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今回も名前の話、といえば言えるかもしれない。私は、人の顔と名前を覚えるのが苦手で、いつも苦労しているのだが、以前一緒にいた人の名前も実はよく覚えていないことが多い。前に仕えた上司の名前だとか(役職名で認識していたためなのだろうが)、昔同じクラスにいた同級生の名前とか。
そんなわけで、一昨日届いた「結婚式二次会のお知らせ」の、今度結婚するらしい某君が誰なのか思い当たらないとしても、それほど驚くべきことではないのかもしれないのだが、幹事として名前を連ねている三人の名前まで全く思い出せないとすると、さすがに考え込んでしまう。
文面には、中学校の時の同窓生に案内を出した旨、書かれているのだが、クラス替えが毎年あったので、いつのクラスを指しているのかは不明。こういう時は、卒業アルバムの類と照合すれば良いはずなのだが、何故かこういう時に限って、中学の時のアルバムだけ、どこか奥深く眠っていて、とても探し出せそうにない。
幹事の住所は私の住所の近く、ということは、すなわち小学校も同じ筈と思われたので、小学校の卒業文集を見てみたのだが、思いの外、載っていた大半の名前への記憶が有ったにも関わらず、彼の名前自体、そこには無かった。ということは、中学から転校してきたのだろうか?
案内自体間違っているのか? それとも私の記憶が欠落しているのか? あるいはこれは新手の人寄せ商法なのか? 少なくとも、私は自分の思い描いていた「過去」のもろさを感じさせられた。本格ミステリの登場人物ではないので、それで世界が一変したり、忘れようとしていた過去の犯罪を思い出したりしたわけではないにしろ。
私の過ごした中学校生活、そこには「誰」がいたのだろうか…? そして、私は「誰」の中学校生活に存在していたことになっているのだろうか?
今回も名前の話である(笑) 一昔前、自分の子供に「悪魔」と名付けようとして区役所と揉めた父親がいたが、結局、どういう名を名付けたのだったか。本人の意思とは関係なく一方的に押し付けられるという点で、名前、というのは、有る意味、親から贈られた災難としか言い様のないものかもしれない。ちなみに、名字は先祖から贈られた災難、であろう。私の場合、名前は気に入っているのだが、名字が昔から嫌いで… 話がそれてきた。
仕事上の知り合いの人に「原」さんという人がいる。まぁ、大して珍しくもない名字だ。先日、仕事の関係でこの人とその奥さんの住民票が必要となり、面倒なので家族単位の住民票1通を役所に請求した。貰った住民票には、本人と奥さんと子供の3人の名前が有り、3枚目を何気なく捲ってみるとそこには「原子力」と印刷されていた。え? もう一度見る。「原 子力」。………はら こぢから??
きっと「開いた口が塞がらない」とはこういう瞬間のために有る言葉なのだろう。確かに一度見たら忘れられない姓名だが、良いのか、そんな名前で? その子力くんの子供時代が不幸でなかったことを祈るのみである(もう成年らしいので)。しかし、変な人だとは思っていたが… とりあえず、私はそういう名でなくて良かった、と心底思った。
日頃、運動不足そのものな生活をしているので、休日、仕事の合間を縫って、今いる住宅街を散歩したりしているのだが、暫く住んでいなかったとはいえ、2歳半からの住所なだけに、そうそう新鮮な発見はない。ただ、散歩の途中に出くわす表札の名前の中にはどう読んで良いのか不明なものもあり、見る度に少し気になる。例えば「新行内」という名字。しんこうない、で良いのだろうか。いまだに分からない。
などという話をたまたま合った友人にこの前していたら、彼の職場の同僚に、「日本人の珍しい名字」マニアみたいな人がいる、という答えが返ってきた。何でも、そういう専門書?があるらしく、その人の職場の机(ちなみに、彼は地方公務員)に何故か置いてあるのだという。その本によると、一という名字があるらしい。読み方は、「にのまえ」だとか(笑) ほんとかよ、と思わず言いたくなる名字だ。となれば、その名字で名前も「はじめ」にすれば、もうこれ以上無いというシンプルな姓名が出来上がることに。にのまえ はじめ。一 一。計二画。テストの時とかにこれほど有利な姓名は無いと思われる。問題は、多分、誰も正しく読んでくれそうもないことだが。縦書きにしたら、二と全く区別が付かない辺りも難点かもしれない。
