空の蒼さを 見つめていると
この時期、花屋の店先で見掛ける、あの大輪の白い百合。「カサブランカ」という名であるのを、最近、知った。もちろん、ある日、店先で立ち止まって、名札を見てみたのだ。
なるほどと、一瞬納得し掛けたが、すぐにそのおかしさに思い当たる。「白」しか合ってないじゃん。「家」はどこへ行っちゃったわけ?
誰が付けたのか気になったので、少し調べてみる。まず、品種的には、オリエンタル・ハイブリッドと呼ばれる園芸品種だということ。ヤマユリやカノコユリといった日本の百合を幾つも掛け合わせた花らしい。どうりで、ヤマユリを漂白したような姿だと。しかし、作ったのはオランダの業者。日本には逆輸入?されて人気沸騰、一躍トップブランド化したという経緯が。ハイブリッド米みたいなものか。入ってきたのは20年くらい前で、当時はまさに「高嶺の花」だったが、近頃は庶民的な価格に落ち着いてきた(ので、私が、駅の地下街の花屋で見掛けるようにもなった)。
百合の名前には地名(新潟とかも有るらしい)や人名が多い。だから、「色が合っている」地名なら良い方なのかも。しかし、こういう撰撰なネーミングセンスは、個人的には耐え難い。白さを強調するのなら「鈴木その子」とでも名付けてくれた方がまだしも納得出来るというものである。
それにしても、命名したのは本当にオランダ人? 輸入した商社(日本人)辺りが、日本人に受けそうな名前として思い付いた、としか思えないのだが。
ちなみに、この百合はその後も品種改良が進み、今ではピンク色の花なども出回っているらしい。「ピンク・カサブランカ」とかいう名前で。もはや、何が何だか。
喉がまだ息苦しいので、もう一度、耳鼻科へ。消炎剤に加えて、不快感を緩和する胃薬なるものを貰う。ドグマチール。気になったので、どういう薬か調べると、胃薬であると同時に、向精神薬でもあるらしい。荒れた粘膜と荒れた精神を改善する、つまりは気分が楽になると。ただし、主な副作用としては「太る」。…それは非常に困るんですが(^^;;
まぁ、数回服用したぐらいで、どうなるとも思えないけど(多分、食欲が増進するのではと。これ以上、空腹になってどうしろと?)、治すために必要不可欠なものでもないし、飲まない方が良いのかも。でも、せっかくの?機会なので、数日だけ試してみることに。自分の思考が少しはポジティブになったりするのか、興味有るところだし。
「アイルランド音楽入門」 ダイアナ・ブリアー 音楽之友社
アイルランド音楽に関して、曲の種類や使われる楽器など基礎的なことを丁寧に教えてくれる本。子供向きに書かれたものらしいが、初心者にとっても非常に有り難い本。アイルランド音楽で言う「フィドル」とクラシックの「ヴァイオリン」が全く同じ物だといった(基本的過ぎる)ことは、どこにも載っていなかったりするものなので。
色々な曲のさわりのメロディーの楽譜も多数載せられているので、読める人なら一層楽しめるかと。私は…、高校の頃は、少なくとも「ヘ音記号の楽譜」は読めた筈なんだけど(1年だけ、吹奏楽部でチューバを吹いていたので)。全然、身に付いていないなぁ。
「アイリッシュ・ミュージック・ディスク・ガイド」 大島豊 音楽之友社
今現在のアイルランド音楽で何を聴けばよいのか、ということに関して、この本には大変お世話になりました。とはいえ、まだ入り口に足を踏み入れたばかり、という感じだけど。
さて。手持ちの本も無くなったので、旅行前の一夜漬けとしての「アイルランド月間」は、これでお終い。
「ケルズの書」に関しては、ウンベルト・エーコが「完全言語の探求」とかいう本で何か言っていた筈なのだが、…今度探しておこう(内容を覚えていない&本が本棚の奥にあってすぐに出て来ない)。
「ケルズの書」 バーナード・ミーハン 創元社
ミーハン著と言っても、9世紀頃に製作された「ケルズの書」の著者では勿論なく、その注釈本の「著者」という意味。
とりあえず、注釈は読まなくて良いので(私もまだ読んでいない)、「ケルズの書」の各ページの写真の数々だけでも、ぜひ一度眺めて欲しい美本。幸いなことに、今年の4月に出版されたばかりで、大きな本屋の美術書のコーナーなら大抵置いてあるようなので。
一見、人物像等が稚拙に見えるかも知れないが、その装飾文様をよく眺めれば、その凄さにただ圧倒される。「天使の御業」とか「アイルランドの至宝」と呼ばれるのも肯ける 筈。もし気に入ったら、拡大鏡でじっくりと細部を眺めることをお薦めする。更なる驚嘆が待っている。もっとも、さすがに虫眼鏡を片手に立ち読み、というわけにもいかないだろうから、その場合は購入する必要があるだろうけど。
とはいえ、人類が生み出した最も美しい書物の一冊、そのハイライト部分を、僅か3200円で手にすることが出来るなんて安過ぎると言っても良いくらいでは?
