空の蒼さを 見つめていると
今月は、どう見ても長すぎ。もっと簡潔で透明な日記こそ、つねづね目指しているところなのに…
10/29の「クリストファーの魔法の旅」についての記述が、舌足らずだったので、補足。
作者が、「魔術師のおい」を意識して書いたこと自体は間違いないかと。倫子さんの銀の椅子のDIANA WYNNE JONESさんのファンページで知った、amazon.com上の「The Magic of Narnia」でも、「魔術師のおい」はmy favoriteだと述べているくらいだし。ただ、オマージュであるにせよ、完全に新たな創造、と呼んで構わない出来なので、余り意識しないでも良いのでは、という話なのです。
ところで、amazon,com、ふと閃いてジョナサン・キャロルをチェック。
すると… ああっ、やっぱり、新作が! しかも、幾つも。少なくとも、「The Wooden Sea」と「The Marriage of Sticks」は新作だよな。でも、今の東京創元社に新刊なんて、全然期待出来なそうだし… いつまで待っても翻訳はどこからも出ないような。自分でpaperback等を買って読むしかないのか。ここのreviewを眺めるだけでも嫌気が差してしまう私には、原書の通読など、とても出来そうに無いのだけど。
渋東シネタワーの「押井守 トーク&映像作品上映」に参加。
あの「G.R.M.」を初めとした各種パイロット映像からコナミの某アーケードゲームのエンディングアニメまで、極めてレアな短編作品の数々だけで、値段の元は取った的な感じだったのだけど、それに加えて長いトークと、何と新作(脚本)1本の上映まであって、3時間近い充実したプログラムだった。
本人のトークも、私が今迄参加した押井守のイベントの中では一番面白かったような。色々、示唆に富んだ言葉が飛び出していた。
新作は、「パトレイバー」のSD短編アニメで、その名も「ミニパト」。「パト3」と共に来春劇場公開予定。というと、いかにも安易な「おまけアニメ」ぽいが、実は、押井守ギャグアニメの極北、と呼ぶべき快作。いや、怪作? 強烈な毒に満ちたセルフパロディ。筆ペンで描いた平面キャラによる、紙人形劇のような3Dデジタルアニメという演出も、実際に見てみないと分からない、凄いインパクト。今回は3話構成の内、第2話のみの上映だったのだけど、早く全部見たい。
ちなみに、12月発売予定の「サンサーラ・ナーガ」移植版だが、今回はちゃんとゲームバランスを調節したらしい、とのこと(凶悪なダンジョンで知られるスーパーファミコン版は、実は本人もエンディングまで辿り着かなかったらしい)。それを聞いて、ゲームボーイアトバンスを買ってしまう方向に、ぐっと心が傾いてきた…
十二国記の新刊はどうやら来年1月に延期らしいよ、という「みんなで不幸せになろうよ」お知らせが届く。ただ、そう聞いても、そんなにショックではなかった。ことに気付いて、それが実はショックだった(^^; 内心では、遅れると思っていたのか。まぁ、考え方を変えれば、来年を迎える楽しみが一つ出来た、ということで。
大魔法使いクレストマンシー・シリーズの(今回の邦訳では)2冊目。この世界と別の世界を「行ったり来たり」するタイプのファンタジー。といっても、「この世界」自体、私たちの世界とは、魔法が学校で教えられている辺り、既に違っている。
ストレートに面白い本。同シリーズの「魔女と暮らせば」と似ているという話も聞くが、そちらはあいにく未読なので、既読の中では一番エンターテインメントな物語ではないかと。映画化されてもおかしくない、展開のメリハリと爽快なラスト。面白い本を読みたいと思っている少年少女が知り合いにいたら、プレゼントに最適の一冊。(本=プレゼント、と考える時点で、既にジョーンズの世界に染まっている)
ところで、帯にもC.S.ルイスの「魔術師のおい」に捧げる、とか書いてあるし、連想させるところはあるので、「魔術師のおい」も再読。
確かに、設定、ストーリーで共通する要素は有るのだけど、これを同じだと言い出したら皆同じ様な。例えば、高橋留美子の「らんま1/2」の娘溺泉なんか、「魔術師のおい」の、世界のあいだの池の描写にそっくりだ… とは誰も思わないか。そうそう、ルイスはキリスト教的な価値観から、絶対悪を登場させているけれど、「クリストファー…」での善悪は、それほど絶対的なものではないというのが、大きな違いかも。
横浜のTOWER RECORDSで、橘いずみのインストア・ライブを聴いてから、渋谷のル・シネマで、押井守レトロスペクティブの「ニルスの不思議な旅」(劇場版)と「うる星やつら2」を観る。気力と体力に乏しい私としては珍しい、activeな休日。
「BD」は、映画館で観るのは多分、十年振りくらい。LDで最後に観たのも数年前。だから、今回の印象は、もはや遠い、だけど懐かしい、そんな感じになるのではと予想していたのだけど。実は、(当時のように、ダイレクトに響く、とはいかないにしろ)「現在の映画」としてそのまま観ることが出来てしまったのだった。引けー、力の限り引けー、根性見せてみろー、から始まって、劇中の全セリフは、相変わらず頭の中で再現出来ていたし。
ということはだ、と上映後、雨上がりの夜の渋谷を駅まで歩きながら、思った。私は、まだあの亀の上に立っているのだろうか。80年代という名の。
美術館へは、東京駅丸の内北口からバス(200円)。便利だと思ったんだけど… 35分掛かりました。
