空の蒼さを 見つめていると
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ …そんな、一日。
イラストは、ともかくとして。大ボケな主人公。(噛み合わない)会話の妙。文章のリズム感。三拍子そろった火浦功の文章である。古典落語のような世界なので、全く古びていない。
新作で、この文章がもっと読めればとつい考えてしまうのだが。次はぜひ、同様に単行本未収録の作品を合わせた(新作も追加した)「トリガ−マン! 完全版」を!
ふと、思い立って週記を更新。いや、まぁ、何というか… あと、「ロード オブ・ザ リング」ズの1回目の感想も、 今頃、追記。
ちなみに、昨日の感想の、アラゴルンの話は、映画自体のストーリーに関する話(脚本上、論理的な説明はされているけど、実感として納得しにくい)であって、戸田奈津子字幕の解釈が論外であるという のとはまた別の話。そちらについては、他の方、例えばサックビル=バキンズさん(仮名)の言われる通りだと思います。
いつも以上に早起きして、8時過ぎからの吹き替え版を観に行く。
もっと混んでいるかと思ったが、私より前の席には殆ど誰もいなくて、画面を独り占めのようにして堪能。
2回目。台詞の細部を聞く余裕が出てきたので、「村から出たことがないのに、なぜ裂け谷までの日数が分かる?サム」とか細かいところを突っ込みつつ観る。確かに、吹き替え版の方が繊細な訳。字幕版ではさっぱり不明なままのフロドとサムの関係も、「庭師」と「若旦那」という言葉で、それなりに分からせているところとか。それだけのことが何で出来ないのかというと、やっぱり作品に対する愛情の違い 、なんでしょうね。
ところで、概ね、上手くアレンジしていると思われる映画版のストーリーだけど、最後のアラゴルンの決断だけは納得し辛い展開になってしまっている気が。向こう岸にまだ見えるなら、普通、追い掛けるだろう、と映画だけ観た人は思うのでは? 原作のように悩めるアラゴルンを描いて物語のリズムが停滞する方が問題、と考えたのかもしれないけど。
昼前に映画館を出て、太田虎一郎「宇宙の法則 世界の基本」2巻と、火浦功「ファイナル・セーラー・クエスト完全版」等を本屋で購入して、撤収。「ファイナル…」は、竹本泉イラストからのギャップという以前に、火浦功らしくないアニメ絵の表紙に、まずは軽いショックを受ける。本屋で探す人はやや注意。「祝・火浦功20周年!!」帯付きなので目には付きますが。
ビリー・ワイルダー死去。こういう時こそ、気の利いた台詞でもって冥福を祈るべきなんだろうけど、…う〜ん、全然、思い出せない(^^;; 観たのは、主に十代の頃だったしなぁ。でも、私の記憶力に難があるとしても、‘Nobody's perfect’、まぁ、いいか。
油断していたら、公開は今日まで。2週間とは短過ぎるよ、と思いつつ、何とか最終上映に滑り込む。
別世界での、ピノキオ的主人公の冒険物語なのだが、何と言えば良いのか… 丁寧な作画だし、真面目な作品作りをしているとは思うのだが。別世界の見せ方自体、上手くない (見ていても、どんな世界なのか良く分からない)ところに持ってきて、主人公のパルムという生き人形?の性格が、話が進むにつれ、どんどん感情移入出来ない方向へ(ホビットからゴクリのように!)変わっていくので、観客としてはどうにも困ってしまう。
この手の物語を語るには、本来、もっと明晰な脚本が不可欠な筈。しかし、それは今の日本のアニメ(特に、大友印近辺)には望み薄なのも分かっているので、せめてアニメとしての快楽原則に沿った作品にして欲しい。監督の無意識を丁寧に再現することが、プロのやることではないでしょ。
全体に、既往のアニメ表現に寄り掛かり過ぎ。作品のキーとなる、新居昭乃の歌の使い方も、例えば、やまざきかずおが「僕の地球を守って」で、既に似たようなことを(しかももっと上手く )やっていたと思うし。街で、子供達のグループが共同生活をしている辺りの描写だけは、「ピーターパン」の子供達みたいな楽しさが有って良かったんですけど。
あと、私に言えることといえば、小桜エツ子のファンはそれでも観ておけ、としか… 上映期間も終わったし、どのみち仕方ないですが。
というわけで、ここ2週間、文庫本を買っていなかったので、菅浩江とか津原泰水とか、気になっていたものから、5,6冊ほど。その中で、最初に読み出したのは「鳥姫伝」に。…何か、昨日までと余り変わっていないような。 舞台が「中つ国」から「中国」に変わっただけ(…だけ?)で、結局、ファンタジーじゃん。
ようやく、「指輪物語」の再読が、終了。(追補編は、今回はまだ全部読んでいないけど、それはそれとして)