「卑弥呼のことがよくわかりました!!! ありがとうございました。」という言葉が、ひとこと欄に書き込まれていた。
感想を貰えること自体、滅多にないサイトだし(というわけで、感想批判その他、随時募集しています)、ましてや感謝となれば有り難い話である。ただ一つ問題なのは、「卑弥呼」について書いた覚えは全くない、ということで。
この「卑弥呼」が、魏志倭人伝のそれか、あるいは水底靴のブランドか、はたまた犬猫用シャンプーの輸入代理店のことなのかは不明だが、いずれにせよ、この三文字を記すのは今日が初めての筈。そういえば、大昔、星野之宣の「ヤマタイカ」の感想を書いたこともあったが、卑弥呼については特に触れていなかった。
単に他のサイトと勘違いしたとか? それとも、もはや覚えていない大昔に、卑弥呼について何か「よく分かる」ようなことでも書いたのだろうか?
一番、もっともらしい解釈としては、子供のピンポンダッシュみたいな(私はやったことないけど)、ある種のジョークなのではないかと。同じ言葉が4回も書き込まれている時点で、送信自体が目的だったと推測出来そうだし。…しかし、それは良いとして、なぜ、卑弥呼?
アイルランド月間の当初の予定には、アイルランド映画を観るというのも含まれていたのだが、ローカルなレンタルビデオ屋ではなかなか見付けにくいこともあって、諦めていた。そんな中、ぜひ一度観ておきたいと思っていたこの映画がDVDで置いてあったのを発見。
独立運動の闘志マイケル・コリンズの生涯のうち、1916年のイースター蜂起から、内戦に突入した1922年、故郷の州で狙撃されて死亡するまでの6年間を、ニール・ジョーダンならではの抜群のストーリーテリングで描く、「映画で観るアイルランド独立史」とでもいうべき作品。
歴史を題材とした、あくまでもエンターテインメントとして受け止めるべき劇映画だが、それでも、これだけのことがつい80年前に、(当時の「英国国内」で)起きていたのを「映像」で見せられると、正直、驚く。
コリンズ役のリーアム・ニーソンがどう見ても31歳には見えないとか(監督が企画を温めている内に歳を取ってしまったらしい)、個々のテロ活動は描かれているものの、 独立運動の全体像はよく分からないとか、ケチを付けようと思えば色々あるが、メジャー映画として良く出来た、少しも飽きさせない作品なのは確か。観て良かったと思う。
特典の、この映画の製作と、コリンズの実像に迫る50分のドキュメンタリー番組もしっかりした内容だったので、得した気分。
旅行会社から、最終日程表として「旅のしおり」というものが届く。その日の行程や宿泊ホテルなどが印刷された小冊子なのだが、右側には、その日の天気や感想?を付ける空欄まで付いている。…何だか、まるで小中学生の修学旅行のようなんですが。「時間厳守」とか注意事項も色々書いてあるし。まぁ、さすがに「おやつの上限金額」は無かったけど。
「ケルトと日本人」 鎌田東二/鶴岡真弓 編著 角川選書
「ケルトと神道」というテーマで行われたシンポジウムを起点に、日本文化とケルトを照応させることで、日本文化を世界性の中で捉え直すことを目的として、企画された書物。編著者間の対談他、研究者等の論考で構成されている。
論考は刺激的な考察を行っているものもあり、何だこりゃと言いたくなるものもありと様々だが、対談の内容は示唆を受けることが多く、一読の価値あり。全体的な印象としては、図書館で見掛けたら、借りてみても良いのではと。なお、先の柳田国男と西欧のケルト研究の関係について、鎌田東二が冒頭の文章で紹介していた(大体、予想通りだった)。
「ケルトの風に吹かれて」 辻井喬/鶴岡真弓 北沢図書出版
作家の辻井喬と鶴岡真弓の対談集。こちらでも「ケルト」と「やまと」の照応というのが、関心の中心となっている。対談だけ有って非常に読み易いが、余りにもするすると読めてしまうので、読後、何が語られていたのか、さっぱり思い出せないという罠。
(読み返してみたところ)話題は多岐に上るが、近代的な西欧文明の知のあり方とは異なる豊かさを、「ケルト」と「やまと」に見出そうとする、というのが主調。話者が決して無邪気に語ってはいないのは分かるが、どうも「良いとこ取り」な調子の良さを感じてしまう。…それは私が、日本文化の豊かさなど余り信じていないせいかもしれないが。
