空の蒼さを 見つめていると


2004年2月

2/29

 溜まっていたビデオの整理日。昨日は終電だったので、やや寝不足気味。

 

Novel 夏目漱石 「虞美人草  岩波文庫

 「行人」まで読了し、最後が見えてきた安心感から、前に戻る。というか、飛ばしていたのに気付いた。

 比叡山登山。冒頭の一節。八瀬辺りから上っているようだけど、結構、大変では? 私も大文字山ならともかく、比叡山は下から上ったことはない。

 歩いたことがあるのは、上の稜線だけ。その山道で、中年男による女子大生暴行殺人事件が起きた年の話で、しかも11月なのに雪がちらついて、と寒々とした記憶ばかりが残っている私には、春うららの比叡の山と言われても、ピンと来ない。というか、私はなぜ、そんな季節に、そんな場所を厭世的な気分で彷徨っていたんだろう? 今考えると、謎だ(^^;;

 「ゴージアン、ノット」。有名な「ゴルディアスの結び目」。英語を音訳すれば、確かにそうなる。ある時代までは、英語読みの方がポピュラーだったんだろうか。いつから「ゴルディアスの結び目」になったのか。小松左京の短編で?

 「ハムエクス」「コフィー」「ユデア人」。古風な、というかハイカラな?表記が逆に新鮮。漢字にカナのルビを振るところとかも。「献立表(メヌー)」「停車場(ステーション)」「給仕(ボーイ)」。「我」と書いて「プライド」と振る辺りは、さすが小説家。

 三角関係に追い込まれつつある小野が、嘘は吐きたくないが、吐かなければ済みそうもない、という場面の文章。

 「うそは河豚汁である。その場限りでたたりがなければこれほどうまいものはない。しかしあたったが最後苦しい血も吐かねばならぬ。」

 上手いことを言う(笑)。ちなみに、河豚は明治政府によって一度、食用が禁止されたが、伊藤博文が解禁した、というのが有名な蘊蓄ネタらしい。この小説が書かれた頃なら、調理法は確立していた筈。まだ当たる人がいたかどうかは知らないが。

 

 漱石の作品中、最も「失敗作」という定評は、物語の終わり方、ヒロインの藤尾に対する扱いが、幾らなんでも、あんまりだ、と誰しも思うところから? 優柔不断な主人公(小野)が最後の最後で、突然、 強気な(西洋的な)ヒロインを裏切って、お淑やかな(日本的な)元許嫁の小夜子を選ぶという物語は、どうみても、小野が全面的に悪いのだが、藤尾を「悪女」扱いにして、心臓発作で殺してしまう。ヘタレ主人公は「改心」するだけで、お咎め無し。まさに、ヒロインが複数出てくる恋愛ゲーム的展開。しかも、 酷いバッドエンド。

 …それとも、当時の道徳観からは、これでもハッピーエンド(小夜子エンド)、と受け止められたんだろうか?

 初の連載に苦しむ漱石が、話を上手く纏めることが出来なくて、ヒロインを殺して終わってしまったのか、と最初、思ったが、物語の初め、藤尾の登場場面で「プルターク英雄伝」のクレオパトラの死の場面を読ませているところを見ると、これは当初からの「計画的犯行」だったとしか。むしろ、書いている内に、予定外に、活き活きとした本音のキャラになってしまった、というべきなのかも。

 

2/28

 最初の支店の時のメンバーで、久し振りに集まる。

 7,8年振りに会う人もいて、顔分かんなかったら、どうしよう、と実はお互い思っていたのだが、まぁ、面影というのは意外にも、それほど変わらないもので。私については(途中経過を皆知らないので)、ちょっと痩せた?としか言われないのが、安心しつつも、微妙に残念(^^;; その間、色々あったのに…

 今までで唯一、上司、同僚共に「楽しい」人間関係だった職場だっただけに、久々に集まっても、凄く楽しかった。というか、「仲間」という言葉を使用出来るのは、この時の人達位なのかも。ええ、人との縁薄い人生なので。小中高大、と一貫して、同窓会の類も全くと言って良いほど、やったこと無いし。

 それだけに、後輩の女の子が子供を二人連れてきて、その子供が周りを走り回ったりしているのを見たり、同期の男が、娘がこの春、小学校に上がるので、机とランドセルを買わないといけないけど、机の値段が高くて困る、などと嬉しそうに話すのを聞くと、この十年という、時の 早さを実感させられ、複雑な心境に。……時が止まっているのは、この私だけ?