これから、更に上代に遡るとか、あるいはペーパーバックを読み始めるとか、はたまたBBCのラジオドラマを聞くとか、その気になれば、まだまだキリがないのだが、それはまるで、死者の道に足を踏み入れるようなもの(=帰って来れません)。今回の再読だけで2週間も掛かってしまったし、読みたい本が出ているのに我慢するのにも、そろそろ限界だし。
そんなわけで、中つ国からはとりあえず、撤退。映画はもう一度、観に行きますが。
三部敬「テスタロト」3巻。…しまった、1巻から積ん読状態だ。この際、まとめて読もう。「宇則世本」2巻や、「ももえサイズ」2巻は、職場の下の本屋にはまず入らないので、週末にでも、買いに出ないとなぁ。
ふと気が付くと。あの歌って踊れる、某ホラー漫画家の情報を求めて、この日記に検索で来られる方が急増中。
それまで、一番訪問者が多い検索語といえば「竹岡葉月」35回で、あとはせいぜい10回くらいだったのだが(ちなみに、「ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 、紺野さんと遊ぼう、グローリアーナ、こがわみさき、伏魔殿、丘の家のミッキー、越前屋俵太、羊のうた」と続く)、複合検索を含めると、既に135回。しかも、この一ヶ月だけで。
確かに、急に、TVでやたらと見掛けるようになったからなぁ。一体、何者?という疑問を持つ人も多いのかも。ここに来たって何の解決にもならなかったと思うけど…
なお、複合検索では、「+姉」とかの検索が目立ったりして、姉の方かい、と突っ込みたくなったり。
ご多分に漏れず、私も職場で、「ロード オブ・ザ リング」ズの公式サイトの壁紙を、スクリーン・セーバーの素材として使用中なのだが、ふと思い立って、白黒表示に切り替えてみる。おおっ、まるで映画のスチールみたいじゃん! ……あの、元から映画の壁紙なんですけど。
でも、実際のカラーの画面そのままより、実は白黒の方が、『「指輪物語」の映画』らしいような? いや、映画の色彩設計は、悪くは無かったですが。多分、もっと彩度が落ちた世界として原作を思い浮かべているので、白黒の方が相応しい、というか、リアリティを感じるのだと思う。話的にも、黄昏の物語だし。DVDが出たら、ぜひ一度、白黒モードで見てみたい。というか、そんな再生モード、有ったっけ?
こがわみさき「でんせつの乙女」新装版とか、星野之宣「宗像教授伝奇考<特別編>」とか、竹本泉「よみきりもの」2巻とかを購入。
「宗像教授伝奇考」の<特別編>とは、単行本未収録のエピソードということらしい。そんなものが有ったのか。ところで、単行本化に辺りページ数が余るので、短編や対談を入れたのは分かるが、巻末の、 ストーリー紹介は不要でしょ。
それより、かつて「スーパーアクション」の休刊号に載った、「2001夜物語」の外伝?、あのロボットのKARK船長が人間に生まれ変わっちゃう話を、どこかで単行本に加えて貰えないものかしらん。
春らしい、穏やかな陽気。お陰で、ここの住宅地の桜並木も、午後には満開に。毎年のことだが、満開になると、やっぱりここの桜並木が一番だわ、と「オズ」のドロシーのように感心してしまう。いや、決して地元贔屓ではなくて。この辺りほど周りの丘の山桜を含め、住宅地全体が桜に覆われる場所は、少なくとも県内にはそうないと思う。
その桜並木を夜、散策する。頭の上にふわりと広がる枝、その枝を撓ませるかのように咲き誇る花の気配を全身で感じながら、歩き続ける。私にとって、美とは畢竟、これなのかもしれないな、と唐突に思ったりする。
色々な事が有っても(あるいは無くても)、今年もまた、満開の桜の下を歩けたことを、とりあえず、感謝。(…誰に? 木華開耶媛?)
わかつきめぐみ「ソコツネ・ポルカ」。わかつきめぐみといえば、何度でも読み返してしまう作品が多いのだけど、これはまぁ、一度読めば充分のような… ところで、「ソコツネ」って「底つ根」なのか。雑誌で読んでいる間はずっと、「粗忽ね」かと思っていましたよ。
午後、川沿いの桜を見に、戸塚へ。桜は満開だったが、空は暗くなり、冷たい風が吹き荒ぶ、歩くには辛い天気。今後、戸塚の桜を思い浮かべる時は必ず、あの風を思い出すに違いない。
「指輪」の再読は、「二つの塔」まで完了。残り、2冊。これが片付かないと、他の本が落ち着いて読めないし。D.W.ジョーンズの新刊とか出ているようだけど。
テレパル。今年の春休みのBSのアニメ特集は「パトレイバー」1&2,「オネアミスの翼」、「11人いる!」それに「チャイナさん」と益々趣味に走ったラインナップ。そういえば、番組表に「十二国記」が載るような時期になったんだなぁ、と4月2日を捲ってみると、……高校野球中継? 初回からいきなり、次週繰り延べですか?