しかし、広い世の中のことである。にのまえ はじめ氏だって存在していないとは言い切れない。いや、いたから何になるというわけではないのだが。
(後記)「新行内」という名字の読み方については、何と、その名字の方から、メールで読み方を教えて頂いた。「しんぎょううち」と読むのだそうだ。
平日と言えば朝から晩まで会社で仕事をしているわけだし、休日はせいぜい本屋へ出掛けるくらいで後は寝ているか、やはり仕事をしている、という今の生活に一番欠けているものといえば、季節感だ。昔は、星の位置や、空の高さや木の葉の色で季節を感じていたというのに、今ではせいぜい暑いか寒いか、でしかない。
そんな今の私に季節を教えてくれる数少ないものの一つが、実は郵便局のゆうパックだったりする(笑) といっても、誰かからゆうパックで物が届くとか、逆に送ったりしている、というわけではない。夜間、郵便局に仕事で内容証明郵便をしばしば出しに行くのだが、出したことがある人は分かると思うが、あれは受付に時間が掛かるため、かなり待たされることになる。仕方がないので、その間、置いてあるゆうパックのチラシを眺めて過ごす。そして、その時置いてあるチラシから、ああ今はアスパラが旬なんだなとか知る、というだけの話なのだ。
で、最近見たチラシが愛媛の果樹園のチラシだったのだが、そこで紹介されていたのが、清美タンゴール、なのだった。他の、伊予柑とかぽんかんとかは分かる。でも、清美タンゴールって何? …もしかして、皆が知っていて、私だけが知らないのだろうかという不安に猛然と襲われる。
帰って、ネットで検索してみる。なるほど。みかんとオレンジの合いの子。そういえば、みかんのように皮が剥きやすいオレンジとか何とかいうのを聞いたことがあるような気はする。食べたことがあるかどうかはよく覚えていないが。清美、というのは新種としてのネーミングか。なるほど。交配して登録するまで30年。作る方も代替わりしてそうで、新種を作ることの大変さを改めて感じたりもする。
…それはいいけど、タンゴールって何? 表を見ているとタンゼロというのも有る… 専門用語という奴なのであろうか。調べた限りではオレンジ系の雑種?をタンゴールというところまでは分かったのだが、でもタンゴールという言葉自体は分からないままなのが、何というか、こう喉につっかえた感じで気になってしまう。ひょっとしてタンジェリンのタン? じゃあゴールは? 柑橘系の専門用語に詳しい人がいたら、ぜひ教えて欲しいものだ。
それからどうでも良いけど、ネーミング。清美や朱美といった、一昔前のバーのホステス系と、サザンレッド等の、まるで戦隊物のヒーロー系に別れているのが、妙におかしい。
ところで、清美で思い出したのが、スペイン語では果実は皆、女性名詞(例えばオレンジならnaranjaとかブドウならuvaとか)という事実。学生時代、スペインを旅行していた時、市場で果物を買うのに、unoと言えば一キロ(uno kirogramos)だし、unaといえば、一個を指すことに、気付いたのだ。こういうのって、生きた外国語学習って奴だけど、一ヶ月もいた割には、他は大して何も学習せずに帰ってきてしまった情けない私ではあった。
ちなみに、清美タンゴールの旬は4月から5月。というわけで、食べようと思っても、1年後だ(^^;
ともあれ、ゆうパックのチラシでしか季節を感じられない生活はちょっと哀しすぎる、と自分でも思う。
という言葉の原典は何か、ということがこの前読んだばかりの金井美恵子「彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄」という小説の後半で登場人物の中で話題になり、その答えは、本作で初めて登場する、「少しは話の分かる奴」だった、気弱な文学青年(というステレオタイプな言い方も今時、どうかとは思うけれど)の小林クンが、酒の席で「あたし」と花子に披露することになるのだが、その意外な答え自体については、小説を読んで確認していただくとして、なぜそんな言葉が話題になったかというと、それは主人公の「あたし」が30歳にもなって、定職にもつかずブラブラしている、ということについて、いささか後ろめたい思いをさせられる、その元凶としてこの言葉が登場するからなのだった。