 「昨日」の延長としての「今日」を何も考えずに過ごして、「明日」もまたその「今日」の延長が続いていく、という日々の連続性から切り離されて、自分の立ち位置を改めて問われると、この先の目標というものを前向きに語ることが出来ない自分を見出すばかりで。楽しさと同時に、痛さを感じた一日。

 父親の会社を継ぐため、その支店を辞め、既に共同代取になっているらしい5歳歳上の先輩から、「で、これから、何をしたいの?」と聞かれて、答えられなかった自分が…

 

 ちなみに、二次会はその先輩が、馴染みの場所で、というので行ってみたら、一流のホテルのバー。そこに3時間位いた十数人分の飲み代は、乾杯のシャンパンを初め、結局、全てその先輩が払ってくれたのだけど。住む世界が違うわ…  私には、ホテルのバーで、シャンパン一杯が、幾らするのかさえ、全然、分からないんですが。

 ともあれ、盛り上がったので、次回もやろう、ということで、予定は桜の咲く頃にとか。…8年振りの次は、いきなり一ヶ月後ですか。

 

2/27

 今週は再び忙しくて、気が付けば週末。そして、いつの間にやら月末に。

 

 6月来日の「ダーヴィッシュ」のライブチケット(Plankton)を購入。前回の来日時の演奏は良かったので。

 鈴木祥子のMAXIシングル「BLOND/PASSION」〔Amazon〕 が4/21に出るとe+のメールで知り、ついでに昨年秋出たライブ盤も未購入だったことに気付く。そういえば、「ポポロクロイス」の現在のED「桜見丘」〔Amazon〕を歌っている「Local Bus」は鈴木祥子と関係があるらしく、「桜見丘」の作詞は鈴木祥子だった。「Local Bus」の他の曲〔Amazon〕も気になっている。

 新曲といえば、今年も果たして大滝詠一のCDのリマスター盤が3/21に発売、ということで、「EACH TIME 20th Annniversary Edition」〔Amazon〕 がいよいよ登場! 当時、初めてリアルタイムで購入した彼のアルバムだけに、思い入れが有ります、これは。「レイクサイドストーリー」がフェイドアウトエンディングではなくて、当初のLP盤同様の大エンディング (ジャジャジャジャジャジャジャジャジャーン)だと嬉しいのだけど…

 あと、MANGA NEWS等で知った「みんなのうた」DVDセット発売決定(うた缶トピックス)もかなり嬉しいニュース。値段が高い けど、選曲次第では多分、購入してしまう気が。ちなみに、家には昔、「みんなのうた」のカセットテープBOXが有って、子供の頃、繰り返し聴いていたのでした。あの時の歌にどんな映像が付いていたのか、見てみたい。

 

 なお、サイト移転と共に、Amazonのアソシエイトプログラムに参加しました。ということを先程まで、忘れていました(^^;; せっかくなので、今後、Amazonにリンクを貼る時には使用させて頂くことにしますが、貼る機会自体、余り無いような。

 

2/22

 在庫一掃セールの日。

 上から順番に、「モネ、ルノワールと印象派展」「円山応挙 <写生画>創造への挑戦」(2回目)「印象派の巨匠 ピサロ展」「富岡鉄斎展」「まどわしの空間―遠近法をめぐる現代の15相」「円山応挙 <写生画>創造への挑戦」(1回目)の感想を追加しました(どれも、今月内なので、関心のある方は、適当に画面をスクロールしてみて下さい)。

 ……………疲れた。実はまだ、先月分が一つ残っていたりするのだけど。まぁ、今後は(出来るだけ)溜めない、ということで。

 今月は、自分としては、かなり行った方。あと現在開催中で、休日だと混んでいてまともに見れそうもないのは「マルモッタン美術館展」か。あ、金曜の夜は7時までらしい。それに何とか間に合わせることが出来れば…

 

 昨晩、たまたまTVを付けたら、ちょうどBB-WAVE.tvで 、鈴木プロデューサーの「イノセンス」宣伝戦略を描く2回目だった。というこの番組も、宣伝の一つではあるわけだけど。

 しかし、実際のところ、どうなんでしょ。広い世間で「イノセンス」を気にしている、というか「知っている」人ってどれだけいるのやら。大体、私だって予告編をサイト以外で観たこと無いし(東宝系の劇場に行ってないからではあるけど)、普通のおじさんやOLの人から、 その名を聞いたことなど全然無い。まぁ「ハウル」だって、現在は大して話題になってませんが。

 

 新日曜美術館は、小杉放菴。

 ……ああ、あの近代美術館にある「水郷」を描いた小杉未醒と同じ人なのか。まさにシャヴァンヌの「貧しき漁夫」そっくり、といったパクリ絵画で、それを高く評価した当時の文展を含め、西欧の人真似に終始してきた近代日本絵画の象徴の一つ、と今まで余り良い印象を持っていなかった画家だが、後半生は日本画に転じ、枯れた味わいの作品を描いていたとは知らなかった。

 最後の頃の、巨石に悠然と腰掛けた人物といった絵は、TV画面を通して見ても、良い感じ。日光に行く機会が有れば、美術館に寄ってみようと思った。

 

2/21

 無事起きられたので、「王の帰還」@丸の内ピカデリー1。

 (以下、ネタバレ、ではないけど、人物描写等に微妙に触れていなくもないので、事前には「全く知りたくない」人は一応、注意)