ところで、今年になってから、実はアニメを1本も見ていないのだが、そして見なくても何とかなるものよ、ということも判明したのだが、4月開始分は一応、チェックしようかと。でも、多少なりと関心があるのは、伊藤和典脚本らしい「.hack//SIGN」くらいだけど。
・録り忘れないための自分用メモ。
(演劇)4月 8日 00:45〜 BS11 サード・ステージ公演「朝日のような夕日をつれて'91」
鎌倉の本屋にふと入ってみたところ、ずっと探していた、「指輪物語」の地図帳を発見! わっほー。
「THE ATLAS OF MIDDLE-EARTH」、というわけで。「トールキン世界のすべて」という副題もあながち嘘じゃない労作。第一期から始まって、第三期まで、主な歴史上の動きについてそれを示す地図がほぼ網羅されている。原作とトールキンが描いたスケッチとクリストファー・トールキンが編纂した「歴史」 を元に考察されたものらしい。
勿論、これらの地図がどこまで正しいのかは素人?には全然分からないのだが、ここは素直にそのディテールに感嘆し、楽しむのが読者としては正解かと。袋小路屋敷や踊る子馬亭なんて、中の部屋まで書いてあるし。定価3800円の価値は充分に有る。結構、長いこと楽しめそう。
「指輪」の部分は原作を読み終えてからじっくり見直すことにして、他の時代をパラパラと。そうか、サンゴロドリムってこういう地形なのか、とか。…やっぱり、「シルマリル」も再読しないと駄目ですかね?
ここ一年に見た展覧会のチラシが部屋に散乱しているので、いい加減、ファイルに整理しようと決意したら、結局、部屋中の大掃除と化してしまい…、ううっ、疲れた。お陰で、床半分が、久々に表れたけど。ところで、ファイルという観点からすると、チラシは表裏が一度に見えた方が良いような。今度からは2枚ずつ取ってくることにしよう。
忘れない内に、「SF Japan」vol.4を購入。とりあえず、山田正紀X押井守の対談だけ、読む。あとはいつになるか… そういえば、一つ前の「手塚治虫スペシャル」号も、イラストと幾つかのコラム以外は未読のままだったのに、今、気付いた。
久々に、昼休みを犠牲にして、美術館に行く試み、を実行。
今回の目玉は多分、狩野探幽の「松竹に鶴、柳に猿図」。ただし、それ以上に、私にとって印象的だったのが、川合玉堂の「奔潭」という、岩の間の流れを荒々しく表現した屏風。 川合玉堂というと、何となく、穏やかな山水画のイメージで、こんなパワフルな絵も描いているとは知らなかった。別の所で今度やる川合玉堂展も見に行くことにしようかな。
日比谷公園へ数日ぶりに足を踏み入れたら、園内の桜が、既にほぼ咲いていたのに、驚く。家の近所はまだそうでもないのに。東京の方が、暖かい?
帰りに横浜で降りて、TOWER RECORDSで橘いずみの新譜「SUPER SUNNY DAY」を購入。今回は、当店のインストアライブは、当日の朝、参加券に引き替えないといけないのか…
入館する前にコインロッカーに鞄を入れていたら、隣にいた女の人に、一枚余ってますから、と招待券を貰う。良い人だ(^^;;
シアトル美術館のコレクションからの里帰り展。明治大正の京都画壇の画家の掛け軸ばかり何十本も並んだ展覧会。会場はガラガラで、ほとんど私1人だけで見る贅沢(しかもお金払ってないし)。もっとも、 出展されている画家の内、5人に1人も知らない私… 例えば竹内栖鳳は当然、知っていても、その師匠だの弟子だのは、知るよしもない。いわば、世間的には、ほぼ忘れ去られた画家達。でも、当時は、画壇の主流であったり、美術学校の校長だったりしたわけで、 とりあえず、どの絵も概ね、綺麗だった。
ところで、掛け軸というのは、俳句と同じで、表現として完結していないような。だから、いくらまとめて見ても、満腹にならないというか。単に今回、決定的な作品が一枚も無かっただけかもしれないが。いずれにせよ、展覧会としては正直、迫力に欠ける気が。
私としては、明治の日本画家でありながら、同時代の印象派と共通する感覚を持っていた、都路(つじ)華香という、注目すべき画家を知ったので、観た価値はあったけど。
本屋にて、Comicsをサンデー系中心に少しだけ補充。気が付くと、橋口たかし「焼きたて!! ジャぱん」の1巻がもう出ていた。早っ。
「指輪物語」の再読は、「二つの塔」へ。映画化された部分は通過したけど、せっかくなので、もう一度観に行くのは、最後まで読んでからにするつもり。
新日曜美術館は、雪舟。ゲストは、「芸術新潮」でも雪舟の解説をしていた山下裕二に、森村泰昌。コメントは、赤瀬川原平ら。顔ぶれから予想される通り、画聖ではなくて絵画バカの先達、という見方で言い切っていて面白かったのだが、古くからのイメージを固く信じている人の中には、面食らってしまう人も多かったのでは。
本屋で、「中つ国」の、あの地図帳を探しているのだけど、3月になってからは、どこにも見付からない。仕方ないので、とりあえず「DVD&ビデオでーた」3月号を買い、噂の、付属DVD(アメリカでの、映画のTVCM集16本)を見て気を紛らわせる 。確かに、計7分弱あるこのDVD付きで420円は、安い。
東京でも桜の開花宣言が出ましたね。満開は、来週の土日? それともその後? いずれにしろ桜を見るなら3月中か。
近所の丘を歩いた他は、「指輪」の再読。何とか、裂け谷まで辿り着いたので、一回休み。
何か、スバル座ってすごく久し振り。小学生の頃は、「スヌーピー」とか「さらば宇宙戦艦ヤマト」(笑)とか、映画を見る、というと割とここ、だった記憶はあるのだけど。そういえばラルフ・バクシの「指輪物語」もここで見たんじゃなかったっけ?
