空の蒼さを 見つめていると
生産終了ということで、買うべきか悩んでいた「ブレードランナー」のDVDを結局、買ってしまう。実際に見直すことはもう無い気がするけど… もっと他に買うべき物があるだろう、とやや自責の念。前から買おうと思っていた「マルホランド・ドライブ」を探し出し、そのついでに買ったことにしておく。
あとは本屋で「森山大輔短編集」とか、とり・みき/田北鑑生「ラスト・ブックマン」とか、目に付いた物をいくつか。それとガイドブック。
そういえば、次回の旅行の方は、アイーダ&シナイ山という条件付けだと、催行が殆ど期待出来ないことが判明。条件設定の根本的な再検討を迫られている。少なくともシナイ山抜きのエジプトに行くつもりは無いので、トルコへシフトするしかないかも。アイーダ観劇の方向で結構、盛り上がっていただけに、まずはテンションの立て直しから始めないと(^^;; トルコはネムルート山を含む全般的なコースはやはり催行が厳しいので、東部を思い切って諦めると、逆に似たようなツアーが多すぎて絞り込めない、という問題が。
ようやく、この前の旅行の写真整理が終わる。残した分で420枚ほど。昨年同様、contaxT3とPENTAX Optio330を持って行ったのだが、 今回は撮ったものに関して、35mmをフジカラーCDにも焼いてみたり、逆にデジカメ分もプリントしてみたりと色々、試行錯誤してみた。
デジカメも300万画素で撮っているだけあって、解像度的にはフィルムに遜色ない出来。ただし、比較すると、色の自然な再現性という点では今一つだった。その辺は調整は利くのだろうけど、個人的な信頼感としては、やはりフィルムの方が上。構図も慣れているからか、T3で撮った方がきちんと取れているし。…次回からデジカメだけにしようかと思っていたのだけど、まだ、そういうわけにもいかないような。
ところで、フジカラーCDを見ていて思ったのは、昔の写真もこの際、CDに焼いちゃおうということ。とはいえ、学生時代の京都の紅葉・桜、あるいは当時の旅行のネガは、写真を入れてある箱から逆算すると約2400 コマ。店に頼んでいては、とてつもなく費用が掛かる。となれば、自分で取り込むしかないかと。それだけ処理するなら、フィルムスキャナを買った方が得策か。…却って時代から逆行しつつあるような気がするけど、ここで保存しておかないと、あとでやるのは面倒になる一方だし。
フィルムスキャナは、ニコン、キャノン、ミノルタの3社だけがしのぎを削っている狭い市場のようだけど、どれを買うのが正解なんだろう。
関西まで出張。まさか、夏の大阪で雨に降られるとは思いませんでした。昨日はともかく、今日も降るとは…
「みんぱく」には一度行ってみたいと前から思っていたので。「太陽の塔」を実際に見たことが無いのも、気になっていたし。
極めて閑散とした場内を、2時間掛けて一通り回る。ただし、こういうところは1回見たからといって、どうなるものでもないような。自分の中にテーマとか問題意識があれば得るものも大きいんでしょうけど。勿論、仮面 や衣服といったものの多様性を楽しむこと自体は可能なのだけど、民俗学あるいは文化人類学に内在する根本的な問題点が、曖昧なまま観客に押し付けられていて、見ていてどうも居心地が悪いのも事実。
つまり、こうして世界各地の民族の生活を記録し観察しているのが、無色透明な「客観的な主体」であるかのような虚構。暮らしぶりをリアルに再現してみせればみせるほど(近付くと急に水車が回り出す仕掛けは、心臓に悪いので止めて欲しいです)、ネクロポリス的な荒涼とした空気が館内に広がっていくことへの無感覚。
本来の用途を失って、死んだ状態で展示されている品々の姿は痛々しい。学問とは本来そういうものだといわれれば、そうかもしれないが。