 観終えた人は皆そうだと思うのだけど、SEE版で何が補足されるかが、今一番の関心事。「わしらの旅はまだ終わっちゃおらん」という感じですか。

 まぁ、「旅の仲間」から伏線が続く、あのシーンは当然として。あとは何だろ? 今までの傾向としては、ピピン・メリー周りのエピソードの敗者復活が多い気がするので、今回も二人については有りそう。というか、有って下さい(^^;; 同じく敗者復活組の常連として、劇場版ではいつも酷い仕打ちを受け(笑)、SEE版で救われてきた執政家の面々だが、今回も、酷い扱われ様(威厳も知性も良い場面も無い…)のデネソール侯に、果たして救いの手は差し伸べられるのか? …今回は流石に、軌道修正は難しそうだけど。

 最後の辺りは…多少、膨らむかもしれないけど、最後の最後の辺りは「PJ版」の終わり方として、これはこれで完成されていると思うので、これ以上、増えないかも。あとは、リー様に何らかの見せ場が残されているのかどうかだな…

 

2/20

明日は、「王の帰還」を観に行く予定。朝、起きることが出来たら、だけど。

 

Art モネ、ルノワールと印象派展 Bunkamuraザ・ミュージアム 2004.2.7〜2004.5.9

 金曜の夜間。始まって2週間なのだが、ガラガラ、という程では無かった。日中は結構、混んでいそう。

 人寄せのタイトルかと思っていたら、内容もまさにその通りで、冒頭にルノワールばかり数十点、次にモネが十数点並ぶ様は、結構、力が入ってる?と最初は驚いた。ただし、見終えてみると、これを見た、というものが無いことに気付く。いわゆる目玉作品が無いのだ。

 グレタ・ガルボが所有していたというルノワールの「青い服の子供」も、モネの「アルジャントゥイユの鉄橋」も悪くはないが、どうしても見ておかなくては、とまでは言えず。逆に、ルノワールなどは似たり寄ったりな小品が多過ぎて、「スーパーの肉売り場に沢山有り過ぎて、どの肉も余り美味しそうに見えない」のと同じような状態に。全体に「安売り」肉だし。

 むしろ、「その他の印象派」として一括りされたシスレー、ピサロの辺りの風景画が一番充実していたような気がした。

 ちなみに、恥ずかしながら、実は今まで、この2人の絵の区別が余り付いていなかった私。いや、二人とも強い個性は無いし、似てますよね?(と同意を求めてみる) とはいえ、今回は「ピサロ展」と続けて見たことで、ピサロは有る程度「掴んだ」気が。シスレーは、タッチがより荒いという位しか「分かって」ないけど。更に言えば、シスレーはシニャックとも時々名前がごっちゃになるのだけど、描き方は全く違うので、見れば分かる(当たり前だ)。

 などといった「美術史」の初歩的なお浚いとしてはそれなりに役に立つ(ついでに、ルノワールの描く長い髪の子供は男の子の女装である、といったトリビアも身に付く)という程度? 余りお薦めする気にはなれないけど、行くのなら早い内に。押し合いへし合いしてまで見る展覧会では無いと思うので。

 

2/19

 漱石はその後、時代を行ったり来たりして、ようやく「道草」を読了するところまで。…ああ、こういう話だったのか。完全に忘れていた理由が何となく分かりました。とはいえ、こちらも日記がそこまで辿り着くのはかなり先になりそう…

 読む方は(長編で残るのは)あとは「明暗」だけなので、漱石が終わったら、恩田陸の未読の文庫本をまとめて片付けて、それから19世紀の英国文学に戻る、というのが、ここ一ヶ月の 予定。「王の帰還」でトールキン熱が復活しなければ。

 

Art 円山応挙 <写生画>創造への挑戦 江戸東京博物館 2004.2.3〜2004.3.21 (2回目)

 「円山応挙」展の夜間延長(木・金のみ)。予想通り、気持ち良い位、空いていた。「金曜の閉館前のサントリー美術館」並の閑散度。これ位、空いていれば、不満の大半は解消されるわけで。作品もガラッと変わっていたので、別の展覧会みたいだった。

 そういえば、「展示替え一覧」の紙が、一週間前と何故か変わって「展示作品一覧」に。制作時期に西暦が追加される等、情報量は増えたが、「東京展で陳列されない」リストが無くなっていて、紙を変えた本当の趣旨はどこにあったのか、やや邪推してしまう。恐らく、前のには全期間展示される作品が載ってなかったことが不評だったのだろうけど。

 今週からの目玉は「保津川図」(3週間の公開)。なるほど上手いのだが、左から下ってきた流れが、右でまた上がるように見える。勿論、わざとなのだろうけど、右側の流れが曖昧なので、 繋がって見えてしまう。本当は、どちらの流れも画面の中央へ下っている、ということで良いんですよね、これ? 見れば見るほど、何だか不思議。