駄目、というほど悪くはない。しかし、素晴らしい、というほど良くもない。煮え切らない感想だが、少なくとも「大誘拐」以後では一番、岡本喜八らしい映画。だけど、60年代の作品のように、夢中にさせる程の力はない。時代劇で西部劇、がやりたかったのは分かるけど…
仮に遺作と言われても納得出来る作品ではないので、少なくとももう1本は、これだっ、という作品を撮って下さい、岡本監督。
ここでの、明日からの上映は「パルムの樹」。「ピーターパン」等でパワフルな動きのアニメーターという印象がある、なかむらたかしの監督作品なので、内容も知らないまま、一緒に前売りも買ったのだけど、予告編を見て、ピノキオ系の話だと言うことを初めて知る。昔から、 駄作の多いジャンル… これも、物語的に痛い作品でないと良いのだけど。 ちなみに、券と一緒にくれた3枚綴りのチラシを見る限りでは、結構、痛そうです(^^;;
それにしても、『「風の谷のナウシカ」「アキラ」を手掛けたなかむらたかしが送る…』という予告編のナレーションは、ほとんど偽装牛肉並みの言い方では? 手掛けた、というのは普通、監督かプロデューサーを指す、と思うんですが…
早速、「旅の仲間」を読み始めました。今日は、1巻の半分まで。ということは読了するまで、あと2週間強くらい? …もう少しペースを上げようか。
駅前広場で、恒例の古本市が開催されていたので、帰りに覗いてみる。1981年の堂本印象展と、1998年の加山又造展の、二つの図譜を購入。
堂本印象の方は、どう見ても1人の展覧会の図譜とは思えないのが、おかしい。加山又造の方は、代表作をかなり含めた展覧会だったらしく、見応えがある図譜。これほど巧い日本画家はそういない。本当は版画の一枚くらい欲しい のだが、勿論、手が出る額ではないので、図譜(しかも、中古で1500円)でも買うのがせいぜいなところ。
そういえば、今回、図譜を見ていて気付いたのだが、私にとっては、両者ともに桜の画家という意味が強いのかも。
昨日、「指輪物語」文庫本の発掘作業時に、「不帰の迷宮」上巻のCD-ROMが見付かる。かつてTECK-WINで連載?された、知る人ぞ知る、押井守によるラジオドラマの最高傑作。もっとも、もう一つの傑作「しあわせのかたち 水晶の鼠」と、舞台が少し違うだけで、やってることも、やってる声優も全く同じだ、という話もありますが。
懐かしさの余り、もう一度再生しようと思ったのだが、さすがに「for Windows95&3.1」。XPでは、動きません。滅茶苦茶、面白かったのに、これ。押井守本人も「間違いなくいい仕事をしたと思う」と、同梱の脚本集の冒頭で断言している位だし。下巻とまとめて(下巻は当時ですら店で見掛けず買えなかった)、もう一度、発売してくれないものか。
などと、今でも思ったりする私は、高いと思いつつも、「パト3」の、というより「ミニパト」のDVD付きチケットを結局、ローソンで予約してしまうのだった。…業?
段ボールの山の一つに詰め込まれていた「指輪物語」の文庫版9冊をようやく掘り出した。何か、本が丸まっているけど、気にしないことにして。
「芸術新潮」3月号、特集「ほんとうの雪舟へ!」。解説は、この前の雪村展も監修していた山下裕二。今回も、ファンキーな解説が炸裂。簡単に言えば、今までの日本人は、本場帰りの「画聖」という、後世の称号に引きずられ過ぎて、雪舟の絵そのもの をよく見ていなかったのでは?という話。決して技術的に上手い天才画家ではなく、所々手を抜いたりと、いい加減なところも結構あるが、それでも(山下裕二が言うところの)「乱暴力」に満ちた、活きた絵を描く画家だった、ということらしい。
…つまり、少年漫画誌で言えば、「サンデー」ではなくて「チャンピオン」?