ともあれ、読み易く、面白い内容ではあるので、また写真も多く収録した贅沢な本ではあるので、(2500円を出しても良ければ)買って読んでも良いかと。
地元の海岸での花火大会。久々に週末の開催なので、まっすぐ帰宅せず、海岸まで見に行く。
外側の輪だけの花火が目立つなど、不景気ゆえの予算縮小がありありと伺え、往時の盛大さには欠ける内容。けれど、夜の砂浜に座り、海面を照らし出す花火を眺めながら、波の音の合間に体に響く花火の音を聞くのは、やはり気持ち良い。沖からのそよ風に、しばし暑さを忘れた。…水中花火をやらなくなったのだけは、残念で仕方ないけど。
「とびきり可笑しなアイルランド百科」 テリー・イーグルトン 筑摩書房
専門的で大部なアイルランド文化論も出している英国文芸批評家の、しかしこれは一般向きのくだけた(くだけすぎた?)アイルランドのスケッチ。AからZの96項目に関して、極めて真面目だったり、逆に大嘘だったり、あるいは真面目 と嘘のどちらか分からなかったりと、様々な形でアイルランドとアイルランド人の実像を描いている。
個人的にはまさに好みのスタイルで、気楽に読めて、しかも非常に面白かったのだが、しかしそのために2千円払っても良いと考える人はそう多くないような。同種の「とびきり…な」シリーズは皆、文庫化されているので、新刊(今年4月)のこれもあと5年もすれば、ちくま文庫に落ちる可能性が高い。 興味があるけど急がない人はその時、買えば良いのかも。
今頃になって、星界のアニメなど借りて観ている私。とはいえ「紋章」の1巻を観たのは既に2ヶ月くらい前なのだけど、本数が多いので、ようやく「戦記」まで終了。原作もかなり忘却の彼方(「戦記」ってこんなにも戦ってばかりいたっけ?とかそんな状態)なので、思った以上に新鮮に楽しめて、ちょっと得した気分(^^;;
「アイルランドからアメリカへ」 カービー・ミラー/ポール・ワグナー 東京創元社
副題は「700万アイルランド移民の物語」。前世紀から今世紀に掛けてアイルランドの人々が大量にアメリカへ移民した理由と、彼ら移民が 「約束の地」アメリカで目にした現実、そしていかにして自分たちの地位を築いていったかという苦難の歴史を、彼らが母国の家族へ書き送った手紙の文面を中心に、極めて手際よく描き出している。それもその筈、著者二人が製作した2時間のTVドキュメンタリーフィルムを元に書かれたのが、この本ということらしい。
引用されている個々の手紙も非常に興味深いが、何よりも目を引くのは、当時の移民達を写した写真の数々。彼らの多くは、鉄道の敷設工事等、当時のアメリカ社会での最底辺での仕事に従事していたのだが、正面をまっすぐに見つめるその姿には、誇りとか気概とかいったものが強く感じられ、こちらも背筋を正して見ないといけない気にな った。
それにしても。民主党が元々、アイリッシュ・アメリカンの政治団体というべき組織だったことすら知らなかった辺り、自分の無知をつくづく恥じ入るばかり。さすがに、共和党の方はWASPの政党だったという認識はあったけど。だからケネディ(アイルランド移民の子孫)は民主党だったのか。
「週刊 日本の美を巡る」という、あの薄い雑誌。私の場合、この手の雑誌は、積ん読になり勝ち。そこで、発想を変えて、昼休みの余り時間に、職場で眺めることにしようかと。
ということで、長谷川等伯の分から。等伯は、桃山時代らしい「成り上がり者」の画家であるとのこと。等伯の場合、絵を見れば満足することもあり、本人への関心は特に無かったので、どういう人物か全然知らなかった(^^;; 水墨画の画家というと、禅的な、枯れた生涯をつい思い浮かべてしまう短絡に陥っていたのかも、と反省。
「アイルランド」 オフェイロン 岩波文庫
アイルランドの「歴史書」ではなくて、「民族精神の歴史」を語ろうとした本。強靱な知性によるその考察は、半世紀前の本でありながら、未だ古びない。
土台となる文化的背景の第一部「根」に、それに加わった諸事情の第二部「幹」、そしてその上に登場した現代アイルランド人の六つの類型を考察する第三部「六つの枝」から 構成されている。個人的には、第二部までは非常に面白かったのだけど、第三部は著者の捉え方が観念的に過ぎるように感じられるところもあって、やや齟齬感が。
でも、アイルランドの精神風土を考える上で外せない一冊であるのは確かかと。