 今回の展示替え(中盤)の特色としては、人物画が多いこと。応挙は、人物だけは余り上手くないような気がしていたのだけど、それは誤解だったかも。良い表情の絵も多いし。

 あとは、狗子(子犬)の絵がドッと増えました、ということで。十数匹ワンちゃん大行進(行進してない)。あのコロコロとした子犬の可愛さは、やはり反則だと思う。そうだ、会場の最初にある、弟子が描いた有名な応挙像。あれは何かに似ている、と前々から思っていたのだけど、ようやく分かった、応挙の子犬にそっくりだ(^^;;

 一方、「七難七福図巻」は、天災巻から人災巻に変わって、これもある意味、今週からの目玉かも。スプラッタな光景が「広げられている」ので。基本的にリアリズム追求の人なんで、こういう場合、容赦ないです。

 

2/18

 今月の講談社文庫の新刊、井上夢人「ダレカガナカニイル…」。

 大森望の解説を立ち読みしていて、どうも読んだことがある文章だ、と思ったら、ここまでは以前の文庫の解説に書いたことで、という但し書きに加え、その後の話が付け加えられていた。そういえば、そうだよな。 元々、文庫で読んだ作品なんだから、当時の解説も読んでいて当然だ。

 前の文庫(新潮文庫だった)を読んだのは1995年春。この作品で「ポア」といった専門用語?に馴染んでいたこともあって、2ヶ月後、オウム真理教が強制捜査を受けた際には、当初、必要以上に同情的に感じたことも、今では遠い昔のような気が。捜査の元となった「地下鉄サリン事件」が、この本を読んだ翌月に起きたことを思い出すと、なおさら だ。

 勿論、この小説は、とある新興宗教教団の敷地を物語の舞台にしているだけであって、オウム真理教それ自身とは何の関係もない。のだが、(少なくとも当時のようにイノセントには読めなくなってしまった)この十年の社会の変化を考えると、色々と感慨深い。「クラインの壺」と同様、ある種の「時代の先取り」感が感じられる、というべき ?

 社会の変化といえば、今回の文庫化で、ある言葉を削除した経緯を今月号の「IN POCKET」に著者が書いていて、この話にも感じるところが多いのだが、そのために再読するのもどうかと思われるので、講談社文庫版は見送ろうかと(…とここまで書いてきて、そういう結論?)。

 

Art 印象派の巨匠 ピサロ展  日本橋三越 2004.2.11〜2004.2.22

 小規模ながら気持ちの良い作品が並んでいた。三越の展覧会は無料券で入れるので、余り文句を言う気にはならない、ということもあ るけど。

  ピサロだけを意識して見ることは殆ど無かったので、ピサロらしい絵、というのが今回、初めて分かった気が。「目の前がすっと開けた、見晴らしの良い風景に出逢った気持ち良さ」の再現が彼の絵のテーマ(と勝手に断言)。だからといって、大パノラマではなくて。目の前が50mも開けていれば充分、という感じ。あくまで日常生活の中で出逢う開放感。分かる、分かる。

 多分、本人も、日々の暮らしの風景に、ささやかな美しさを見出しては、人生を楽しむことの出来た人なんだろうなと。その反面、絵としては決定的なものが足りない、という物足りなさも残るのだけど。天才とか鬼才とかの凄さとは無縁。でも、不遇な人生を歩んで絶対的な1枚を描くより、ピサロのような人生を長生きする方が、私は良いな。

 

 展覧会は、ピサロ展というよりは、ポントワーズという街を描いた画家の作品展という趣で、日本では余り紹介されていない画家の作品も色々と。

 例えば、友人のアルマン・ギヨマンの絵と、その人物についての説明。「宝くじに当たり、各地を旅行した。」 …これだっ!私が思い描いている人生は。と心の中で、ポンと手を打つ。ただ一つ問題なのは、どうやってまず「宝くじに当たる」かだけど…

 

2/15

 新日曜美術館で熊谷守一特集。今頃、何故?と思ったら、展覧会があるのか。とはいえ、静岡は遠いので、多分、パス。一昨年、代表作は茨城で見たばかりだし。

 

Art 富岡鉄斎展 埼玉県立近代美術館 2004.1.24〜2004.3.21

 鉄斎の絵は70歳を過ぎてから良くなった、と言われるが、本当にそうなのか、文人画の基本的な見方自体、分かってない私にはよく分からないのだが、確かに、60代までの作品にはとても「見ちゃいられない」という作品が有るのに対し、後の作品ほど、しゃんとしているという気はする。80歳以降の作品は、おしなべて「良い」絵だと思う。