「ギャラリーフェイク」での村上隆をモデルにしたと思しきエピソードを鵜呑みにするつもりはないが、実際に見た限りでは、私も評価する方に回る気には、余りなれず。「オタク」な表現の「盗用」でも「引用」でもどちらでも良いのだけど、作品自体には、本物の「愛」が欲しいわけですよ。1/1フィギュアの技術的な完成度には感心するけど、結局、そつのない「空想科学読本」にしか思えない。
会場ではメイキングビデオが流されていて、工房としての集団作業であることが強調されていた。要するに、高校の文化祭へのクラス出品。作っている本人達の方が楽しそうなのも、終わってしまえば作品の存在意義自体、無くなってしまいそうなのも同じ。そこまで割り切れば、そこそこ楽しい。
shopで、村上隆が昔描いた「バベルの塔」のポストカードを、購入。ラピュタみたいな塔だ。
良心的な展覧会だとは思う。イタリア現代美術の百年を勉強するという感じで、楽しむところまではなかなかいかないけど。
個人的には、モランディの静謐な数点だけでも見た価値は有り。あとは鷹揚な気分で見て回る。フォンタナがキャンバスに線を入れて切ったのも突然ではなくて、そういう流れの中にあったんだなとか、ああ、やっぱり勉強モード。系統的に現代美術をまとめて見たい、という人には良いかも。
思ったより混んでいた。終わり間近だからか、それとも新宿という街は、美術館だろうと人が溢れているのか。
何となく。エッフェル塔やシャンゼリゼ通りの、いかにもパリみたいな風景を、洒脱に描いている「おフランス」な画家、というイメージが有ったんだけど。展覧会の作品を見る限りでは、そうでもないようで。それどころか、一時期はブラックと共にキュービズムの道を歩んでいたとか、作風の変遷は意外にも多様だったザンス。
色を薄く塗っておいて、シャシャと素早く黒の線を走らせた(順序は逆かも)軽妙な画風の絵がやはり一番楽しい。とはいえ、「いいひと」の絵というのか、決定的なものに残念ながら欠ける気が。つまり、突き詰めれば、マティスさえいればデュフイは要らない、という感じ。少なくともこの逆は有り得ない。洒落た小さなレストランの壁に掛けるリトグラフとしては、最適の作家なんだけど。
渋谷QUATTROでの橘いずみのlive「Let's bellybuton」に行って来ました。
開場前、階段に並んだ時に、スーツ姿が浮いてしまい、居心地の悪い思いをしてみたり。年齢層、割と高いと踏んでいたのに何故? あと、開場時から3時間立ち続け、というのは、私の気力・体力的には結構、辛いものが。そういえば、今月は「10月は体力つくり強調月間」(文部科学省・体力つくり国民会議)。だから、どうした、という気もしますが。
ともあれ、liveは非常に良かったです。彼女のliveを見るのは初めてで、昔、カラオケで私がよく歌った(^^;「永遠のパズル」を生で聴けたのには、ちょっと感動。アンコールの2曲が特に良い雰囲気でした。
D.W.ジョーンズ手持ち分読了。ようやく追い着いた。
これも細かいところは忘れ去っていたのだが、読み終えて、本当にどうして忘れ去ることなど出来たのだろう、と嘆息する。主人公の少女が、自分の今迄の9年間の記憶から奪われてしまっていたものを取り戻そうとする、驚嘆すべきこの冒険小説を。
ここまで読んだジョーンズの中では、やはり最も精巧かつ感動的。傑作という言葉が相応しい。もっとも、話の芯となる英国のバラッドについての正確な知識が無いため、最も大切な部分に関して、完全には読み取れていない気がするのが残念…
少女は、真実の9年間を思い出す過程で、自分がいつもある人から色々な本を送って貰っていたことも思い出すのだが、最初の本と一緒に送られてきた手紙は、本好きのツボを間違いなくギュッと押す文章。「どんな人もこれを読まずに育ってはいけない、と本屋が教えてくれたものばかりです」
ああ、その言い方はよく分かる。しかし、果たして、私は今まで、どの位そういった本を読んで来ることが出来ただろう。勿論、ジョーンズの作品も「読まずに育ってはいけない」ものに違いない。…もっとも、いくら読んでも、こう、綺麗サッパリ忘れ去っているのであれば、それは「読んで育った」内には入らないよなあ。
私の中では「黒鉄」は、商業娯楽作品として?読むことになっていて、その限りでは裏切られることはないが、最近、迅鉄が「いいひと」過ぎるのはやや不満。
もっと逃れられないしがらみの中で、義理人情が交錯し、事件は解決すれど居たたまれなくなって流れ者は去っていく、みたいな、そういう救いのない方向性で、やってもらえないものかと。丹も何だか、納得してしまったようだしな… というか、もっと、粋な姐さんが活躍する話を!(結局、それが本音か)
そりゃ、確かに。お化けなんだ、お化けなんだ、お化けなんだけれど。
昼休みに往復。前回、歩いていったら昼を食べる時間が無くなったので、タクシーで行く。ホテルオークラへは、検問に絶対引っ掛かるとの話に、何故?と思ったが、実際に車を止められて気付く。そうか、ホテルのある丘の下は、米国大使館なのか。今まで意識したこと、全然無かった。
今回は江戸時代の作ということで、どれも地味だな、と余り期待もせずに、二階の絵を見て回ったのだが、最後に一双の屏風を見た瞬間に、はっとする。雁図。数羽の雁が水面に向かって下降する様を連続写真のように極めて写実的に捉えつつも、気品を感じさせる画面。見ていて言葉を失う。作者はと見ると、応挙。ああ、やはり。見に来て良かったとしみじみ思う。
一階では、一見ユーモラスな描写の「百鬼夜行図」を、後から入ってきた、二人の上品な老婦人が眺めていた。片方の婦人が、もう一人に向かって感心したように言う。「まるで、『オバケのQ太郎』の世界ね」 …あの、おばさま。それを言うなら、『ゲゲゲの鬼太郎』なのでは?
