿絵の一つという賛辞 が、嘘ではない。中でも、公爵夫人が豚のような赤子を揺する場面のイラストは凄い。これだけは、テニエルを超えているかも、と思う。本としてお得感があるのは「スナーク狩り」。挿絵それ自体の他に、スケッチブックとして、それぞれのキャラクター毎の様々な下絵を収録していて、非常に面白い。
どこか気の利いた出版社が、これらマーヴィン・ピーク版のキャロル(あるいはスティーブンソン)の本の版権を取って、新鮮な訳を付けて出版しようと何故、思わないのだろうか。
ちなみに、一緒に注文した「ゴーメンガースト」のDVDを(一ヶ月以上前に届いたのにも関わらず)未だに観ていない私。…この際、いっそのこと、小説を再読してから観ようかな。
先日述べた「人生の岐路」だが、本日、その中の一つを選ぶ。それが右か左かはよく分からないが、一般的に言えば、多分、左の方。以前からその方がましだと思っていたとはいえ、実際に選ぶとなると、色々思うことはやはり有るもので…
もっとも、入社した会社自体を辞めるわけではないので、結局、大した違いではないとも言えるのだが、「その中」では「大した」違いであることは確か。ともあれ、自分でそう決めたわけだし、あとは来年の話。
京都でついでに見ようと思っている絵の一つは、春秋のみ公開の、本法寺の長谷川等伯「仏涅槃図」。しかし、実は、来年の「大日蓮展」での目玉作品として上野に来ることが既に決定しているらしい。…わざわざ本法寺に行かなくても、その時で良いのかも。ただ、展示自体の見易さ(大きな絵なので)は多分、上野が上だとは思うのだが、展覧会は、南無妙法蓮華経な人々で会場が埋まりそうな気もするし、とりあえず京都で見ておいた方が良いかなぁ。
悩んだ挙げ句、「レンブラント展」については、今週末、休みを取って京都まで見に行くことに。
自分でもやや意外だったが、私にとって、レンブラントはそれくらいの価値が有ったらしい。しかし、どうせ行くのなら、それだけというのも勿体ないので、京都にあるあの絵やこの絵もついでに見ることにして。勿論、紅葉も見ておきたい(だから、今週)。京都中が半端じゃなく混んでいるのは明白だけど、対処法は心得ているので、何とかなるかと。
紅葉はこういう場合、やはり嵯峨野かなと思いながら、京都の今秋の特別拝観情報をチェックすると、『江戸時代の名所案内「都林泉名勝図絵」にも載っている、天龍寺の宝厳院という塔頭が130年振りに公開中』という話。
「都林泉名勝図絵」なら、前にも書いたように、実は手元にある。どんなことが書いてあったっけ?と捲ってみると…、天竜寺の塔頭で、「宝蔵院」なんて載ってない(^^;; しばし、考え込むが、春の公開時に行った人が撮った写真に、獅子岩というのが有るところから、どうやら「名所図絵」には「妙智院」として載っている庭らしい。名前が途中で変わったのだろうか。
ともあれ、初めて訪ねる庭が一つくらいあっても良いので、ちょうど良いかも。あとは、定番のコース、渡月橋→亀山公園→大河内山荘→常寂光寺→二尊院→祇王寺→宝筺院→大沢の池から、混み具合に応じて、適当に取捨選択すれば良しと。
先日の「ハリポタ」ポスター。今朝眺めたら、驚いたことに、右端の分が復活していた。改めて見たところ…、ファンが盗ったという説は撤回。よりによって右端を選ぶ、ということは無いかと。敵役の皆様?だったので。ところで、帰りに同じ道を通ったら、四枚とも他のポスターに既に切り替わっていた。早い。でも、別の場所に横長ポスターが新しく貼られていたので、この通路での「ハリポタ」濃度はむしろ高くなっていた。物量作戦のポスター&予告編だけで、もうお腹一杯という感じ。どのみち観ないけど。