 まぁ、鉄斎は、自分と同等の教養を見る側に期待したらしいので、そういうことで言えば、見る資格のある人なんて、現代には殆どいないのだろうけど。勿論、私などは論外だ。

 個人的にツボだったのは、鉄斎自身が実際に見聞きしたアイヌの風俗を描いている絵。有名な「イヨマンテ」がどういう祭りだったのか、描かれた絵と言葉で初めて知りました。まずは、小熊を捕まえてきて、檻の中で育てる。大きくなると、祭りの日に、今度は人間に生まれてくるのだぞ、と因果を言い含めて、周りから矢を放って殺す。ああ、なるほど。そうやって、熊を「返す」のか。それで「熊送り」なのか。趣旨としてはあくまで善意の親切なんですね。熊としては良い迷惑だろうけど。

 常設展は埼玉県の画家として、斉藤与里。…すみません、初めて知りました。力の有った画家だというのは分かったけど、時代によって、画風変わり過ぎ。

 

Art まどわしの空間―遠近法をめぐる現代の15相  うらわ美術館 2003.11.18〜2004.2.22

 会場で最初に見る、川村直子の作品が凄い。こればっかりは実際に「見て」みないと分からない。なるほど、視覚に関する問い掛けというのは、今でも有効なんだなと、再認識させられた展覧会。特に期待せずに行ってみた、ということも大きいけど。ただし、その他の作品にはそれ以上のインパクトは無かった。最後にした方が良かったのでは?

 

Novel 夏目漱石 「行人  岩波文庫

 改めて背表紙を見比べると、「門」などに比べれば2倍近く「厚い」のだが、実際には「短かった」という印象。会話が多いから?

 この作品の奇妙さ、その1。前半(全体の2/5)にクライマックスが既に来てしまう構成。大雨のため、和歌山に閉じこめられ、嫂と一夜を過ごす羽目に陥る場面。

 作品のテーマの根幹に関わるこの場面では、実際には何事も起きないが、そこでの嫂の「大抵の男は意気地なしね、いざとなると」という台詞は、「三四郎」で三四郎が上京する際、一晩、相部屋になった女が翌朝、三四郎に向かって言い放つ「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」を連想させて、どきっとする。

 後に嫂が下宿を訪ねてくる場面も雨の日。漱石における「女」の登場と「水」(雨、池、風呂…)の関連性については、きっと多くの研究者が語っているのだろう。知らないけど。

 その2、最後の手紙。この作品は基本的には、弟・次郎が「自分」という一人称で、兄・一郎のことを語っていくというスタイル。しかし、途中で、あろうことか、物語の舞台から降りてしまう(卑怯な)弟に替わって、一郎の友人H氏が、一郎との旅の様子を次郎へ報告してくるのが、この「手紙」。なのに、手紙上で一郎のことを「兄さん」と書いている。凄い不自然。

 ただし、この不自然さが、この小説にただならぬ感じを与えているのも確かで、「こころ」の「私」と似たような効果を挙げている。と思ったのも当然、この手紙の人称は「私」だった。

 ラストは、鎌倉の紅が谷の山荘。「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」(確か、冒頭で海水浴)と、4作品続けて鎌倉が登場。漱石作品って、実は鎌倉のご当地小説だったのか。

 …それにしても、それまでの一郎の疑惑と、手紙で語られている悩みって、いつのまにか問題がすり替えられているような気がしてしまうのは、私だけ?

 

2/14

 とか言っていた割に、「透明人間の蒸気」も一般発売で取れてしまいました。

 起きたら既に10時だったので、もう駄目だと思ったのに、「@ぴあ」の該当ページにあっけなく繋がるという予想外の事態に、慌てて平日夜の分を取ってしまったのだけど、どうせなら休日にしておけば良かったのか。多分、休める(か間に合うように帰れる)とは思うけど。一月先の状況が見えないだけに、ちょっと不安… 

 Comics。椎名高志「〔有〕椎名百貨店(超)」。今さら、という気もするけど、最近発見したので。…発見しなくても良かったかも。

 

2/13

 「住めば都のコスモス荘」のDVD4巻を購入。「栗華の夢」の回。こういう熱意に対しては、きちんと報いる姿勢が無いと「次」を産まないと思うので。とはいえ、シリーズ全部を購入する気にまではなれないけど。高いし。ちなみに、放送当時も思ったが、7、8話は続けて見ると、結構、凄いものが…(^^;;

 

Cinema  ニコラ・フィリベール パリ・ルーヴル美術館の秘密」  ユーロスペース

 私の場合、何となく観ておかないといけない気が前からしていたので、帰りに寄る。金曜夜で6割程度の入りというのは、ユーロスペース的には入っている方なんだろうか?