BSでの、横浜トリエンナーレの特集番組。
クラゲの遺伝子を加えて兎を黄緑色に光らせたり、細菌の遺伝子配列に聖書の言葉を書き込んだりと、遺伝子工学アート?を好き勝手に作っているエドワルド・カッツだけは何度見ても、誰か止めてくれ、と言いたくなる。
気に入ったのはキャンディーを床に並べる展示。観客がキャンディーを食べることが出来るだけでも他の作品よりはマシ。ちなみに、作者(名前は忘れた)は既に故人で、NYの近代美術館が、この「キャンディーを床に並べて展示する」権利を貸し出しているらしい。特許みたいだ。
番組では出展者の内、何人かを紹介していたが、その中のフランスの若い女性アーティストは、「アキラ」の日本語版を、最高の漫画だと語った後に、東京で入手したという「セーラームーン」の同人誌を嬉々として持ち出してきた。…単なるオタ?
そんな彼女の作品は、本人が描いたマンガ。どうやら、近未来で封印されている「芸術プログラム」を、主人公達がどこかの建物に潜入し解放するという話らしい。ヒロインらしき人物のセリフが大写しになる。「分かったわ、芸術は社会を救うのね!」 ……救いません。絵もヘタレなレベル。こんな「アーティスト」を、フランスくんだりから呼んだのは、一体誰やねん? (というか、そんな人物をわざわざ選んで取材しなくても、NHK)
「日本人はるかな旅」第三回。栗の栽培が寒冷化で不可能になって大規模な縄文集落は姿を消し、小さい集落で、シイの実をアク抜きして生き抜いていったという話。そうか、栗好きな人って、縄文の血を受け継いでいるのか。←間違った理解
「ネコもシャクシも」
日経の文化欄に、作家でもある、とある僧侶が、喪中に関するエッセイを記していた。興味深かったのは、本題ではなく、蘊蓄的に語られた語源の方。筆者によると、「ネコもシャクシも」という言葉は、「禰子(神道の信者)も釈子(仏教徒)も」から来ているのだという。ほおっ、「猫も杓子も」は当て字なのか。確かに、誰も彼も、という意味にはなる。説得力のある説明に、深く感動した。
しかし、一応、「日本国語大辞典」で確認してみる。…あれ? 諸説有り、というのが現状らしい。上の説もあることはある。何と、滝沢馬琴の説だ。他にも「女子(めこ)も弱子(じゃくし)も=女も子供も」とする落語「横町の隠居」の説とか色々あるようだ。
ついでに、「禰子」も調べてみると、見出し語にはなっていない。神職を「禰宜」というが、この「ねぎ」は「ねぎらう」に当たる動詞「ねぐ」の連用形の名詞化らしいので、「ね・こ」という言い方は、途中が脱落しない限り、有り得ないことが分かる。大体、私は今まで「禰子」なんて言葉は聞いたことがなかった。大多数の日本人も間違いなくそうだと思う。
一方、「猫」は身近なためか、「猫の〜」とか「猫に〜」と言った慣用表現は非常に多い。ということから考えると、ここはやはり「猫も杓子も」だと判断するのが素直だろう。筆者は、僧侶として(普通の人に馴染みのない)「釈子」という言葉を知っているという自尊心から、馬琴説に飛びついてしまったのではないか。もっとも、「猫も杓子も」だとして、では何故「猫」と「杓子」なのか、というのはまた別の問題として残ることになるが…
ちなみに、猫が出てくる慣用表現には面白いものが多かった。特に面白かったものを少し紹介。
・「〜に唐傘」…(猫の前で、畳んだ傘を急に開くと、びっくりするところから)驚くこと、また嫌がることなどのたとえ。←そりゃ、驚くよ。
・「〜に紙袋」…(猫に紙袋を被せると、前へは歩かないで、後ろへ下がることから)あとずさりをすること。←猫が可哀想だ。
結局、金曜まで続いた送別会週間のせいか、今日は、午後までうつらうつらと、無為に過ごして終わる。
私の、ジョーンズ初体験作品。8年振りの再読なのだが、良い感じに?内容を忘れ去っていたため、新鮮な驚きと感動を再度、堪能。
気が付くと、主人公が「幽霊」として彷徨っているところから始まる前半は、読んでいても主人公同様、訳が分からず、辛抱が必要だが、「幽霊」として突っ立っているその理由が、主人公と読者に分かり始めてからの後半は、圧倒的な面白さで一気に読んでしまう。ポンポン飛び跳ねるボールを追い掛けるようで、付いて行くだけでかなり大変、ではあるのだけど。