さて、表題の展示は、特別展示館で無料公開中の「田中千代コレクション」。今後の人生において、世界の民族服をアレンジしたキャラクターのアニメを企画するとか、戦前のカフェーを舞台に女給との恋愛を描くゲームを考えるとかいった、こういった知識が必要になることがいつ起きるか分からないし(普通、起きません)。
必要性はともかく、それなりに興味深い内容。戦時中の簡素な服装を呼び掛ける女性雑誌の特集記事の展示があったりと。
しかし、問題はその後、発生。見ている内に降り出した雨は強くなる一方で、止む様子がない。やむを得ず、雨の中、駅まで10分歩く羽目に。折り畳み傘なので足はずぶ濡れ。しかも、惨めな思いでようやく駅までたどり着くと、雨はいきなり止んでしまうし。…私のこのやり切れない思いは、一体どこへぶつければ(^^;;
とりあえず、「みんぱく」は雨の日に行くのはお薦め出来ない、ということで。
このところ、小説を読む習慣が途絶えてしまっていたので、最近のメフィスト賞系の作家辺りからリハビリ開始。……今、私が読みたいのは、日本語の文章だったことに気が付く。内容以前に、余裕がない状態で読んでいると、胃が荒れるばかり(^^;; 暫くは、川上弘美とか、読んでいて潤う小説を読む方が精神上良いような気がしてきた。
日中国交正常化三十周年記念の一環とかで、歴代王朝が所有してきた貴重な工芸品からその一部を展示。勿論、氷山の一欠片というか、ごくごく一部でしかないのだが、今回 の170点だけでもその豪勢さを窺い知ることは可能。今回、中でも目玉と言えるのは、ポスター等でも使われている孝端皇后の鳳冠。優美な装飾、特に翡翠の羽で全面、青く飾り立てた様は華麗の一言。…一体、何十羽の翡翠を殺せば、これだけの装飾が可能だったのかと考えると恐ろしいものが有りますが。
陶磁器も様々な時代、様々な様式、特に青磁などは流石と思わせる優品を展示していて、それだけでも目の保養。
もっとも陶磁器は無駄のない美しさということで、日本人の私にも分かる(気がする)のだけど、宮廷の美術センスには、正直、付いていけないところが。細部は確かに洗練されているとは思うのだが、隅々までそう、ごちゃごちゃと装飾しないでも、という気がしてしまうのは、私が所詮、贅沢とか富とかとは縁がないから? 皇帝だと着る物、座る物、全てが龍の姿で覆われているのも、私だったらうんざりしてしまう気が。
その美には感嘆するものの、同時に感じるのは、根本的に理解出来ない文化への憧れと恐れ。西欧人が見た紫禁城、と言える「ゴーメンガースト」みたいに。
暑いので、だらだらと。部屋に寝っ転がって、古賀亮一「忠犬ディディー」や小田扉「そっと好かれる」を読む休日。「せめて単3ならな」という台詞がツボにはまる。
ちなみに、ベランダとバルコニーの違いは、主に屋根の有無という話。だから、劇場内の2階桟敷はバルコニーとは言っても、ベランダとは言わないのです。屋根が無いから。
次の旅行についてなのだが、結局、エジプトかトルコということで、鋭意検討中。
土地の多彩さや、文化的な豊かさ、即ち、観光地としての魅力では多分、トルコの方が遙かに楽しそうな気が。食べ物も美味しそうだし。一方、エジプト料理なんか鳩料理だけ(偏見)。大体、エジプトは全てにおいて水気が足りない気がするわけで、単純に比較すれば、目指すはトルコの方かと。
しかし、シナイ山登頂という言葉にはそれ以上に惹かれるものが。モーセが十戒を神から得たというあの山に、夜中に登って、山頂で日の出を待つというコースがあるらしいのだ。
実は今まで隠していたのだが(ということもないけど)、私の精神的な深層には、キリスト教的なものが結構ある。クリスチャンではないのだけど。幼少期の教育(刷り込み)というのは、やはり大きいのです。そんなわけで、シナイ山の御来光が素晴らしいとか聞くと、かなり心ときめかせてしまう私。それは是非、体験してみたいなぁ。……あれ?だけど「御来光」って、キリスト教的にはどうなんだろう?太陽 崇拝って、それこそ十戒が禁じている偶像崇拝と似たり寄ったり、な気がしないでもないのだが。
