空の蒼さを 見つめていると
来週の「新日曜美術館」は、森村泰昌によるフェルメールの「絵画芸術」(画家のアトリエ)らしい。それは是非、見ないとな(^^;;
森薫「エマ」4巻。アフタヌーンティを飲みつつ、このところ不足気味だったメイドさん分19世紀英国趣味を補給。今回は「エマ」というより、「エレノア」と呼びたい内容。
今後、毎月オペラのDVDを1枚ずつ観ようという予定の中で、順当に行けば6月はヴェルディの中から年代的に言って「リゴレット」、と考えていたのだけど、これを読んで、「セビリアの理髪師」を猛烈に観直したくなってきた(影響され易い性格)。
そうそう、読む物もそろそろ19世紀英国小説に戻らねば。…まぁ、「アヌビスの門」も「奇術師」も舞台は主に19世紀の英国だったけど。
上司の送別会が続いて、日記が止まっていた(というほど、更新していないけど)。最近はイベントでもない限り、全く飲まないので、飲み会が2日続くとそれだけで調子が狂う。久々にカラオケまで雪崩れ込んだので、「tune the rainbow」を試しに歌ってみる。 とりあえず、カラオケ向きではないことは分かった。
まごまごしている内に出遅れた気がする<プラチナ・ファンタジー>シリーズ。最新刊から、と買ってから既に1月経っているが、ようやく今週読了。
えーと。次第に判明する「全体が精緻に組み立てられていること」への驚きは、確かにその技量を感心させるのだけど、それが私自身にとって意味があるかというと…
ミステリとかSFとかいう期待値で読めば、また違ったかもしれないのだが、ファンタジーという期待値で読むと、何というか、ちょっと微妙。 世界幻想文学大賞という評価に異を唱えるつもりはないが、目的としての、ではなく結果としての幻想文学だった、という気がしてしまう。要するに、出会い方が悪かったかも。というか、悪いのは多分、私なんでしょう。
ところで、帯や解説によれば、クリストファー・ノーランによる映画化が決定済みだそうだけど、笑っちゃう位に似合い過ぎて、却って、期待は出来ない気分。
加納朋子のファンとしては待望の、駒子シリーズの最新刊「スペース」〔Amazon〕がついに発売 。
ファンならネット公開時に読んでいるべきでは?という話もあるが、やはり、これは「本」で読みたいシリーズなので、ずっと待っていたのだ。運命的な出逢 い方をした(と思っている)前作「魔法飛行」の単行本を久々に手に取ってみると、紙が既に黄ばんでいる(^^;; まぁ、十年も前の本だしなぁ…
早速、読もうと思ったところで、ふと気が付く。どうせなら「ななつのこ」「魔法飛行」を再読してからの方が良いような? 文庫化された時に再読してからでも、かなり経っている気がするし(4年前だった)。というわけで、前2冊を (文庫本で)読み直してからにしようかと。
またしても、昼のメニューの話(で申し訳ない)。
穴子の「長崎揚げ」という定食が出てきたので、食べてみたら、「紅ショウガ入りの天麩羅」としか言い様のないものだった。…紅ショウガ入りが「長崎揚げ」?
実は、この「長崎揚げ」もネット上では、よく分からない料理の一つ。とりあえず、こういう「地名〜」の料理は、少なくともその土地だけには存在しない。という世の中の真理が有るので、「長崎」=「紅ショウガ」と連想する、バイアスの掛かった(偏見のある、とも言う)イメージを持った地域が他のどこかに有る、ということなのだが、そもそも紅ショウガを何故、天麩羅に混ぜないといけないのか。
とりあえず、ここで興味深い調査を紹介したい。NIKKEI NETの「食べ物 日本地図」に、「紅ショウガの天ぷら」という項目が有るのだが、食べている人の割合の地図を見ると、食べているのは日本中で、関西人だけである。しかも南側の地方。
もっとも、これは紅ショウガonlyの天麩羅なので、紅ショウガ入りの「長崎揚げ」はそれに比べれば初心者向けなのは間違いないが、少なくとも紅ショウガを揚げ物に入れるという発想自体が関西人のものだということは推測出来る。
