空の蒼さを 見つめていると
工芸館の動物特集も見るつもりだったけど、日中の暑さを避けて辿り着いたら既に4時半前。工芸館どころではなく、加山又造の部屋位しか見る暇が無かった。
昨年、作者から寄贈を受けた作品を中心に14作品を展示。決して数は多くないけれど、代表作もあって「見た」気にはなる。寄贈作品の中で、黒白の裸婦はさすがに見飽きた感があるので、一番印象に残るのは「一九八四・東京」。皇居の庭園の方から高層ビル街を捉えた雪の日の絵。傑作かどうかは別にして、80年代になってこういう作品を描いていたところがワクワクさせる。
ただし、最後に置かれた初期の代表作「冬」の素晴らしさが、何と言っても他を圧倒している。ブリューゲルで狼の絵、といえば分かるあれだが、無人の冬山、カラスの群れ、飢えた狼、と希望のない要素だけで描きながら、視線の動きで奥行きを感じさせ、文字通り「見通しを良くする」心地良さをもたらす画面構成は非凡。才能に溢れた若い画家にしか描けない世界。実際に直接見たのは初めてだったので、これだけでも見に行ったかいはあった 。
近代美術館の次の企画展は「琳派 RIMPA展」。
長らく公式サイトが風神・雷神だけだったので、今さら目玉がそれか、と余り期待していなかったのだけど、チラシを眺めてみると、かなり気合いが入っていて、期待出来る様子。「琳派」とは近代の産物(美意識)である、という切り口から再考するのがこの展覧会の趣旨らしい。
改めて、公式サイトを見ると、ようやく中身が出来ていた。近代の美意識としての琳派という上記の趣旨から、近代日本画家や西洋の画家の作品を多く取り上げているのが特色。果たして展示替えがあるけど、基本的には、前期・後期の2回行けば大丈夫、なのかな?
Comics。小田扉「団地ともお」2巻。いつもながら楽しい。ところで、地上波デジタル、ってこれ現代の話だったのか!(驚愕)。絶対、十数年は昔の話だと思っていたよ。
今日は、地元の花火大会の日。終了直前に、帰宅。部屋の窓から、最後の5分だけ見る。まぁ、僅かでも夏を満喫した気分に。
夏と言えば、翌月曜は有給を取ったので、この週末は一応、3連休ということに。ちなみに、今回の夏休みはそれだけ(^^;; とはいえ、今週は体調が何だか低調で、特に鼻が荒れていて痛い位。そんな状態のためか、台風のニュースをぼーっと眺めている内に、意識を失う。気が付くと、既に0時を過ぎている。
わっ、BS2で0時から放送する、2003年収録の新国立劇場「ジークフリート」は必ず録画しておこうと思っていたのに、がっくり… やむを得ず、途中から録るが、最初が欠けているといきなり見る気を無くしてしまう。4時間半もあるだけに。私は所詮、ワーグナーとは縁がない、ということなのかも…
文化庁の平成15年度「国語に関する世論調査」。
こういう調査はともすれば、日本語の乱れを嘆く、という話になりがちだけど、個人的には、言葉の意味が何故変わっていったかという方に興味が有る。例えば「姑息」は意味自体のずれで、一時的な→一時しのぎの→その場限りの→卑怯な、と転じたと思われるのに対し、「憮然」はむしろ、言葉の意味が失せて、「ぶぜん」という発音から「ぶすっとした様子」という風に変わったのでは無いか、とか(後者は私の単なる思い付きだけど)。
また、辞書(日本国語大辞典)を引いてみると、いわゆる誤用表現も結構、大作家が使っていることも分かる。例えば、「押しも押されぬ」は織田作之助「夫婦善哉」、「的を得る」は高橋和己「白く塗りたる墓」に文例が有るらしい。何の言葉かは思い出せないが、以前、割と有名な誤用表現を引いてみたら、森鴎外の文例が挙げられていた時は、ある意味、感動した。鴎外が使っているのなら、それを誤用とは呼べる人など、いないのではないか。そんなわけで、得意げになって誤用、誤用とお上の捕り物みたいな調子で余り言い立てるのもどうかと思う。
でも、誤用にしても納得出来る範囲は自ずとある気がするわけで、「取り付く暇もない」という人にとって、人の「暇」は取り付くことが出来るモノなのか、あんたは幽霊か何かか、と言いたくなる。
何だかんだ言ったものの、「鏡」は、タルコフスキーの中で最も手元に置いておきたい作品なので、結局、「ロシア映画DVDコレクション鏡〔デジタル完全修復版〕」を買ってしまった私。
とりあえず、特典映像にも字幕は付いていたので一安心。それから、本編の映像自体は、確かに綺麗にはなっている様子。ただし、字幕の位置が結構高くて、せっかくの映像を邪魔しているのが、何とも鬱陶しい。
2回目からは字幕をoffにして、と思ったが、メニュー画面からは字幕の言語を選択出来てもoffには出来ない不親切設計。ちなみに、字幕は日本語の他にも、英・仏・独・露、果ては、アラビア語・ヘブライ語までの計13カ国語から選択出来るんですけど(^^;; プレイヤーの設定でoffにするしか無いのか。
あと、この修復を行ったのはロシア映画評議会<RUSICO>という組織らしく、今回、5.1chのサラウンド音声にしていて、冒頭の虫の声や風の音も、確かにサラウンドになっているので驚いたが、これってタルコフスキー本人の与り知らぬ「修復」だよなぁ。タルコフスキーが知ったら、自分の演出でも無い5.1chサラウンドなんて絶対、許さなかったと思うのだけど…
ともあれ、言語障害の少年が語り出す最初のイメージ、若い母が木の柵に腰掛けているところに道に迷った男が訪ねてくる(のを赤ん坊の自分が眺めている)シーンの最後、去っていく男がこちらを振り返ると同時に、奥から風の気配がして、次第に勢いを増して、どっと吹いてくる有名な場面。そこまでの十分弱を見ただけで、満足してしまう私。
もしかしたら、今後も、ここまでを再生するだけで、最後まで見ることはないかも。それもまた「鏡」という映画に相応しい振る舞いという気もするし。