ごほごほ。内科で貰った薬が(余り効かないまま)切れたので、耳鼻咽喉科へ行ってみる。今度は、抗生物質だし、多分効くのではと。←非科学的な期待感
「アイルランド問題とは何か」 鈴木良平 丸善ライブラリー
北アイルランド問題の歴史的過程および現在(1999年)までのアイルランドおよび北アイルランドの政治的状況を簡潔に語った本。
IRAといえば、現在のIRAの主流は、「正統派」に反発して生まれた「暫定派」である、という位の知識しかなかったが、この本によると、更に分裂を繰り返しており、「暫定派」以上に過激な、それらのある組織は「真のIRA」、別の組織は「本当のIRA」と名乗っているらしい。…いしいひさいちの漫画にでもありそうな。饅頭屋の本家争いみたい。
しかし、そういった知識より、背景の方が重要ではないか、という考えからすれば、経緯は(駆け足で押さえてあるものの)物足りないし、逆に今現在の出来事こそが大切だという考えからは、既に3年前の事実までしか載っていないのは(当たり前だが)、今や不十分。この問題を新書という形で描くのは、帯に短し、襷に長しの感は否めないかと。
朝、駅までの道のり。小中学生に一人も会わないので、初めて、既に「なつやすみ」であることに気が付いた。
「アイルランド民話紀行」 松島まり乃 集英社新書
アイルランドにおける「語り」(「口承で物語を語ること」)の伝統と現在、そして今後について、「プロの語り部」を初めとした現地の人々から 様々な「話」を聞いて紹介している。
登場する人も、その話もそれぞれ魅力的で、読んでいて、暖かくなる一冊。「語り」の将来は必ずしも明るくないという厳しい現実も一方ではあるものの、音楽、映画、どんな形式であるにしろ、アイルランドから 「語り」の文化が消えていくことはない、というのが、この国の人々の思いのようだ。
そういえば、イエイツの民話集の中に、『話を所望されて、何も話すことがないと答えた男が、(妖精に)一晩怖い思いをさせられ、もう一度話を聞かれた時に、その体験を話すと、それで良いと(妖精に?)言われる』という物語があった。話の教訓というか、意図が今一つよく分からなかったのだが、 この本を読んで、アイルランドでは、物語の一つも語れない者は怖い目にあっても仕方ない、ということかもしれないなと思い当たった。
小津映画のビデオ、「青春の夢いまいづこ」の感想を追加。
昔、映画「コンタクト」を観た時にも書いたが、私はTV番組「Cosmos」でその曲を耳にして以来の、VangelisのFan(一応)。とはいえ、彼の作品は90年代以降、正直言って当たりが一つも無い、という状況なので、CDshopでのチェックもここ数年は怠り勝ち。
というわけで、昨年の「MYTHODEA」というCDにも、最近ようやく気付く始末。「MUSIC FOR THE NASA MISSION:2001 MARS ODYSSEY」という目的で製作されたものらしく、ジャケットには「AS SEEN ON PUBLIC TELEVISON」とのシールが。このNASAの火星計画に関するTV番組って日本でもやったんでしょうか。
輸入盤のライナーノーツを一々読む気力は無いので、白紙の状態で。へぇ「MASK」みたいなコーラス曲か、割と良いかも… ……あかん、最後の曲まで皆同じや。
そんな中、この前のワールドカップのテーマ曲「ANTHEM」は(スポーツ大会のテーマ曲としての華やかさに欠けるという批判も多かったけど)、私としては、久々にVangelisらしいメロディアスな曲で良かったのではないかと。ただし、よく聴くと(これも、今頃になって買った)、昔のアルバム「CHINA」と似た音の使い方もしていたりして、Vangelisって実は、中国、韓国、日本の区別が余り付いてないのでは?と思わないでも。
あと、緩やかな坂道をだらだらと登り続けると、ふいに美しい景色が現れる、というのが、Vangelisのアルバムの、私の理想像なので、単発の「ANTHEM」ではやや物足りない気も。
ちなみにVangelisの中で、好きなアルバムといえば、(初期作品は大概好きだけど)RCA時代で「天国と地獄」「反射率0.39」辺り、POLYDOR時代で「野生」「動物の黙示録」辺り(この頃は外れが無い)。80年代以降では何と言っても「Voices」。地味なところで「大地の祭礼」 とか。「炎のランナー」「ブレード・ランナー」のサントラは言うまでもないですが。
