空の蒼さを 見つめていると
本当に、雪が降るとは… 家から一歩も出ずに、一日過ごしたのは言うまでもない。
京都の南座で、この作品を観たのは、もはや10年以上も前の話。しかし、今観ても、古さを全く感じさせない面白さ。
他人の作品を下敷きにしているということも有るのだろうが、夢の遊眠社時代の野田秀樹の芝居の中で、多分、完成度において「半神」と双璧をなす作品。
何と言っても、夜長姫を演じた毬谷友子の、くるくると万華鏡のように変化する声と、あくまでも
無垢な「笑顔」が素晴らしかった。
勿論、作品的には、安吾(「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」)+俳優としての野田秀樹+手塚治虫(「火の鳥 鳳凰篇」)+古代王権論+ヴァンゲリスの音楽+桜の花…、とこれだけ私の好きな要素が揃っていて、面白くないわけがない、というか。
今年のNODA MAPの春の公演として、久し振りに再演されるそうだが、ああっ、もう一度、
生で観たくなってきた。…チケットを取る努力をしておくべきだったか。いっそ、平日に休みを取って、当日券(て、あったっけ)?
歴史と個人の関わり、あるいは国家論を含んでいるという点で、今の野田作品の嚆矢とでも言うべき位置にあるのが興味深い、
とか評論家めいたことを言ったりするより、ただ、この綺麗な世界をそのまま味わうべきなんだろうと思う。
ラストは、本当に美しく、観客としては溜め息を吐くばかり。いやぁ、参った、参った…
ちょうど、教育TVでも、安吾の同作品の朗読の再放送が。朗読者は川原亜矢子、演出は長崎俊一。見ていると、フレーズ毎に色々な場所で文章を
読んでいるだけ…何か、気の利いたことをしているつもりなのかもしれないが、結局、意味不明。ていうか、単に駄目じゃん。
でも、朗読という形式自体は結構、魅力的だと思う。もっと、朗読を味わう機会を探しても良いかも。NHKのラジオくらいしか
思い付かないけど。鏡花とか、朗読で味わってみたい気がする。美文調だし。
というわけで、千鳥ヶ縁の花見に行って来ました。期末なのに、定時で退社。前の勤め先では勿論、全く考えられないことだったわけで、これだけでも今の勤め先に出向になっていることに感謝せずにはいられない。というか、この時期に「胃が痛くない」ことの方が、
まず今までに無かったこと(^^;;
そんなわけで、6時台に散策。確かに、ここは一度は見る価値は充分にありますね。夕暮れ時の透き通るような桜に覆われた
頭上の空に、ふらふらと心が浮き立つ。いわゆる、ほろ酔いの気分。それもアルコールの酔いではなくて、極上の中国茶を喉で味わった時の酔いのような。
一周してからついでに靖国神社も覗いてみたのだけど、…こちらは、本当に「花見」の場所だった。花見をして、花を見ず。
こんなにspiritualな雰囲気のかけらもない場所も珍しいですが、いいのか、閣僚がこんな神社を公式参拝したりして。まぁ、
屋台巡りをするには非常に便利ではあったけど。
気を取り直して、堀の方をもう一週。ただし、人出は更に増え、単にぞろぞろ進む、みたいになってしまっていたのは残念。
人出の中の一人が言うことでもないのだろうけど、余りに人が多いと趣も何もない、という風になってしまうのも桜の名所に付きまとう問題ではあるかも。
週末も桜見だけの予定だったのだけど、明日は更に寒いようで、午前中なんか雪マークが出ているよ、この時期に。
うう、寒いですね… さすがに今日は桜見は延期。明日こそは、千鳥ヶ縁の夜桜を見に行こうと考えているのですが。
先日、駅前の広場で開かれていた古本市を覗いていて発見したもの。定価(9千円台)で買うには高いが、
2千3百円ならかなり得かな、という判断による。ちなみに、書籍版だと6千円弱だったかと思う。
画像や音声も少し収められていて、色々な紐の結び方の動画が何故か入っている。中でも、草鞋の紐の
結び方のアニメには、普通なら一生知らなかった知識だとは思ったものの、現代の日本に、草鞋の結び方を知る必要がある人なんているの?