もちろん、「あたし」も花子のお母さんがやっているパテ屋のバイトに加え、小さな学習塾で講師もやっていて、決して無職ではないのだけれど、ここでいう「働かざる者」の反対語となる「働く者」には、定職を得てまっとうな人生を生きる、というニュアンスがある訳で、その良識というか、常識の押しつけがましさに「あたし」は凄く嫌、と思いもするとはいえ、だから、「あたし」が小説家の姪という立場を活かした?新人作家としてのデビューをする、とかあるいは、その内に結婚という転機を迎えるとかの、「解決方法」が小説の最後に登場するわけではなく、相も変わらず、モラトリアムは続いていく、のだった。
ところで、なぜこんな話をしているかというと、読んでいて、「私」も何だか他人事とは思えない、という気がするからなのだが、「私」の場合、大学を卒業した時に入社した会社で8年以上働いていて、今も働いているわけなのだから、別に「働かざる者」であるわけではないし、自分の給料で生活している以上、「食うべからず」と恫喝されるいわれもない。
しかし、いわゆる「天職」という言葉を思い出したときに、「私」の今の労働環境というのは、全然当てはまらない、どころか、自分を殺す、ことでしか、成り立っていない上に、職場の期待というのに「私」も全然応えていない状況で、いわば仮の姿とでも思っていなければとてもやっていけないような、今の在り方は「働いている」とは言い難い有様、ということなのだ。
従って、冗談ではなく、ここでこの仕事を辞めてしまっても何年くらい暮らせるだろうと、ふと自分の全財産の残高照会をしてしまったりもする今日この頃で、ついでにいえば、それは普通に暮らして3年くらいではないかとも思うのだが、問題は3年後にどういう「働き方」を選んでいるかであり、どのみち、手に職のない!人間としては、これ以上の「まっとうな」「労働」への前向きな転身というのは、正直なかなか思い付かず、今のところは辞表を書くには到っていない。
とはいえ、このままではいけない、というのも多分、事実であり、近い内にアルバイトの片方(学習塾)の職を失うことを告げられる「あたし」の不安定なモラトリアムも本当に他人事ではないよなぁ、といささか憂鬱な思いで小説を読んでいたのだった。
いっそ、競争者は馬鹿ばかり、な世界でも目指そうかと思わないでも無かったりもするが、しかし、それは成算というものを度外視した生き方だし…
先週、久々に「温泉」に入った。その気になれば、温泉に入ることが出来るというのは、日本人に生まれて良かったことの一つだと思う。
ところで私は、勤め始めてからは旅らしい旅をした記憶が全く無く、ましてや日本各地の温泉巡りなどしたことなどはないのだが(してみたい気はする)、学生の頃にはさすがに、多少はそういう旅行もしていた。
そんな中で、山陰地方をぐるっと旅した時に三朝温泉に寄ったことがある。
三朝温泉は山中にある、古来より(よく知らないが、曲玉の産地らしいから、その頃からだろう)有名な(何せツムラの「日本の湯」シリーズにも登場する)温泉で、効能も高いらしい。いわゆるラドン温泉。何でもラジウムの含有率が日本一高いのだそうだ。そのせいか、温泉はややヌルヌルとする独特の感触。出てからも30分以上火照りが冷めないくらいで、かなり効く感じだった。
で、浴場の壁に、案内のチラシが貼ってあって、遠くからは「キューリ祭り」と書いてあるように見えた。キュウリの祭りか… 奇妙な祭りもあるものだとは思ったが、当時住んでいた京都には、大小様々な奇祭が目白押しで、銭湯の壁に夏には赤山禅院で行われる「ヘチマ封じ」の案内が貼られていた(比叡山で千日なんとかという荒行を体験した位の高僧が行う、というのがまた驚き)こともあり、まぁそういうものもあるかもしれない、と思ってチラシをよく見てみると、それは「キュウリ祭り」などではなく、実は「キューリー祭り」なのだった。