それと、期間限定だけど、10月10日頃に行けば、ギザで3年振りに行われる野外舞台での「アイーダ」を見ることも出来るらしい。…さすがに、お値段もかなり張るけど。
というわけで、この二つを共に体験出来るならエジプトしか無いような気がしてきた。一つ問題なのは、私はピラミッドとかミイラには余り興味がない、ということで(じゃあ、駄目じゃん)。
トルコにする場合、(ノアの箱船伝説の)アララット山の近辺は10月には寒くてもう行けないようなので、せめて石像の頭がごろごろ転がっているネムルート山には行きたいのだが、東部と西部を一緒に回るのはやや無理がある様子 。なかなか適当なコースが見付からない。
終了間近の「マグリット展」を見ようと、Bunkamuraの夜間入場に行ったら、窓口に行列が出来ていた。
ここの夜間というと、10年前は「モネ展」ですらガラガラ、だったのだけど… その後、夜間も混雑時間帯に変わったのか、単に終了間近だけ混むのか、それとも実は、渋谷の若者の間では今、マグリットが 大人気だったりするのか(多分、それは違う)。とにかく、並んでまで見る気はしないので、入るのは止める。いや、並ぶのは別に良いのだけど。中も混んでいる、ということだから 。
意気消沈して帰る途中、Bunkamuraの真向かいが、いつの間にか「でじこ屋」になっているのを知って、更に憂鬱に。
出向元から、連絡文書と共に、特別休暇は年度内に取っておいて下さいね、というメモ書きが送られてきた。出向元の会社では、入社10年目とかの節目に、リフレッシュを目的に?一週間の休暇取得が制度化されていて、実は私は、今年がそうなのだが、出向中ではあるし、どうせ帳消しになっているのだろう、と思い込んでいたのだ。しかし一応、制度は制度、ということらしい。とはいえ、元の会社に戻ってしまえば、取る暇など無くなってしまうのが、明白。取るなら、今しか 。
それでは遠慮なく、10月くらいにでも一週間休みを入れさせて貰おうかと。となると、やはりもう一度旅行に行くしかないでしょ。来年からは長期の旅行になんか行けないのだから。ええと、行く先はどうしよう。今度は完全にフロックみたいなものだから、物見遊山的なインパクトで考えると、地中海方面? エジプトかトルコかギリシアのどこか、といった具合で。あるいは、いっそオーロラを北の方に見に行くとか。それとも、グリーンゲイブルズの紅葉を見に行くとか←少女趣味。う〜ん、あと半月ぐらいで決めないといけないのか…
どうでも良いけど、それを考えるより前に、この前の旅行記を先に書くべきでは?>私
吹いているのは、秋風?
「SF Japan」SFアニメ特集、というかGAINAX特集号。とりあえず、小説以外の箇所は読む。こういう特集も有りだとは思うけど、隣接分野の特集、しかも後追いを今さらしてもなぁ。
著者の、異常な物理法則下における密室ミステリの一冊としては、ごく普通という感想。人間関係がドロドロなのもいつも通り。要するに期待値というか予想値を余り裏切ってはくれなかったのだが、それは良いとして。読んでいて困ったことが一つ。主人公の親友が登場するのだが、その名がサトルなのだ。
サトル。この文字を見て、火浦功のみのりちゃんシリーズに出てくる、主人公のお調子者の後輩、しかもいしかわじゅんのイラストのそれ、が反射的に思い浮かんでしまうのは私だけ? もっとも、こちらのサトルも性格にやや近いものがあるように感じたのだが、それにしても、あのサトルの絵では、中盤以降の殺伐たる雰囲気が台無し 。大体、登場人物の中で何故、サトルだけ片仮名表記?