ところで、CD-ROM版の辞書、ということで、22万語の収録内容に対し、全文検索が可能。まぁ、5年前に
作られたソフトなので、ネットの検索のように、not条件など出来ず、ただandとorしかない、使いにくい代物なのだが、使い様によっては
それなりに面白い。
そう、これで閃いたのが、作家の名前を入力して検索すれば、その作家の作品からどれくらいの文例を
引いてきているかが即、分かる、ということなのだ。
さっそく、漱石で検索。922。おおっ、すごい。勿論、作品以外の誤差も含むが、それにしても圧倒的な数で、いかに漱石が
今の日本語表現の基礎となる文章を書いているかがよく分かる。色々やってみる。鴎外、644。露伴、478。荷風、230。谷崎、146。辞書の編纂方式にもよる(文例はまず漱石の本から探すのに違いない)
のだろうが、やはり明治の文豪の作品から言葉が多く取られているようだ。
それに対し、戦後の作家は、まったくと言って良いほど無い。「大江健三郎」と入れても「ノーベル賞」しか出てこなかったくらい。
そこで戦前に戻り、中島敦で検索。数は66とさして多くないが、その一覧には、それこそ辞書を引かないと意味が分からないような、
難しい漢語が並んでいる。いびきを「鼾声」と書く世界だから無理もないのだが、戦後の日本が(私も含めて)最も受け継いで
こなかった日本語の世界であろう。
その反対はと、泉鏡花で検索。10。…あれ? 気が付いて鏡花で再度検索。279。かなりのものだ。こちらは果たして「うねくる、潤み声、すっかり、すらり、ぞろり、たよたよ、円らか、どんみり、ぬれぬれ、はらり、ぽってり、
くなくな…」と、曲線的な語感の、柔らかい、ひらがな言葉が続く。余りのらしさに笑ってしまったが、これもまた、
日本語の一つの姿ではあるわけだ。
まだ聴いています。改めて聴くと、
当時の私がいかに歌詞をいい加減に覚えていたか分かってびっくり。
例えば、Boy meets girlのストーリーをコミカルかつテンポよく語り切る(知り合って、求婚して、結婚して、四人の子供が
出来るまでが僅か4行!という)「FUN×4」での、「踊りながらカレッジの名前を
聞き出した」という箇所が、自分の記憶では「踊りながら、枯れ木の名前を聞き出した」となっていたことに気付く。……。
知り合った女の子から、枯れ木の名前を聞き出してどうするつもりなんだ一体? しかも、踊りながら。
他にも「恋するカレン」の「君が彼の背中に手をまわし踊るのを壁で見ていたよ」
を「影で見ていた」と思っていたり、「さらばシベリア鉄道」の「スタンプにはロシア語の小さな文字」が「スタンプにワルシア語の」
と思い込んでいたり(ワルシアというのは、きっとグルジアの隣辺りなんです(^^;)、いわゆる「弁慶がな、ぎなたを持って」的な
聞き違い続出… 作詞の松本隆氏に会わす顔もない。いや、会うことはないだろうけど。
シリーズ後半だから書ける作品かと。作者の狙い通りなんでしょうが、割と楽しませて頂きました。 ところで原題の「SWITCH BACK」には今一つ、ピンと来なかったのだけど。こういうのをSWITCH BACKて言うべきなの? あと犀川助教授がいつになく感傷的なのも何だか不思議。次作以降へのネタ振り、ではないですよね?
手堅い内容の続編、という感じ。故郷との関係とか、もっとドライに進んでいくのかと思っていたけれど、
こういうのも嫌いではないです。あとはもう少し短い間隔で続巻を出して頂ければ。
ところで、このシリーズ、私の場合、ジントとラフィールの掛け合い漫才?中心に読んでいて、
戦闘シーンは正直、適当に読み飛ばしているといっても間違いではないので、そのせいで読み違えているだけかもしれないですが、
この巻でのフリーコヴの赤軍・青軍の配置って、おかしくないですか? 後半はどう見てもアトスリュアの指揮下にいるような気が…
今度の休日には桜を見に出掛けようと、県内の桜の名所をネットや本で下調べしたりしているのですが、首都圏は都内だけで 手一杯になってしまうからか、神奈川県の桜は余り取り上げられていないようです…
例えば、私の家のある住宅地の桜並木だって、結構大したもんなのよ、と意味のない内輪の自慢はともかく、隣街の寺の桜より ずっと見所となるような場所はもっと有ると思うんですが。
ちなみに今週、ノルウェー国王が隣街を観光するらしく、「国賓来県に伴う…」とかいう、交通規制を予告する立て看板を 住宅地の入り口で見掛けました。その際の交通経路を予想すると、この住宅地の桜並木(の入り口だけ)は、ノルウェー国王も 車からご覧になる確立が高い、と思われます(^^;
結局、ここは通らなかったようです。ちょっと残念(^^;;
昨年以来、どんな味か気になっていた、あの清美タンゴールを食べる機会に恵まれた。
