今日も明日もいつもの道で 99'
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年も押し迫ると、一日一日と、バス停と駅のホームで待つ人の数が減っていく。20日過ぎからいなくなる学生を初めとして、はやく「休み」を手にした者から姿を消していくわけであり、考えてみると、今日もまたこうして通勤のため、乗り物を待たなければならない私達は、まるで居残りを命じられた生徒のようだ、と何か惨めに感じたりもする。もっとも、学校に通っていた頃、居残りを命じられた記憶というのは無いのだけれど。
30日ともなると、ダイヤすら休日に変わっており、不条理のようなものさえ感じるのだが、確かに車中には、背広姿の人は目に見えて減って、というか人の姿自体めっきり減っていて、JRに文句を言える状況ではない。
勤労というのは、歴史上は割と新しい概念であって、例えば「とらばーゆ」=travailというフランス語の「働く」は元々tripaliare(拷問にかける)というラテン語から来ていて、その拷問とはtripaliumという、3つの棒の付いた拷問の道具を使用するものだったらしい(だからtriなわけだ) 英語のtravelも同語源で、即ち、昔の旅行も、仕事も、それくらい骨折って苦しむことであった。好きでやることでは無かったのだ。それが、カルヴィンだののルターだののプロテスタンティズムが、勤労と信仰を上手く結びつけたというか、言いくるめたのが近代の苦労の始まりだった、ということは教科書で習う通り。
日本においては、儒教的価値観が続いてきたところに、明治の福沢諭吉とかの西洋経由の勤勉論が加わり、富国強兵政策の下、勤勉であることを強いられてきたと言える。戦争に負けて価値観が変わっても、勤勉という信仰だけは手放さなかったので、働くことが大切だという信仰の下に未だに日本人はいる。ウェーバーもびっくりのプロテスタンティズムの浸透振りだ。
などとぐだぐだ書いているのは、ええ、私にはそういう勤労精神が全然無いというわけで。こうやって周りに通勤する人がいなくなると、今頃、何で働いているんだろうという根本的疑問が押さえ切れない。本当、何かの「罰」みたい。と思ってしまう私は、この社会の劣等生、なのかも…
ま、とりあえず、今日30日で今年の「罰」も終わり。来年のことは、また来年考えるとしよう。
今さら、言うまでもないが、私と言えば、大体、いつも寝不足で疲れ気味である(笑) 勿論、世の中にはもっとハードな職場環境で働いておられる方が沢山いることも知っているが、それはともかく、私自身としては、いつも、疲れているといって間違いではない。となると、元気の出るクスリの情報、というとまるでアレだが(^^;、せめてビタミン摂取によるドーピング?で体が少しでも軽くなるなら、と思ってしまうのも、無理はなかろう。
そんなわけで、先週から疲労回復のビタミン、すなわちビタミンB群のサプリメントを試験的に飲んでみたりしている。で、その結果なのだが、実は、これがよく分からない(笑) 何と言っても一人では対照実験が出来ないので、比較しようが無いのだ。勿論、薬でもないのに、一週間やそこらで、そう劇的に効いてしまったら却って問題だとは思うのだが。
それにしても、ビタミンというのは、摂ることで効く、というか効くことが分かるものなのだろうか。欠乏して、というのは分かるのだが、例えば、ビタミンBを摂ると、糖質を代謝し、結果として疲労回復に繋がる、というのは、実感出来るのだろうか。
疲労回復といえば、ファイト一発だったりする、いわゆるドリンク剤というのも、本当に効くのか、割と謎、である。特に、一番疑問に思っているのが、タウリン1000mg配合、のあのタウリンである。