関西風と広島風がある「お好み焼き」で比較すれば検証出来るのではないか、と探してみたところ、中国新聞のお好み焼きページに、この仮説を裏付けるような内容が。やはり、紅ショウガ入りの焼き物(揚げ物)は関西発祥の食文化らしい。大体、紅ショウガが入っているから「長崎風」、なんていい加減さは、いかにも関西人的なアバウトさではないか。(九州内では長崎に近いので、そういうアバウトな名前は付けない筈だし、関東では遠すぎて、「長崎風」自体がピンと来ないということもある)。
ただし、ここまでは単なる仮説であって、長崎の地元では元々、薩摩揚げに類するものを「長崎揚げ」と呼んでいて、しかも紅ショウガが本当に入っていた、という可能性もある。長崎は何せ、トルコと何の関係もない洋食をトルコライスと平気で名付けているような街なので、油断がならない 。
というわけで、この件に関しても、情報をお持ちの方はお知らせ頂けると幸い(^^;;
良かった。vol.1よりも、映画への愛がストレートに伝わってくる作品。
確かに、ダラダラ長すぎるのはvol.1同様で、vol.2は理想的には100分台、長くても2時間は切るべきだったとは思うけど。最初のスクリーンプロセスなドライブシーン、そしてモノクロフィルムだけで、全て許せてしまう気になる。
(早帰りの)仕事帰りに観たのだけど、一番興味深かったのは、私が最近行ったことのある作品と、客層が全然違っていたこと(^^;; 若いアンちゃん(死語??)ばっかだ。勿論、スーツ姿のサラリーマンなんて、私以外一人もいないわけで(まぁ、火曜の夕方だし)。熱心な映画ファンは既に観に行っているだろうから、そういう感じの人も見当たらず。
いや、それは良いのだけど、EDが「恨み節」に変わった瞬間、少なくない人数が、席を立って帰ってしまったのには、ちょっとムッとする。…あんたら、この映画観る資格なんて無いよ。
昨日観た「マクベス」について。
この際、(演出の)ネタバレ全開で書いちゃえ、と感想を日記上に書いてみたのだけど、思ったより長くなったので、やはり別頁に移しておきます。この後の公演日に観る予定の方や、来年初めの再演で観るつもりの方で、まっさらの状態でいたい方は、読むのは止めておいた方が良いかと。
で、色々と書いたものの、それなりに楽しめたし、今後も野田秀樹がオペラを演出した場合は、出来るだけ観るつもり(今回は初回だし)。とはいえ、野田秀樹の芝居に、普通のオペラ、と別々に見た方が恐らく得られるものは多そう、とは思った(^^;;
今日は他にも、「空海と高野山展」(5/9)とか「南宋絵画」「飛ぶ夢を見た 野口里佳」「ディックブルーナ展」(4/29)辺りを、追記しています。やれば出来るじゃん、私。
新国立劇場の「マクベス」、観てきました。生のオケを聴いたのは凄く久し振りなので、それだけで感動したという感じなのだけど。演出に関しての感想は、まぁ、後日ということで。
「R.O.D THE TV」最終話まで。
最後に荒唐無稽な舞台を用意する一方、物語的にはフェイドアウト気味… というのは、OVA版もそうだったので、変わってないなという気もするけど、OVA版のように作画のハッタリで魅せるエネルギーが残ってなかった分、作りのチープさがストレートに出てしまったという印象。それこそTVアニメらしい、かもしれないが…
せめて最終話とその前の1話位は、説得力のある画面を見せて欲しかった。肝心な場面で、台詞で叫ぶだけ、というのは余りにも安過ぎ。いや、言葉が良ければそれでも良いのだけど… 終わってみれば、物語的には予定通り全て終了したことも分かるのだが、それならそれで、中盤以降、もう少し違う見せ方が有ったような。
何よりも、仲間を増やし過ぎて収拾が付かなくなったパーティ状態を避けるために、読子の出番を最後近くまで封印しておくべきだったのでは?
1クールだけで放送をとりあえず打ち切っておけば、遙かに評価が高かった筈、と思うとやや皮肉。個人的にも、エンターテインメントの「商品」として評価出来るのは1クールまでなので、DVDはやっぱりDISC.5までで良いや。
ところで、シリーズ後半、ジョーカーが、アニタを精神的に追い込む場面で、カエルくんもてっきりその例として挙げるのかと思っていたら、出て来なかった。…ひょっとして、私ってば、ジョーカーさんよりも腹黒ですか?