皮がもっと剥きやすいかと思っていたのだが、そうでもなかった。オレンジと同じくらいか。で、肝心な味なのだが、……イマイチ? みかんのように甘いのだけど、ちょっと味がボケているという印象で、伊予柑系の酸味に匹敵する、味の芯とでも言うものが見当たらない。 う〜ん、期待が大きかっただけに、何か残念。味が更に改良されない限り、自分で今後買うことは無さそう。
既に書いてきた通り、桜を見る、というのは、私にとってはこの季節、最大の関心事と言っても良い。
だから、桜について書かれた本を見掛けると、読んでみることも多いのだが、桜そのものについて、余りにも知らないことが多かったのをこの本を
読んで気付かされた。
例えば日本中のソメイヨシノは全て、もともと1本の木を増やしたものであること。いわば、全部がクローン桜に当たるわけで、
桜は同じ木の花どうしでは実が生らない性質がある以上、ソメイヨシノどうしでの実は原理的にあり得ない、ということ。
全く同じ木だからこそ、同じ場所では一斉に咲き誇るわけだ。
この100年で日本中に溢れたソメイヨシノ。身近にあるために、ソメイヨシノがそういう園芸種としてのいくつも弱点を
持っていることを誰も気にとめていない。有名な「ソメイヨシノの寿命は60年」という説があるのだが、経験的にこれは
そう言われてきたことに過ぎない。つまり、放っておくと、それくらいでソメイヨシノは枯れてしまうのだが、著者はそれに挑んだ、
弘前公園の管理者たちの努力と成果をこの本で描いている。
良質のドキュメンタリーだと思う。こういう言い方が適切かどうかは分からないが、「プロジェクトX」が好きな人には
ぜひ読んで頂きたい。事実だけが持つ感動を上手く伝えている。
ただ、この話はメデタシメデタシでは終わらない。戦後植えられた各地の桜はこれから老化を迎える。それに対して
桜を守ろうとするのであれば、守るための手間が掛かる=コストが必要となる、というのが、この本の指摘でもあるのだ。
望ましい手入れのコストは、年間1本につき、凡そ1万円。大きな桜並木や公園を抱えている行政にとっては、よほど住民の
同意を取り付けない限りとても出せない金額である。
しかし、それでは、枯れていくのに任せていくのか。この問題は、私たち日本人が、桜をどう考えていくかによる。
何も出来ないのであれば、数十年の内に各地のソメイヨシノは皆、衰えて枯れていくばかりなのだが…
桜が咲くのもそろそろ。ということで、いつでも携帯出来るコンパクトなカメラが欲しくなって、カメラ屋を物色している内に、
T3を衝動買い。
実用的な作りはともかく、何だか風情がない上にシャッター音、駆動音とも今一つな気もするけれど(^^; とりあえず、
近所のお寺の白モクレン等を写してみる。どんな出来上がりになっているのか、どきどき。
どうせ買うなら、と渋谷のすみやまで行って、ブックレットを貰ってきました。さて、リマスタリングとかいっても、
重箱の隅をつつくような、マニアな耳を持っていなければ同じでは、とか実は少しばかり思っていたのだけど、参りました、
全然、違います!
私が持っているのは、一応の完成形とされていた91年のCD選書盤なんですが、聴き比べてみると、本当に使用前・
使用後(何の?)位の違い。「ロン・バケ」って、こんなにもフレッシュな音だったのかと、目から鱗が落ちる、というか、
いや、この場合、使っているのは耳なので、何が落ちるんだかは良く分かりませんが、それくらいの驚き。
「キャプテン・フューチャー
」。さすがにツッコミどころ満載、な気はしましたが、それは今から言うことではないでしょうし。
とにかく、OPもEDも、もちろん最初のナレーションもちゃんとやってくれるとは偉いぞ、BS11。これでもう満足、というか
後はもう見ないでも良いような。
ちなみに今回、一番インパクトが有ったのは、NHKのお姉さんが、
袴姿のコスプレでいきなり登場した最初の画面という話も。
イタリア料理は、毎日食べたい、というわけでもないが、しばらく食べないでいると、ふと食べたくもなる、そういう料理だと
思うのだが(ちなみに私は、毎日イタリア料理でも多分、平気だ)、同じように、遠ざかっていると、何だか無性に見たくなってくる
のがイタリア映画だったりする。
人生には時々、イタリア映画が必要だ、という格言があってもおかしくないとさえ思う。人生の価値を信じる
ことと、映画というモノを信じることが、あのイタリア人特有のおおらかさで重ね合わせられたイタリア映画の、その嘘のような
調子の良さに付き合う度に、とりあえず、まぁいいか、みたいな楽天的な気分になってしまうのだが、映画を観て、ほっとすることも
あってもいいと思うのだ。