物の本によると、血圧を正常に保つ、血中コレステロール減少、動脈硬化予防、心臓強化、貧血予防、肝臓の解毒作用の強化、アルコール障害の改善、糖尿病の予防、脂質の消化吸収…と何でもござれ的な、アミノ酸。らしいのだが、しかし、それを1000〜3000mg摂ると、何かが体の中で変わるのだろうか、本当に? 1000円もしないドリンク剤に、プラシボ効果以上のものを期待するのは虫が良すぎ、なのかもしれないが、それにしてもあれだけ大々的に宣伝しているからには、何か有っても良さそうなものではないか。シェーバーのブラウンのCMのように、タウリンのおかげで、ここがこうなって、こんなにも元気になりました、と言う人を一度見てみたいものだ、などと思ってしまう。
ちなみに、ビタミンB群は水溶性なので、一応、摂りすぎの心配は無い、筈。
今日、ホームで電車を待っていると、お馴染みの、電車が来る前の警告?アナウンスが流れた。「黄色い線の内側」でお待ち下さい、というその放送に近くにいた若いカップルの男の方が、白線じゃなくて、黄色い線なんて珍しいと感心していた。…おいおい、少なくとも首都圏のJRはずっと前から皆、黄色い線になっているだろうが。と、思わずその後頭部に突っ込みを入れたくなったが、線の色が変わったことに全く気付かず何年間も平気で生きてきた彼のようなことは、多分私にもあるのだろう、きっと。私が今なお気付かない「それ」が、ホームの線の色くらいのことなら、良いのだが…
どうでも良いが、J子ちゃんの時も、ネーミングが余りにベタだと思ったが(見る度にペコちゃんの遠縁の親戚のお姉さんかと思ってしまうのは私だけか?)、不健康に成長したタンタンみたいな、今回の青年?の名もベタ過ぎ。
よく有るファンタジーの一形式として、ヒーロー/ヒロインが戦いに勝利して、その悪夢のような世界から脱出するという話がある。しかし、その世界に残された者はどうすべきなのだろうか。例えば、あのアリスが強引に抜け出してきた後の「不思議の国」では、今でもクイーンが「首をちょんぎってお終い!」と叫んでいるのかもしれない。アリスにとっては一時の「悪夢」でも、あの世界の住人にとっては、今もそれが「現実」なのだとしたら。
先週、僕のいる職場で共に働いていた一人の後輩が命を落とし掛けた。朝、寮の自室で昏睡状態で倒れているところを発見されたのだ。
直接の原因は、部屋に残されていた精神安定剤(推定)の一時的な多量摂取らしかった。それが事故なのか、あるいは発作的な自殺衝動だったのかは、分からないのだが、彼が倒れた、と聞かされた時の僕を含めた職場の同僚の内心の反応は、「やっぱり…」あるいは「いつかはこういうことが起こるのではないかと思っていた。」というものだった。
今働いている職場は前にも書いたが、旧態依然な営業至上主義がまだ蔓延っているところだ。その日の朝に突然、過大なノルマ(あくまで「目標」という婉曲話法で指示されるが)を科せられ、それが出来るまで、店に帰ってこなくても良いと言われることもしばしば。前に働いていた店では、4時迄には必ず帰店するように指示されていただけに、その余りの時代の後退ぶりには、転勤当初、唖然とさせられたものだ。
そんな中で、彼はずっと落第者のレッテルを貼られ続けていた。
僕自身も、こういう営業は好きではないし、全然向いてないと思うのだが、彼は、何というか営業と言うもの自体、つまりお客さんと話す、それ自体の適性がまるでなかったので、当然、実績を得ることも全然出来なかった。一方、こういう営業主義のトレースというのは、最下位の者を叱咤、つまりは吊し上げだ、をすることで行われる。結果として、彼はいつもいつも、スケープゴート的な役割を押しつけられていた、と言って良い。
実は、事件が起きた日の前日も、夕方に営業会議が開かれ、店として上がらない成績を巡って紛糾した結果、彼は「これから取ってこい」と夕方6時半を過ぎてから、上司によって叱り出され、9時過ぎまで外を回らされたばかり、だったのだ。もちろん、そんな時間に出て、取れるようなものなら、最初から時間内に取っている筈だ。僕に言わせれば、そんな命令は、単なる恫喝というか、嫌がらせでしかない。