「サムライチャンプルー」。OPの背景が、伊藤若冲。「動植綵絵」中心に。何となく軽薄な引用という印象だけど、恐らくそこまでは狙いの内かと。平面的な絵柄なんで、アニメと合い易いのは確かだし。
忙しい時は、昼食のメニューのこと位しか、頭の中で考える材料がない。というわけで、例によって、食べ物の話だが、先日「ドライカレー マドラス風」というものを食べてみたら、ドライカレーの上にハンバーグが載っている代物だった。素直に考えれば、ハンバーグが載っていること=マドラス風、ということになるが、何か違う気がする。
検索してみても、「マドラス風」に関する明確な定義が見当たらない。ロイヤルホストの「マドラス風 海老と帆立のカレー」を筆頭に、カレーまたは海老の形容詞として使われることが多いようなのだけど… どういう条件を満たすと「マドラス風」と呼ばれ得るのか、それは何の料理店で使われている言い方なのか、ご存じの方は教えて頂けると嬉しいです。
ところで、「マドラス」って、勿論、インドのマドラスですよね。今じゃ、チェンナイだったと思うので、「マドラス風」も本当は「チェンナイ風」? (もっとも、どんな料理だろうと、「…風」料理が現地に存在したことは無いので、チェンナイには「マドラス風」も「チェンナイ風」も無いだろうけど)
えーと、まとまった感想を書く暇が無いのだけど。見聞きしているものも、かなり取り留めのない状態で。
この前ふれた、DVDの「マクベス」をリブレット片手に少しずつ見直していたのが、今週のいわばテーマ。それとは別に、「R.O.D THE TV」の残りが急に気になって、今頃、毎日1話ずつ見ていたり(あと2話)、見るだけ無駄のような…と思いつつ「この醜くも美しい世界」をとりあえず3話ほど見たり(と、余計なことをするから時間が無くなるわけなのだけど)
この一週間位で読んだものは…「永遠の森 博物館惑星」「アヌビスの門」上下「ブリューゲルへの旅」辺り。中でも「アヌビスの門」はぜひ感想を書いておきたい、気はします。
あと、その合間に、「苺ましまろ」3冊とか「よつばと!」2巻とか「るくるく」3巻とかを眺めていたりした。…どうでも良いけど、主人公が皆、小学生の女の子だ。少なくとも見た目は。
風邪が長引いたこともあり、手付かずだった他のページの内、とりあえずartだけ、メンテナンス。というか、実際には、3月から放置していたのだけど。
「行きたい展覧会」も久々に入れ替えて。今回のイチオシは、「 日本の幻獣 -未確認生物出現録-」(川崎市市民ミュージアム)でしょ、やはり(^^;; 「呪いと占い展」の時みたいに、学芸員の解説がある日に行きたいです。あとは、個人的に「ムーミン谷の素敵な仲間たち展」(大丸ミュージアム)とか。
一方、チラシを見て、期待がしぼんだのは、損保ジャパン東郷青児美術館の「ピエール・ボナール」展。いや、それなりに意義があったり無かったりはするのだろうけど、「綺麗ではない」絵を、無理に行かなくても良いような… Bunkamuraでやった展覧会は、凄く良かった記憶があるのだけど。…うわぁ、7年前か。この日記を始めた当初だ(^^;;
感想自体は余り進まなかったけど、5/14分だけは補記。
ちなみに、フェルメールが凄く好きか、というと、嫌いではないですが、どちらかというと「面白い」という方が、個人的にはしっくり来る。その俗っぽさも含めて、極上のエンターテイメントとしての面白さ。でも、見たことで、精神的に何か変わる絵では、多分、無いと思う。レンブラント(の後期)とかブリューゲルのように。
勿論、精神的に影響を与える絵ほど素晴らしい、わけではないのだけど、どちらが自分にとってより大事かと言えば、私の場合は、後者の方かと。
暴れ馬だーっ!! という台詞を実際に使うことが出来たんですね、今日、丸太町通りにいた人は。←1回使ってみたいらしい。
どういう映画かというと、予告編からほぼ想像される通りなので、予告編で、観たいと思った人は安心して大丈夫(予告編の方が編集は上手いけど)。
いや、今まで「周りの人から石を投げられ、ベソをかきながら、自分の部屋に逃げ帰る」子供時代の悲しみこそ、バートン作品の核だと思い、かつ、それに強い共感を感じてきた者にとっては、つい、「物足りない」とか「こんなの 、僕の(?)バートンじゃないやい」と愚痴を言いたくなる気持ちもあるし、 (バートン映画というのはひとまず忘れるとしても)語り方はもう少し緩急付けても良かったんじゃないか、とは思う(正直、やや「もさっとした」語り方なので。予告編の方が上手く見えるというのもそこにある)。
でも、通して観れば、「バートンらしい」とか「映画として上手いか」とかは些細なこと。良い映画だったね、という感想が素直に出てくる。別に泣くような映画ではないけど、じわっと暖かくなるというか(あぁ、でも、2,3人しかいないようなガラガラの映画館で、ふと観たら、泣けてしまうかもしれない、という気はする)。
バートン風味はかなり薄口、とは言っても、脇役を固めるキャスティングはバートン世界の住人で、皆楽しそう。ダニー・デビートのサーカス団長とか、ヘレナ・ボナム・カーターの眼帯をした魔女とか、スティーブ・ブシェミの詩人(笑)とか。中でも、巨人(マシュー・マグロリーという人らしい)の表情が凄く良い。
大ヒットはしないだろうけど(初日のスカラ座なのに、満席じゃなかった)、こういう映画は出来たら、長く公開して欲しい、と思う。