Comics。むらかわみちお「虚数霊」(幻冬舎 バーズコミックス)。連載時に余り評判にならなかったので、懸念していたが、思ったより、普通のエンターテインメントで、安心。
富士山大爆発後、酸性雨で都心だけが廃墟になったといった突っ込みどころ満載の設定はともかく、モノに遺された人の「想い」の深さを測ることが出来るという「キルリアン感知器」は、いかにも、むらかわみちおらしいアイテムだと思う。「Ringlet」ほど、隅々まで神経が行き届いた奇跡的な美しさは無いけど、とりあえず、 続巻も楽しみにしています。
既に多くの方が書いていますけど、天沢退二郎「光車よ、まわれ!」復刊。
祝・復刊!とはいえ、う〜ん、微妙に高いような。恐らくほぼ同じ価格となるだろうオレンジ党シリーズも揃えることを考えると。でも、ファンタジー好きの日本人として、この一冊を持っていないというのも恥ずかしいし、ここは素直に購入しておくべきか 。
勿論、メイドの人が描いたエマの物語ではなくて、「同じエマという名前でも、メイドではなくお嬢様なエマのラブコメディ」(森薫・村上リコ「エマ ヴィクトリアンガイド」のブックガイドより引用)。
階級を越えた恋愛の行方が目を離せない「メイドのエマ」とは違い、こちらの「お嬢様のエマ」は、人は身分相応の人と付き合いをし、結婚することで幸せになるという信念の持ち主。しかも、 独身主義である自分の恋愛ではなくて、善意と好奇心から、可愛がっている若い友人に、彼女に相応しい相手を見付けようとする(農夫の身分で、貴女にプロポーズするなんて身の程知らずだわ、と彼女に吹き込ん でみたり)。幾ら、土地の名家に生まれた、怖い物なしの若きお嬢様とはいえ、お節介というか、「大きなお世話」にも程がある。
お節介好きはともかく、強い階級意識は、当時(19世紀初頭)の上中流階級には常識だったから、とりわけエマが保守的だとは言えないにしても、今の世から見れば「俗物」と言われてもおかしくない、思い込みの強い、ある種のバカ女である主人公については、「私以外は誰も好きにならないような女」と作者も言ったらしいが、しかし、彼女のことは不思議にも憎めない。
それは、作者がエマを含む全ての登場人物を、さりげなく突放して描いてるところが大きいと思う。そう、この作品の特色はその喜劇的な人物描写にある。
この小説で一番面白いのは、物語後半、それまでやりたい放題のお嬢様エマが、自分の真の気持ちに突如気付き、しかもそれまでの迂闊な行いからいわば因果応報というべきピンチに立たされてしまう場面。エマ以上に、全くの俗人である私のような人間にとっては、人の不幸ほど面白いことはない、ということを改めて実感させてくれる(^^;;
もし、そこで、取り返しの付かないまま、エマが苦い教訓を学ぶだけで話が終わるのであれば、凄い傑作となったのに。と至って不人情な私は思うのだけど、オースティンの小説にハッピーエンド以外の終わり方はなく、だれもが皆、都合良く丸く収まってしまう。のが、やや残念ではある。
好みで言えば、ヒロインが「嫌いになれない」「エマ」よりも、「好き」な「高慢と偏見」だけど、「エマ」の方が小説としては上手いかな…
長野で雹が降ったとか、各地で落雷があったといった、昨日みたいな日こそ、昔なら、「雷獣」が天から降って来た日として伝えられるのかも。
Comics。おがきちか「Landreaall」4巻。ここに来て、突如、学園モノに(^^;; いや、すごく楽しいので、別に 構いませんが。というか、こういう「日常」の方が、この人の本領という気も。
新キャラの中で、「小さいのにでかい」五十四さんが良い味出してます。特に理由は無いけど。と思ったら、実は「眉毛の太い」女性キャラの一人だったことに気付く。…なんて分かり易いんだ、私。
古典作品とは最強の萌え作品である、というのは経験則的事実だと思います。
昨日行った展覧会について、別ページに感想を記入。前回と同じスタイルに揃えてはみたけど、今回の感想は、まぁ普通かと。はっちゃけてはいません(多分)。
前から気になっていた作家なのに、読んだのは今回が初めて。何でもっと早く読んでおかなかったんだろう、と深く後悔するほど、とにかく楽しかった。
基本的には、ロマンティックコメディ。いわゆるラブコメの元祖。この2百年、世の女性の心を捉えて離さなかったであろうことは想像に難くない。とはいえ、単に甘いだけの作品ではなくて、日常生活の描写の豊かさと、人物に対する辛辣とさえ言える観察力が一体となっているところに、この作品の真の面白さがあるのだと思う。
金井美恵子を連想させる、といえば分かり易いかも(金井美恵子がオースティン的な性格を持った作品を書いている、というべきなんだろうけど)。しかも、そうやって観察している主人公が、美しくて聡明なエリザベスという、うら若い女性とくれば、どっちがより素敵なのか言うまでもないことで。いや、目白四部作の「あたし」も悪くは無いんだけどさ。
先ほども書いたように、どちらかといえば「女性向き 」の恋愛小説だと思うのだけど、偉大な作品(サマセット・モームも世界の十大小説に選んでいる)の魅力は、それだけでは勿論無いわけで。
人によっては「無垢で世間知らずでほわーんとしていて、見た感じちょっとオツムのほうがトロそうで、それでいてカラダのほうはけっこうムチムチでボインボインだったりして、見ていてハラハラしちゃうのだけど、実はわりとしっかり者で面倒見がよい保母さんタイプの年上のお姉さんが好きな人に」こそお薦め (本読みHP)、という斬新な御意見も(^^;;
確かに、一昔前なら井上喜久子「お姉ちゃん」が一手に引き受けて演じていたような、いわゆる天然キャラのお姉さんジェーンは、私も決して嫌いというわけではないです(注:二重否定の場合、実際には全肯定を意味します)。
ただし、若くて聡明で勝ち気で、時には容赦なく言い過ぎたりして憎まれたりもするけれど、人の痛みもよく分かっていて、実はわりと繊細なタイプのヒロイン(例えば、「図南の翼」の珠晶とか?) の方がより好きな私にとっては、主人公のエリザベスこそ、この作品の魅力の源泉なのですよ、ええ。