それまでにも、彼は本来、当然取るべき夏休みを、実績が上がっていないという理由で先延ばしにされていた。その日の朝、意識的であったのか、あるいは無意識の選択であったのかは判然としないが、命を懸けてでも心と体は「この世界」から抜け出そうとした、としか思えないのだ。
幸い、彼は命を取り留めた。一日半の昏睡状態の後、意識を取り戻し、数日の「面会謝絶」が続いた後、会社の人間に一回も会うことなく、彼は関西の実家に帰った。親が会わせなかったのだと思う。きっと彼の今後は依願退職という形で処理されるのだろう。多分、この業界ではよく有る話だ。
ともあれ、彼は脱出に成功した、のだと思う。というか、彼の人生にとって、今回の事件がそういうプラスの意味を持ってくれることを祈っている。
だが、そういう事件を引き起こした、この職場は何も変わらない。
僕は中学の頃まで、ある意味では饒舌な子供だった。そして、少なくとも学級委員を当然の如く引き受けるくらいの優等生ではあった。正しいことは正しいと言える、いや言わなくてはいけないと信じている筈だった。
しかし… 現実に、一部の教師の恣意的な体罰の適用、という横暴が起きた時、僕は、何もしなかった。もちろん、体罰を受けた生徒に問題が無かったとは言えない。しかし、他人のために教師の反感を買ってまで、正義を主張することに踏み切れなかったのは事実だ。
肝心な時に肝心なことを言えない。のでは喋ることにどんな意味が有るのだろうか。僕は、それから暫く、軽い失語症、つまりは無口になった。
今回の事件で、僕が思いだしたのは、中学時代のそういう思い出だった。
今の職場で、僕はこの一年、経営側=店の上司と職場環境で討議することになっている。この前、最初の顔合わせとでもいうものをしたのだが、その時、上司側が、一番大切なことは何かと聞くので、人間関係?と答えると、そんなのはこちらではどうにもならない。一番と言えば、昼の食事だと断言された。人が一人死に掛けるまでストレスを掛けてくるような職場環境で、一番大切なのが、昼食のメニュー?
しかし、この環境を改善するために戦う、ことなど僕には出来ないだろう。
大体、今回の事件で悪いのは、上司? それともそういう目標設定を下してくる業務推進セクション? この業界? 単純に誰かを名指して否定して済むような問題ではないことなど分かっているのだ。しかし、いうまでもなく、「こんな世界」が正しい筈はない。
なのに、そんな環境で生活していくことは、消極的ながら、加担者として参加し続ける、ことに他ならない。一昔前、散々言われた「イジメの構造」だ。第三項排除の原則。好きでやっているわけではない。とはいえ、それが無くならないのは、構成員にとって、この「世界」が脱出可能ではないからだ。不登校を選ばなかった多くの子供にとって「学校」という場が恣意的に脱出可能な世界でなかったのと同様に、嫌だというだけで、職場を辞めるわけにもいかないのだ。
残された者にとって世界は依然として悪夢な現実で有り続ける。いや、勇者として、そんな世界は壊すべきだというのが正論かもしれない。だが、誰もが勇者になれるわけではない。結局、一番の被害者の役を避けようとして、傍観者=静かな加害者の役を演じ続けていく、しかないのだろうか…
さて、前々回話題にしたノストラダムスについて、今まで沢山出ていた本は、そのほとんど全てがいわゆる「トンデモ本」だったわけだが、私が一番面白いと思っているのは、そういう最初から「向こう側」に行っちゃっているトンデモ本ではなくて、目からウロコが落ちつつも、ホンマかいなと思ってしまうような、真実と虚構の境界線にあるような本だ。こういうのを私は、とりあえず「マユツバ本」と呼ぶことにしている。
その中でも学生時代に読んでかなり面白かった記憶があるのが、最近、集英社文庫で再刊されたウィルソン・ブライアン・キィの「メディア・セックス」というメディア論?だった。