今回は、スカラ座という、座席指定が必要な劇場の前売りを買ってしまったこともあって、「初日に観る」という普段しない行動をしたところ、劇場の出口で、(恐らくはTVスポットの宣伝用に)見終えた人の声を撮っているクルーや、同じく見終えた人にアンケートを取っている「ぴあ」の帽子を被った人達を見掛けた。なるほど、あの出口調査?はこうやっていたのか。
風邪は相変わらず、治らない。のだけど、それはそれとして、休みを取って、「栄光のオランダ・フランドル絵画展」に行く。
目的は、会期前半の平日の午前中に、フェルメールの「絵画芸術」を見ること。狙いは正解。最上階の出口前のフェルメールまで直行するという、はしたないけど有効な方法を取ったこともあって、 (二、三人だけで)ほぼ独占して見ることが出来た。2,30分見てから、最初に戻って一通り見た後、最後にもう一度見た(その時は10〜15人位で)。現地であの時、見ることが出来たとしたら、そこまで時間は割けなかったと思うので、結果的には良かったのかも。
というわけで、見ながらぼーっと考えていたことをメモ書きしてみたのが、これ。 絵の方は、Web Gallery of Artの「The Art of Painting」で。色は公式サイトの方が良いかな。
たまには、こういう具体的な感想を書くのも面白いかと思ったのだけど、予想以上に書くのは大変だった(普通は書く前に気付く)。見ながら、頭の中で感想を記録することが出来れば良いのだけど。ムネーモシュネーみたいに。
とはいえ、フェルメールを除くと、2年前の「名品展」の方がまだ、質が高かったような。今回は「オランダ・フランドル」限定だから、仕方ない気もするけど。ただし、それなら「ピーター・ブリューゲルが何故、無いのか?」と本当は言いたいところ。まぁ、さすがにそれは欲張り過ぎ、というものか…
ブリューゲルと言えば、ヤン・ブリューゲルによる犬の素描は面白かったけど。あとルーベンスの自画像は割と貴重。本当かどうかは知らないが、4枚しか残ってないと聞いたことがある。それ以外は、地下1階は全て飛ばして、1階奥の黄金時代のフロアーまで直行しても良い位。というか、ほぼ、そうした。「映画芸術」を見た後だと、他の絵を見る気がなくなってしまうので(最初、そのまま出ようとさえ思ったけど、さすがにそれは勿体ないと思い直した)。
ところで、出口のすぐ外で「アンケートです」と渡された用紙をよく見ると、阪○交通社のチラシだった。要するに名前を書いて箱に入れればツアー案内のDMが届くだけ、なのだが、結構、皆書いていた(^^;; 勘違いする方が間抜けといえば間抜けなわけで、やるな、阪○交通社、と今回は素直に「感心」した。
で、その後、行ったのだけど、平日なのに混んでいた… お年寄りが多い展覧会は平日とか関係無いな。
後期のメインは李迪の「紅白芙蓉図」「雪中帰牧図」辺り。あと、牧谿の「瀟湘八景図」が3枚並んでいる様は、確かに壮観。
ただし、真面目に見る限界を越した(自分的に)混み方だったので、それほど集中して見ることは出来ず。というか、やはり、牧谿の「老子図」よりインパクトのある絵は無かった。
ところで、こういう細かい(単眼鏡で見ている人も多かった)水墨画を、歳を取ってから好む、というのは逆ではないかと。歳と共に、お茶をやるようになって、そういう価値観も受け継いで、ということなのだろうけど、こういうのは若い時こそ見るべきであって、歳を取ったら、大胆で明快な作品を見る方が楽しいし、第一、楽だと思う。例えば、マティスの切り絵とか、そういう感じの。ディック・ブルーナのうさこでも良いけど。
少なくとも、私なら、こんな細かい絵を見るような面倒くさいことは、老眼になったらまずしない、と思う。まぁ、実際にはどうなるか、よく分からないが…
風邪は相変わらず、治らない。喉が荒れたまま。
来年、西洋美術館と兵庫県立美術館で「ドレスデン美術館展」を開く旨の記事が、日経に。
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」が来るのが、この展覧会の最大の売りらしい。何故か、最近、バンバン(でもないけど)来ますね、フェルメール。まぁ、同館のもう1枚のフェルメールの方は来ないみたいだけど。「取り持ち女」というか、「娼家にて」というか、「遣り手婆」というか、名前はともかく。
勿論、万々歳ではあるのだけど(「手紙を読む青衣の女」と比べてみるという興味もあるし)、個人的には、ドレスデン美術館なら、ヤン・ファン・エイクの「三連祭壇画」の方が 遙かに来て欲しかった。兵庫県立近代美術館のページでも、「ティツィアーノ、レンブラント、フェルメール」とあるから、来ないことはまず確実だけど。
というか、「ヤン・ファン・エイクを借りる」という困難なことがもし可能だとしても、フェルメールのような「誰でも知っている」ような知名度が無い以上、商売的に成り立たないのだろうな。…その1枚でも、かつて日本に来たことってあるのだろうか。
ちなみに、兵庫県立近代美術館の方の「ドレスデン美術館展」の開催予算は60,000千円らしい。→「震災復興10周年記念事業」(PDF) 意外に「安い」ような… 余裕でペイするでしょう、多分。
ところで、2005年「日本におけるドイツ年」の代表的イベント、ということなのだけど、次から次へとやって来る、この「〜年」って一体、誰が決めているのか。やっぱり、外務省?