物語の語り方に関しては、私が最も好きなタイプ、といっても良いかも。「九年目の魔法」はさらに凄かった印象があるので、再読するのが楽しみ。
送別会その3。会場に行く前に、本屋で雑誌「シナリオ」11月号を購入。
鈴木清順特集での、新作の「ピストルオペラ」と「ツィゴイネルワイゼン」の脚本、前者の脚本を担当した伊藤和典のインタビューが目的。脚本の方は、映画を観るまで読むつもりはないのだが、観てからにしようと思っていると、往々にして買い逃すため。いや、清順の映画はどのくらい脚本と似通っているのか、一度比べてみたい、と前から思っていたのだ。
伊藤和典のインタビュー中の、ゲームのシナリオというのは、最近、TVCMを見た「真下耕一+伊藤和典+貞本義行」のゲームなのかと。タイトルはよく覚えていないけど(^^; 関連で久々にTVシリーズをやる、ということは同名のアニメを同名のスタッフで作る、ということなんでしょうか。
「魔法使いハウルと火の悪魔」の一応、続巻。一言で言えば、さらわれたお姫様を奪還するという、彼女の作品とは思えないほど、オーソドックスな物語。しかし、色々な小技を効かせておいて、最終的に綺麗にまとめる手腕はさすが。前作のソフィー&ハウルほど、今回の主人公アブダラのキャラクターは立っていないけれど(というか、比べる相手が悪すぎる)、物語のバランスといった点で、個人的には、こちらの方がより好み。
それから、この作品に限ったことではないけど、自立した女性像を生き生きと描いているのも魅力。「アリーテ姫」のような、つまらない人物しか出てこない「フェミニズム児童文学」を平気で書いてしまう人は、こういう作品を読んで猛反省して欲しい、と思う。
送別会(歓送迎会)その2。
もう忘れた方も多いと思うのだが、旅行記、ようやく5日目まで。今回は移動日なので、淡々と。愚痴も控えめ(笑)
送別会その1。終わってから、駅前広場での古本市を覗く。美術系の古本の棚の中に、美術年鑑社の「日本の美U さくら」を発見。
桜の花を題材にした日本画・洋画を集めた、550ページにものぼる巨大な画集で、前から買おうか悩んでいたのだが、やたらと重いこともあってそのままになっていた一冊。しかし、見ると定価3千円のところ、千円だったので、迷わず購入。欲しかった理由としては、堂本印象の「木華開耶媛」が載っている画集が私の知る範囲では、これだけだから。それに、桜の画集というだけで、私としては、買わない方がおかしい。重さに耐えつつ、持ち帰る。
スタジオジブリによる次回制作予定のアニメーションの原作。それが徳間書店から出版されたのは、まぁ当然なんだろうな、というか、だからこそ翻訳が出たのか? この際、ジブリ・バブルだろうと何だろうと、本さえ出れば、ただ感謝ですが。
彼女の作品としては、平均的な面白さ。予定調和的なムードが割と強いので、それほどハラハラしなくて残念、とも結末が分かっていてもこんなにも楽しい、とも言える。ところで、このハウル・シリーズ、有名な作品を毎回、下敷きに使っているようで、この巻は「オズの魔法使い」の世界。勿論、スピルバーグの「A.I.」のような頭の悪い引用ではないけど。次巻は「アラビアン・ナイト」らしい。
この作品の面白さは何と言っても、18歳のヒロインが魔法で90歳のおばあさんに変えられてしまってからの、恐いもの知らずな「言いたい放題」にあるのだけど、アニメにした場合、作品を見る子供達が「彼女」に果たして感情移入出来るものなのだろうか。その辺が、アニメ化における興味であり、不安でもあるところ。
結局、大滝詠一「ゴーゴーナイアガラ」の再放送は、ループアンテナを用意した結果、何とか聞けなくもない、という中途半端な状態で一応、聞き続けているのだが、ノイズ混じりの放送を聴いていてストレスは溜まるわ、アンテナを外に出すため窓を開け放して蚊には刺されるわ、散々な状況。
おまけに、昨日は(26年前の)「クレージーキャッツ特集」だったため、今日は、油断すると「スラスラスイスイスイー」とか「ホンダラダッタホーイホイ」といった植木等の歌声が頭の中を駆けめぐってしまったりして、仕事に差し支える状況。…えーと。私って、莫迦?