有名な作品のため、幾つも翻訳が出ているが、皆「高慢と偏見」の中、新潮文庫だけが「自負と偏見」というタイトル。原題は「Pride and Prejudice」らしいので、新潮文庫の方が直訳的には正しいのかも。意味的には「自尊心(の高さ)」という感じだと思うのだけど。
タイトルはどうでも良いけど、改めて調べてみると、古い読者では新潮文庫、最近ではちくま文庫の訳が評判が良くて、今回読んだ岩波文庫は一番評判が悪 かった(^^;; 内容の面白さが圧倒的だったので、余り気にならなかったのだが、何度でも読める(読みたくなる)一冊なので、ちくま文庫版で、もう一度読んでみようかな。
ちなみに、世間的には、1995年に制作されたBBCドラマ〔Amazon〕で、とっくにブームが来ていた様子。
私だけ、時代(現代?19世紀?)に遅れていたのか。映画「ブリジットジョーンズの日記」 も、BBC版「高慢と偏見」のオマージュとして見るべき作品だったらしいし。余りの評判の良さに、この際、購入しようかと思ったけど、1万円というのは、ちょっと高い。 最近、散財が嵩んでいるところだしな。NHKでまた再放送する日をとりあえず待つか…
暑さの中、持てる気力を振り絞って、川崎市市民ミュージアムへ「日本の幻獣」展を見に行ってきました。
期待通りの充実した展示(河童のミイラとか、鬼のミイラとか、天狗のミイラとか、人魚のミイラとか、雷獣のミイラとか、まぁ、そんな感じだ)ではあったのだけど、3年前の同種の企画展、「呪いと占い」展と比べると、面白さとしてはやや小粒かな、という気も。まぁ、あの展示から1項目だけピックアップしたのが今回といえなくもないので、当然と言えば当然なのだけど。
感想は出来たら明日にでも。「呪いと占い」展の時の感想(←長文)ほどのものは書けないと思いますが。というか、あの時の文章のハイテンションさは自分でも変、だと思います。
広場で行われていた川崎フロンターレのイベントでうるさかったので、展示自体は見なかったのだけど、隣は「谷岡ヤスジの世界」展だった。
谷岡ヤスジの面白さは正直言って、私には分からないのだけど(子供の頃の感想なので、今読めば、また別かもしれないが)、関連イベントのうち、9/23のシンポジウム「ヤスジはアートか???」のゲスト(南伸坊×山下裕二×しりあがり寿)の組み合わせにはやや惹かれるものが。「日本美術の流れの中の谷岡ヤスジの地位と、その正しい鑑賞法について語り合う」そうな。
あ、そういえば、9/23といえば、「谷山浩子・猫森集会2004」のチケットを取ったばかりだった。時間的には掛け持ちは可能な気もするけど、内容の方向性が違い過ぎるな…
渋谷まで出て、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの(前月の新刊もまだ読んでないけど)今月の新刊「呪われた首輪の物語」を買いに、Book1stの5Fに寄ったら、おがきちか「Landreaall」4巻と、むらかわみちおの久々の新刊「虚数霊」1巻が新刊コーナーに並んでいた。好きな作家の新刊(それも複数の)に全く予期せずに、出会った時は、ちょっと嬉しい。…単に 最近、情報不足なだけ、という気もするけど。
ところで、Book1stで2千円台の買い物があると、必ず何かを付け加えて3千円超にしてしまう私。というのも、東急カードだと3千円から3%引きになるので。3%といっても、3千円で90円だけど、どうせなら、と思ってしまう辺り、やはり貧乏性なのか。その癖、あと1品に やけに高い物を思い付いて、却って出費が増える、ということもよく有るし。
今回は、買い忘れていた紫堂恭子「王国の鍵」5巻を思い出して、事なきを得る。
「世界美術館紀行」は、スイスのセガンティーニ美術館。
レーリッヒやセガンティーニといった、海抜が高い地方に移り住んだ画家の絵には、他の画家とは違った輝きがあるような気がする。空気が澄み切った世界独特の美しさというか。まぁ、それは私が 単に、そういう風景に憧れを持っている(「高原」と「海」のどちらに行きたいですか?という心理テストが有ったら絶対に前者を選ぶ)だけのことかもしれないけど。
あるいは更に単純に、中学1年の頃に読んだ「ハイジ」の自然描写(夕焼けに染まるアルプスの山々)が記憶の深層に刷り込まれているかもしれない。全く別の作者が書いた「それからのハイジ」という続編まで買ってしまう位、当時は嵌ったので。
ちなみに、真っ赤なほっぺたがトレードマークの宮崎/高畑版のハイジは、イメージが幼過ぎて、個人的にはちょっと駄目。主題歌は今でも歌えますが。ヨーレローレロヒホー。
慣れというのは恐ろしいもので、あの暑さを過ごしたばかりだと、今日の気温では「涼しい」と感じてしまう不思議。
先々月、↓を読んだばかりなので、今日の訃報はやや驚きだった。ちなみに、「清貧の思想」は知りません。
ブリューゲルについて語る文章ではなく、ブリューゲルの絵を起爆剤として、自分と自分を生んだ「世界」との関わりを問い直そうとした自伝的エッセイというべきもの。
祖母のいた北関東の「田舎」の貧しさを憎悪し、「知識階級」と成り得たことに強い自尊心を抱きながらも、理念的には無知な「民衆」の正しさを信奉する… かつての戦前生まれの左翼的文化人の典型というか、端から見れば迷惑な「頭でっかち」な人物の半生。鬱屈とした思い出が多くて、読んでいて、余り幸福になれる文章ではない。
ただし、そういう今までの人生に対し真っ向から向かい合った「真剣さ」が、この文章を「読ませる」のも事実。ブリューゲルに関心がある人なら、ブリューゲルの絵が、いわば鏡として、この著者にどういう自己の姿を見せたか追体験してみる価値は充分にあると思う。