勿論、山下裕二の言うことをそっくり信じ込んでしまうのも、それもまた権威主義に過ぎないのだけど、「雪舟は上手い」という前提で見るより、「いい加減なところもあるんだけど」という風に見た方が楽しめる、のは確かなような。今度の「雪舟展」はぜひそのスタンスで見に行くことにしよう。
う〜ん、文旦系の味の違いは正直なところ、良く分からない。とにかく、どれも種が多い。1個に何十粒も入っている。ところで、この土佐文旦、スーパーの原産地表示の欄には、何故かフランスと入っていたのだけど、いつから高知県はフランス領になったのだろう。
デコポンのように出っ張っている。ネックがある、というらしい。皮は薄く濃厚な甘さ(オレンジほど酸味が強くない)で蜜柑並みの水気。西洋蜜柑とでも呼びたい雰囲気。
タンジェロと呼ばれる、グレープフルーツとタンジェリンの交配品種で、ミネオラとは姉妹品種。。こちらはつるっとオレンジ風の形。中はミネオラと似たような味。
最近、昼休みのちょっとした楽しみの一つとして、国会通りに掛けられる旗を見に行く、というのがある。最初の頃は、どこの国の旗が掛かっているのか、国旗の一覧で苦労して調べたりしたが、じきに、ここさえ押さえておけば、今掛かっている旗がどこの国なのか明白なことに気付いた。というわけで、今日たなびいていたのは、パキスタンの緑色の旗。
「ザ・スニーカー」4月号。久々に、ほっとする方の乙一。来月半ばにはまた幻冬舎文庫から書き下ろしが出るようですが、…今回もキリキリ痛い奴かしらん。
来月といえば、火浦功の「ファイナル・セーラー・クエスト」が「完全版」としてスニーカー文庫から再刊されるとのこと。「完全版」とは、書き下ろし付きということで、めでたい限り。4月1日発売予定なのが、火浦功らしくて、やや不安ですが。でも、今回の挿絵は竹本泉じゃないのか。この小説は竹本泉の絵と合わせて一つの作品、という感覚が強いんだけど。
それにしても、当時のインタビューでも確か語っていたと思うけど、このタイトルって、当時の2大RPG「ファイナル・ファンタジー」と「ドラゴン・クエスト」の間に「セーラー服」を挟んでみただけ。という、見事なまでに安易なネーミングだ(褒めてます、多分)。
平日の昼に映画を観るのは久し振り。
いやぁ、長生きはするものです。というほど、長く生きてるわけではないけど。
勿論、原作の全ての要素が表現されているわけではないが、商業作品として実際に完成させることを考えれば、今回の路線以上のアレンジは望みようがないのではないかと。未読の人でも原作のエッセンスが充分に楽しめる「娯楽抜粋版」。もっとも、高密度に圧縮してあるところを、頭の中で解凍出来るかどうかで、一つ一つのシーンの受け止め方 が違ってしまうのは仕方ないところかも。
その意味で、かつての、SF者と「スター・ウォーズ」の関係とよく似ているというのには、納得。私自身は「SW」には、そんなに熱中しなかったのだが、背景となる基礎教養を備えているかどうかで、作品世界の見え方自体が変わってしまう、というのは分かる。だから、この作品も、極論をすれば、ファンタジーの教養がない人には、単なる活劇にしか見えないような。
但し、映像メディアの性質上やむを得ないとは思うのだが、今回の映画は、あくまで出来事を現在進行形で語る形式(だから、「FF]っぽい)なのに対して、原作の方は本来、もはや半ば遺跡と化した過去との対比の中で、「歴史」あるいは「吟遊詩」として語っていく形式(むしろ、「ドラクエ」(少なくとも「ロト3部作」)が相似)なわけで、その辺の違いに、観終えてから、若干、寂しさを感じた。…まぁ、観ている最中は、無我夢中でしたが。
先日の課題、『狛犬とは何か』について書かれた本を探していて、見付けた本。
京都南部の狛犬約200体の悉皆調査を元に、時代と共に狛犬の姿がどう変わってきたかを考察している。世の中には、色々な人がいるものだ (著者は、元々中学教諭だった人らしい)。
こうした調査報告は、得てしてデータの羅列だけになりがちだけど、この本は、とぼけた味わいの文章の中に、客観的な考察と、狛犬の多様性に関する愛情が共存 していて、読んでいて非常に面白かった。
中でも特に面白いのは各論のディテール(例えば、狛犬の歯並び一つとっても、江戸時代は臼歯と犬歯の「雑食狛犬」が中心だが、犬歯の多い「肉食狛犬」が明治から増え始め、大正に主流となるものの、昭和になると「雑食狛犬」がまた盛り返してくる等)なのだが、総論部分から、狛犬の歴史(についての仮説)を大雑把に紹介しておくと。
インドのライオン像が東側のアジアに伝わり、シンハー、シーサー、獅子のようなライオン文化圏とでもいうものを形成した。その中で、中国の「獅子」像が日本に伝わる。獅子は仏典「獅子座」に由来する守護獣で、奈良時代までは獅子の一対だったが、平安前期、紫宸殿の壁画に狛犬と獅子を一対の絵が描かれたのが元で、獅子・狛犬の組み合わせが成立する。最初は宮中の守護として の厳めしい存在であったが、その後、社寺にも置かれるようになり、鎌倉時代の仏師(湛慶ら)によって親しみのある姿に変えられた。当時は建物の中、あるいは入り口に置かれ ていたが、日光東照宮への狛犬設置をきっかけに、江戸時代には、社寺の参道に置かれるのが通例となり、それに合わせて耐久性のある石像に変化した。
なお、角があるのが狛犬であり、無いのが獅子(と著者は定義する)であるが、今はむしろ、獅子・獅子の方が多く見掛けるとのこと。というのは、昭和になって画一的デザインの狛犬が全国的に広まっており、それが獅子・獅子の組み合わせなのだという。
たかが狛犬、されど狛犬。次回、神社に行った時はお参りする前に、狛犬をよく見てみなくては、と決心させられた本。
ところで、ナカニシヤ出版って聞いたことがあるような。住所を見ると、左京区吉田二本松町。…ああ、やはり。懐かしい。教科書以外に、こんな本まで出していたとは。