 …ドキュメンタリーの出来には元から期待していなかったのだけど、やっぱり、微妙な出来(^^;; (プロジェクトX風の)明確なドラマが無いこと自体には好感を持ったのだけど、いかにもフランス人的な、気取ったセンスだけに頼って、何も考えず、ただ構成してみました、という感じは拭えない。

 いや、ここで明かされる幾つかのトリビアには、多少、驚かされるけれど。地下にトレーニングジムがあって、職員達がウェイトリフティングに励んでいるとか。大切な彫像はブロアーみたいな物で埃を払っているけど、外の彫像とかは直接、掃除機を掛けているとか。(時計のネジを全て巻くとかは当たり前過ぎて、わざわざ取り上げるセンスを疑うが。)

 しかし、「ルーヴルにも色々な職員がいて、色々な仕事をしているんですよ」という「はたらくおじさん」レベルの紹介が続くだけなので、正直言って、途中、うとうとと…

 まぁ、改めて思ったことと言えば、ルーヴルには馬鹿みたいに大きな絵が多いよなぁ、ということで。学生時代に訪ねた時印象を思い出した。つまり、私のような者からすれば、この映画は、ルーヴルの存在意義自体に対する批評精神が欠如していることが不満。監督及びスタッフは、そういうことは考えたことすら無いんだろうけど。

 ルーヴルは世界最高の美術館、と無邪気に信じている人には見る価値があるかと。ルーヴル自体、どうでも良い人にはどうでも良いかと。当たり前といえば当たり前?

 

2/12

 予想外にも、ほぼ定時で終了。……これが分かってさえいれば、今日、応挙展に行ったのに。と思いつつ、久々に早く帰る。

 まぁ、早く帰ってきて何をするかというと、昨晩の「R.O.D-THE TV-」を見たりするだけなんですが。あと、ついでに三姉妹会議とか 。

 

 予想外といえば、e+のプレオーダーで、新国立劇場の「マクベス」が当選していた。

 B席なので、配送料等含め1.5万。どうせ落ちると思っていたので、予定外の出費だ… 「透明人間の蒸気」の方は見送った(というか落ちた)ので、それ位、まぁ、良いけど。むしろ、ヴェルディの「マクベス」など全然聴いたことがないことの方が問題というか。野田秀樹の演出の良し悪しを理解する以前に、少なくともスタンダードな舞台の様子をDVDででも一度観ておく必要があるような。…更に、出費が嵩む気がするけど。

 

2/11

 目下のところ、「王の帰還」と「円山応挙展」が私にとっての最重要イベント。だけど、前者はまだ先行公開中らしいので(既にロードショー中かと思ってた)、まずは後者 と、昨晩、開催要項を見ていたら。…何ですか、この展示替えの多さは。毎週行け、ということ?

 

Art 円山応挙 <写生画>創造への挑戦 江戸東京博物館 2004.2.3〜2004.3.21 (1回目)

 というわけで、今日の午前、江戸東京博物館へ。会期初めだし、開館直後に行ったのだけど、充分混んでいた。内容的には、展示方法や構成を含め、非常に充実していた(だって、どの展示作品も応挙が描いているんですよ!って当たり前か…)けど、ボリューム的にはえ?ここで終わり?みたいな物足りなさが無きにしも。

 会場を1.5倍にして、どれも少なくとも10日間は展示するようにすべきだ、と思った。今回の展示替えの多さって、作品保護というより、動員数を上げるためとしか思えないんだけど。でも、まぁ、仕方ないので、あと数回は行きますが。

 一週間のみの公開が多い第5週は必ず、第6週または7週で1回、第3週と第4週も出来たら1回、というところか。展示替え分だけなら1時間もあれば見られるので、木か金の夜間に行ければ一番良いのだけど…

 一方、「東京展では陳列されません」という作品は12点。

 その内、三井文庫の「雪松図」は不十分ながら前に見ているので、まぁ良いや。金刀比羅宮の表書院の虎と鶴は、…大阪だけだったのか。現地であの一部だけが見られなかったわけだけど、良かったというべきか悪かったというべきか複雑な気分。大乗寺の「龍門鯉魚図」が見られないのは残念。でも、東京のみの展示もあるし、良し悪しではあるような。

 

 今回、見ることが出来て一番嬉しかったのは、「氷図」。いつか大英博物館まで見に行くしかないのか、とさえ考えていただけに、向こうから来るなんて、何てラッキー。まぁ、絵その物が凄いと いうより、発想自体が凄い、という作品なので、実際に見たからどうこう、というわけでもないのだけど。

 次に挙げるなら「幽霊図(お雪の幻)」。有名な「応挙の幽霊画」を実際に見る機会って、余り無かったような気がするので。…あれ? そういえば、曼殊院で応挙の幽霊画を見たことがあるような? ただし、あれは確か、ギャーっと(梅図かずおの漫画風に)人を驚かす画面だったようなのに対し、こちらの「お雪の幻」は儚く美しい。これ以上、美しい幽霊の絵ってそうは無いと思う。(ところで、応挙が最初に「足のない幽霊」を描いたという俗説はどこまで信憑性があるんでしょうか?)