しかし、曾野綾子の小説よりはマシとはいえ、この本でブリューゲルを知ろうとするのはバイアスが掛かり過ぎで、お薦め出来ない。ここに書かれているのは、あくまで中野孝次という人が「理解した」ブリューゲル像なので。
ところで、この本は1980年に河出文庫で一度、文庫化されているのだが、『中村雄二・高階秀爾・山口昌夫の三人が「ユリイカ」でやった鼎談批評でろくすっぽ読んでもいないで悪口を言うので腹が立ちました』と 記した河出文庫版の「あとがき」を、四半世紀経った今回も再録しているしつこさは、79歳にもなった人としてどうなのか、とちょっと思った。まぁ、よっぽど悔しかったんでしょうけど。
今回の「あとがき」も、「わたしが当時衝き当たった問題は、二元的思考的西欧文明の破綻がいよいよ明らかになった現代こそ、いよいよ切実になって来ていると信じる」と、個人的な体験をいつのまにか一般的な問題にすり替えてしまってい るのには、唖然。歳を取れば何を言っても良い、というわけでもないだろうに。
故人になってしまった人に、今さら言ってみても仕方ないけど。
と「濁った」感想しか書けないので、取り上げないつもりだったのだけど、訃報がやや意外だったので、つい感想まで書いてしまった…
最近まで知らなかったが、7/23に、ラース・フォン・トリアーの「キングダム コンプリート BOX」〔Amazon〕が発売されるらしい。
…え?コンプリート? 永らく待ってきた続編は? 「この映画の結末は、私だけが知っている」と、監督自身が劇場公開時のパンフレットで豪語していた、そのラストは?
「エルンスト・フーゴ・イエアゴーが亡くなったため完結篇の撮影は無期限延期」とカスタマーレビューで書いている人もいるのだが、本当 だろうか? 確かに、ヘルマー医師は(特に笑いを取る点で)重要なキャラクターだったけど、あの世界ならヘルマー医師の一人や二人いなくても何とかなるのでは? 4章の終わりでは、 登場人物の大半が酷い顛末を迎えているわけだし。
スティーブン・キングの、とキング原作みたいな売り方のアメリカ版リメイク「KINGDOM HOSPITAL」を認めたのも、自分で撮る気が無くなったからなんだろうか。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」以降の(分水嶺はもう少し前かもしれないが)彼の映画は全く評価出来ない私にとって、ラース・フォン・トリアーという名は、TVドラマ「キングダム」の監督としての意味しかもはや無いので、完結させる気がないのなら、彼の新作を今後観ることは二度と無いのではないかと。
「エレメント・オブ・クライム」や「ヨーロッパ」の頃はむしろ好きな監督だったんだけど… ふと、「グランブルー」の頃までは割と好きだったリュック・ベッソンを思い出したり。
ちなみに、BOXだけど、第1,2章は中古ビデオを持っているし、計10時間も見直す暇もないので(見始めたら一気に見てしまう圧倒的な面白さなのだけど)、購入の予定は無し。
ていうか、キングダムBOXの関連商品で表示された「ロシア映画DVDコレクション鏡〔デジタル完全修復版〕」の方が気になるんですが。
勿論、タルコフスキーの「鏡」なのだけど、「完全修復版」と名乗るだけの違いが有るんだろうか? 確か「ソラリス」の特典映像に日本語字幕を付けなくて大不評を買ったアイ・ヴィー・シーからの発売なので、素直に信じられない。
感想自体、全然書いていませんが、今月はまた、19世紀英国に戻っていたりします。主に、というか、ほとんどジェーン・オースティンだけですが。といいつつ、その前に読んだディケンズから。
まだ二十代前半だったディケンズの作家としてのデビュー作である短編集。
上巻の「スケッチ」は俗物たちの滑稽さを単純に強調したものが多くて、その得意げな描写に余り良い印象は抱けなかったのだけど、人物描写や物語の展開に明らかに進展が見られ、僅かな間に上達していった流行作家ならではの「勢い」を感じさせる下巻は、割とお薦め。既に独特のペーソスというか、悲喜こもごも、といったおかしさがどの作品にも溢れている。当時の庶民というか、成り上がりを夢見る中流以下の階層を身も蓋もなく!描かせたら、やはり、ディケンズに敵う作家はいないのかも。
ところで、読んでみたのは、昨年8月に行われた上野の西洋美術館でのレクチャー「絵画の矩形と近代の思考」の中で、講師の高山宏が言及した本の一冊だったこともある。
ピクチャレスクという、18世紀の英国を風靡した概念と、絵が長方形であることの関係を通じ、「視ること」=「所有すること」となった近代の思考について説明したこのレクチャーの中で、sktech(=dash out、スラスラ書き)という単語は、ピクチャレスクの流行と共に、1780年代に初めて出来た言葉であること、その40年後に出版されたこの本のタイトルでは、その言葉が 既に当たり前のように使われていることを述べた上で、日本の英文学者は誰一人として気にしたことがないですけど、とその日、十数回目の「お馬鹿!」という罵倒で締めくくっていた。
確かに、この時代、「ピクチャレスク」は既に手垢の付いた月並みな概念になっていたようで、上巻の短編には「自称ピクチャレスク鑑定家」なる人物まで現れ、彼が、近所のアパートの壊れた煙突の通風管の美しさを(トマソンを称揚する赤瀬川原平ばりに?)述べ立てるという箇所まで登場する(多分、その馬鹿馬鹿しさに大笑いするべきところかと)。
漱石の「坊っちゃん」で、登場人物達が、松山の海の眺めがピクチャレスクだと言い張る馬鹿馬鹿しさ(本来、険しい山々等、崇高な風景を指す「ピクチャレスク」をのっぺりした瀬戸内海の穏やかな風景に強引に当て嵌めようとするところ)と、良く似たセンス。漱石は、ディケンズは当然読んでいた筈だから、もしかしたら意識して書いたのかも しれない。
思い付きでチケットを取っていったら、数ヶ月先の予定が段々分からなくなってきたので、はてなダイアリーで予定表を作ってみる。まぁ、今のところ、オペラの予定位 ですが。