ちなみに、今一番観に行きたいのは、優香主演、竹中直人怪演?の「恋に唄えば♪」。いや、冗談ではなくて。間違いなく、久々に金子修介らしいジャンル (女性アイドル主演の、無重力系のコメディ)の作品なので。良く出来た怪獣映画を撮り続けるより、こういう作品に復帰してくれた方が、 ずっと嬉しい。多分、出来はそれほどではないと思うけど、そんなのは大した問題じゃないです(^^;;
アイルランド旅行。残っていた最後のフィルムを現像してみたら、思っていたより綺麗に撮れていたので、ダブリンの夜景を追加。
とある異世界での魔術師一家の物語。とはいえ、D.W.ジョーンズ。普通の異世界ファンタジーであるわけがない。その世界の住人は、別世界(私達の世界?)から訪ねてくる「観光客」に「冒険の旅」を与えないといけないという契約を結ばされていて、その履行に四苦八苦していた、という奇抜な設定が、今回の物語の出発点。
いつもながら自己主張の強い登場人物達が、それぞれ自分達の(広い意味では世界の)危機を救うべく騒然と動き回るので、読者の方は付いていくのに精一杯というか、一人一人をもう少し丁寧に追い掛けてよ、とか思わないでもないのだが、ラスト、嘘のように綺麗に着地する辺りの手際の良さは、さすがに貫禄か。
メタフィクション的な設定の中で、例えば「指輪物語」のネタが、思わずニヤリとするような形で仕込まれていたりと(それにしてもドワーフの名前があれというのは…)、有る意味、作品全体が壮大な冗談のような感もあるのだが、魔術師一家の子供達(ひと2人と5グリフィン)の兄弟間の友愛が気持ちよく描かれているので、生き生きとした物語となっている。ジョーンズらしい作品として、充分楽しめた。続編があるのも、楽しみ。
展覧会消化日。
目的は勿論、応挙の「雪松図屏風」。幸い後期の展示だった。しかし、場所上の制約から右側しか展示していなかったのは残念。
近くで見ると、一見平凡、というか拍子抜けするような作品だが、距離を置いて(狭い展示室なので、可能な限り下がって)見ると、松の上に積もった雪が朝の光で輝いている様が現れてくる。時間と空間の表現という新しさ。当時は、さぞはっとするような新鮮な驚きを持って迎えられたのだろうと思う。
ちなみに、何故、三井文庫に応挙があるかというと、当時の三井家が、応挙の絵の有力な購入者の一人だったかららしい。ああ、そうなんだ。今の時代のお金持ち(って誰?)にも、もっとそういう見識を持って欲しいもの。
応挙の写生画とか他に面白い作品もあったとはいえ、とにかく展示室一つのみで、これで500円は高いような気もしたが、年末年始に日本橋三越で開催する「三井文庫名品展」の招待券をくれたので、良しとします(こっちの入場料は900円らしいし)
あと、この別館には海外を中心とした珍しい切手のコレクションがあるようなので、そういう人?なら一度来ても良いところかも。
エッシャーの絵って、考えてみると「実際に」見たことがほとんど無かったので。それにしても、最近、Bunkamuraはいつも混んでいる。チケット自体は、目の前のBook1stで買えば並ばずに済むのだけど、中があれではまともに見る気が失せる。もう少しスムーズな流れを作るにはどうしたら良いのか、運営者は一度、真剣に研究すべきなのでは?