今週は、送別会週間。出ていく人は一人なのに、課の送別会に、部の送別会…と、ほぼ「毎日が送別会」となる見込み。一回で良いと思うのだが。
ようやく、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ月間を開始。
登場人物の一人一人が「存在している」気がする。主人公から見た姿、というわけではなくて(大体、この物語の主人公は誰だ?)、それぞれが自分の都合で行動する様を巧みに織り合わせて物語を進めていく(というか、こんがらがっていく)。
特に、途中、物語が転がり出していく辺りは、さすがダイアナ・ウィン・ジョーンズ、という面白さ。ただ、後半、動ではなくて静の展開になってしまってからは、何だか作者に言いくるめられてしまった印象があるけど。あと、歴史の分かれ目を探す話は、昔、何か別の英国ファンタジーで読んだことがある気もするのだけど… 気のせい? ともあれ、この大魔法使いクレストマンシー・シリーズの連作、他の物語も早く読んでみたいところ。
二子玉川から静嘉堂を目指していて、道に迷う。ふと目の前に、「参議院速記者養成所」の表札が。あの人達はここで、養成されていたのか。というか、衆議院はまた別なところで養成しているのか。あの「虎の穴」もこんな感じで、どこかの山に表札が立っていそう。
ようやく出会えた、曜変天目茶碗の虹彩の輝き。思ったより小振り、というのが第一印象だったけど、上から見ている内に、次第に引き込まれて、気が付けば、視界一杯に広がっているようにさえ感じられる。その内側に宇宙そのものを封じ込めた器の奇跡。まさに、至宝。三年振りの、しかも自然光での展示なので、やきものに興味が有って未見の方は、この機会に是非、お見逃し無く。
ところで、今回は、修復が終わった伝・馬遠「風雨山水図」の展示のように、修復保存の在り方がテーマ。中でも興味深かったのは、二つの茶入れ。一見、何の変哲もない茶入れなのだが、実は、焼失した大阪城の跡から発見された破片を、当時の塗師の藤重親子が漆で繋ぎ合わせた復元品なのだという(X線写真だと中がバラバラの破片なのがよく分かる)。昔の世にも、「ギャラリーフェイク」のフジタみたいな、修復の天才がいたのだなと、その巧みの技に驚嘆。
しかし、この曜変天目も、歴史上、必ずしも最高ランクの評価がされていた、というわけではないらしい。
唐物茶碗の名品の数々を紹介しているこの写真集の解説によると、中国の茶碗といえば元々、白磁と青磁であったが、11世紀に、士大夫層の美意識の転換によって黒釉陶が茶碗として主役に躍り出る。曜変天目はその中でも、最高の茶碗であった。その文化を輸入し、尊重した室町時代の文化でも、同様にやきものの順位の第一に置かれていた。
しかし、室町後期になると、天目の中でも一番地味な灰被天目がより貴重なものとされるようになる。冷・凍・寂といった価値観からである。そして、その美意識は、一見したところ粗雑で粗悪なものの中にこそ美を見出すという極めて特殊な深化を遂げ、高麗茶碗、井戸茶碗といった、それこそ落語に出てくる猫用のお茶碗だと言われても可笑しくないような粗末な茶碗がより尊ばれるところに、日本の茶の湯という文化がその後、形成されていくことになる。
私もまた日本人なので、そういう侘、寂の美、というのはそれなりによく分かる。一見しただけでは分からないところに美を見出すという精神の在り方も。しかし、虚心坦懐に両者を比較すれば、曜変天目の方がやはり、どう見たって凄い。それをあえて井戸茶碗の方が良いと言い張るのは、単なる偏屈か、貧乏人の僻み根性か、贅沢品に飽きた者の贅沢でしかない。私が、茶道を無条件で好きになれないのは、そういうところにも理由がある。
でも、(もし可能だとしても)曜変天目でお茶を飲む勇気は私にはない。宇宙を飲み干す位の覚悟がないと、出来ないと思う。そういう意味では日本人のささやかで慎ましい感性には、強烈過ぎる美なのかもしれない。
それまで芸術の範疇に含まれていなかったものに対し、新たな「美」を発見してきた「眼」の歴史、というコンセプトで構成された展覧会。岡本太郎の「縄文土器」の「発見」、柳宗悦の「民芸品」の「発見」、円空や木喰の仏像の「評価」、奇矯なイメージを描き出した瀟白や国定らに対する「再評価」等々。
最初の展示品が井戸茶碗なのが、曜変天目を見て、茶碗の評価史を考えていたところだっただけに、個人的にタイムリー。展示品数は多くはないが、それぞれの優品を示し、刺激的な展示だった。惹かれたのは、円空か。本当に無駄のない、極められた彫刻。ジャコメッティと比べても遜色ない(多分、それ以上)。木喰の方は、私としてはちょっと…。唇厚いし。刺激的だったのは、瀟白の屏風。なるほど、「ガロ」の先達というか、この心臓に響く不協和音みたいな色彩と描写は何?みたいな。面白いことは面白いです。私の趣味では無いけど。
ところで、最後の展示品が、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」の写真なのはどうよ?