この本は、一言で言ってしまえば、マス・メディアの影響力に対して、フロイト主義をいささか強引に適用しまくる、という内容で、おいおいと突っ込みを入れたくなる箇所も多数。例えば、サイモン&ガーファンクルの「明日に掛ける橋」は、売人が、飛んだ後の安らかな世界を示して、ドラッグに勧誘している歌だとか。映像が出てきたら何でも、性か死に関する言葉やイメージが秘かに埋め込まれていると断言しているし。
しかし、基本的なテーマ、マス・メディアの影響力の大きさについての危惧、つまり現代人はサブリミナル=意識をせず、にマス・メディアの戦略に則った行動を「自由意志」で「選んでいる」というか「選ばされている」という認識は全く正しく、強引なその例にも必ずしも笑ってはいられないのだ。
とはいえ、『そういう世界』に生きている私達が、その呪縛から抜け出すことは、映画「マトリックス」のキアヌ・リーブスでも無い以上、出来るわけもない。せめて、メディアのサブリミナルなテクニックをも楽しんでしまうことで、幾らかでも相対的な自由を取り戻す、というところではないだろうか。
そういう「楽しみ方」を教えてくれる点では、非常に教育的な本かもしれない。少なくとも、十分に面白いことだけは確かだ。
ちなみに、今回読み直して、かつて読んだ時に(本書において、無意識の内により魅力的に認識させるため、その表面上に秘かにsexの3文字が刻み込まれていると指摘されている)リッツのクラッカーを買ってきて表面をためつすがめつ眺めてみたことを思い出したのだが、私が当時見た限りでは、やはり、気のせいじゃないの?としか思えなかった。
でも、キィ教授なら、「かっぱえびせん」が『やめられない、止まらない』のも、きっとサブリミナルなイメージがそこに…とか言いそうだ。もしかしたら、その通りかもしれないのが、現代社会の怖いところなのだが…
前回、未来に何も期待せずに生きている、というようなことを書いたが、実はそんな私にも、来るべき新世紀に一つだけ期待していることがある。
それは、2001年のちょうど今頃に、某県園芸試験場が総力を掛けて長年の間、秘かに研究開発してきた“次世代”梨、その名も『二十一世紀』!が満を持していよいよ登場するのでは、という…
もっとも、『二十世紀』よりは『幸水』の方が個人的には好きなんだけど。 ちなみに、この苗辺りが有力候補なのかしらん?
僕が生まれたのは、あの高度経済成長の60年代の終わりで、記憶に残っている最も古い社会的な事件といえばオイルショックだ。どこまでが当時の記憶かよく分からないところもあるが、「買い占め」といったニュースは、幼い身にも何か大変なことが起こっているという気がしたものだ。
それ以来「不景気」「省エネ」といった言葉が交わされる中で僕は育ってきた。「使い捨て」という言葉は信じられなかった。自分でも困る位、物を捨てるのは苦手なのだ。僕は、自分が「低成長時代」に生きているという意識を持ち続けてきた。
このような世の中の見方については恐らく、一つの「予言」が大きな影響を及ぼしているように思う。あの、有名な「ノストラダムスの大予言」である。大体、ノストラダムスなど400年も前の人で、何を今さらと言った感じなのだが、厄介なことに予言詩なる物を残してくれた。これがまた、象徴的なというか、モーローとしたもので、後から解釈すると何でも説明出来る。よって、95%以上の的中率などと言われたりする。ただ、その中で、「1999年7の月、…」という、珍しく年月が提示された一節が有り、これがどうやら人類の滅亡などの悲劇的状況を意味しているらしい。
まぁ、現代人の理性からすれば、認めがたいのは確かだが、幼少期にこれ(五島勉のあれ)を読んだからか、そういう感じが染みついてしまった。実際に「最後の審判」が下るとは思わないけれど、「世紀末」に何か人類にとって重要な「転機」が訪れるのではないか。今後、「進歩」していくか、「滅亡」していくかの選択となるような。