茨城で熊谷守一の展覧会が開催中。というのは、先月、既に知ってはいたのだけど、幾らなんでも水戸は遠過ぎ(旅費が高過ぎ)、と諦め掛けていた。私のところからだと、水戸まで行くなんて、すごい「遠出」のイメージなのだ。言ってみれば、「ミトの大冒険」。←そのミトは違います
しかし、高速バスという手段を思い付いて調べると、東京駅の駅前から水戸まで2時間、運賃も往復割引で3千円。なんだ、それなら、ということで、思い切って出掛けることにした。
実際のところ、大した点数は無いのでは、と余り期待していなかったのだけど、実は100点超の本格的な展覧会だった。これだけまとまった数の展示が行われるのは恐らく91年の展覧会以来。その時の4会場に関東の美術館は無かったので、関東では、没年の翌年、78年に開催された展覧会以来の規模になるのかも。
というわけで、ある意味、著名な画家ではあるけれど、実際に絵をまとめて見たことのある若い人というのは余りいないのでは? かく言う私も、代表作を実際に見たことなど1回も無かった(上の文章も図録に載っている過去の展覧会の記録からの想像)。つまり、今回は、熊谷守一を関東圏で見る、絶好のチャーンスだと思うのだが、世間では全然話題になっていない気がするのは何故? 大体、共催・NHK水戸放送局なのに、何でNHKはもっと大きく宣伝しないわけ?
というのも、この展覧会は、今年、私が薦めることの出来る展覧会の中で、迷うことなく一番お薦め、だから。つまり、言わせて貰えるなら(関東の人に、だけど)、絵画が好きなら、この夏、これを見に行かないでどうする、という位。
それは、例えばダ・ヴィンチのように、見逃せない傑作だから、という意味合いではなくて。絵画というものが存在すること、そしてそれを見ることの楽しさ、に改めて気付かせてくれるから。会場を歩きながら、くつくつと笑いが思わずこみ上げてくる、そんな展覧会。
勿論、この画家を語る上で外すことの出来ない、長男の死と長女の死をきっかけに描かれた有名な2枚の絵も置かれている。特に長男の絵は、日本の近代絵画史上最も痛切なエピソード(戦前の当時、絵を精神的に全く描けなかった画家 が、3歳の長男を医者に診せる金もなく、肺炎で死なせてしまい、彼のことをこの世に残すものがないと、その死顔を画面に叩き付けるような筆で描き始めるが、30分経ったところで、いつの間にか「いい絵」を描こうとしている自分に気が付いて愕然とし、その絵を描くのを止めてしまう)で知られる、胸を突くような悲しさに満ちた作品。
しかし、そういう死を超えてきただけに一層、後年の絵の平明さは、見る者に力を与えてくれる。単純極まりないながら的確な画面構成と色遣いへの、驚きと納得と喜び。こういう「自由」な描き方があったのかと。そんなわけで、熊谷守一の絵は、本質的な意味で「教育的」な絵画。だから、今回、美術館が県内の小学校で「クマガイさん」の絵を元にした創作授業を行っているのは、非常に頷ける。私もこういう小学校で学びたかった、とつくづく思う。
館内での映画会の今月の題目は、熊谷と通ずるものがある、という理由で「ミツバチのささやき」。やはり良い美術館だ。選んだ人とは楽しく話が出来そうな気がする。
展覧会を見た後、美術館の横に復元された中村彝のアトリエで、その生涯を紹介したビデオを見る。中村彝といえば37歳で亡くなった、近代絵画史に輝く夭折の天才。97歳で大往生した熊谷守一とは、画風といい、生涯といい、まさに対照的。幾ら名を残しても、天才というのは報われないかも。熊谷守一はあえていえば、天然? まぁ、どちらにも縁のない凡人は、その間をだらだらと生きていく他ないのだけど。でも、こうやって、彼らの絵を楽しむことは出来るわけで、それはそれで悪くはないかと。
ちなみに、この展覧会の「へたも絵のうち」というのは言うまでもなく、同名の自伝から取られたタイトル。
今日は確か、京の人々が連日の暑さについにキレてしまい、周囲の山々に火を付けて回る、という日でしたね。
「ガラスに描く」ことをテーマに、古来からのガラス作品を特集した、サントリー美術館らしい展覧会。全然知識のない分野だけど、勉強になるという意味で、こういうのも面白いです。指摘されていることの一つとしては、西欧の、装飾に満ちたガラス作品とは違い、日本では、ガラス自身の透明感が何より大事にされたこと。不透明なガラスは評価が高くなかったらしい。なるほど、それは今の日本人にも、多分続いているような。クリスタルガラスの方が、ゴテゴテの彩色で透明感の無いガラスより、良い物に感じられるという感覚。
