フェルメール 「絵画芸術」 印象のメモ書き
-
ぱっと見た瞬間は、普通に綺麗なだけの、引っ掛かりのない画面に見えて、(期待も大きかっただけに)失望し掛けた。まるで原寸大のポスターみたいだ、というか。
- ただし、そのまま眺め続けていると、段々と絵が「見えてきた」。少なくとも、5分間は動かずに見続けることが必要。
-
大体、防護柵の位置が後ろ過ぎ。あと50cmでも絵に寄れば、絵との良い関係をもう少し簡単に得られるのに。とはいえ、凄く混んでいたら、最前列まで距離がないと絵の全体像が分からなくなるのも確かであることを考えると、やむを得ない
ところか。
-
だけど、照明はもう少し明るくしても別に罰が当たらないのでは? 修理したばかりの絵だし、ライクスの展示なんか、すごく明るい部屋だった記憶があるし。何か、日本画の展示感覚が持ち込まれていない?
- ともあれ、所与の条件で見るしかないわけで。
- 手前の椅子、画家、モデルの三角形。画家、モデル、燭台の三角形。安定した構図。
-
手前の椅子とカーテンが、「観客」に臨場感(=覗き感覚)を与える、フェルメールお馴染みの手法。一方、画面の全体的な印象はとても静謐という、そのアンマッチな魅力も例の如く。
- カーテンの色合いは何とも妙な、としか言い様がないが、この一見魅力のないカーテンこそがこの絵画の最大の魔法であることは間違いない。
-
「見せること」と「隠すこと」の対比に長けていたのがフェルメールだけど、(カーテンによって)この画面上で隠されているのは、言うまでもなく窓。見えない窓がどうして、こんなにも気になるのか。
- 手前の椅子の横のクッション?のボツボツ感が面白い。
-
机の上にあるのは、石膏像と衣装と… 薄いピンクの布みたいな物は何ですかね? 衣装とカーテンの間のグリーンもよく分からない。上着なのか、布なのか。しかし、この曖昧さな描写ゆえに、カーテンと連続して、何となく繋がっているように見える、のは多分、故意。これまたフェルメールお得意の、遠近法の嘘を誤魔化すテクニック(貶しているわけではなくて)。
-
いや、この絵がどれ位、(遠近法で)嘘を吐いているかは、ぱっと見た感じではよく分からないのだけど。この布を取り除いてみれば、恐らく、かなり不自然に感じられる筈。
-
椅子の奥にある丸いシルエットって… これってテーブルの脚? そうだとすると、テーブルより手前に伸びている(笑) エッシャー並に捻れてます。でも、多分、これが、椅子、画家、モデルの三角形の中にあるテーブルの処理上、一番安定して見える位置なのかも。そういう意味でも、テーブル上の服とこの脚がまた繋がっているように見える描き方に。
-
画家は明らかに、「背後の視線を意識して」描いている様子。父兄参観日の子供並み。気合いの入った服装から言ってもそう(^^;; 髪の毛の柔らかい感じとか、背中の紐のバラバラ具合とか、ルーズソックス?の左右の違いとか、タイツの赤とか、
中心の題材だけあって、見所が多い。
- 座っている椅子のニスの光り方とかさすがに上手い。よく見ると、結構、凝った椅子。脚のデザインとか、ギザギザ付きの丸い補強板が付けられているところとか。
-
市松模様の床はいつもながら、お洒落。多分、他の絵同様、この床の模様は一筆書きのように、軽い筆遣いで一気に書かれている筈なのだけど、この距離ではそこまで分からないなぁ。
-
モデル。歴史の女神の寓意で、月桂冠を被り、喇叭と本を持っているから、とはどこにでも書いてあることだけど、フェルメールの場合、良くも悪くも、モデルはモデルなのね。アトリエに女神が現れた、というような神秘性とか精神性は微塵も無くて、あくまで、綺麗なお姉さんにコスプレさせてみました、という感じ。宗教画は描けない人だというか。
-
服のいつもの青の美しさは勿論、この絵では本のクリームイエローが凄く効いている。まぁ、絵の焦点とでもいうべき要所だから、そこをキメるのは当然といえば当然なのだろうけど。
-
しかし、こんな重たそうな本を持って、モデルのポーズなんてそうそう長いことしてられないと思うが、余計なお世話か。画家はまだ月桂冠を描いているところだというのに。
-
…そういや、このキャンバス上の月桂冠、モデルの被っている月桂冠と微妙に姿が違うような。これは、1,画家の角度からだとこう見えるというリアリズム追求、2,実はそこまであんまり気にしてなかった、3,画家が描くべきなのは現実そのものではない、理想のイメージであるという主張、のいずれだと考えるべきなんでしょうか。
-
それにしても、このモデルのつんとすました表情に、妙ななまめかしさがあるのは何故なのか、というのは、やはり「見られている」ことを意識した表情だからではないかと。モデルだから当たり前だ、ということではなくて、そこに観客との関係性が擬似的に演出されるから。
-
もっとも、この絵の舞台上に第三者(恐らくは画家の知人)という登場人物を加えて、視線の「三角関係」を想像するべきか、あるいは見ているのはあくまで、描いている自分を客観視するもう一人の「画家」に過ぎないのか、にわかには判断出来ない。前者とした方が、この絵の外に立っている「観客」としては面白いので、そちらで考えるわけだけど。
-
ということで、この絵の平面からこの風景を覗き込んでいる者がいるとすると、その人間は恐らく画家に向かって話をしているのが自然だとしても、どこを向いているのか。画面のやや左側に立つと、画家の背中に体が向くことになる。その代わり、顔はやや左を向いてモデルを見ている筈。逆に、画面のやや右に立つと、これは最初から、画家の背中越しに、モデルの方を見ていることになる。どちらが、よりリアリティがあるか、それを考えながら、左に立ったり、右に立ったりしていた。
-
燭台。割と、「フェルメールらしい」描き方。それは良いのだけど、何だか、中に浮いているように見える。本当は吊している紐か何かがある筈なのだけど。近くに寄れば描いてあるのだろうか。
-
天井。割といい加減。ということは無いのだろうけど、本来必要な縦の線が窓側を隠したため無くなってしまい、横棒が引いてあるようにしか見えない。パースペクティブ的にもこの天井の見え方は何か怪しげ。遠近法の嘘
がこの辺に、しわ寄せされている、という感じ。しかし、ここに天井がないと、やはり画面が締まらないような。部屋の広さが出ているのは確かだし。
-
地図。タッシェンの画集に、この地図が描かれた時代よりも古地図であることから、この絵は政治的な主張が込められている(全土の統一)、とあったが、あとで見た図譜の解説ではそこまで踏み込んだ意見ではなかった。まぁ、確かに、この地図こそがこの絵の主役である、という可能性も相応にあるわけだけど。実際、大きいし(この絵の遠近法から言えば、やたらと大きいことになるが、
本当の地図はそこまでではないだろう)
- と一通り眺めて見て、大体見たかな、と立ち去ろうとしても、なかなか踏ん切りが付かない。飽きが来ない絵というか、見切った気分になれない作品だというか。
- その最大の原因は、寓意の謎解きを初めとして、理知的に構成された作品を見る楽しみ。
- そして勿論、一つ一つは結構歪んでいても、全体としては調和している、あのフェルメールの魔法。
- 更に、この絵の場合、観客が絵の前に立つことで発動する「三角関係」から抜け出せなくなる(気がする)こと、かもしれない。
(2004.5.14)
home/diaryへ