キューリー。そう、あのキューリー夫人である(笑) なんでも、読んでみると、ラジウムの含有率が高いということに引っ掛けて、放射能を初めて発見した彼女を偲び、だか、称えだか、する祭りで、当日は何と、在日フランス大使まで出席するのだという。
…………。フランス大使が来るというのは、温泉のための避暑旅行だよな、きっと。それにしても、山陰の山中でキューリー夫人の祭り。空の大怪獣としてのラドンを祭る祭りでもあった方がまだしも納得出来るというものである。
そういうわけで、見たことはないが、毎年8月には今でも三朝温泉ではフランス大使と一緒にキューリー祭りが行われている筈である。
(先週までのあらすじ)
仕事は溜まっているけれど、少しは仮眠しないと仕事自体出来ない。と思って寝たが最後、全ての目覚ましを止めて起きなかったという悲しい事件に遭遇した私は、対抗策として、止めてもまた鳴る目覚まし時計を2つ買うことで、今週の睡眠不足に備えたのだった… て、下を読めば分かるって。
で、その結果が気になる人も、もしかしたらいるかもしれないので(いないって)、今回は初の続編(笑)である。
月曜の夜。凡そ2時間後の1:20にセット。小鳥の鳴き声と何回か、格闘したような気がするが、2:00過ぎには起きる。一応、成功だ(^^;
火曜の夜。昨日の成功に味を占め、布団で寝る。時間は昨日と同じ予定。……熟睡の爆睡に陥る。なぜか、3:00過ぎに起きたことの方が奇跡か。
水曜の夜。早帰り日だったので、9時頃から12時前まで仕事。昨日の失敗を反省し、布団は危険だと座椅子で仮眠。何とか一度、意識が2:30頃に回復したのだが、その後また意識を失ったらしく、気が付けば、3:45過ぎ(T T) 大失敗。付けていたTVの音声を小さくしていたのと、流れていたのが、フランス映画の「主婦マリーのしたこと」(監督はシャブロルだっけ?)で、セリフをぶつぶつ喋るだけの映画だったのも、敗因の一つ。当然ながら、その後は寝る時間無し。
木曜の夜。もはや、仮眠をする暇もない… というわけで、そのまま仕事。起きていると2つの時計の音は充分に大きく、これで寝てしまうとは信じがたいものが。とはいえ、4:30過ぎには活動限界に達したので、6:20まで寝て出掛ける。
…教訓。布団は危険。暗くすると更に危険。手が届く限り、何回鳴っても、何回でも眠れる(笑) 音がしていなければ、目を覚ましてもまた意識は途絶える。何をやっても寝てしまうときは寝てしまう。ということは、明るい部屋で、TVを付けっぱなしで、手の届かないところで繰り返し目覚ましを掛ける、ことで起きられる筈なのだが、…来週もこの調子で行くのだろうか。
やってもやっても、仕事が終わらない。という悪夢のような状況の下、当然ながら、削れるところは睡眠時間だけ。というわけで、平均3.5時間睡眠の生活が続いている。まぁ、中にはナポレオンのように、3時間も寝れば充分な人もいるのだろうが、私は通常6時間、理想を言えば9時間は寝ないと完全な睡眠を取ったとはとても言えない人間なので、今の状態は、非常に睡眠不足なのだが、やむを得ない。
したがって、家に帰ってくると、既に集中力は落ちていて、頭を使う作業など出来る状況ではない。しかし、書類は夜の内に書かないといけない。という現実の中で、可能な選択としては、まず1,2時間ほど仮眠を取る、ということしかない。ただ、それは、一度眠ったらそのまま起きられないかもしれない、というリスクといつも背中合わせでもある。
今週、そんなわけで、睡眠不足&仕事山積みの4日目の木曜の夜も、まずは仮眠をすることにした。眠りの質をupさせた方が起きた時より効果的なので、いつものように座椅子でうたた寝するのはやめて、布団にする。勿論、起きられない恐怖は強く感じたので、10分おきに3つの目覚ましが2時間後に鳴るようにセットし、布団に入る。