桜の木を切ったことを告白した子供時代のジョージ・ワシントンのように、嘘を付かず、何でも言うのが正しい、というわけでもないかと。…ワシントンの場合、話自体が、後生の人がでっちあげた嘘らしい ですが。クレタ人みたいな話だ。
一ヶ月近くの間、数ページずつだらだらと読んでいたので、やぁ、終わった、終わった、と何か投げ遣りな読後感になってしまったが、質量共に充実した作品だった。ただし、ムアコックということで、もっと不安定な世界(と心理)を期待していたら、全体には安定した構造物だったのが、思っていたのとちょっと違う、みたいな 。
「よく出来ている」けど、わざわざ読まなくても良いタイプの作品かも。単純に善悪が割り切れない描き方は、ムアコックらしくて好きですが 。
最寄り駅で、いつもの電車とは反対側のホームに、宇都宮行きの電車が何故か停車していた。
そうか、これに乗れば、世界のどこかにあるという、「餃子のくに」まで連れて行ってくれるんだ。と、乗り込もうか一瞬、迷うが、即、却下。 何時間掛かるか知れたものではない。そういえば、かの地には、餃子の女神像とやらが建っているそうだが、その睫毛がえらく長かったり、することは、まぁ、ないだろうな。
遠い昔、国立博物館で見た時は、薄暗いところにあって、何かはっきりしない絵だ、と思った記憶だけが残っていたけど、今回の展示では、鮮明に照らし出されていて、その前に立つと、まるで絵が輝いているよう。 一目見ただけで、その凄さが分かる作品。しかも、いつまでも立ち去り難い魅力があって、見ている人は皆、なかなか動こうとしなかった。 もっと空いていれば、昼休みに通っても良いのだけど。
そういえば、出光美術館大阪と同じく、休憩所での紅茶セルフサービスは、こちらでもありました。同経営なんだから、そりゃ、そうだ。
常設展みたいなものなので、新鮮味は確かにないけど、海外から来たら、長蛇の列になるラインナップなのに、館内は閑散。4枚のモネの所では、部屋の真ん中の椅子に座って、 1人でじっくり眺め ることが出来たくらい。量的には物足りないけど、だから、まぁ、良いかと。岡鹿之助「発電所」とか、何度見ても良い絵もそれなりに有るし。
…そういえば、久々に「だごん様の引出物」を見たような。いや、そういう名の絵では有りませんが。
内容が地味なので、大して混んじゃいないだろうと高を括っていたのに、それなのに。
行ってみたら、何ですか、入り口横の、横山大観展入場40分待ちという札は。しかも、松永耳庵コレクション展と同じ平成館の同じ階の隣で大観展もやっていて、大観を見終わったおばさん、おじさんの群れが、耳庵の方にぞろぞろ、途切れることなくなだれ込んでいる有様は。聞いてないよ、そんなの。
およそ、美術品をまともに見ることが出来る雰囲気ではなかったので、宮本武蔵の水墨画とか、絵画だけ、遠巻きに眺めて、10分くらいで出てきてしまった。まさか、横山大観を素晴らしいと思っている人間が今も沢山いる、と思ってもみなかったのが、今回の敗因 。
チラシで改めて見る限り、大観は確かに、明治時代の絵は巧い。大正も、とにかく力はあったとは思う。でも、昭和の、あの霊峰・富士の粗製濫造は何? 馬鹿じゃないの?と、誰も本人に言えなかったからとしか思えない。若い頃は日本画の革新を目指した画家だけど、歳取って駄目な権威になってしまった例。なのに、今も有り難がる人がこんなにいるとは…
仕方ないので、本館や東洋館を一通り歩いてみる。う〜ん、貴重なものが置いてあるのは分かるのだが、どうも初心者向きじゃなくて、敷居が高い。本館は床が固くて、歩いて疲れるので、更に腹が立つし。 ちなみに、東洋館の中の案内板には、ミイラの場所だけ追記してあった。ここの目玉って、ミイラなのか。科学博物館の南米のミイラとは違って、エジプトのミイラ。
個人的には、西太后の描いた絵(蓮の花)があったのに、ちょっと驚く。中国の人は、(どんな悪役でも)統治者なら書画は嗜んでいるんだよな。文人の国だから。日本では、代議士(例えば、ムネオ)が絵を描く姿などとても想像出来ないけど。
インデックスの内、懸案の一つだったNovelを再作成。 これで、インデックスの更新は、一応、終了。
帰りに、多少大きな本屋へ寄って、「ソコツネ・ポルカ」「黄色い本」他、6,7冊、Comicsを補充。一度に持てる分としては、こんなものでしょ。他に、狛犬の本を買ったり、時かけモノの本を買ったりと。
最近、岩波書店が、文芸書の復刻版を熱心に出している。好評なのか、作品数を増やしていて、これも新刊の棚に並んでいた。
この「不如帰」は、明治時代のベストセラーの一冊。通俗メロドラマという点では、尾崎紅葉の「金色夜叉」と良い勝負な筈なのだが、後者が、今も名前くらいは誰でも知っているのに対し、こちらは、作品自体、既に忘れ去られつつある。もっとも、 作品名だけは、住民の誰もが知っている街が、日本中に二つだけある。一つが私が住んでいる街で、もう一つが温泉町の伊香保。どちらも小説の舞台になっているからで、その理由だけで互いに姉妹都市になっている位、当地では有名な作品 。
ただし、その知名度は、私のいる街では、海岸に「不如帰の碑」が建っていて、駅近くの和菓子屋で「浪子まんじゅう」(「浪子」とはヒロインの名前である)と「浪子最中」を売っているのを誰でも知っている、以上のものではない。作品自体を、今さら読む人などそうそういるわけがない。自慢じゃないが、私も読んだことがない。
しかし、せっかくの機会なので、パラパラと眺めてみる。冒頭に、百刷りに当たっての著者の言葉が載っている。どうやら、その時の単行本の復刻版らしい。とりあえず、その言葉を読んでみると、大体、次のような内容だった。
「今回の機会に、久々に自分で読み返してみた。すると、昔の作品だけあって、ご都合主義ばかりの、思った以上に酷い文章だった。ちょっとは直したいと思ったのだが、しかし面倒なので止めた」って、おい。酷いのは、あんたのその言葉だっ。こんな文章をいきなり読まされる読者って一体… 当時は、それでも売れたのかしら?