勿論、イタリア映画といっても色々有るわけだが、このほっとする、というか楽しめる、という点で極めて信頼出来る監督の新作が
公開中、ということで、やや忙しめの日々が続いているにも関わらず、というかそういう日々だからこそ、たまにはイタリア映画でも
観に行くことにする。
ローマのとある小レストランに来店する客達の(そして店員の)一晩の様子を店内からほとんど一歩も出ることなく描く、
この監督お得意の「空間と時間を限定した」人間模様。いや、何が起こるというわけでなく、各テーブルでのそれぞれの会話、
そして店員の会話を、横で座っているかのような親しさで見せていく、本当にそれだけ、といっても良いのだが、観ていてとにかく楽しい。
この監督の作品の中で、個人的に一番好きな場面は「スプレンドール」という、やはりとある映画館を舞台にイタリア現代史の変遷を綴る作品のラストで、
役目を終えようとしているその映画館の中になぜか雪が降り始める場面。ああ、雪を降らせる、というのはそういうことなんだ、
と極めてその映画的なラストに、観ていてひどく感動したことを覚えている。
しかし、今回の作品に近いのはむしろ、「マカロニ」という、マストロヤンニとジャック・レモンの共演で話題になった、コテコテの、
ナポリ人情劇の方かと。ちょうどナポリタン・スパゲッティみたいな、庶民的な美味しさ、というか、通俗的な分かり易さに徹した
「泣けるイタリア映画」で、疲れた時に観たりすると、かなりジーンとくる映画だった。
今回は、あくまでレストランの会話なので、そこまで泣きは入っていないけれど、人生の色々な機微が入っていて、結構、
満腹になる。
ところで、いかにもミニシアター映画という作品だけに、タイトルに気合いを入れて、少しでも多くの観客を呼びたいという
配給側の意気込みは分かるのだが、「星降る夜のリストランテ」って少しやり過ぎでは?(^^; 原題なんか「La
Cena」=「夕食」、と簡素そのものなのに。
大体、この監督の作品は、昔は「ラ・ファミリア」とか「パッション・ダモーレ」とか簡素な原題そのままのタイトルばかりだったわけで、こういう凝った題名を
付けたのは前作の「BARに灯火ともる頃」(原題直訳は「今、何時?」)かららしい。…でも、さすがに恥ずかったですよ、
今回の題名を口に出して切符を買うのは。
それと、ここまでで気付いた方はいないと思うのだけど(というか、ここを見て頂いている人でこの監督の作品を
意識して観たことがある人自体、多分いないと思うけど)、私の記憶では、ずっとこの監督のことはエットーレ・スコラと呼んでいた。ところが、チラシをみると、どう見てもエットレ・スコーラ。いつの間にやら、中の「ー」が右に移動している?
(^^;
あれ?私の記憶違い?と思って(そういうこともままあるので)当時のものを見直してみると、やっぱりエットーレ・スコラ。
どうやら、今回公開に当たり、発音がこの方が正しい、とかでスコーラに表記を変更、ついでにエットーレも縮めてしまったのでは
ないかと(推測)。いや、まぁ良いんですが、そういうことはちゃんとことわっておいてよね(誰に?)、というか、そうやって
ポンポン表記を変えられるとフィルモグラフィー的に追っかけたりするのに非常に困ったりするんだけど… どうせ、ローマ字読み
なんだし、スコラのままで良かったのでは?
などということが気になったりもしたけど、映画自体は、「イタリア映画」で、観て良かったです。
まぁ、平日最終回の映画を観る時は時間に余裕が無いので、ファーストフードを慌てて詰め込んで、こういう映画を観ることになる、 というのは何か納得出来ないものが有ります。「バベットの晩餐会」とまでは言いませんが、釜ゆでのスパゲッティくらいはお腹一杯食べてから観たいような…
眠い。起きたのも昼近くというのに、昼下がりにまたうたた寝。そんなにまで寝て見ていた夢と言えば、面白いホラー映画とは何か
な話だった(^^;;
ホラー映画といっても、最近、流行のサイコホラーとかじゃなくて、もっと洋モノの、お化け屋敷的なというか、オーク鬼がいる
ダンジョンみたいな、魔物ぞろぞろの世界(夢の中なので、何でそういう縛りなのかは不明)。
主人公はデビルマンみたく、悪い側の者が、途中で正義側のヒーローに裏返ってしまうのが良いのではと思い、しかも単純に
悪い奴が変わるだけではなく、「一見良い人に見えるが内心では非常に腹黒い奴」(中世の聖職者とかでいそうなタイプかと)が
そうなるのはどうかという話になり、どうしてと聞かれて、「Papa told me」の知世みたいな女の子が「だって、(普通じゃ)つまんないじゃん」と言い張るのを見ていた、
という夢だったのだが、夢の中まで、素直な話は嫌いなのか、私。…というか、そもそも何故、こんな夢を見る?