 というところで、他の作品については、2回目以降で、おいおいと。

 

2/8

 サントラや本人のCDのCMでは、声を聴いても別に何とも思わないのに、目にする(耳にする)度、何となく得した気がしてしまうのは、何故だろう>チロルチョコ

 

 溜まっていたものの消化で終わったので、この週末自体は特に書くこともないとはいえ、週に1回、漱石の小説のメモだけではどうしようもないなぁ。しかも、一月前に読んだ本。

 勿論、読んでいるのは漱石だけ、というわけではなくて、例えば竹岡葉月の新刊だって相変わらず読んでいるわけですが、現在の日記では余りに浮いてしまう気がして、感想を書くに書けない。あっ、そうだ、「なかないでストレーシープ」2作品の感想なら「三四郎」の後に書けば良かった。…と一瞬思ったけど、それってあらゆる意味で関係ないな。

 

Novel 夏目漱石 「彼岸過迄  岩波文庫

 「彼岸過迄」とは、新聞の連載小説として、元旦から書き始め、彼岸過迄は続ける予定、という意味で内容とは関係なく漱石が付けた題名。

 初読時に、そんな付け方で良いのか?と呆れたことと、面白いと思ったことは覚えていたが、改めて読んでみると、…それほどでも無かった(^^;; 短編連作の内、急に盛り上がってくる後半が、やや単調な前半と比べると、予想外に面白くなるのは事実としても。恐らく、前作の「門」の地味さが、十代の私にはよっぽど退屈だったのではないかと(それで本作は比較的面白く感じたのではないかと)。

 内容は、奇妙な洋杖が縁で、知人の様々な「物語」を知る青年の連作、といった趣。昔の西欧の小説には、こういう狂言廻し的な小道具ってよく出てきたような…

 とは言いつつ、最初に浮かぶのは、何故か「猿の手」位。あれは、狂言廻しというより、もっと主役? そういえば、「猿の手」と似た話で、不幸をもたらす「願いを叶えるアイテム」が何かの革という話も、子供の頃、ほぼ同時に読んだ記憶が。確か、願いを叶える度に革が縮んでいって…とかいう。あれは何という小説だったかな? まぁ、それ以前に何の革だったかすら覚えていないけど。とまたしても、漱石とは既に何の関係もない連想へ。

 

 この小説の特徴を一言で言えば多分、「迂回」。「尾行」「謎解き」といった推理小説的な性格も含めて、近代都市ならではの小説。

 一方、前作「門」で言葉だけ出てきた「ハイカラな鎌倉」も今回、実際に描かれている。別荘に泊まって、海水浴をして。それどころか、小坪で船を借りて蛸まで釣っている(^^;; 別荘の水が悪い、という描写は、漱石自身の実体験からの感想?

 

 「須永の話」。嫉妬という感情が緻密に分析されていて、内面に潜む負の感情を登場人物自ら、どんどん追い詰めていく「行人」「こころ」の世界はここから始まる、といった感じ。

 こういう話を描くのに必要としたのが一人称だったと見え、それまでの三人称が、「須永の話」では突然、「僕」の文章になる。しかし、途中で1回「僕」ではなく「自分」が 紛れ混んでいる辺り、人称の使い方にまだ揺らぎがあった様子。ちなみに、この次の作品「行人」では確か「自分」だった筈。「こころ」は勿論、二つの「私」。

 もっとも、須永の一人称の自省よりも、相手の千代子から浴びせられる言葉の方が、遙かに鋭く核心に迫る。「貴方は卑怯だ」と。

 「松本の話」。登場人物に「或学者の講演を聞いた事がある」と言わせておいて、自分の講演の要約を差し挟むセンスは結構、凄いものが。「現代日本の開化」という毎回お馴染みのテーマだけど。

 

2/6

 あー、ここ暫く、週末以外、更新する暇がないかも。

 まぁ、全く出来ないわけでもないのだけど、無理はしない方針で。可能な時に、適当に。

 というわけで、今まで割と活用していた、美術館の平日夜の時間延長の利用も当面、難しい状況。応挙展辺りは、平日の夜に空いている状況でゆっくり見たかったんだけど… 「東山魁夷展」も金曜夜が不可能な以上、行くのは取り止め。「満員電車並」に混んでいるとの話も目にするし。 大体、評価していない画家の絵をそこまでして見たくはない。

 むしろ、この機会に見て置きたい日本画家の回顧展としては、「高山辰雄展」の方かと。問題は、茨城まで往復するとそれだけで一日が潰れてしまうことで。佐倉市立美術館での「フランツ・ハルス展」もほぼ同様。

 そして、行きたいのは何も展覧会だけじゃないわけで、「王の帰還」もとりあえず2回は行かないといけないし(行った以上「終わらざりし物語」も読むべきかもしれないし)、他にも行きたいものがあれこれと。日記も溜まる一方だしなぁ。

 …これって、週末の「この一日で、暖かに回復すべく、多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んで」しまうしか無い状況? こういう場合は、果たして「凝としているうちに」毎週末、「何時か暮れてしまう」気がしないでもない。というか、きっと、そうだ。