確かに、無意味な物に新たな価値を見出す点で、路上の無用の長物を面白がる「トマソン」は、上記の延長線上にあるように見える。しかし、それは、発見・認定する「観察者=赤瀬川原平、の特権性」を前提に初めて成立し得る「王様のゲーム」だ。あくまでも無償の遊びである限りにおいては、誰もが「楽しさ」を享受し得る「路上観察」だが、artとして正統化されてしまえば、抑圧的な「路上観察道」(赤瀬川原平が家元だ)という制度でしかない。そういう「嫌らしさ」に対し、今回の展示を企画した美術館は、無神経過ぎるのではないか。
要するに、「トマソン」を芸術の一つだと持て囃すような勘違いは、みっともないから止めておけ、ということ。
などと悪口は書いたものの、内容の面白さと安さ(300円)と渋谷からの近さ(bunkamuraを超えて10分)から、お薦めの展覧会。見に行って、損はないです。
先日の週記、微妙に加筆訂正。新明解の第四版をお持ちの方も情報頂けると有り難いです。
えらく開催期間が短いなと思っていたが、実は入場無料の展覧会だった。何と、剛毅な。
一時期の高山辰夫は、戦後の日本画の中で最も好きな作家の一人だったので、今回の個展にも割と期待するものがあったのだが。う〜ん… 絵の前に立ち止まらせる力が感じられない。元々、非常に微妙な色彩バランスなのだけど、チューニングがずれてしまった感じ。もう89歳だから、仕方ないといえばそうかもしれないが、池田遥邨の晩年の絵のように、余計な力が抜けた飄々とした境地でもないし。無料だし、文句を言う筋合いではないのだけど。期待しただけに、何とも残念。
ちなみに、高山辰夫は模糊模糊とした点描による、微妙な中間色の絵ということで、きたのじゅんこのイラストとかなり共通するものを感じる。という説明で分かり易くなった人っているのだろうか。
一言で言えば、サスペンス。最後までその緊張感で一気に読ませる作品。そしてそのラストには… やっぱり、乙一らしい世界で綺麗に締めくくってくれる。楽しめたし、良い作品だとは思うのだけど。
でも、暴走しだした流れなら、現実にはもっと止まることを知らず、ひたすら拡大していくのではないか。何か綺麗事、のような気がしてしまうのは、私が既に汚れてしまっているだけなのだろうか…
そう、こっちの方が、腑に落ちる。この70年代学園SFドラマ風復讐譚の方が。まぁ、内容については、これが14歳のイノセンスと言われると、ちょっと違うだろ(せいぜい、9歳くらいでは?)とか、シリーズ化せずに一冊で物語を完結させた方が遙かに王道だし感動するのに、と思わないでもなかったけど。少なくとも途中までは、「よく分かる」。
私は、70年代的なcultureには余り深く染まらず、80年代になって初めて、自分の価値観は主に形成されたと、自分では思っていて、だから例えば、「デビルマン」とかへの思い入れもまるで無いわけなのだが、…こうしてみると、意外にも、雀百までの類なのかも。そういや、作者、同い年か。またしても。
久美沙織「丘の家のミッキー」6巻の解説、瀬名秀明が書いていたので驚く。もっとも、内容を読むと納得、というか、良い文章で、やはり「いい人」なんだと思う。
「バベルの塔」の謎を理解するための一冊として。1996年の和辻哲郎文化賞の受賞作。
旧約聖書とは、実は、四種類の成立年度の違う文書が繋ぎ合わされた文書だという。その内、創世記は、J資料とP資料と呼ばれる二つの文書が混じっているために、内容を理解することが困難になっているとして、著者は、より古いJ資料に注目、文書を書いた人物が描いていた壮大な構想を明らかにしようとする。その構想とは、ヤハウェ(神)と人と、そして「地」の三者を巡る、非常にユニークなドラマだった。
というわけで、その仮説?を元に、創世記の読み直しを行っていく評論。学問的に正しいのか、というか意味があるのかすら、門外漢の私には分からない。多分、これは検証不可能な文学という方が適切だと思う。但し、これによって浮かび上がるドラマには強い説得力がある。
このドラマの中で白眉なのが、カインについての下り。なぜ、カインは神によって差別されたのか。そして、弟殺しの後、その「地」を追われながらも、何故、徴によって神の保護を受けるとされたのか。それらが、非常に納得出来る物語として、立ち現れてくる。
そして、この「神」の「人」に対する絶望と期待のドラマは、ノアと大洪水の事件を経て、バベルの塔という物語において破綻し、終末を迎えるが、それは流浪の民であるユダヤ人の在り方を決定付けていく、という。
…読み終えて、これだけ興奮したのは久々かも。但し、これは「バベルの塔」の読み方の一つに過ぎないのも事実。とりあえず、「ギャラリー・フェイク」の「バベルの塔」編は、この本の一部をネタ元に使っていることが分かっただけでも収穫か。いや、あの話はそれが本題では無いので、別に良いのだけど。
連休3日目、ということで出掛けるつもりが、起きてみると世界はこの有様。おまけに、天気も悪いので、一日、部屋で長谷川千代子「バベルの謎」を読んでいた。
これが、思っていた以上に面白い本で、BGMに「アディエマス」のbestを掛けていたこともあって、読んでいて、非常に盛り上がる。内容の正否はともかく、旧約に関心のある人なら必読の一冊。第一級の本格ミステリと言っても嘘ではない、創世記の読み直しを迫る壮大な仮説。詳細は、後日。