でもまぁ、目が覚めてから思ったのだが、このストーリーだと、元々ヤな奴が良いことするなんて何てヤな奴、
としか思われないよな、きっと。
ところで、夢なので渾然一体、当の映画?自体も見ているわけなのだが、その中の一場面、非常に深い、けれど無限ではない
地下洞窟を、エレベーターのようなもので、下に向かってチキンランレースをするという試練は、確かに滅茶苦茶恐いかもしれない
とは思った。つまり、次の瞬間、地面にぶつかってしまう恐怖を感じつつ、落ち続ける加速にどこまで耐えられるか、という競争。
長い坂道を自転車に乗って、ブレーキを掛けることなく笑いながらどこまでも下っていける、というのが野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」に出てくる夜長姫の描写だったが、
普通の人ならすぐにブレーキを掛けてしまうこと間違いない。しかし、これって実際に映像にすると、せいぜい「インディ・ジョーンズ」レベルの活劇にしかならないような気も…
起きてからは「ウルトラジャンプ」「サンデーGX」を読んだくらい。「最終シスター四方木田」の「癒し系だ!」の背景が笑えた。(いっぱいいる)とか。
職場から帰ろうとしていた夕方、ややショッキングな知らせがあり──というより、それを聞いて自分が動揺したことに
ショックを受けた、というのがより正しいのだが──どこか小さいBarで、一人でグラスを傾けたい気分に陥る。しかし、基本的に
私は酒を飲むという習慣自体無いため、飲み屋ばかりの新橋で乗り降りしていながら、その手の場所にとんと疎いのだった。
結局、駅近くのProntoのカウンターで、ビールと水のように薄いジントニックを飲むだけで諦める。何か、二重の意味で情けない
有様の私…
今日の「ふるさと日本の言葉」は富山県。富山というのは関西語圏と関東語圏の分水嶺に位置しているという。例えば、塩を
舐めた時、私たち関東以北の人間は「しょっぱい」と言い、一方、関西以西の人間は「辛い」
と言うらしいのだが(という違いがあることも今回初めて知った)、富山県では東の方の町では「しょっぱい」、西の方の町では
「辛い」、と言い方が別れるらしい。で、真ん中にある富山市では、何と「しょっ辛い」というのだった(^^;;;
「2001年ナイアガラの旅」、即ち、新作はナイアガラーにとっての久しい夢であったが、それは
叶わなかった代わりに、あの「A Long Vacation」のリマスター盤が、アルバム発売から20年目に当たる
3月21日に2,001円(税抜)で、いよいよ発売される。というわけで、最近、その方面では非常に盛り上がっている様子。
今回は噂に聞く限定10,000枚だったカラオケ「Sing
A Long Vacation」もボーナス・トラックとして全曲追加されるし、
勿論、買いなのだが、聴いてみてリマスタリングによる音の違いが果たして、私にも分かるものなのか、やや不安(^^;
とりあえず、準備作業として、大滝詠一のインタビューが掲載されている「レコード・コレクターズ」4月号と、アルバム発売当時の記事を再録している「Sound & Recording Magazine」4月号を売り切れる前に買っておく。
両方とも、「ロン・バケ」のジャケットを表紙に使っていたので、すぐに発見。
かめくんの話だということは他の人たちの書評で見ていたし、 大体、題名自体「かめくん」なのだから、読んで、なるほどとは思ったもののそのことには特には驚かなかったのだけど、 こんなにも現在のモノ、というか文化をそのまま引用しているとは思わなかったので、それには少し驚いた。淡々とした話の中に、 あえて言えば笑いを取ろうとしていると思われる箇所と、感傷的になって欲しいと思われる箇所があって、前者について言えば、 今一つのような気がしたが、全体として狙い通りのことは多分、出来ているのだとは思う。
この適当に面白いのが困っちゃうんだよな、と不遜にも思いつつ、読んでいた。薄井ゆうじの作品は
いつも、ほどよく巧み、というか、純文学というよりは明らかにエンターテイメントよりの小説で、非常に読みやすい反面、
後に残りにくい、という欠点があって、特にこの作品では書き方が洗練されていたり、近未来SF的な設定から始まったりする分、
それが一層目立ってしまっているという気がしたのだ。
しかし、読み終えてみるとこれはこれで良かったのかな、とも思う。少なくとも、後半、
もっと盛り上げる方法はいくらでもあったにも関わらず、主人公の少年を追うことに専念して物語を終えたことに対しては、
作者のある種の誠実さ、とでもいうものを感じた。
決して、傑作ではないと思うが、薄井ゆうじの作品を考える上では外せない作品である、
と言えそうな気がする。
3月も半ば、というわけで、季節物の紅茶を買いに出掛ける。そう、去年も買ったこれ。多分、レピシェが作り出したブレンドの中での今までの最高傑作、というか
ヒット作で、恐らく、数年内に、雑誌等で紅茶屋の定番のブレンドを特集したら、マリアージュ・フレールの「マルコ・ポーロ」
などと一緒に必ず取り上げられるようになる銘柄だ、と勝手に予想しているのだが、何はともあれ、桜餅を食べる時にはこれでないと、
ということで。
あっ、今年は緑茶バージョンが新登場している! 910「SAKURA・VERT」(サクラ・ヴェール)という名前。こちらも50g買ってみる。
久しぶりにチラシの「レピシエだより」を眺めると、いつの間にやら随分、店が増えている。そうか、博多は大丸エルガーラ店内に