ついでに、現在視聴中のアニメの一覧を、左側に置いてみた。右側と全然関係ないけど(^^;; 「鉄人」はまともに評価出来る回が ただの一度も無かったので、ついに諦めた(ばかりの先週、「京都買います」だったらしいので、ちょっと悔しい)。 実際は、「忘却の旋律」と様子見の「KURAU」と「ニニンがシノブ伝」以外はほぼ惰性のような。あと、一周遅れで「ダフネ」とか。
「ウルトラQ」の第15話「光る舟」。例によって民話バージョン@太田愛なのだけど、ここまで来ると、もはや、この番組でやる意味がどこにあるのかという気が…
ちなみに、今回の主役の一人、赤髪の若者(どこかで見たことがある気がしていた)が、かつて内山君と一緒に「あっぱれさんま大先生」に出ていた「山崎裕太」だと、EDのクレジットで初めて気付いた時が、私にとって一番「sense of wonder」な瞬間だった(^^;; …ああ、もう、そういう年月が経っちゃったのね。
まぁ、あの番組は、何と言っても「きーちゃん」(有田毛恵)が全てだったわけですが。彼女の方はもう引退しているのか…
ジョン・クリーズといえば、本当は「フォルティ・タワーズ」のBOXが欲しいのだけど、amazon他ネットの店では軒並み、品切れ。リアルのお店を回ればどこかに有るんでしょうけど。まぁ、いずれ再販される日も来るかと。
良く出来ている(恐らくは前作以上に)、正統な続編。個人的には、電車上の戦いの場面が、古典的な映画の興奮を伝えていて良かった。「マトリックス」の高速道路に足りなかったのは、こういうセンスだと思う。
ところで、普通の青年が人知れずヒーローで有り続ける「理不尽さ」の意味を、ああいう風に解釈するというのは、ちょっと驚き。なるほど、だからこそ、スーツの脇腹が破れて血が出る、 (マスク が脱げて)顔が見える、といった描写が事前にされていたのか。
勿論、キリスト教のイメージ(柱を支えるサムソンとか)だけではなく、西欧文化全般のイコノロジーを上手く取り入れていると思うのだけど、あそこまで臆面もなく 「あの人」に準えて描いてしまって良いのか、とは私のような非キリスト教徒でも思うことなので、アメリカでは、福音主義者とかから強い非難を浴びたりしなかったのか心配になってしまう。
それにしても、(物語的にはそれぞれ意味が有るのは分かるけど)、今回のスパイダーマンはマスク脱ぎ過ぎ。素顔でも人を救えるのであれば、それはある意味、仮面 のヒーローという存在自体の否定になるわけで、今後もスパイダーマンとして活躍する気なら(どう見ても「3」を作る気まんまんだ)、それは違うだろ、という気が。雑踏の中に消えていった「ダークマン」の方が、匿名のヒーロー像としては、遙かに心を打つ 。
とケチは付けてみたものの、1本の映画としてはほとんど不満はない。
ちなみに、「正義のヒーロー」という存在の「理不尽さ」については、学生の頃、色々考えてみた(当時書いたメモ。何故か残っていた)ことがある私にとっては、今回の「2」は、そのコミカルな実例として結構、興味深いものがあった。確かに、そういう存在だ(から仕方ない)と考えでもしない限り、とてもやっていけない割りの合わなさではあるよな…
本屋に行ったら、冬目景「イエスタデイをうたって」4巻が。近年、私の中で冬目景作品に対する位置付けは残念ながら、かなり低くなってしまっているのだけど(モーニングで新連載と聞いても、雑誌を買わなくては、とは思わないほどに)、それでも、「イエスタデイをうたって」の新刊の発売日を知らないでいた、というのは、自分的にかなりショック。
いや、まぁ多分、ほぼ発売日に買えたのだろうから、結果的にはOKなんだけど、ファンとして、それはマズイだろうという。内容的には、登場人物のインフレによる物語の停滞という、いつものパターンかと思いきや、状況を少しだけとはいえ整理している様子に、少しだけ安堵。
ちなみに、今巻のインフレキャラ、柚原さんは割と嫌いではないです。「めぞん一刻」でいうなら、朱美さん?
祇園囃子が鳴り響く風情が報じられるようになれば、もう夏。そして、夏といえば、モンティ・パイソンである。 ええと、少なくとも私にとっては。
京都で学生生活を送っていた頃、 一年で最も耐え難いのは何と言っても夏の暑さだった。まさしく「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。」の通り、エアコンの無い、古い木造住宅の2階を間借りしていた身には、冬は(炬燵に入っている限り)耐えることが出来ても、夏の蒸し暑さだけは、どうにも逃げ様が無かった。
何とか活動する気になるのは、夜も9時過ぎてから(といっても、レンタルビデオ屋か、高野の丸山書店くらいしか行くところはなかった)。日中は、生ぬるくよどんだ空気を掻き分け、どこかへ行く気力など とても起きない。出来ることと言えば、カーテンを閉めた自室で、ラタンの長椅子にひっくり返って、扇風機を強で廻しながら、借りてきたビデオを見ること程度である。
暑さの中、ハートウォーミングなコメディとか、良く出来た恋愛ものとかは間違っても見たくない。暇にあかせて、そうでないものを(B級SFとかC級アニメとか色々)見たのだが、その中で、一番「暑さを忘れる」ことが出来たのは、 やはり「空飛ぶモンティ・パイソン」のシリーズだった。ある年の夏の二週間、すっかり嵌った私は、来る日も来る日もビデオを借り続けた。お陰で、その結果、京都の夏の暑さと、モンティ・パイソンのオープニング(マイケル・ペリンの「It's」等)は頭の中で、切り離せないものになってしまったのだ。
前回のUNIVASAL MUSICのDVDキャンペーンだが、洋楽タイトルの一番最後、ポリスやボン・ジョビの後 に、モンティ・パイソンのコレクターズBOX 3rd Editionも含まれていた。…洋楽??