こういう考え方自体はSF等ではありふれたもので、そういうものを読んでいる内に「定説」みたいになったのかもしれない。とはいえ、現在が「末世」的な色彩を帯び、現実問題として核ミサイルなどであっけなく全滅出来てしまう世の中だけに、西暦の2000年という区切りを前にして「進化」が必要とされているような気がしてならないのだ。そしてもし、その「進化」が無かったならば、人類は早晩、滅びるしかないだろうと。だから、今は「その時」まで、限定された時間を慎ましく楽しく生きる外は無い、という気がするのだ。こういうのを、楽観的悲観主義とでも言うのだろうか。
ところで、1968年生まれは僕だけでは無いわけで、友人にこのような事を聞くと、どうもそんな事を考えているような者は他にいないようだ。すると、やはりこれは僕の(幾分、ロマンティックな)思いこみに過ぎない、と言うべきなのかも知れない。
…というような文章を高校生の頃に書いたことが有った。もう、10年以上前の、バブルに突入していく「好景気」な時代のことだ。
あれから、世間では色々なことが起きた。今では、当時の僕と同じような思考を持っていた人間は多くいたことも、そしてその一部が、巡り巡って、数年前に悲惨な事件を引き起こしたこともよく分かっている。そして、肝心な「7の月」は(幸いにも?)何も引き起こさないまま、終わろうとしている。
今、上の文章を書いた「僕」に対して言うことが有るとしたら、世紀末に世界の終わりが来ないことではなく、「転機」なんてものも絶対やって来ない、ということだろう。
振り返れば、20世紀というのは民族問題という19世紀に登場した「問題」が拡大し、紛糾し続けた時代だった。21世紀という次の世紀も同じように、20世紀の諸問題を引きずって、混乱したまま過ぎていく筈だ。言ってみれば、人類というのは今まで通りのどうしようもない存在として、(うっかり全滅でもしない限り)、やっていくしかないのだ。
全く面白くもない結論ではあるけれど、それが少なくとも、世紀末に生きる私達の基本認識ではあるだろう。救済を求めず、進歩を信じず、それでもあろうことか私達は生きていける。こういうのは、悲観的楽観主義とでも言うのだろうか。
フォーションのアールグレイ。
という紅茶がこの前読んだ川原由美子選集第2巻「ペーパームーンにおやすみ」のヒロインの少女のお気に入りだった。この作品の連載は1989年。確かに、既に紅茶をブランドで選ぶことが一つの趣味となっていた時代ではあるが、恐らく当時、フォーションのアップルティではなく、アールグレイということは、かなりのこだわり(この作品の場合、それは「わがまま」の描写として有効に利用されている)であったことは間違いない。
アールグレイといえば、独特の柑橘系のフレーバーを入れた、あの香りが通常の紅茶の中では際だってユニークで、人を選ぶ紅茶だ。私は、基本的には、良い茶葉をストレートティで飲む方が好きなので、フレーバーティには余り良い印象が無く、アールグレイは嫌いではないものの、たまに飲むこともあるという程度で、どこが出したものが美味しいのかなど気に掛けたこともなかったりする。味が強いから、アイスティには良いのかなという位の認識だ。
しかし、今日、とある喫茶店で、アフタヌーンティを飲む時に、ふとアールグレイを飲んでみたら、これが非常に夏向きの紅茶であることを発見した。そう、この辛口の味が非常に後味がさっぱりとして、暑い時に飲むのに(飲む時自体は冷房の有る部屋で飲みたいが)最適、なのだ。
となれば、夏の午後の休日はアールグレイを飲みながら読書でもする、というのが良い過ごし方かもしれない。実は、ヒロインのともみ嬢ご執心の「フォーションのアールグレイ」も、私の紅茶缶ストックの中に何故かちゃんと入っているので(笑)、あとの問題は、そういう優雅な時間を過ごせる暇が果たして有るのか、ということだけなのだが、どうも現実には、アールグレイを飲みながら、終わらない仕事をする姿しか浮かんでこない。