先程、TVをふと付けると、画面上に、抽象的な絵画が次々に写し出された。作者は分からないまま、思わず、はっとさせられた。抽象といっても、実際の風景を極めて単純化したような画面構成で、薄塗りでごく短時間で描いたような作品ばかりなのだが、その色調が何気ないようで、ひどく胸を打つ。
番組は、TV東京の「美の巨人たち」 で、画家の名は、ニコラ・ド・スタール。手持ちの「西洋美術館」という本によれば、「ロシアの貴族の家に生まれ、幼くしてポーランドに亡命、ブリュッセルで教育を受けた後、パリに出て、抽象絵画を始めた」とある。「南仏の風景や身近な静物を描くことに情熱を傾け、40歳でみずからの命を絶った」とも。
そういえば、番組では、最期の地での、晩年の作品を紹介していた。悲しく見えたのは思い込みだろうか。ド・スタール、その名を心に留めておこうと思った。
その後、NHKで、ガラス絵アニメで有名な(油絵アニメという印象だが)「老人と海」を観る。
内容は良かったんですが、それにしても、なぜ突然、夜のNHK総合でこのようにマイナーな海外アニメを? ひょっとして。今日が祝日だからですか? 「海の日」だから、これを放送したんですか? やはりNHKはユーモアのセンスが有りますな!
この際、「敬老の日」には「老人Z」、「体育の日」には「大運動会」あたりをぜひ、やって頂きたいです。
先月以来、アイルランド音楽のCDを色々聴いてはいるのだが、その中で何と言っても一番驚いたのは、LUNASAの「THE MERRY SISTERS OF FATE」。
このルナサとは、アイルランド音楽のガイドブック等では「アイリッシュ・トラッド・バンドの最前衛」と評価されているらしい。…伝統音楽の最前衛とは一見、矛盾しているような気がしないでもないけど、聴いてみると、本当にその通りなのですよ! イメージとしては、もの凄くアグレッシヴな演奏をする津軽三味線の弾き手の現代性みたいな感じ? 「伝統的なアイルランド音楽の心地よさ」という資産を継承しつつ、その音は徹頭徹尾、「今現在」のセンスで精緻に組み立てられている。ライブ的な熱狂に満ちていながら、あくまでもクール。
いや、もうとにかく、めちゃくちゃ格好良いです。アイルランド音楽うんぬんは抜きにして、超名盤と言って良いのではないかと。何度聴いても全然飽きないし。絶対、お薦め。
「ケルトの島・アイルランド」 堀淳一 ちくま文庫
アイルランドの自然の風景や、今や廃墟となっている昔の教会といった遺跡をこよなく愛する著者の紀行文。その旅は、例えばドラムリンという、氷河が少なくとも2回来ては去った土地に残される、卵の背型の長円の丘といった地形を、地図 の標高線から見出して、それを一人で見に行くというスタイル。
当然、目的地は僻地になるので、行きはタクシーを利用しても、帰りはひたすら(何キロでも)徒歩。当時、60歳近い著者にとって、そう楽ではないと思うのだが、その旅程の全てを著者は楽しんでしまう。街まで遠いホテルに泊まっても、「5キロの道のりは、風景をゆっくりとたのしみながら歩いていくのに、まさにちょうどいい。」と思い、霧が濃くなっても「霧のアイルランドを、歩いてたっぷりと味わうことができるではないか!」と喜ぶ。勿論、目的の「丘」に対しては、まるでそれが女神でもあるかのように、愛情を込めて飽きもせず眺める。
このような、著者の喜びに満ちた発見が文章の隅々まで、生き生きと語られていて、読んでいると、その風景を実際に見てみたいという気持ちが募る(著者が撮影した素晴らしい写真と、手書きの地図が付いているだけに、一層)。その場所に誘う、魅力に満ちた文章。そうそう、 こういうのこそ、読むべき紀行文というものですよ。
著者はケルトの旅以外にも「地図」に関するエッセイ等を数多く書いているらしい。他の本も、ぜひ読んでみようと思う。
昨日は風邪のため、少しだけ横になったつもりが、はっと気が付いたら朝の4時。仕方ないので、そのまま寝た(ので、昨日は更新が出来なかった)。ところで、こういう「意識を失った」時は、いつも以上に寝ている、とさえ言えるのに、何か損した気分というか、ちっとも「寝た」気がしないのは何故 ? 眠りの質が悪い、とか?