今日は、体育の日(天気悪いけど)。体育の日といえば、やはり体育祭。というわけで、週記を更新。
横浜トリエンナーレ2001の象徴?巨大バッタ。
インターコンチネンタルホテルの壁に貼り付く、このバッタが、事故その他で、なかなかその場所にいないことは公式サイトの「バッタ情報」でも窺えたが、5日の午後になってやっと復活したのだという。ということは横浜美術館に行った時、バッタがいたのは、まさに戻ったばかりだったのか。
なお、このバッタプロジェクトの「最新情報」(←今までの経緯の波瀾万丈さに感動する)によると、週末の天気の良い日だけ浮上させる方針とのことで、現在は既に格納済らしい。
ちなみに、5日は横浜美術館を出てから、わざわざホテルまで見に行った私。間近で見上げると、パンフに載っている予想CGのバッタに比べて、実物はちょっとダサ過ぎないか、と思ってしまったが、それは言っちゃいけない公然の秘密? でも、イベント性ということでは確かに、わくわくするような非日常性を感じさせるオブジェ。
ファンタジーのエッセンスとでもいうべき佳作。後の「裏庭」の原型のようなところもあって、「裏庭」の方が当然、複雑な構成になっているわけだけど、「西…」の方はシンプルなだけに、ファンタジーとしての飛翔部分がより鮮やか。殆どロケットの如く、一気に飛び上がる。これだけ鮮烈な印象を与える作品はそうはない。
文中には「ハイジ」の名が挙がっているけれど、個人的には「秘密の花園」を思い浮かべる。英国児童文学の伝統に則っている、背筋を毅然と伸ばした格調が好ましい、などというのは、梨木香歩の作品を読んだことのある人には、改めて言うまでもないことばかりで、逆に一言、言われてしまいそうな気が。「アイ・ノウ」と。
ところで、この作品をジブリで映像化したらどうか、と読みながら考えた。宮崎御大だと面白くなり過ぎそうで、それはこの作品の意図するところではないので、若手の演出家で。いや、映像で見てみたいという気がしたのだ。実際には、映像作品としては地味過ぎるので無理だろうけど。
他に、先週読んだもの。
あー、作者の誠実さというのは分かるのだけど、それならそれで違う枠組みでやってみたらどうか、というような。これをシリーズ化するのであれば、もっと突き抜けたバカ(な主人公と、物語展開)を目指すしかないと思うのだが…
いつものようにキャラクター小説として読んでしまっているので、鞠夫による、推理の妥当性は実はよく分からない(読み流している)。作者の「自分の中の他人」ネタの中では最もエンターテインメントなシリーズだけど、現実にこうだと、ヒロインの立場って、かなりヘビーな気が。今作だと、もはや当然みたいなノリで進んでいるけど、本当に良いのか、おむつ。ところで、今作は巻末の対談のために単行本化したのではないかと、ちょっと邪推。
今日、読んだComics。
デッサンの歪んだ「あずまんが大王」? 安定感はまるで無いけど、ところどころにハマる処が。それにしても、これほど登場人物一覧表の添付が望まれる作品もないのでは? 未だに綿貫響と宮田晶の区別が全く付かないぞ。というか、宮田晶って誰。あとついでに「あずまんが大王対応表」も付けてくれるとより親切かと(^^; 玲→よみ、姫子→おおさか?、ベッキー→blackちよ、とか。それからD組の芹沢→メカ沢。作品が違うけど。
東京国際映画祭での「押井守レトロスペクティヴ」。「All About Mamoru Oshi」と「紅い眼鏡」と「Beautiful Dreamer」の前売りを予約。
ゲーム発売時、店頭で見ただけの「サンサーラ・ナーガ2」の予告編映像がまた見られるなんて… 更に、未見のG.R.M.のパイロット映像。そして新作?まで。今回は「All…」の前売り券を確保しただけで、もう十分。この際、かつての名作を、今、映画館で観るのも良いかな、という単なる懐古趣味で、後の二つも予約してしまったけど。お高く止まったル・シネマで「紅い眼鏡」なんて、そのミスマッチだけで見に行く価値があるというものよ。
押井情報であれば、ここでチェック、というわけで、久々に見たら。何と。「御先祖様万々歳」のDVDの廉価版が年末、出るらしい。どうして今頃? 今週、ビックカメラでBOXを発見して、2万8千円出して衝動買いしてしまったばかりなのに。策士、策に溺れる? …こういうのが、私の「定め」なのか。
金曜は遅くまで開いている美術館が増えてきて、嬉しいです。
奈良美智、といえば、今さら説明するまでもない、あの幼い子供をデフォルメしたようなキャラクターで人気の画家。
立体、ドローイング、色々な作品が展示されていた中で、ラフというか落書きを壁一面に貼った小部屋が一番、作者のイマジネーションの広がりという点では刺激的だったのだけど、技術的な完成度と、可愛らしさといったコマーシャルな魅力と、奔放な想像力の中で、artである、ということはどの辺に比重が置かれるべきことなのだろう、と考えた。
…やっぱり、可愛ければ良いのか。あの女の子が舌を出して、気持ち良さげにうたた寝をしている「Pricess of Snooze」とか見てしまうと、もう降参、なので。小悪魔風の「My Blackguard Angel」も良かったし。と、自分の好みを書いて何になる。
ところで、今回、展覧会に行ったことでの最大の発見は、×「ならみち」 ○「ならよしとも」 と知ったこと。…ひょっとして、そう思ってたの、私だけ?