……。携帯電話の呼び出し音、「Day Dream Believer」のメロディがスーツの中で鳴っている。何とか手を突っ込んで止める。…あ、あれ? これっていつもの朝6:18の呼び出し設定… ということは… ね、寝過ごした!? ……。何と言うことであろう、私は3つの目覚ましが交互に鳴ったにも関わらず、それを全部止めてそのまま寝てしまったらしいのだ。久々に爽やかな目覚め方をしたものの、仕事の方は、更にどうしようもない状況に陥ってしまったのは言うまでもない。
この、「いつの間にか目覚まし時計を止めてしまった」自分というものくらい、自分自身の行動に、不信感を抱くことはないように思う。
ともあれ、反省。今日、休日出勤した帰りにダイクマで(←神奈川ローカル)、目覚まし時計を2個新しく買う(^^;;; 一番の敗因であると思われる、手持ちの目覚まし時計になかった、スヌーズ機能の確保が主眼。とはいえ、今の目覚ましは皆、スヌーズ機能付きなのだった。まずは電子音のを一つ選び(ブザーとベル音は心臓に悪いので嫌いなのだ)、それから同じ音、というのもつまらないので、小鳥の鳴き声のも買う。ホトトギスからアカハラまで6種類を選べるらしい。ちなみにどれを選んでも、なぜか合間にカッコウが鳴いている。これが起こす役目を果たすのかもしれない。
これでいつ、仮眠をしても安心だ。とはいうもの、そういう生活が続いている、ことの方が間違っているのは確かなのだが、とはいえ、そこからどうやったら抜け出せるのかは全く見通しは立たないまま。
このままでいけば、いつか、この二つの目覚ましも無効になる日が来るような気もする。その時のために、今度はボイス呼び出し(「おい、起きろ!」とか)系のを追加するか… いや、問題はそういうことではなくて…
久々に風邪を引いた。いや、まだ引いているのだが、ともあれ今回の風邪は酷かった。とはいうもの、5年前に肺炎になった時は当然ながら、この程度ではなかった。
1週間の夏休みに入るや否や急に発熱し、夜毎に高熱にうなされる。瞬間的には薬で下げても、次の晩には同じことの繰り返し。それが3晩続いて、このままではもう持たない、とさすがに地元の病院に行った。診察を受けるまで2時間近くも待たされ(しかも、その間の患者は皆、元気そうな老人達ばかりで、私は老人医療の在り方にひどく疑問を覚えざるを得なかった)、ほうほうのていで診察室に入ると、検診とレントゲンを撮られ、そのまま点滴に直行、になった。
で、ぼーっと点滴を受けていると、先程検診した医師がつかつかやって来て、横に立つと「後で話があるから」と一言言い残して去って行ってしまった。…ちょっと待て! は、話って何さ? 色々「怖い考え」が頭を駆けめぐるが、身動き一つ出来ない身であり、何も出来ない。結局、点滴が終わって話を聞くまで、不安は募るばかりだった。今考えても、無用な一言というか、つくづく無神経な医師だと思う。
結局、話とは肺炎なので(そこで肺炎と初めて聞いた)入院するかということだった。準備をする気力も無かったので、通院することで許して?もらったのだが、その代わり、その日以降、その夏休みの1週間は、毎日2回、点滴を受けに通うことになった。1回受けるのに1時間半は掛かるので、昼の間はほとんど点滴という状態だったが、さすがにそれだけドーピングを繰り返しただけあって、何とか夏休みの間に無事快復した。
その週は、つまり寮とその病院の間の700m位の距離だけを往復して生活したという意味で、最も狭い空間で生活した週でもあった。などと治ってから思ったりもした。そんなわけで私は、その時断ったので、実は今まで病院に入院したことがない。いや、別に入院したいわけではないのだが。
ところで、タイトルが何かというと、私が40度の世界を体験したのはその時限りなのだが、あれはそう呼んでもいいくらいの状態になりますね。起きていても、フルカラーの様々なイメージがすさまじい勢いで目の前を流れていく、しかもそれは自分では全く止められない、というような。朦朧とした意識ながら、半ば感心さえしてしまった。で、これは凄いと思いつつ、こんなんが続いたら、きっと戻って来れないと思った私。「2001年宇宙の旅」の、あのラスト前の跳躍のシーンのように。というわけで、あの時の肺炎は色々貴重な体験ではあったけど、もう二度と繰り返したいとは思わない。