有るのか。こうしてまた一つ、某作品に最近登場したキャラクターの名前の由来が分かったりする…
↓の感想をまた更に少し書き直す。そろそろ諦めの境地(^^;;; それにしても私って、気持ちが先行してうまく語れないタイプかも。
テケテケ。
今週は割と忙しめ、何も出来そうに有りません。せめて、 勤め先との行き帰りが暖かくなって欲しいもの。
国語辞書について色々な面から語っているエッセイ。私のような、言葉好きにとっては興味深く、
面白い本だったが、中でも、非常に重要だと思われ、かつ考えさせられたのが、「常用漢字表VS国語辞書」の章における、異字同訓の漢字の使い分けをめぐる話だった。
私たちはともすれば、辞書とは異字同訓の漢字の使い分けを調べるものだと考え勝ちだ。「はかる」と
言った場合、測・量・計のどれが適当なのかとか。そして、その使い分けに詳しい人=漢字に詳しい人だと考えてしまっている。
このルールを示しているとされているのが、常用漢字表ルールであり、その資料となったのが
国語審議会が作成した「『異字同訓』の漢字の用法
」なのだが、しかし、その資料は、歴史的な使用状況を
分析したものでも、書き分けのルールを決定するためのものでもなかったことを著者は指摘する。それはもともと、漢字で書き分けが
出来る音訓を示すための参考資料に過ぎなかったのだという。
にも関わらず、今では国民の多くが、常用漢字表ルールを伝統に基づいた正しい権威と見なして、
書き分けを当然のことだと思いこんでいる。ルールが出来て以来、「正しい日本語の書き方」の一つとして、そのように「国語」の
時間で教えられてきた「成果」といえよう。
しかし、戦前は例えば「暖かい・温かい」の使い分け規則など存在しなかった、という歴史的な事実が、
実は辞書を引くことで分かる。大半の辞書は「暖かい・温かい」を並列に書いており、使い分けを指示していない。辞書が過去の文例の
分析を基に成り立っていることを考えれば、それはつまり、過去の使用例を見る限り、両者の使い分けはなされていない、ということに
なる。
カフカの小説にでも有りそうな、元を辿ると誰も命令などしていない、
従って根拠など勿論無いにも関わらず、現実では
「規則」として遵守が求められる、という情景。それを滑稽と見るか、笑えないと捉えるべきなのか。
どちらにせよ、辞書に「使い分け」という「正解」を求めているのは私たちである、ということも
また事実だ。つまり、「規則」を望んでいるのは私たち自身だということ。なぜなら、その方が楽だからだ。
今もこうして、パソコンの日本語入力ソフトを使用して文章を書いている。その過程においては
絶えず漢字変換(しばしば異字同訓からの選択を含む)を行っている。その際の「答え」は一つだけの方が楽に決まっているが、
そういう割り切り方は、単純な一対一対応だけで決着する筈のない日本語の表記を貧しく狭めてしまう恐れがある。
自分の責任で、使用する言葉(そして漢字)を選び取ろうとする人のために、恐らく辞書はあるのだと思う。
安易な解答集ではなく、謙虚に耳を傾けるべき先例として、もっともっと活用されるために。
以前、感想を書いた江國香織の「絵本を抱えて 部屋のすみへ」にも大きな影響を与えていると思われる、
絵本を読みこんでみる、という日本語での試みの多分、草分け。絵本作者でもある著者の、流石と思わせる、明快な読みこみ方が
素晴らしく、また編集者の小野明との会話の(二人の会話形式となっている)軽妙なやり取りも楽しくて、あっと言う間に
2冊とも読み終わってしまった。
しかし、ここに書かれていることを味わい尽くすには、長い長い時間を必要とするだろう。
それくらい、深い内容が書かれている、と言って良い。もちろん、ここで取り上げられている絵本(特に長新太の「キャベツくん
」であるとか、林明子 の「こんとあき
」であるとか)をとても読みたくなってしまう、という点で、絵本のbookguideとしても非常に優れた本であると思う。
それにしても、絵本について書いた本にはどうして素晴らしいものが多いのだろう。絵本自体も
素晴らしい本とそうでない本があるように、たまたま、優れたものだけ目に付いたのかもしれないけど、対象がシンプルなだけ、
誤魔化しが利かない、ということが大きいのかも。
久々に「キネ旬」など立ち読みしていると、鈴木清順の新作の記事が。
ええと、江角マキコが主役って、ああ、ワイドショーか何かで記者発表の模様を見た奴だ。その時は、どうせ「夢二」とか、あの系列だろうと思っていたのだが。実は何とあの!「殺しの烙印」をタイトルに含むアクション映画だという。 しかも、特技監督(という
クレジットかは不明)は樋口真嗣で、脚本は伊藤和典ですって! 一方、美術は勿論、木村威夫だし。ああっ、見たい、見たい、早く見たい。
ところで、どうでも良いことだけど、「殺しの烙印」の宍戸錠と「究極超人あ〜る」のR・田中一郎って、どちらも電気釜で焚いたご飯の匂い好きという点で趣味が共通。ほかほか。
昨日は、朝歩いていると、沈丁花の香りがふわっと漂ってきたりして、もう春だな、などと暢気に思ったりしたのだけど、
この時期そう素直には季節は変わらない。というわけで、またしても寒さに震える今日この頃。
今日はそんな中、帰りに寄れる本屋を増やすべく、八重洲ブックセンターへと久しぶりに足を運んでみる。距離的には、
勤め先から地下鉄で一本、徒歩含めても十分で着くのは大きな魅力で、冊数的に言っても、普通の本を買うにはかなり頼りになる、