CD。ぼーぜんとして、目の前の「melodic hard cure」を聴く。
引き続き、風邪引き中。あとは喉の痛みだけ、なので、もう少しの辛抱(という希望的観測)。↓を見た他は、「プリズナーNo.6」の3,4話と、「TR」を見た位の一日。
雨の土曜日の午前中だというのに、お年寄り中心に、凄く混んでいた。やはり弘法大師というネームバリュー? それとも、有り難いモノには弱いという高齢者心理?
空海ゆかりの秘宝を見ながら、伝奇小説的な妄想に耽る、といった余裕も雰囲気も無かったので、という以前に、最前列に並ぶ気力が無かったので、会場の8割は遠くから流し見。まぁ、私の鑑賞態度はどのみち間違っているわけですが。三大秘宝(唐から空を飛んできたという三鈷杵とか。一部欠損している辺りに 「リアリティー」が)とやらは一応見たけど。
八大童子立像は、像自体もさることながら、奥にシルエットを写し出す演出になっていたのが良かった。本当に綺麗なシルエットだったので。
ともあれ有名な「仏涅槃図」を見ることが出来ただけで、私的には満足。ところで、「仏涅槃図」というと、画面下方は動物達のスペース、という印象があったのだけど、日本最古のこのバージョンでは、獅子が1体いるだけだったのが、最大の驚き。なるほど、動物は後で増えていったのか。等伯なんてコリー犬描き込んでいるしな。
ところで、仏教に(も)全然詳しくないので自信がないのだけど、釈迦が入滅したのは、本来、「悲しい」ことでは「無い」のでは? 嘆き悲しむというのは、間違っている気がするんです よ(仏教的には)。ちょっとだけ読んだ限りでは、インドでは長らく釈迦を「人」の形で表現することが憚られていて、最初に表現した(つまり、「仏涅槃図」を最初に描いた)のはガンダーラということなのだけど、こういうメソメソした感性は日本人か、せいぜい中国人までだろう、とずっと思っていたので、そうでもないとすると、なおさら、よく分からない。
仏教にとって、「仏涅槃図」とはどういう意味なんでしょうか(何を今さら、と言われそうだけど)。高野山の「涅槃図」は明らかにオールスターキャストの紹介図のようだけど…
この高野山展で、仏教系の展示も一段落付いたのかな、と久し振りにサイトを覗いてみたら、模様替えしてますね。 これでようやく、今回は第19室が比較的面白かった、というような紹介が可能に。
常設展示といえば、2階の国宝室で、空海が最澄に送った書簡として現存する3通の内の1通という「風信帖」が展示されていたけど、ほとんど誰も見に来ていなかった。ええ? 「空海×最澄」とい えば、ある意味、日本仏教史上、最強のカップリングでしょ。(←誤解を大いに招くような表現は止めておけ)
というか、「空海と高野山」展に押し寄せていた人達は何しに来ているわけ? いや、まぁ、別に良いですけどね。他人のことだし。
天気が良い内に、行っておきたかった展覧会もあったが、依然として喉が痛いので、一日、休養。夕方から少しだけ良くなってきた気はするけど。
何もしないのも勿体ないので、とりあえず、この前思い出した「プリズナーNo.6」の内、1、2話を見たりする。この辺までは飽きるほど見ているのだけど(^^;;
来年、日テレグループ主催で、「19世紀フランス絵画展」を、ルーブルから作品を借りてきてやるらしい。相変わらず、費用対効果が確実に見込める、という以上の開催意図が感じられない企画だけど、それはともかく、目玉となるのはアングルの(「グランド・オダリスク」ではなくて)「トルコの浴場」らしい。…あれ?そんな名前じゃなかったような?