コレクターズBOXといえば、今まで1st Editionと2nd Editionが39,900円で発売されたが、悩んでいる内にいずれも姿を消していた。その再発売、しかも29,400円と大幅な廉価版での登場。この前のDVD Directなら22,932円。7枚組でその値段なら迷わず「買い」だろう、と購入してしまう。このシリーズは「一家に一台」のごとく、国語辞典などと同様、当然、持っているべき作品だと思うので。
問題は、7枚全部で1335分(=22時間25分)のスケッチを見る「時間」が、今の生活の一体どこを探したらあるのか、ということだが……
ところで、今回、ファンサイトを回っていて知った、相変わらず元気な様子のジョン・クリーズのサイト(いきなり音が出ます)。とりあえず、ヤカンは治ったらしい。
先月のキャンペーンで入手したamazonのギフト券は有効期限が7月中なのだが、当面欲しいモノを買ってしまったばかりなので、適当な物がなかなか思い付かない。
この際、オペラのDVDでも引き続き買っておこうかと、ネットを回っている内に、ユニヴァーサルミュージックで、クラシックのDVDについて、オペラ中心に廉価版での再発売キャンペーン中であることを知る。ゲオルギューの「椿姫」とか、バルトリの「チェネレントラ(シンデレラ)」とか、ちょうど欲しいと思っていただけに、タイムリー!
で、同じく回っている内に、ネットのDVDショップだとamazon以上に割引率の高く、品数も多い店が結構有ることに気付く。例えばDVD Directだと7月末まで22%引き(まとめ買いしないと送料が掛かるのがネックだけど、今回はまとめ買いなので問題ない)なので、2940円の廉価版が、更に2293円に。CDより安い位だ。
というわけで、「エマ」4巻を読んで以来、見直したくなっていた「セビリャの理髪師」(同じくバルトリでが歌っているシュヴェツィンゲン音楽祭の)に、ユニヴァーサルの廉価版を「椿姫」、「チェ ネレントラ」、「トゥーランドット」と3枚加えても、計12202円。月1枚ペースという視聴予定だから、これで年内に見る分はもう買ってしまったことになる。軽めのものが中心なので、見るのも楽しそうだし。
……それは良かったけど。で、amazonでは、何を買えば良いんだ?(^^;;
溜まっていた先週分のTV番組の整理で一日が終わる。選挙に出掛けて雨に降られる。あと何だっけ…
そうそう、「ニニンがシノブ伝」は悪くはなかったです。楽しませようとしていることは充分、伝わってくるので。結果は今のところ、イコールではないですが。
最近、art方面の話題が途絶えているので、小ネタですが、とりあえず一つ。
「所蔵作品展 動物のモチーフ」(2004年7月3日(土)〜 9月5日(日) 東京国立近代美術館工芸館)。いや、多分、こういうのが好きな方がいらっしゃるように思うので。「参考図書のご紹介」というところに、スタッフの意気込みを感じますが、子供向きの企画 なので、夏休みの宿題用にどうぞ、という意味なのかも。
本館の所蔵作品展の加山又造を見に行くついでに、寄ってみようかな。
東京国際フォーラムでテオ・アンゲロプロス映画祭の初日プログラムを全部観る。
デビュー作「再現」、2作目の「1936年の日々」、公開された中では最新作(といっても6年前)の「永遠と一日」、池澤夏樹がインタビュアーとして、監督にインタビューしたビデオ「THEO ON THEO」の4作品。さすがに一日中、籠もっていると、背中と腰が痛い…
とりあえず、感想をそれぞれ一言だけ、上映順に並べてみると。「もの珍しい。かなり面白い。ひどく詰まらない。それなりに興味深い。」というところ。
と直後に書いた感想だけでも良い気もするけど、もう少し詳しく述べてみようかと。
「再現」は、ギリシア山中の寒村で起きた不倫による殺人事件を題材に、主犯が妻か相手の男か、二人とも主張する内容が食い違う、という物語の始まり方に、すわ「藪の中」かと思いきや、作品のテーマはその辺には無くて、最後に描かれる「真相」もドアの向こう側で起こるので観客には結局分からないという 終わり方だった。
とにかく、モノクロ画面の美しさというか鮮明な描写の力強さだけでも、「観た」かいはあったというもの。
あと、やっぱり処女作には後の全てが含まれるというか。霧の中の風景、交錯する時間、越境という主題、長廻し等々… ラスト近くで、360度パンすら出てきた時は笑った けど。個人的には、ベルトルッチの処女作「殺し」と比較してみたい、と思った。通俗的な殺人事件という似たような題材を取り上げながら、時間の取り扱い等、それぞれの個性の違いがかなり明確に現れているような気がするので。
「1936年の日々」は本人言うところの「言い落としの手法」を駆使した作品らしいので、必ずしも理解出来たとは思わないけど、アイロニーのおかしさ、という作品の基調は楽しめた。「再現」のドアに続き、この作品でも人質が立て籠もる部屋を事件が終わるまで、入り口のドアと窓、と外側からのみ写す徹底振りには 感心。「描かないこと」と「描くこと」の峻別は、どんな角度からもCGで見せるのがサービスだと思い込んでいる最近のハリウッド映画には望めないことだけに。事件の解決の場面の描写も無駄がなくて素晴らしかった。
とテンションが上がってきたところで、当時、パルムドールを受賞した「永遠と一日」。非常に良くない状態のフィルムで冒頭やラストなどはピント自体が合わない有様だったので、一層印象が悪くなったのは否めないとしても。死期を目前とした老人。越境してきた子供。どちらも、もう観たってば。他の主題も同様。言うなれば、 アンゲロプロス映画という「番茶」の「出涸らし」?