と思われたのだが。
結論。ここは駄目です(^^; 私とは合いません。趣味が合わないし、本は探しにくいし、エスカレーターは暗いし、
しかもそのエスカレーターは文庫を置いてある階まで無いし。何か、根本的なところで「相性が合わない」という感じ。
まぁ、前からそう言う気はしていたのだけど。
う〜む、やはり三省堂/グランデ辺りまで出てしまった方が良いのか。でも、神田まで出るのって、ちょっと不便のような…
読んでいて、強く吐き気を覚えた。勿論、通勤電車で実際に
そんなことは出来ないので、精神的にただ、そう感じたということなのだが。
世代論、というのは、小説を読む上で何ら役に立たないものの
一つだとは思うのだが、それでも自分と同い年の作家が書いたものを読むと、その「作品世界」の基層に、自分の過去と共通の
ものを発見して、ひどく動揺してしまう、ということは、まま有る。
私の場合、例えば上遠野浩平 や阿部和重が同い年の作家、ということになるわけで、
阿部和重の「小説」はもともと他人事とは思えないのだが、この「アメリカの夜」のように、主人公が「映画のひと」でしかも
「読書のひと」であったりすれば、それはもう嫌になるくらい「かつての自分」をそこに発見してしまっても不思議ではない。
とはいえ、この小説の主人公や、あるいは語り手が私に似ている、のではない。それはいくら何でも、
あんまりというものだ。愚鈍さと言う、ある種の崇高さが伴ったりもするような状態とは全く無縁の、単に愚かなだけの主人公に
共感など一つも持ち合わせていないのにも関わらず、その気になれば私が、彼(というか語り手?)の後を受けて、書き続けられそうに
さえ思えてしまう、ということが恐いのだ。
だから、読んでいて覚えた吐き気というのは多分、読んでいる小説が、自分自身の過去と完全には
区別出来ないような気持ち悪さから来ているのだと思う。クローネンバーグのくっついちゃった世界みたいな、てそれはまた違うような。
ところで、「小説」としては面白いけれど、「物語」としては酷いとしか言い様のないこの作品は、
では「映画」には成り得るのだろうか?などということを考えたりもしたのだが、映画を作る過程を描いた「映画」が大抵は
愛すべき失敗作で終わってしまう中、この「映画」も多分例外ではないだろう、と思った。ちなみにトリフォーの「アメリカの夜」は「愛すべき」作品であることは間違いないが、果たして
数少ない例外と言えるかどうかは私には定かではない。
部屋の隅を整理していたら、「絶句」と書かれたカセットテープが出てくる。
どうやら、大昔、NHK-FMの「ふたりの部屋」というラジオドラマの時間帯で放送されたのを
録音したものらしい。見ると、テープに何やらカビが! けれど、再生は出来そうなので、デッキに(そういえば、カセットを
再生すること自体、数年振りだ)掛けて、聴いてみる。
…これは、最終回か。しばし、絶句、というか(笑)、聴いている方が恥ずかしくてたまらない、のですが。世の中には
封印しておいた方が良いものがある、ということかも(^^;;; 登場人物の「素子ちゃん」の方ではなく、「作者の素子」として新井素子本人も声の出演をしている辺り、ある意味貴重な気もしますが、多分、作者も今となっては
封印しておきたいラジオドラマなのでは。声優陣が今とはすっかり入れ替わっている中、神谷明だけそのままなのが印象的。
B面には、この「ふたりの部屋」というラジオドラマ帯の中でも一、二を争う傑作だった(と思われる)「ちはやふる奥の細道」(W.C.フラナガン・原作、小林信彦・訳)の第1回が。といっても、
本放送ではなく、この枠が無くなる最後にアンコール特集をやった時の「さよなら ふたりの部屋」として再放送をした時の録音らしく、
番組の前後に伊武雅刀と島津冴子のショート・コント付き。これは今聴いても滅茶苦茶、
面白いですねぇ。W.C.フラナガンの声を担当した小林克也の怪演振りが何とも。こういうのが、それっきりになってしまっているのは本当、惜しいような気が。
ところで、「絶句」の方ですが、ラジオドラマのタイトルとしては「…‥」無しで正しいみたいです。
今日の、「ふるさと日本の言葉」(「石川県」)よりメモ。山中市の辺りでは、子供を褒める言葉が沢山有って、その中の一つ。
丸々と健康そうな子供に対して「うまそう」と形容するらしい。……ジムシイ?
多分、自分が今まで育ってきた「世界」とかなり近いもので
構成されている小説、なのだけど。主人公がイノセントであることを物語の大前提としていて、それはジュブナイルの在り方の
一つとしては分かるのだが、そういう物語は、少なくとも私にとっては余り意味がない。だから評価し辛い。雰囲気は、登場人物の
キャラクターを初めとして、全体に懐かしくて、非常に好きなんだけど。
ところで、本当にどうでもいいことだけど、巻末の参考文献に、なぜ「ときメモ」が
無いのか不思議。図書委員の先輩に、「あの人」が出てくるのに。
久々に、ブギーらしさを感じた。というか今回は、前面に 作者が出過ぎていないので読み易かった、というところか。
このように書評や感想を書く、というのは、読んで得たことを確認することで、読んだ時間を取り戻す、 というか少なくとも無駄ではなかったと思いたい、という欲望を抜きにしては成り立たないと思うのだが、その意味では、 どうにも書きようがない作品。いや、時間は取り戻せないという真実を教えてくれる貴重な作品なのかもしれないが… そういえば話中に諺が引用されていたような。「空海、先に立たず」、だっけ?