と思って公式サイトで確認してみる。あー、なるほど、原題は「The Turkish Bath」だから、今までは直訳だったわけだ。まぁ、しかし、今さらそのタイトルで派手に宣伝するわけにもいかないだろうなと、広報担当者の苦心が窺えて、おかしい。もしかしたら、これを機にアングルの著名な作品の日本での呼び方を変えた展覧会として記録に残るのかも。
薬のせいか、ティッシュの箱が手放せない、という状況は脱したものの、今度は喉は痛い上に、鼻が詰まって、息が出来ない…
というわけで、更新せず寝てしまったのだが、押井守関連書籍も早く終わらせたいので、ここに書いてしまおう。残っているのは「立喰師列伝」位?
Magazine。「ユリイカ」04-04(青土社)。この前の「押井守論」よりはさすがにまともだが、読み終えた側から忘れてしまう、ことについては余り変わらず。この雑誌にいつも言えることではあるけれど。東浩紀の「ビューティフル・ドリーマー」への愛着を語ろうとして断念している、その素直さが微笑ましかったのと、藤津亮太の押井守フィルモグラフィーが良くまとまっていた位。
Book。押井守「すべての映画はアニメになる」(徳間書店)。過去20年間の「アニメージュ」の中から、「現在でも読む価値があるもの」という基準のもと、インタビューや対談を本人が選んだもの、らしい。とりあえず、驚いたのは、宮崎駿との最初の対談を除けば、雑誌掲載時にほとんど全て読んでいたこと。…そんなに熱心に読んでいた記憶はないのだけど。
あとは、やはり、時の流れというか、色々変わっている部分が面白くもあり、痛ましくもあり。宮崎駿との2回目の対談(84年)では、御大が、その後の作品で大変お世話になるコピーライターを名指しで、「たかが宣伝文を作っているだけでしょう?」と罵倒している部分も残っていて、思わず笑ってしまったり、対談相手として2回も登場する今関あきよし の発言に突っ込みたくなったりする。
その意味では押井守は確かに、発言がブレていないなとは思った。この本を大雑把にまとめれば、最初はアニメは映画だ、とずっと言い続けてきたのが、最近は映画はアニメだと言うようになった、という違いはあるにしても。他人の批評より、本人の発言の方が遙かに饒舌で、しかも面白い、というのが、押井守に関する言説の不幸であるのも確かだけど。
あと、巻末の押井守クロニクルは、さすが「アニメージュ」編だけあって、よく出来ている。
風邪を引いた。というか、引いたのは、(今にして思えば)5/3頃まで遡るのだけど、悪化したのは今日。熱は無いものの、喉が痛くて、鼻水が止まらない。特に最後のが困る。
映画「イノセンス」で、実は一番引っ掛かったのが、ゴーレム伝説の引用。何故、「ヤコブ・グリムによれば」? 気になったので、この本の、ゴーレム伝説の章を再読してみた。
なるほど、ポーランド版ゴーレム伝説を、ヤコブ・グリムが1808年に「隠者のための新聞」で紹介したことで、それ以来、ドイツ作家のモチーフとして用いられるようになったのは事実のようだ。しかし、(ルドルフ大公時代のラビ・レーフが創造主とした)プラハ版ゴーレム伝説を広めたのは、1847年の「シップリム」という、ドイツ語で書かれたプラハのユダヤ伝説集で、後のゴーレム小説は、むしろ、「シップリム」に依拠しているらしい。
原点を辿れば、人造人間としてのゴーレムという観念は、中世には既に成立していて、それが、様々な要素と結び付いて来たのが、ユダヤのゴーレム伝説の歴史である以上、誰が最初に、と言い出しても始まらないのは確かだとしても、ここでグリムの名を出すのは、いかにも間が抜けている。咄嗟にそんな名前を検索するようじゃ、バトーの外部記憶装置も大したことがないな。
というか、この場合、単に「ユダヤの伝説では」と始めれば良かったわけで、ドイツ文化の復興を意図したロマン主義の作家グリムの名をここで使うのは、誰でも知っている名前というだけの、無意味なハッタリだと思う。エンターテインメントは所詮、そういうものだ、と本人の開き直りが聞こえてきそうですが。
もっとも、あのシーンの問題点は、名前以前に『emet(真理)から1字を消しmet(死)とすることで、ゴーレムを粘土に戻す』というゴーレム伝説の紹介が、なぜ、「この館には真理がない」というご託宣を意味するのか、普通の思考パターンでは凡そ理解出来ないところにあると思うのだが… まぁ、バトーとその守護天使の間ではそう伝わるのなら、まぁ、仕方ないか(投げ遣り)。あそこは、とにかくゴーレムの伝説を入れたかった、だけなのではないかと。
本書のゴーレムについての文章は色々と示唆に満ちていて、面白い。
「人間によるゴーレムの創造が、神によるアダムの創造の模倣であるとすれば、神によって創られた人間が創造主に反攻したのである以上、ゴーレムがその創造主たる人間に反攻することは必然とも言えよう」
「第一次大戦後のゴーレムは、ゴーレムを統御し鎮めるべき賢者の不在における《ゴーレムの一人歩き》、世界の破滅をもたらしうる、もはや《止められなくなったゴーレム》という表象で現れる」
ちなみに、使う人次第で、有益な下僕にも、破壊兵器にもなる、というゴーレムの位置付けは、日本で言えばちょうど「鉄人」?