「この場面でやりたいこと」が20秒で見えてからも3分は続くという繰り返しに、まるで拷問だと叫びたくなる程、観続けるのが苦痛の2時間だった。幻想的な出来事が連続するバスのシーンだけは非常に良かったけど。
「THEO ON THEO」は、全作品を一問一答で振り返るというインタビュー集で、まぁ無難な出来。中では、テオ・アンゲロプロスの映画では、結婚式やダンスはしばしば中断され、幸福なものとしては終わらない、という池澤夏樹の指摘 が興味深かった。
結局、初期作品だけ観れば良いのか、という気もしないでもないが、最後に出てきた次回作「Trilogy:The Weeping Meadow」(この秋公開らしい)の映像は、格好良かったので、(過大な期待はせずに)観に行くことにしようかと。
旧作もこの際、見逃している作品を観たくなってきた。しかし、DVD全集だと未見の作品が見事に分散しているんだよなぁ… BOX Iに「狩人」、BOX IIに「ユリシーズの瞳」、BOX IIIに「蜂の旅人」「アレクサンダー大王」、BOX IVに「放送」。私は一体どうすれば(^^;; まぁ、どれも高いので元々買う気は無いのだけど(じゃあ、別に良いじゃん)。
とりあえず、「旅芸人の記録」を昔録ったビデオテープなら、まだ残っている筈なので、それを今度探してみようかと。TVで見るべき映画じゃないけど。
ちなみに、帰宅してから、今日の「ケロロ軍曹」を見てみたら、桃華特集だった。図らずも、池澤親子の声を聴く一日。
間に合いました。
普通に面白かったです。私は、誰が良いとか悪いとか言えるレベルではないけど、総体としてバランスがよく取れていたような。カルメンにもう少し魔力のような魅力があれば、という気もしたけど。
4階ということで、劇場のオペラグラスを借りてみたものの、右目と左目で視力が違う私には、使い勝手が悪かった。今後も上の方の席が多いと思うので、小型できちんとした双眼鏡を一つ買おう、と決心。
ところで、闘牛士エスカミーリョがカルメンに出会って、名前を訊く場面って、(一応)シリアスなところなのだけど、「命が危機になった時に叫びたいから、君の名前を教えてくれ」って、パクマンさんのモテ台詞みたいで、つい笑ってしまいそうに。いや、あのモテ台詞の数々も、しかるべきラテン系の二枚目が言えばギャグに は聞こえないのかしら?
明日は、新国立劇場の「カルメン」を見に行く予定、なのだけど。2ヶ月位前、たまたま安い席が(4階席)が残っていたので、つい思わず取ってしまったのだけど。
こんな時期の平日にオペラというのは、やはり無謀過ぎた気が。開演6時半ということは、5時半過ぎには職場を出ないといけないということで… 自分の仕事を定時に完璧に片付けて、なおかつ何のトラブルも起きないという幸運に恵まれない限り、困難だ。でも、絶対無理と決まったわけではないし、可能な限り、駆け付けるということで。
「ウルトラQ dark fantasy」第14話「李里依とリリー」。
旧作「悪魔っ子」のリメイクという狙いは良いと思うし、工夫しようとしている努力自体は買うけど、押さえるべきポイントはそこじゃないだろ、みたいな歯がゆさが。
悪いのは父親のため、みたいな話にせずに、ストレートに「悪魔っ子」路線で作るべきだったんじゃないかと。ひょっとして、今のTV局では、アンファンテリブル(子供が邪悪)な話を作るのはタブーになっているんでしょうか。
旧作へのオマージュか、二人の少女が線路上を歩いていくシーンを再現した辺りは微笑ましかったけど。あ、そうか、映画「ミツバチのささやき」で、アナとそのお姉ちゃんが線路上にぽつねんと立っているシーンを最初に観た時の妙な既視感は、「悪魔っ子」のあのシーンの記憶によるものだったのか! 今初めて気が付いた(遅いよ)。
ここ2,3年、この時期になると「…月間」と称して、夏休みに旅行する地域について書かれた書籍を読んでは、その感想をだらだらと綴っていたわけですが。(→ アイルランド・ケルト月間/トルコ月間/フランドル絵画月間 )
今年は7月になっても、その気配すら無い理由は、単純に旅行の予定が入って無いから。旅行をする/しない以前に、7、8月は仕事の方がまさに本番で、「夏休み」自体が全く取れない見込みなのです。「光と水のダフネ」(最近になって、ぼちぼちと追い掛けてます)風に言うならば、「オレだけに夏はない」 。
いや、この恨みを晴らすべく、10月頭辺りには休みを取って、どこかへ行こう、と秘かに決心してはいるのだけど。その時期だと、どこが良いかなぁ…(現実逃避モード中)。
ジェフ・ヌーン「未来アリス」(ハヤカワ文庫FT)。
…つ、つまらん。ダジャレを取ってしまったら何一つ残らない作品(というのは田中啓文の本の帯だったか)。
原作?との差をくどくど指摘するのも、はしたないので、一点だけ。この作品は要するに、アリスが元居た家(過去の世界)に帰ろうとする話だけど、「不思議の国」「鏡の国」のどちらでも アリスは「自分の家に帰ろう」などとは一言も言い出さなかった筈。その時点で既に「分かってない」というか、「アリス」の名を語る資格のない作品だと思う。
日曜の朝から「お姉様」アニメ。夕方7時台に(家族向けを偽装した)萌えアニメ。テレ東とNHK、どちらがより、安息日に相応しからぬ「行い」なのか、私にはよく分かりませんが。