エッシャーがああいう作品をどうして作り出したかというのは色々きっかけがあるようなのだけど、版画家だったというのが、やはり大きいような気がする。版画というのは、通常の絵画以上に、現実の風景を変形・分割して表現するものなので。あとは几帳面な性格でないと版画は駄目だということですね。私には駄目。制作途中で飽きる。と見ていて思った。
ところで、エッシャーの作品だが、やったもの勝ちみたいなものではある。コンセプトの勝利というか。だから、改めてエッシャーを実際に見る必要があるかというと、実際のところは多分、余り無い。ええ、複製(というか印刷媒体)で全然、問題ないです。
でも、今回の作品はハウステンボスのコレクションで、この展覧会の収入は、ハウステンボスの再建計画上、恐らく大きな意味を占めていると思われるので、当社の再建に協力したい方は見に行っても良いのではないかと(^^;; でないと、長崎オランダ村に続いて、ハウステンボス、ひいてはハウステンボス美術館も閉鎖されてしまうかもしれず… まぁ、これだけ入っているのなら、この展覧会は(ハウステンボス側から見れば)とりあえず成功だった様子。
ショップの書籍コーナーでは、果たして「ゲーデル、エッシャー、バッハ」なども置かれていたが、ここで買う人が何人いるかは謎。
映画のポスター2題。
通勤で利用する地下鉄の通路に、数日前から、今冬公開の「ハリポタ」ポスターが貼られている。横長ポスターの方ではなくて、各々違う柄とコピー(「もっと…」)の縦長ポスターを4枚横に並べた方。今日、その右端の1枚が盗り去られたのか、既に無くなっているのに気が付いた。
残っているもの(「もっと対決」とか)から言って、それのコピーは「もっと魔法」だったと思うのだが、図柄(登場する人物)が誰だったのかは全然思い出せない。どうせ(?)ハーマイオニーだろう。と思ったのだけど、レギュラー3人組は一番左のポスターに登場しているようだし、謎は深まるばかり。…それとも、「ファンによって盗られた」という仮説自体が誤り?
JR東日本の何かのキャンペーンとタイアップしている「ギャング・オブ・ニューヨーク」のディカプリオの写真。ぱっと見、オーソン・ウェルズを思い浮かべてしまうのは私だけですか?
旅行の後、久々に職場に出社したところ、私の席だった場所に、既に別の人が座っていた(^^;; ……これって、噂に聞く「暫く留守にしたら、自分の席がいつのまにか無くなっていた」という奴? と思ったが、実際は、下の階の部署が廃止されて、そこから人が来たため、私の席も向かい側に移動していただけだった。
いや、一瞬、リストラされる悲哀を味わってしまいましたよ。でも、考えてみたら、無くなりつつあるのは、この勤め先自体なわけで。私がここにいるのはあと2ヶ月だけど。…そんなわけで、私としても、それなりに人生の岐路に立っているのではないかと思われる今日この頃。
オー・ヘンリーの短編のように右の道を行くか、左の道を行くか、真ん中の道を行くか(という程の選択肢はないのだけど)。
…………あの話って、もしかしたら、どの道を選んでも結局、殺されてしまう(不幸な)結果が待っていた、とかそういう話だったような気がしてきた。椎名高志の四コマにあったような奴。私の 置かれている状況って、そ、そういうことなの?
それはそれとして。今月、来月は多少、精力的に展覧会を見に行こうかと思ったりしている。この秋は結局行けなかったものが多かったし、来年になればもはや、そういう時間が自分の手元にどれだけ残るか分からないし。でも、寒くなると、出掛けるのが億劫になってくるのが、正直なところ。京都のレンブラント展、どうしよう…
戻って来ました。
旅の前半、日本が寒波に見舞われているその最中、私はといえば、地中海に面したリゾートホテルの、海に迫り出したテラスに腰掛けて(真下のプライヴェートビーチでまだ泳いでいる人を眺めつつ)朝食後のコーヒーを愉しんだり、あるいは、同様にエーゲ海に面したホテルのプールサイドで、海を彩る夕焼けを眺めたりと、優雅な毎日を日々送っていました。
というような、人が羨むようなことを、帰ったらぜひ書いてやろう(^^;;と邪な気持ちでいたのが祟ったのか、旅の後半、イスタンブールでは、体調を崩して、2,3日ほとんど何も食べられない羽目に(今は治ってます)。まさか、自分が一人で、「ラマザン」(=断食)を実践?することになるとは、思ってもいませんでした。
まぁ、終わってから振り返れば、色々な意味で興味深い旅にはなったかと。今回は、旅行記については少し時間を置いてから考えるとして、まずは写真だけ整理するつもり。