唐突ですが、「峠の釜飯」という駅弁を食べたことがある方で、その中身まで覚えている人はどれ位いるでしょうか。
いや、鶉卵とか椎茸とかはすぐ思い出せるでしょうけど、中にグリーンピースが入っていたことは? しかも、そのグリーンピースが何粒だったかは?
TVチャンピォンを付けたら、駅弁王選手権で、そういう問題をやっていた。見ていると、2人も合格しているし。ちなみに、中身は9種類、その中のグリーンピースは3粒。世の中には、まだまだ、何の役に立つんだか、というか何の役にも立ちはしない知識の研鑽に日夜励まれている人達がいるものなのですね。その無意味さに、ちょっと感動。
というわけで、無意味さだけなら良い勝負かもしれない、旅行記の続き。ようやく4日目まで。
私の中ではメインの日なので、今まで一番長いです。毎度のことですが、かなりどうでも良い文章ですので、興味のある方だけ、どうぞ。
サベナ・ベルギー航空がストで荷物を運ばなかったお詫びに寄こした洗面セットのTシャツがスイスエアーのロゴ入りだった話は前に書いたが、帰国してから新聞で、サベナ航空はスイスエアーの子会社だったことを知る。不思議なことなんて何もない。記事によると、サベナ航空は経営不振で、スイスエアーの足を引っ張っている悩みの種、ということだったが、昨日、そのスイスエアーの方が、テロの影響等で先に経営破綻してしまった、とのことでやや驚く。
燃料代の未払いで、飛行機が差し押さえられている、との報道に、差押の札がペタペタ貼られた飛行機を想像してしまったが、実際はどうなんだろう。飛行機は船舶同様、登記が有るの? ともあれ、近い内にスイスエアーの名前は消えるだろうから、あのロゴ入りTシャツにも価値が…ということはないよな。
探していた長谷川三千子「バベルの謎」を、横浜のダイヤモンド地下街の有隣堂で、あっけなく発見。さすがの品揃えと言いたいが、単に不良在庫化していただけ、だと思う。
BSの「新・真夜中の王国」で、橘いずみのゲスト出演を見ることが出来、割と満足。そういえば、彼女の「真空パック症」という一人芝居のLDを数年前に買ったまま、まだ観ていなかったことに気付く。今度、観てみよう。
結局、昨晩は、関西地域で聞く文化放送みたいな(=聞くに耐えない)状態で、聞いていました<ゴーゴー・ナイアガラ。
来週の日曜までに、ちゃんと聴けるようループアンテナを確保するか、高性能なラジオを思い切って購入するか、あるいは、この番組が再放送されていること自体、頭から忘れ去るか、その内のどれかを選ばないといけないような。…面倒になったら、3番目?
ホラー的な想像力をベースにした小説。本領発揮、というか、「切ない小説」の方より、生き生きして見える。いや、「切なさの達人」?としての小説と、世界観自体はそんなに違わないのだけど。作者の目指している世界が、高い山の上にひっそり存在する小さな花園だとすると、こちら側からのアプローチの方が急斜面だけど、登り切るとすぐ、花々が見渡せる近道となっているような。
乙一作品の魅力は、勿論、目的地の景色の美しさなのだが、そこまでの途上、登場人物が眺める何でもない風景が、読者の心に深く残ることにもあるのではないかと思う。例えば、この作品でヒロインが目にするその街の風景… と書いてきたら、何だか、この作品自体と非常にオーバーラップしてきた気がするので、これ以上はあえて書かないことに。
ちなみに、今回もミステリの作法を意識している、作者の生真面目さを強く感じたが、別に辻褄など合っていなくてもよい?ので、もっと自由奔放な作品を書いて欲しい。
金木犀が薫る頃になれば、加納朋子の新刊。というわけで、今回も期待を裏切らない、加納朋子らしい、上品で優しい連作小説。
今までの中では一番ミステリ指向が薄いのが、やや意外だったけれど、これは、その上品な優しさを味わえば良い作品だと思うので、それ以外のことはそう気にならず。とりあえず、近所の世話焼き三人娘(笑)の会話だけで、充分に楽しい。