それにしても、高価なガラス作品は割りそうで、庶民としてはどうも苦手。こういう所ではガラスケースの中に入っているからその心配はないけど、と思ったところで、ガラスをガラス越しに見る、という逆説に気が付く。見ていることさえ意識しない、それこそ「透明なガラス」そのものではないか! こうして人はデュシャンのような発見に至るのかも。
もっとも、最近のケースはガラス板ではなくて、アクリル板かもしれない。
現象としての「廃墟ブーム」には、余り関心は無いのだけど。この中の、廃墟写真家・丸田祥三氏のインタビューの内容には、割と共感を覚えるものがあった。
もっとも、高度経済成長という、世界が急速に変貌を遂げていった時代に育った記憶を持ち、時代に取り残された「廃墟」を「原罪」の象徴として捉えている氏と、その後、新しく造成された住宅地に移り住み、その住宅地の成り立ち自体に「原罪」を感じて育ってきた私とでは、数年ながら、世代が一つ違うわけで、内容に全く同意見というわけではないのだけど、廃墟に拘ってきた人の言葉としては良く分かる気が。
橋口たかし「焼きたて!!ジャぱん」3巻。勢いの良さは続いていて、安心。ところで、この巻では、梓川月乃が、姉・雪乃、妹・水乃との(事情有りの)三人姉妹であると判明するのだけど、雪、月 なら、花と続くのが正しいネーミングのあり方というものでは? さもなくば、桜とか。……まぁ、確かに、それでは語呂が悪過ぎる気がしないでもないけど 。
近所だったら一度見に行きたいのが、天保山のサントリーミュージアムでやっているらしい「THE ドラえもん展」。
現在のアーティスト30人が「ドラえもん」の世界をそれぞれの分野で表現するというもの。実際はそれほど面白くはないかもしれないけど、広告を見る限り、とりあえず、奈良美智のドラミちゃんだけでもOK、という感じなので。こちらでは、既に開催した後なんでしょうか? あるいは大阪のみ?
旅行前に買ってはいたのだけど、ようやく3話を通して観たところ。こうやってDVDという形で観れば、確かに、3話が一番「良く出来ている」のは歴然としている。ただし、劇場では2話の方が勢いがあって面白かったわけで、この3Dパタパタアニメという形式は、やはり劇場アニメより、ビデオ/DVDというメディアでこそ相応しい表現なのでは?
見方としては、真剣に視聴するというより、コメンタリー音声での、神山健治、西尾鉄也、千葉繁の解説、というか内輪話を聞き流しながら、適当に眺めるのが良い感じ。
戻ってきました。
こちらはその間、相変わらずひどく暑かったんですって? 向こうでは概ね、暑さとは無縁の日々を過ごしたきたので、それだけで行った甲斐はあったかも。旅行記等はまた後日。ただし、どう書くかは未定。昨年よりは簡単に済ませたい、とだけは思っているのですが。
それでは、明日から10日間ほど、涼みに行って参ります。
何気なくカバーを捲ったので、少し驚いた。「暗黒系」?
「ザ・スニーカー」に最初の二編が登場した時から、単行本になるのを心待ちにしていた連作短編集。
最近の「暗黒系」な乙一の例に漏れず、異常な殺人者による猟奇的な事件が次々に登場するが、読み終わってみると、むしろ爽やかな印象が残る。というのもいつも通り。ただ、今回は、今までのような精神的な動揺は余り感じられない。有る意味、これまでで一番、エンターテインメントに徹した小説のような。少なくとも作者はそう考えているに違いない。
興味深いのは、書かれた時期から言って当然なのだが、あの傑作「seven rooms」での姉というキャラクターの位置付けと、この作品の世界観が非常に似通っていること。だからといって、乙一作品は「お姉ちゃん小説」なんだ、と短絡的に要約するつもりはないが(そうなのかもしれないが)、「姉」的な存在が重要な意味を占めているのは確か 。
機会が有れば、ぜひ続巻も書いて欲しい作品。というか、この二人については、まだ書くべき物語があるような気がする。
来週不在の間、録画しておくべき番組をチェックしていて、「乙一」の文字が目に留まった。「週刊ブックレビュー」の8月4日のゲストらしい。特集「乙一〜小説のススメ」というコーナーで、自作「GOTH」を中心に語るとのこと。こ、これは、もう見る(録る)しか。