基本的には「おもいでエマノン」と変わらないので、前作が気に入った人であればどうぞ、 という感じだけど、今回分に収められているのは、書かれた時代を反映してか、一昔前のエコロジカルな物語ばかり、という印象が 強くて、今読むのはちょっと辛いような気も。もっとも、個人的には、鶴田謙二のエマノンのイラストが更に見られる、というだけで 満足だったりはしますが。
久しぶりに湯島作戦で箱根湯本温泉。ていうか、湯本行くのって、ちょうど一年振り。つくづく、月日の経つのは早いものである。それにしても、なぜ歴史は繰り返す、
というか同じ行動に走ってしまうのか我ながら不思議。単に寒いから温泉に入りたくなるだけのような気もするけど。
ともあれ、全く同じ温泉というのも芸がないので、今回は「箱根の湯 花紋」という所へ。
料金は2千円と日帰り入浴施設としては高め。浴場は2F、休憩場と更衣室は5Fで、間を浴衣で移動するのが
ちょっと変わっている。お湯は弱食塩泉で弱アルカリ性。値段のせいか、割と空いていて、ゆっくりと入れたのは良かった。
それぞれの湯は、秀吉に因んだ作りとなっていて、例えば桶風呂が、秀吉が幼少以来好きだったとの板とともに置かれている。
う〜む、秀吉、天下だのモビットだの言っている割には(言ってません)、そんな幼児退行的な、というかアルタードステーツ的な
入浴だったのか。色々な湯の中では、壺風呂というのが良かったです。大きな壺にぬるめのお湯が入っているもので、壺の肩に、
首と足膝を掛ける形で入っていると、うとうとするくらい気持ち良くて。これも割と退行的な気もしますが。ただ、洗い場で
ちゃんとお湯が出なかったのは大きなマイナス。2千円なのに。
全体的な感想としては、入った印象は悪くないけど、コストパフォーマンスを考えれば、もう一回来たいとまでは思わない、
というところ。
帰りには小田原でComicsの調達。駅の近くに、かなり充実した専門店があることを、夏に、駅付近を徘徊した時、発見したのだ。
結城心一「ももえサイズ」の他、三部敬「テスタロト」、小泉真理「ジンクホワイト」、橋口隆志「ウインドミル」9巻、CLAMP「ちょびっツ」、野中英次「魁!!クロマティ高校」。なかなか探しにくいものも
合わせて購入出来たので、満足。これくらいの本屋が横浜以南の駅近くに有れば良いのだが。
3月ともなると、さすがに忙しくはなってきたのだが、それはそれとして? 夕方からKAORI BIRTHDAY LIVEへ。
平日の夕方だし、少なくともスーツ姿が一割くらいかと思っていたのだが、本日のゲストのファン層より客層はもっと若く、
会場内のそういう姿は、現首相を支持すると電話回答した人の割合ほども見当たらなかった… ていうか、そもそも
真っ当な社会人なら、金曜夕方6時半にライブハウスにいること自体、無理があるような。
ところで、この会場の辺りって渋谷の東側なのだけど、昔、私がこの辺で働いていた時の担当地域のいわば外れで、
当時、日々歩き回っていたことがあるのを思い出し、言葉にならない感慨が。こういう形で再びこの地に足を踏み入れることが
有るとは思ってもみなかった。
それにしても、混んでいるライブハウスで、185p以上の身長があるのに、前の方に立つというのはどうかと
(そのような二名のお陰で、歌っている本人がよく見れなかったらしい。ゲスト二人はよく見えたのでまぁ良いか、
という話もあるけど。←本末転倒)。
足りないモノの中、とりあえず岩原裕二「狼の瞳」は回収。
今まで、ひたすら「よくできたお子さん」に 思えた練だけに、この巻の彼はやや意外。なんだけど、良く分かる。非常に良く分かるぞ、練君。その過ち?をここ1,2年、 嫌!というほど繰り返し、体験してきた私としては。あの、目の前が真っ白になる感覚もお馴染みだし(^^;
解説でも触れられているけれど、ラスト1行は、 論理パズル上は「余計」だと思う。しかし、これを書きたいがためにこの作品を書いてしまった、という印象も受ける。西澤作品で、 そういうロマンティック?なものを読むとは思わなかったので、予想外に得した、ような気分??
書きたいことは、前回再読時に書いてしまったのでそれ以上書くこともない、というか、それしか書くことないのか? という気もするけど、とにかく祝・文庫化! これで、加納朋子を人に勧める時に、困らなくなったという感じ。多分、これが一番勧めやすい作品なので。