たまには、仕事の話をしようかと思う。と言っても、申し訳ないが、ちょっと抽象的な話だ。
私が今いる業界は、昔からこの季節になると、一つのキャンペーンをしてきている。つまり、増強月間という奴だ。かつてはその「量」が、業界内に置ける会社の順位を指すほど、この業界にとってそれは重要なことだった。しかし、時代は変わり、右肩上がりにその「量」を増やすことなど出来なくなった。というより、増やすことに意味はなくなってしまった、といって良い。従って、そんなキャンペーンをすることにも、もはや意味は余り無い。
筈なのであるが、私の今度転勤してきた街の店においては、未だにそれが超重要なキャンペーンの一つとなっていた。全国の店にはそれぞれ店舗性格という、地域特性に応じた目標体系が存在するのだが、その中で、私の今いるところは、その「量」をこの時期増やさないと「評価」されないというわけだ。ちなみに、評価というのは、相対評価で行わなれる。似たような性格を持つ店がグルーピングされ、その中で、増加量の順位を競い合う。こういった、期間限定のコンテストを、私の会社では「ドラコン」と呼んでいる。発想からして凡そ馬鹿馬鹿しいが、それを目標に働かされる者にとっては、勿論、冗談ではない。想像されるように、その増減が折れ線グラフで掲示されたりして、発破を掛けられるわけだ。
ところで、かつてのように、それをすることが顧客にとって得になる、とは言えないのが現在の情勢だ。従って、キャンペーンは勢い、人情に傾斜することになるのだが、そんな「得にもならない」ことを頼める相手など限られているので、次善の策としては、他の商品からのシフトを図ることになる。実は数年前、この業界にはそのキャンペーンの一環として、とある類似商品を開発し、それを積極的に売り込んできた過去があるのだが、今回のキャンペーン(私の会社の、だ)では、その商品が含まれていないことを利用して、そこから変更させることで、とりあえず「量」を増やそうというのだ。
考えてみなくても、それが会社にとってみれば、損しか生み出さないことは明白だ。変えることによって、コストは増加するし、変えること自体に伴う事務コストは、馬鹿にならないからだ。そして、その「増加」はあくまで一ヶ月間の見せかけのもので、また元に戻るだけなのだから。しかし、それでも、そうでもしないと評価されない(グループ間で上位に立てない)と言うのが、そのキャンペーンの下にある店の「上司の判断」なのだ。
シジフォスの刑、というものを思い出してしまう。ギリシア神話で永久に石を積み上げる(積み上げても落ちてくる)刑を命じられた男の話。あるいは、ドストエフスキーが言っていたような、穴を掘ってまた埋める、という懲役。人間が最も苦痛とすること。つまり、徒労。骨折り損のくたびれ儲け。
…何で、そういうことが未だにキャンペーンとして残っているのか。それは、かつてそれが当たり前で、それだけをやって評価されて出世したのが、上層部なため、そこから抜け出せない、のかもしれない。とはいえ、業界の中でも、こんな馬鹿馬鹿しいことはもはや全ての会社がやっているわけでもないらしい。つまり、駄目なのは、私のいる会社の経営者(というか、業務推進セクション)なのだろう。
来るべき21世紀に結局残る会社では無かろう、とつくづく思うのは、こういう瞬間だ。
とはいえ、1999年にもなって、まだこうした旧態依然とした仕事をしないといけない者にとっては、とりあえずこの月が早く終わらないか祈るばかりである。しかし、そのキャンペーンに貢献出来ない者には夏休みなど無いという、封建的かつ労働基準法違反的な恫喝がまかり通るような世界なので、7の月が終わっても、悪夢は終わらないかも知れない。
アンゴルモアの大王がいっそ降ってきてくれたら、と思ったりもする今日この頃。