連休最後の今日は、仕事をしてました。休み中にやっておかないといけないのは分かっていたのだけど、何もしないで最終日になってしまうのは、まぁ当然というか。(出歩こうにも)天気が悪かったのは不幸中の幸いだったかも(←後ろ向きなプラス思考)。
連休前のツケをこうして払う状況って、当て嵌まる言い方が何かあったような… と思っている内に、「怠け者の節句働き」という言葉を思い出す。まさにぴったり。節句だし。
ちなみに、私がこの諺を初めて目にしたのは、佐藤さとるのコロボックルシリーズの2作目「豆つぶほどの小さないぬ」なので、小3の頃の筈なのだけど、どうしてそんなことを今でもよく覚えているかというと、それはやはり、自分のことを指しているような気がして印象深かったからではないかと(^^;;
GW中は(日記を書く)暇には溢れている、と思っていたのだけど、実際はそうでもなくて。
いや、「暇がない」わけではなかったのだけど、思った以上に、何もする気力が起きなくて、半分くらい、ぼーっと寝てました。その合間に、気力を振り絞って、この時期恒例のライブに行ったり、アイマックスへ「イノセンス」を観に行ったりした位で。
しかし、これでは溜まる一方なので、前月からの積み残しの一つ、「マクベス」の話の続きだけでも。
実はヴェルディのオペラを観るのは初めて。という以前に、モーツァルト等の一部の作品を除けば、まともにオペラを(映像であっても)観たのが初めて、な私。もしかしたら、最初はもっと甘美な作品の方がセオリーなのかもしれないが、こういうのも有りなのか、と却って抵抗無く入って行けたような気も。結構、面白かったです。
2001年のチューリヒ歌劇場、と最近の公演だからか、演出が割と斬新。舞台上に置いた立方体をクルクル回しながら「室内」として使用する辺りは、それこそ、風呂釜とか番台とかいったセットを舞台上で回して使う野田秀樹の演出みたいだし、赤 一色で統一した魔女チーム?の出し方が格好良い。
ヴェルディの「マクベス」は、シェイクスピアより、マクベス夫人の存在感が増していて、タイトルも「マクベス夫人」にしちゃった方が良い位の内容。パオレッタ・マッロークのマクベス夫人は「恐い美人」というイメージに相応しく、恐い(こんなおばさんに睨まれたら殺されるかも、みたいな)形相なのに、ボンデージ風味な衣装。いや、良いんですけど(^^;;
ともあれ、一通り筋は分かったので、対訳のリブレットを買ってきて、イタリア語の字幕スーパーで見直そうかと。
あとは、アバド指揮の1976年のスカラ座の「マクベス」(Amazon)を聴いてみるところまでするかどうか。「マクベス」に関しては、これが定盤らしいのだけど。
というところで、(今まで全く無知な)オペラをこの際、少しずつ観て行こう、と突然、思い立つ。とりあえずはヴェルディから。月に1作ずつ位。勿論、本当は生で観るに越したことは無いのだけど、そうそう、お金も暇もないので、まずはDVD中心に経験値を積む、ということで。名演とか名優とかに拘らず、値段が手頃なもので、とにかく観る、という方針。
十代の頃は、「無駄なく研ぎ澄まされたもの」こそ善で、「過剰で余計なもの」は悪だったので、芝居にメロディを付けるオペラなんて馬鹿じゃないの?という気分だったのだけど、歌が付いている贅沢さ、楽しさが段々と分かってきた気がする今日この頃 。
きっと歳を経るに従い、歌か踊りが無ければ見る気もしない、みたいな感じになっていくのではないかと。お年寄りが、そういう芝居好きなのは何となく納得。
というわけで、老後(が私にあるとすれば)、(その歳になって新たに見始めるのは億劫なので)「内容は既に分かっていて、ただ楽しんで見ることが出来る」境地に達している べく、今見始める、という二、三十年に及ぶ長期計画を開始しようかと。いわば、私にとっての「オペラ元年」。と今、決めた(^^;;
と言った側から、学生時代、何かの折りに、オペラだけには手を出すまい、と決意したことがあったのを思い出した。当時はまだCDしか無かったこともあるのだけど、それより、そんな時間は無いだろう、と考えたことの方が大きかった筈。確かに、これ以上、忙しくなってきたら、オペラどころじゃないわけで。
大体、未見のDVDの消化、特に、昨年末以来の懸案事項である小津全集とか、せっかく狂喜して買っておきながら、途中で中断したままの「プリズナーNo.6」(最近、またブームらしいけど) の最初からの見直しとか、毎日1冊ずつ読んでも多分終わらないComicsの未読の山の解消とか、やらないといけない (と思っている)ことを幾つも抱えている状態で、これ以上、新たに手を出そうとするのは、明らかに間違いなのだけど。
まぁ、良いや。二十年続くかどうかはともかく、まずは始めてみよう。次は…何を観ようかな?