一応、読んでおこうかと一瞬、思い掛けたが、8000円という値段を見て、躊躇無く、棚に戻す。どう見たって、そんな価値は無いし。8000円くれるのなら、読むけどなぁ。
ちなみに、この本でルビを見る今日の今日まで、「ほととぎす」だと思い込んでいたけど、「ふじょき」が正しいらしい。
今年は、去年以上に桜が咲くのが早いらしいですねえ。…今年は、どこへ行こう。
今回、東京タワーの展望台が新築以来、初めて改装された、らしい。そういえば、東京タワーという所に、私はまだ行ったことがなかった。都心近県育ちという中途半端な距離間 のせいで、わざわざ行くような機会が無かったのだ。
だから、現実の、というより、東宝の怪獣映画のような「フィクションとしての東京タワー」の方が、むしろ「リアル」な存在だったのは確かだが、それもまた、私よりやや年上の世代の感覚でしかないような。細野不二彦の「東京探偵団」の最終話が、東京タワーを舞台にしていたように、その世代のお約束としての、東京の象徴。だから、現実でも、虚構でも、縁が遠かったという方が、実際には正しいのかも。
とはいえ、現実の東京タワーは、今は割と身近。勤め先からの帰り道の途中、ちょうど垂直方向の道の先に、よく見えるのだ。ということは、その道を行けば、恐らくタワーまで辿り着く筈。一度、帰りに、歩いて 行ってみよう、と前から思ってはいるのだが、なかなかその暇と決心が付かないまま。しかし、せっかくの機会でもあるので、いつか、実際に上ってみるつもり。…努力と根性が書かれたお土産を買うかは別にして。
ところで、私にとって、東京タワーが出てくる中で一番印象的な作品が何かといえば、レイアー…ごほごほっ、「わたしは真吾」でしょうか、やはり。
夜中の街を散歩していると、どこからか、沈丁花の香りが強く漂ってくる、そんな季節。
インデックスの内、Comicsも更新。といっても、最近、全然書いていない分野だけど。もはや、漫画系サイトとはとても呼べない… Comicsについては、自分が書かなくても、きちんと文章を書いてくれる人が他に沢山いるし、という気がしてしまうのが大きいのかも。たーりきほんがーん、ホイホイホイホイ と。今後は、もう少し何とかしたいとは思いますが。
熊本の百貨店の食品売り場に有ったので買ってきたけど、和歌山の特産品。熊本県には柑橘類が溢れているのに、あえて和歌山のものを食べる人がいるのは不思議。あるいは、それくらい柑橘類が好きな県民なのか。江戸時代、紀州の殿様に、三方に載せて献上したという 、当時は門外不出の珍種だったらしい。今は、こうして1個100円くらいで手に入る。
見た目は、ちょうどデコポンのように、頭が盛り上がっている。色はもっと黄色。味は、あっさりと。江戸時代では、これでも甘かったのかも。種が多くて、食べるところがやや少ないけど、味に嫌みはないので、好感は持てる果実。
晩白柚と書いて、「ばんぺいゆ」と読む。今回、熊本に出張した最大の目的と言っても過言ではない(←違います)。まさに、柑橘類の王様。大きさも、お値段も。これも 百貨店の食品売り場、ただし贈答品用のコーナーで購入。2500円と800円が有ったので、理由を聞くと、賞味期限の違いだけ、とのことに付き、既に食べ頃の800円を買ったのは言うまでもない。
とはいえ、せっかくなので、2日ほど食卓にそのまま置いておく。巨大な果実は、そこに有るだけで、心を豊かにしてくれるのです。で、いよいよ試食。皮はやっぱり厚いが、半径が大きいので、 中身は充分にある。
なるほど、すごく美味しいです、これ。苦くないし、「甘い」というより、「旨い」と感じる味。確かに、贈答品に相応しい美味さ。
と満足していたのだが。先程、近所のスーパーに行ったら、晩白柚が置かれていた。値段も1000円弱。重い思いをして持ってきた私の苦労って、一体…
今朝の家族との会話。「千葉まで行くって、何の?」「雪村」「鼠の絵を描いた…」「それは、雪舟」「?」「ゆきむら、と書く」「ああ(納得の表情)」「…あの、真田幸村じゃないよ?」
というわけで、一般には知名度の低い雪村。かく言う私にも、字面から雪舟のパチモンのようなイメージが。「コソビニ」的存在かと。実は、全然違いました。