司馬遼太郎といえば、私が新社会人の頃、(上司が褒めるので)多少は読んでみたものの、その「偉そう」な文章に耐えられず、二度と読まない作家として、以後、縁のない生活を送ってきたのだが。
「街道をゆく」中に、アイルランド篇があるという。となると、今後、いわゆる経済人な中高年(「趣味はゴルフと読書」と答えるような人)との間で、アイルランドが話題に出た場合、その本の話を得意げに持ち出してくる可能性がなきにしもあらず。そんな時、「駄目ですね、あれは」と軽く切り捨てることが出来るように、という防衛的な目的で、あえて一読。
「愛蘭土紀行T 街道をゆく30」 司馬遼太郎 朝日文庫
で、感想は、相変わらず「偉そう」と。
一見回り道しながら、アイルランドの歴史的特殊性に迫ろうとするという意図自体は分からないでもないが、この勿体ぶった文体にはうんざりする。ロンドンやリヴァプールでの話を長々書いてないで、早くアイルランドに渡れよ、と苛々が募る。269Pしかないのに、174Pめになってようやくダブリンである。ひょっとしてアイルランドへ行きたくないのかと疑ってしまう。
T巻を読んだだけで、果たして気分が悪くなったが(風邪とは関係なく)、ここで止めては何の意味もないので、続けてU巻へ。
「愛蘭土紀行U 街道をゆく31」 司馬遼太郎 朝日文庫
アイルランド周遊篇。せっかくアイルランドまで来ていながら、あんまり楽しそうではない。現地で雇った運転手が、パブで自分達に命じて紅茶を注がせたのが不愉快だとか、敬称のsirを付けて自分達を呼 ばなかったとか。そんなのどうでも良いことだと思うが…
で、そういう不平を書いた後に、アイルランド編の最後のエピソードとしてアイルランド大統領と会い、彼が日本好きだったことに心地よさを感じた、と書いて終わる。例によって日本人のコンプレックスをくすぐる展開で、無意識に書いたのなら、「おめでたい」人だし、読者を喜ばせるため戦略的に書いたのなら、品性が低いとしか
。
しかし、最大の問題点は、紀行文なのに、現地へ行きたいと読者に思わせないこと。大体、ラストの一行が「偏った言い方をすれば、行かずとも(アイルランドの文学を)読むだけでいいともいえるかもしれない」と結んでいるのには白けてしまう。…それは、あんたの目がそれしか見てこなかった、というだけの話でしょうが。
訪ねたのは、本や映画に縁のある場所に限られ、ケルト十字やケルト写本のような、言語化されないケルト文化を生で理解しようとした気配は少しも窺えない。妖精の記述は多いが、単に文学、即ち「蘊蓄」として語れる分野だったからかと。仮に当時、「装飾的思考」が世に出ていれば、蘊蓄として引用したことだろう。何せ、前巻のリヴァプールの章で、その音楽を全く聴いていないとしながら、「ビートルズについて書かれた本」からの知識だけで平気で語ってしまえる人なのだから。
ところで、著者がそもそもアイルランドを訪ねた理由が、最後までよく分からなかった。大英帝国を批判するための(ついでに、日本と日本人を称揚するための)ダシとして使用するため? 何にせよ、(過去の書籍と)自分に有る知識を無知な読者に教授する、というのが、著者の一貫した姿勢。逆に、未知なことに出会う感動や畏れは、文章からは凡そ感じられない。だから、「偉そう」なのだ。
この本の話題が出ても「その後の常識(鶴岡真弓的な認識)が織り込まれていないので、もう古い」と言っておけば、無駄な会話をせずに済む筈。いや、本当の問題はそうではないのだが、この本を挙げる人は鶴岡真弓自体知らないだろうから、それで充分かと。
風邪を引いた。喉が痛い。少し熱もあるのか、体の節々が重く、ぼーっとしている。いや、ぼーっとしているのは、いつものことだけど。
「ケルト 生きている神話」 F・ディレイニー 創元社
著者は、BBCが10年くらい前に制作した、ケルトに関するドキュメンタリー(エンヤのデビューアルバム「the celts」は元々、その番組のサントラである)で、キャスターを務めた人。この本も同時期に書かれたらしい。内容的には、ケルトに関する入門書。従って、古代から中世にかけてのケルト文化に関する叙述は他とそう変わらず。英国の本だけ有って、ブリテン島でのケルト人とローマ人の戦いの歴史が詳しく述べられているのが、多少違うくらい。
ただし、終章で、ケルト系の言語を存続させる活動の現状の紹介と、今後についての悲観的な認識を示す辺りは、類書にはない。
この本によると、言語を残す活動が最も活発なのは「ウェールズ語」らしい。ウェールズ語のTV放送の開始を求め、ハンストした知識人までいて、そういった運動の末に始まったTV局は、(誰もが予想もしなかったことに)ウェールズ語を喋るアヒルのアニメを番組に組み込んだが、結果的にアニメは子供達に受け、この地方の子供に言葉を覚えさせるのに一役買った、といった話などが紹介されている。ただし、ブルターニュのような他の地域では、独自の言語が続く見込みは低く、マン島では既に滅んでいるという。
ちなみに、この本は重くてやや高かったので、職場の下にある本屋で、立ち読みで済ます(^^;; 申し訳ないので、同著者の「ケルトの神話・伝説」は、買って読もうか、思案中。
台風は、ここまで二回とも肩すかし、な印象。いや、通勤時に濡れないで済むのは良いことなんだろうけど、…何かこう、物足りない気がしてしまうのは私だけ?