(ちなみに、ヴェルディとシェイクスピアの「マクベス」の違いについて、非常に参考にさせて頂いたページ)
新日曜美術館の「南宋絵画展」。どうするのか、と思っていたら、後期の出展作品が中心だった。
ところで、「御物」を「ぎょぶつ」と読むのは天皇家のコレクションだけで、「東山御物」は、足利氏(将軍家)だから「ごもつ」と読む、なんて知らなかった。こういうのは文字を目にしただけでは分からないよな。と 、この前、根津美術館でカタログ代わりに買ってきた、茶道具の世界13「掛物 絵 寄付掛」(淡交社)を改めて開いてみたら。…振り仮名がちゃんと振ってあるじゃん、「ひがしやまごもつ」と。
と落ち?が付いたところで、この件はお終いだと思ったのだが、一応、辞書を引いてみたら、意外や意外。「ぎょぶつ」の補注に『古くは呉音読みで「ごもつ」といったが、現代では普通漢音読みで「ぎょぶつ」という』とある。どうやら、元々は「ごもつ」の方が正しいらしい。確かに、「ごもつ」の項には、中世から江戸初期に掛けて沢山の用例が。つまり、「東山御物」という言葉が出来た頃は、「御物」は「ごもつ」としか読まなかった筈なのだ。
一方、「ぎょぶつ」の文例はいきなり漱石なので、恐らく明治以降の読み方。その時点の「御物」といえば天皇家しかないので、「ぎょぶつ」=宮内庁の物、となったのが正解ではないだろうか。 「正倉院御物」とか。
というわけで、区別する上での専門用語としては便利かもしれないが、本来は、どちらも「ごもつ」と読むべきなのかも。ちなみに、この二つを混同した「ぎょもつ」という読み方はあらゆる意味で間違い。まぁ、天皇家でも将軍家でも、その研究者でもない者にとっては、どれでも良いって言えば良い気はしますが。
Book。絵コンテ集「イノセンス」(徳間書店)。映画を観るより面白い(^^;; 読み終えるのに、映画を観るのと同じ位、時間が掛かったけど。一々、納得させられることが多かった。というか、脚本的にはアレだというのに、こうして(良く出来た)絵コンテの形で見せられると、何となく説得させられてしまう。で、映画が出来てから、騙されていたことに気付く(のか?)
個人的に考えていた件については、単に私の考え過ぎだったような… 人形の視点から見ている画面を抽出することで、何か見えてくるのではないか、と思っていたのだけど。バトーの表情を正面から捉える、というカメラアングル以上の意味は無いのかも。作品の両端が人形の視線で閉じられていることには意味があるとしても。
それにしても、色々と物議を醸したラスト少し前のバトーのあの台詞が、アフレコ直前に書き直したものだったとは。明らかに建前な台詞を本音寄りに修正した、ということ か。
あと、同封のフィギュアは未開封のままだけど、どちらの素子も、顔が恐くて出来は今一つ。人形は顔が命、なのでは?
久々に、近所の丘陵を縦断する。からっと晴れているので、歩くには良い一日だった。
講談社のミステリーランド。ここに来て、西澤保彦、森博嗣と、強力な名前がどんどん投入されているけど、このシリーズに関する書評を余り目にしないので、購入する勇気がなかなか出ない。いや、1冊2千円がそれほど高いとは思わない が、全部買うのはさすがに、と思うと、結局、どれにも手を出せなくなってしまうという罠。
こういうのこそ、図書館で全巻購入してくれれば良いのだが…
ハヤカワ文庫のハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」。新しく付けられた帯に「元祖」と書いてあるのには、笑ってしまった(饅頭じゃないんだから)。これって、出版社の嫌味なんでしょうか、やはり。