関東に戻ってきて一ヶ月。今ではすっかり、ずっと関東人だったような顔をして生活しているが、ふとした弾みで、そうか、ここは関西ではないのだなと思ってしまう瞬間が、まだある。例えば、とりあえず夜の10時台にニュースを見ようとして、6channelを付けてしまったりする時なのだが、「体」でそれを感じてしまう場所といえば、何と言っても、駅やデパートのエスカレーターだったりする。
関東に住んでいる人は、エスカレーターの乗り方としては、左側に立ち、右側を急ぐ人のために開けておく、というのが、ごく普通の常識だと思っている筈だ。ところが、関西、少なくとも梅田周辺では私の知る限り、常識はまるで逆なのである。つまり、右側に立ち、左側を開けておく、のだ。もっとも、大阪では急いでいる人の方が多いので(笑)、両側とも歩いて上っていることも多いのだが。
なぜ関東と関西で優先されるラインが違うのか、調べればいずれ理由は有るのだろうが、今のところ私は知らない。もしかしたら、「探偵ナイトスクープ」辺りで一回調査されたことがあるのかもしれないが、あいにく見たことはない。
関東と関西の違いというのは、言葉とか、味とか、思考とかそれを語ってみせれば時間が潰せる、いわゆる永遠のテーマの一つという奴だ。気が付いてみれば、今までの人生の1/3近くを関西で過ごしたことになる私は、思っている以上に多分、関西人としての生活様式が身に付いているとは思うのだが、それでも三つ子の魂百までというか、最後まで、意識しないと右側には立てなかった記憶がある。
但し、その結果、「努めて意識するように」自然となっていたので、「こちら」でつい左側に立ち、しかもそれで良いということに、その後、気付くという意識の一連の流れの中で、あぁ、ここは関東なのだなと、その都度思うわけである。
これほどまでに環境というのは度し難いものなのだ。例え言葉とか味とか、そう言ったものに全て順応したとしても、体はきっと育った土地の「様式」から離れようとはしない。私には、今の実家がある街を「ふるさと」として思い浮かべることはまだ難しいが、恐らく「ふるさと」とは、そういう、体が反応するコードの体系そのものなのであり、だからこそ、「何もかも、懐かしい」と思えるのだろうと、考えたりもする。
…それにしても、関西から上京した人は、エスカレーターで、自分だけが違うという、違和感を感じていたりはしていないのだろうか。
初めて日記というものを付けてみたのは、小学校二年生の時だった。実家の建て替え時に出てきたそれを読み返してみると、第一日目に書いていることが、その日の出来事及び、献立だったので、まるでかつての名作漫画に登場する有名な日記みたいだと笑ってしまったものだ。
それ以来、今のHPの日記に到るまで、日記を書く習慣は持っていた、というと、今の「日記」が二年半続いていたりするので、当然、それまでの日記もずっと続いていたのだと思われるかもしれないが、実際のところは、いわゆる「三日坊主」そのものであった。従って、計十冊近い日記帳が存在しながら、そのほとんどが、一ヶ月分も書き込まれていないというていたらくなのである。
要は飽きっぽい性格だというだけの話なのだが、それでも周期的に日記を付けようという衝動がぶり返してきて、新しい日記帳を買う、その繰り返しが、十代の時のパターンだった。
しかし、凝る性格ではあったので、高校の時は、この日記では自分の書きたいことを書いていないなどと、更にプライヴェートなことを語るために、一時期、(公私と)二冊の日記帳を付けてみたりと、余計なことは割としていた記憶もある。とはいえ、「自分が顔を赤らめずに読むことが出来る」ことしか書けない(by アンブローズ・ビアス)のが日記というものの元々の性格である以上、結局似たようなノートが二冊残されただけだったのだが…
さて、何で日記の話など長々と語ってきたかというと、そんな私が自分を振り返って日記を付けようと思い返すのが、大抵誕生日だったからなのだ。