「ケルトの薄明」 W・B・イエイツ ちくま文庫
神秘的な「ケルト的な風土」についての、イエイツ自身のエッセイとでもいうべきもの。ここまで来ると趣味の領域。あえて読まなくても良かったような…
60年も前に、驚異的に美しい女性がいた(当時の名高い詩人にも詩を詠まれた程)という土地を訪ねたところ、今でも、そこの人々は彼女の美しさを語り継いでいる、という話には、なるほど、アイルランドとはそういう土地なのだな、と感嘆したけれど。
駅を降りると、地元の祭りで、狭い歩道一杯に、夜店が並んでいた。
バス停に立っていると、誰かが手を離したのか、ヘリウムガスを詰めた、イルカの形をした銀色の風船が、目の前の道路上に、ふわりと舞い上がった。台風到来前の湿った風に押されて、 銀のイルカはそのまま、まるで空中を泳ぐように、首を振りながら流れて行き、そして、やがて道の向こうに姿を消した。
そらとぶいるか。そんな言葉が頭の中に浮かんだ。加納朋子の「ななつのこ」の一挿話を、ふと思い出した。
「ケルト妖精物語」 W・B・イエイツ編 井村君江編訳 ちくま文庫
アイルランドの様々な民間伝承を文学者が採集したものから、19世紀末にイエイツが選択して編集したもの。日本で言うところの「遠野物語」。ちくま文庫に収録する際に、妖精に関する物語を「妖精物語」、それ以外 を「幻想物語」と、2分冊にしている。
アイルランドでは、妖精は「good people」と呼ぶらしいが、まさに「お隣さん」とでもいう感じで、当時の農民たちの日々の暮らしに取って、妖精とは、例えば今の日本の猫(塀の上にいるのを見掛けてもおかしくない、という)位、馴染み深い存在だったことがよく分かる物語集。勿論、迂闊にちょっかいを出せば、猫以上に危険なこともあるようだが。
「ケルト幻想物語」 W・B・イエイツ編 井村君江編訳 ちくま文庫
こちらは、魔女とか悪魔とか幽霊とか、あるいは王女とか王子とかを題材にした話が収められていて、「妖精」物語の独自性と比べると、グリムなどと共通の物語も多く見掛ける。「妖精物語」「幻想物語」ともに、アイルランドの人は、こういう「物語」を話したり、聞いたりするのが非常に好きだったんだろうな、と想像出来る。
どちらも、民話集として、少なくともグリムと同じ位には面白く、なおかつ、より素朴な味わいがあるように思う。
レインウェアを買おうと、私にしては珍しく、神田の本屋街ではなくて、スポーツ用品店街の方を彷徨く。迂闊に入ると買い込んでしまいそうなので、本屋には寄らずに帰る。
ヴァチカンの図書館が収蔵している貴重な聖書の数々を特別展として展示中の印刷博物館、ということで、地味も地味な展示であり、博物館であると思えたのだけど。予想以上に面白い体験 だった。
ラスコー壁画以来ICカードまで、人類が何かに記録してきた物(のレプリカ)が一面に掲げられている、入り口の大壁面だけで、かなり楽しめたし、VRシアターとやらの、システィーナ礼拝堂の 全壁面を、スーパーコンピューターで再現するという ショーも一見の価値有り(案内者が、PSとそっくりなコントローラーで操作していたのが笑えた)。どうせ?活字とか古本が細々と展示してあるだけだろう、という想像を遙かに超える展示内容と方法。博物館としてのワクワク度は、かなり高い。
但し、最先端の保存方法といえばデジタルなわけで、会場でもヴァチカンの書物をデジタル化するプロジェクトが紹介されていたが、書物(という印刷媒体)が無くても、そっくり記録を残せる技術を紹介するのがこの博物館とは、やや皮肉な気がしないでも 。
特別展の聖書の装飾は、さすがに美しいし、こういう博物館の定番 「体験コーナー」で、中世書体でグリーティングカードを印刷してみよう、とかもちゃんとあったりして、2時間位はすぐに経ってしまう。一部のビブリオマニアにだけ独占させておくには勿体ない(読子リードマンとかなら卒倒しそうな展示内容だ)。書物とか活字体とかに若干の興味がある人なら、一度は行ってみるべき場所ではないかと。なお、VRシアターの上映は午後だけらしいので、午後行く方がベター。