端的に言えば、とにかく「面白い」水墨画。そして、その面白さについて、監修者の山下裕二が熱意を込めて説いた文章が、かなり多くの絵に付けられているのが、非常にユニーク。主催者の顔が見える展覧会。こういう形の展覧会がもっともっと有って良いと思う。
例えば、こういった文章が、絵の横に。
(蝦蟇蛙を連れた仙人)『それにしても、蝦蟇仙人の嬉しそうな表情はどうだ。「いいぞ、いいぞ、蝦蟇ちゃん!」と言いながら踊り出している。』
(孔子と弟子の人物像)『人物の表情が、ひとりずつ微妙に描き分けてある。「ありゃ」「えっ」「なるほど」「ほんまかいな」などなど……』
会場には無かったが、光琳の紅白梅図に影響を与えたとしか思えない雪村の絵があるのを図譜で知ったのも驚き。その絵は、左側にV字の白梅、右側に紅梅。そして真ん中には何と、あくびをする布袋の姿。体のラインが確かにあの川のカーブとそっくりだ。あれって、布袋の太った腹だったのか…
しかし、今日一番ショックを受けたのは、図譜を開いて、次の巡回場所を見た時。4月からは、渋谷の松濤美術館で開催。それなら、わざわざ千葉まで見に来ることなんか、全然無かったんじゃ… まぁ、良いか。展示替えで見てないのも沢山あるし、もう一度、見に行くことにしても。
佐倉といえば、私にとっては、もはや地の果て。なのに、行ってみたら、やけに混んでいた。駐車場も一杯。やっぱり、日本人はモネが好きなんだな、と改めて実感。多分、ルノワールの次くらいに好きなのでは?
はっ!「ほんまもん」のヒロインの悩みを一挙解決する名案が閃いた。そう、モネの絵を1枚置くのだ。そうすれば、そこが熊野だろうと絶対、どこからかお客がやってくる筈。
誰もが知っているモネの睡蓮。しかし、「綺麗だね」以上のレベルで見るには、非常に難しい作品群なのでは? 「オランジュリーの睡蓮の部屋を完成版として、残りはその下書きと見る 」のを止める、そこまでは良い。しかし、ではその前提で、一体何を見れば良いのか。例えば、3枚睡蓮の絵が有ったとして、優劣を付けることは果たして可能なのか。ほとんど途方に暮れる、凶暴な画面という方が、私にはぴったり来る。いわば、ソラリスの海を目にしたような難解さ。
そういう絵を満足げに見て(ショップで、ポスターやハンカチを買って)帰ることが出来る人達は、本当に、同じ絵を見ているのだろうか?
郵便局に行ったついでに、通常貯金の口座を新約してみる。勿論、4月のペイオフ対策の一環である。というわけでは別になくて。何かの役に立つこともあるかも、という位。
その際、通帳の裏表紙に、無造作に印鑑を求められたのには驚く。盗難通帳と偽造印鑑による引き出し事件が相次いだ結果、通帳には印影を載せないのが、都銀では既に主流となっている時代に、余りにも不用心過ぎるのでは? しかも、印影の上には、カバーも何もなし。まさに偽造して下さいといわんばかり。
でも、通帳から印影を無くすには、オンラインの印鑑照合システムを全店に導入しないといけないので、郵便局では無理なのか。その代わり、盗難時の損害保険「ゆうちょくらぶ」に入れ、とそ ーゆうこと? 何にせよ、住所も印字されているし、この通帳は持ち歩かない方が良さそう。ところで、「ゆうちょくらぶ」って、「たまごくらぶ」「ひよこくらぶ」みたい。
リニューアルオープン記念。ここに入るのは随分と久しぶり。展示品には見覚えのあるものも多くて、同窓会的な懐かしさも。4階分の全フロアを使って、300点以上展示しているのは良いけど、1点1点を深く見るのは凡そ不可能で、全体としては 却って、印象が薄くなってしまったような。
どれか一つといえば、菱田春草の「落葉」。個人的には、これだけで良いです。
苦笑したのは、明治時代の洋画で既に、シャヴァンヌの漁夫を日本の漁師に置き換えただけの、パクリの絵があったこと。他にも、デ・キリコの人形を登場させた絵画とか、日本人の人まねこざるの歴史が見え隠れしていた。勿論、オリジナル絶対主義も正しくはないけど、近代日本美術というもの自体が、いかに薄っぺらいものでしかなかったかは、否定出来ないところ。ここに来る度に、そういう過去と対面させられるわけだが、いくら恥ずかしくても、直視する必要は確かにある。そのための美術館と言える のかも。