新しい歳を迎えるに当たり、今の自分を反省する、そしてこれからはこう有ろうと決意する。その旨を日記に書く。…ここまでは良い。しかし、問題はそこから先である。それ以降、日記帳はしまい込んだまま。で、次の年の誕生日、日記帳を探し出して書く。内容は去年とほぼ同じ。そして、その更に次の年…
冗談みたいだが、これは大学時代の本当の話だったりする。流石に、三年目には、これではあんまりだと思ったことも覚えている。大体、毎年繰り返している、その反省というのが、「このままではいけない」ことなのに、それを繰り返してどうするというのだ(笑)
勤め始めてからは、誕生日だからといって、しみじみ反省する暇もなく、というより、以前にも書いたが、いつも以上に忙しいことが多くて、誕生日という日には良い思い出がない、という有様が続いている。HP上の日記を読み返してみても、やはり仕事に忙殺されているようである(苦笑)
そんな中、今年は珍しく、自分の誕生日が土曜日になり、落ち着いた一日を過ごした。多分、二十歳を過ぎてからは始めてのことだと思う。
そんなわけで、今年は久しぶりに自分を振り返ってみたのだが、やはり反省としては「このままではいけない」ということのような気がするのだった。
私がこの前まで居た街は、街の真ん中に城が有るという、いわゆる城下町だった。
そこで私は、いつもその城を眺めながら生活していた。というのも、勤め先と住んでいた寮は、城を挟むように存在しており、勤め先までは城の堀に沿った道を自転車で走っていく、というのが、毎日の「通勤経路」だったからだ。それに何より、寮の自分の部屋の窓からも、城はよく見えた。視界のどこかに必ず城が見える風景の中で暮らしていた、とさえ言えるだろう。
しかし、3年10ヶ月にも渡り、その街に居ながら、私はその城に上ることが無かった。最初は、ささやかな思い付きだったのだと思う。その街に移り住むことになった時、私が思いだしたのは、ちょうどその少し前に、通勤の電車の中で読み返していたカフカだったのだ。そう、城と聞いた時、当然ながら、脳裏に浮かんだのは、あの「城」。というわけで、私も、あえて街の中心の城に足を踏み入れることなく、暮らしてみることにしたのだ。
…考えてみれば、凡そ馬鹿馬鹿しいこだわりである。何せ、見るものが、その城しかないような街で、毎日その周りを通りながら、しかも決して中に入ろうとしないこと。しかし、そうしてみることで、私は、その街にとって、部外者、異邦人で有り続けようとしたのかも知れない。
とはいうもの、住み続けるに従い、その街にも(割と早々と)飽き、城に上らないことにも、もはや意味を見いだせなくなっていた。この際、上ってみることにしようか? などと思い返していた最中に、その始まりと同じように唐突に、この街での生活の終わりが知らされた。
引っ越しの荷造りで忙しい中、私は考えた末、最後にその城に上ってみることにした。
上ってみた印象は、遠い昔、中学生の頃、一度訪れた時のそれと変わっていなかった。中はがらんどうで、ここで生活していたという人々の暮らしがピンと来ない。ロラン・バルトが他の街について記した「空虚な中心」とでもいう存在。私は、泉鏡花の「天守物語」を思い浮かべようとしたが、どうもあのきらびやかな物語を、この現実の城に結びつけてみるのは難しかった。
城は外から見た方が美しい。そんな当たり前のことを思いながら、外に出た。
今後、西向きの新幹線に乗った時に、あの城をまた見掛けることもあるかもしれない。そしてその時は、その城の後ろ側でかつて住んでいたことも思い出すのだろう。しかし、きっとそれはどこかあやふやな記憶でしかないような気もする。いま既に、城のある街で暮らしていたことがひどく遠い昔のように思えるのだから。
結局、私は、その街にとって異邦人で有り続けたということなのだろうか。それが良かったのかは今でもよく分からないのだが…