たまたま本屋で目に留まった本。平積みだったので、新刊と思ったら、2年半前に出ていたのか。
キリスト教の各教派の違いを、由来や教義、用語などを中心に平易に説明。翻訳者の手助けに、というのが元々の趣旨のようだけど、普通の人が単なる好奇心で読んでも、面白い。
例えば、日本の教会で、「賛美歌」という言葉を使うのはプロテスタント系だけで、正教会、ローマ・カトリック、聖公会、福音派は「聖歌」と呼ぶとのこと。カトリックまでそうだとは知らなかった。まぁ、「賛美歌」を会衆が斉唱するということ自体、ルターの始めたことで、20世紀になるまで、カトリックにそういう習慣は無かったそうなのだけど。ちなみに、救世軍では「軍歌」らしい(^^;;
なるほど、だから、「マリア様の心」は「聖歌」であって、「賛美歌」ではないのね。
私は小学校の頃、教会学校に行っていただけで、クリスチャンでは無いのだけど、三つ子の魂百まで、当時のプロテスタント的な教えは、自分の考え方の割と深層に残っている気がする。ただし、今現在、共感し易い教派というと、やはり「ユニテリアン」かな… 信仰としての純粋さでいえば、「クェーカー」的な精神主義にも憧れるところはあるけど。
違いといえば、各教派ごとの「主の祈り」の訳の違いなども載っていて興味深い。教会学校に通っていたのは確かルーテル系だったので、馴染みのあるお祈りといえば「天にまします…」 あれ? ルーテル教会式文の「主の祈り」だと「天の父よ…」? 訳が変わった?
悩んだ末に、小さい頃通っていた教会のサイトを探してみると。日本基督教団の改革長老教会に参加? ええ? カルヴァン主義の流れを汲む予定説の? 最近の私としては、余りお近づきになりたくない気がする思想なんですけど。だって、「勤勉で富を得た者こそ、選ばれし者」という考えなんて… まぁ、プロテスタントであることは間違ってなかったわけだけど。
確かに、日本基督教団の「主の祈り」は「天にまします我らの父よ…」だった。こういうのは最初の刷り込みが全てで、理屈ではないので、この文句でないと落ち着かない。
そんなわけで、自分の(誤解していた)過去のルーツが、数十年ぶりに明らかになった、という点だけでも、この本は大変に「知って役立」ちました、私には。
日中、出掛けたついでに、横浜の街中へ。「魔法のシュー」という、エプロンドレスで黒タイツ姿の売り子さんがいるお店が1Fにあることで、(多分、ごく一部の方には)有名なダイエー横浜西口店の近くを歩いていたら。
迷彩服を身に纏った兄ちゃんが4人、縦に並んで、あの軍曹ソングを(「フォミコン・ウォーズ」のCMばりに)歌いながら、向こうから行進してきた。
「ビブレの、バーゲン、行ってみな〜」「品数、豊富で、お買い得〜」
不覚にも、ちょっと笑った。
「NHKにようこそ」は既読。こちらは文庫版が初読。それだから、というわけではないけど、同じだよなぁ、というのを確認した、という印象にほぼ尽きるかと。これと比べると「NHK」は、あれでも随分と読者を意識して書いていた作品だったのか、みたいな間接的な発見もあったけど。
ただし、これだけ少ないネタかつスキルで1つの話を書き上げてしまった「勢い」は嫌いではなくて。それこそ、素手でチェーンソー男に立ち向かう位の無謀さだけれども。
ところで、解説の西尾維新。「しあわせとは一体どういうものだろう?」などと書き出すので、上遠野浩平のあとがきのパスティーシュかと思いきや、拍子抜けする位に素直な文章に驚いた。というか、こ の余りにも頭の悪い文章は、……勿論、わざとですよね? 中学生向けに分かり易く、というオーダーでも出たとか。
一週間忙しくて、ビデオに手を触れなかったところ。ああっ、録画している番組の本数を間違えて、「KURAU」が最初しか録れていない… 間違いの元となった松岡正剛の番組は来週から切ろう(まぁ、本人には何の責任も無いのだけど)。
仕方ないので、「KURAU」の「OPだけ」見る。…へえ。新居昭乃の歌というと、割と今までEDのイメージが強いので、ちょっと意外。というか、先週も流れていたこのメロディがOPだったのか。メロディ自体は綺麗だけど、でも、OPというよりは、挿入歌という雰囲気のような…
田中啓文「蹴りたい田中」。どうでも良いことだけど、似非「少年倶楽部」風の表紙イラスト(amazon)には、がっかり。
せっかく、「蹴りたい田中」という、勝ったも同然(何に?)というタイトルを付けておきながら、タイトルや帯のコンセプトと全然合ってないし、「茶川賞受賞後、突如消息を絶った伝説の作家・田中啓文」の「遺稿集」というこの本の形式とも 一致しない。大体、「中田いたり蹴」にしか読めないし。中田がイタリーで蹴る話かと思った。
勿論、「蹴りたい田中」という表題作から連想したものであること位、分かるのだけど、このアートディレクションのセンスの悪さ、駄目さ加減には、生理的な「不快さ」すら覚えてしまう。 これが仮に確信犯的な悪意なら、まだ納得出来るのだが、単に、作者及び編集者によるあくまで善意のサービス精神の過剰さ、というか無駄な発露 でしかないと容易に推測されるだけに、読者としては疲労の溜息を付くしかない。
いや、この疲労感は、田中啓文作品全般の印象(駄洒落オチを読んだ直後の)と酷似しているので、もしかしたら、極めて「正しい」表紙かもしれないが…
…それはともかく、もっと他に、感想を書くべき作品が幾らでもあるだろう、という気が。