 

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 「王の帰還」の公開も間近に迫ってきたので、「二つの塔」SEEのDVDをようやく見る。夜中の12時半から観始めたので、当然ながら朝の4時過ぎまで掛かる。というわけで、 朝は普通に起きたものの、午後中ずっと、うつらうつらとしていた。

 「旅の仲間」同様、SEE版の方がやはり、劇場公開版より自然な流れに見えますね。特にファラミアの描き方は、あのシーンがあって初めて納得出来る人物像になっているという感じ。

 

 2月になったので、旧サイトでの更新を停止しました。

 ちなみに「漫画系更新時刻一覧」のリンク先は旧サイトのTOPのままなので、明日以降は永久に更新されません(^^;; 必要な方は、(新サイトの日記に変更して頂いた)「SF系日記更新時刻一覧」の方をご利用下さい。

 最近のこの日記が「漫画系」である比率は、全体の0.7%位という気がする以上、改めて変更をお願いするのも申し訳ないので。まぁ、「SF系」である比率だって、せいぜい2.3%位という気がしないでもないですが。…そんなにも無い?

 

Novel 夏目漱石 「  岩波文庫

 この頃の漱石は一作毎に上手くなっていて、驚かされる(と偉そうに書ける立場でもないけど)。この「門」辺りで、文章的には完成?

 崖の下の、日当たりの悪い家でひっそり暮らす夫婦の地味な話。…はっ! そうか、あの話って「門」だったのか。うわぁ、恥ずかしい。しかも、3ヶ月近く…  こういう時は出来たら、容赦なく突っ込んで頂いた方が有り難いのですが… あれ? とすると「道草」ってどんな話だったっけ?

 「馬尻」。 「バケツ」の当て字。笑った。漱石の当て字って、真剣に書いているのかユーモアなのか、よく分からないのだけど、結構、変なのが出てくる。

 抱一の屏風。作中で重要な働きをする。「抱一は近来流行ませんからな」と道具屋は買い叩くが、その後の展開から、抱一は明治時代も安定して高かったことが伺える。

 友人の恋人を奪った顛末としての結婚。「それから」の続編的性格と言われる由縁。「君望」と変わらないな…(その言い方は順序が逆です) ただ後者には金銭問題が切実にないのが大きく違うところ、って「門」の話 をしていたんじゃなかったのか。

 宗教。有名な円覚寺への座禅の話が後半出てくるのだが、伏線が無いので、いきなり何故?という感じ。当時は割と座禅ブームだったらしいので、悩み事があったら、ともかく「寺へ行け」みたいな風潮だったのだろうか?

 「ハイカラな鎌倉」。鎌倉に行くことを聞いた妻の反応は「まぁ御金持ね」と。当時は既に、金持ちの保養地というイメージ が出来上がっていた様子。明治末期だから、当然か。

 

 過去。主人公達の若い頃は、京都の学生。先輩だったのか(^^;;

 というわけで、友人が一時的住んでいたのも「樹と水の多い加茂の社の傍」。「少し閑静な町外れに移って勉強するつもりだとかいって、わざわざこの不便な村同然の田舎に引込んだ」。……あの、私も学生時代、下鴨神社のやや近くに住んでいたんですが。まぁ、当時はまだ「村同然の田舎」だったのか。もしかして、上賀茂神社の方?ということは無いな。バスも自転車もない時代に、上賀茂から学校まで毎日通うのは、ちょっと無理が有り過ぎ だし。

 

 現在。主人公の身分は平凡なサラリーマン (正確には下級官僚)。仕事に追われていて、休日も何もする気になれない、という無気力感の描写が、明治時代にはとても思えないほど絶妙。

「今日の日曜も、暢びりした御天気も、もう既に御しまいだと思うと、少し果敢ないようなまた淋しいような一種の気分が起こって来た。そうして明日からまた例によって例の如く、せっせと働かなくてはいけない身体だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた。」
「六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で、暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。だから遣りたい事があり過ぎて、十の二、三も実行出来ない。否、その二、三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、凝としているうちに日曜は何時か暮れてしまうのである。」

 まるで我が事のようによく分かる、と日曜の夜に書いている私(笑) もっとも、今はこれほどでもないけど。数年前の、生きているだけで精一杯、みたいなはまさにそうだったので。

 とはいうものの。その勤務実態をよく読むと、「朝出て四時過に帰る男」 と書いてある。週休1日とはいえ、夕飯前に銭湯に行ける生活のどこが大変なのか、と問い詰めたくなる。

 改めて考えてみると、当時は照明が明るくなかったから、仕事というのは日中にするものだという常識があったのかも(推測)。それにしても、この当時ですら、神経衰弱だ何だ言っているようでは、今の世の中では、漱石の小説の登場人物はどうなってしまうのか、と思ってしまう。