前の前の勤務先での後輩が結婚するというので、二次会に参加。久々に集まった同僚から、「今の状況」の情報を仕入れるが、聞くのは芳しくない話ばかり。あと半年で、私もそこに戻る訳なのだが…… まぁ、あと半年、出来るだけのことはしておこうと(←後ろ向きな方向で、前向き思考)。
小津安二郎のビデオ。「淑女と髭」「東京の合唱」「生まれてはみたけれど」の感想を追加。
昼休みを利用して、といういつものパターン。というわけで、ぱっと見だけの感想。
文人画ということで、池大雅と与謝蕪村を中心に、浦上玉堂、青木木米、田能村竹田、渡辺崋山らを展示。まとめて見て感じたのは、「世界」を捉える手法(要するに、物の見方)としては、「文人画」は私にはどうもピンと来ないということ。何か、他人事に見えてしまうというか。あるいは、素人っぽさへの共感を求めるのが時に鼻につく、というような。
そんなわけで、見る者としては失格かもしれないが、この中で惹かれたのは、やはり蕪村。山水図屏風の、鳥が飛び立った瞬間を封じ込めたような空気は、さすが。あとは、玉堂のエネルギッシュな描線も気になった。玉堂については、もっと色々見ておくべきかもしれない 。
昼食後、席に戻ったら、机の上に、熊のプーさんのぬいぐるみが。前の席で仕事をしている派遣社員の女の子が、この職場のどこからか発掘してきたのだという。ぬいぐるみを見ている内に、プーさんは意外にオヤジなのでは?という話になる。
「そういえば、プーさんというのも、寅さんの友達みたいな言い方だし」「この太い眉が余り子供らしく無いんですよね。目にも若さがないですし、ほらっ」「あのプーさんメールの声、あれって老けてるよね。絶対、子供じゃない」「プーさん、きっと43歳くらいですよ」
ということで、プーさん中年説に落ち着く。しかし、43歳って、どこから出てきた数字なんだか。
ところで、私の場合、熊の絵本なら、プーさんじゃなくてパディントンだよなぁと、パディントンでも検索したことで判明した衝撃の事実。パディントンは、元々ペルーに住んでいた熊で、英国にやってきてパディントン駅にいる時に(後の)飼い主達と出会ったから、パディントンと名前を付けられたんですって? それはつまり日本で言えば「上野」とか「新宿」とか言うこと 。人の名前かと思ってた。今ではパディントン駅自体がこのせいで観光スポット化しているらしいので、旅行した人にとっては有名な話らしいが。
勿論、当時(何歳?)の愛読書だった私としては、その箇所も読んでいない筈はないのだけど、パディントンといえば、何よりもマーマレード、ということしか今や思い出せない。いつもながら私の記憶力って一体… というか、食べ物のことしか覚えていないのか、私。
ちなみに、プーさんはディズニーがアニメ化したため、日本では一番有名な熊となっているけど(あの声は八代駿という人らしい)、パディントンも、ハンナ・バーベラプロがアニメ化していて、こちらも日本語吹き替え版が出ている様子。声は、TARAKO。つまり、「まる子なパディントン」を想像しろと?
昨日以上に蒸し暑い中、迷走し勝ちだった第一章のラストに相応しい?突っ込み所多数な、「十二国記」の第一章最終話を見てしまい、意気消沈気味。
終わった部分は仕方ないけど。今後、「黄昏の岸 暁の天」あたりも中途半端に改変されそうなのは… 少なくとも「魔性の子」側の重要なところは骨抜きにされそうな予感。
「妖精学入門」 井村君江 講談社現代新書
西欧で信じられ、想像されてきた「妖精」像を分類し紹介する、文字通り「妖精学」の「入門」書。
したがって、「どんな妖精がいるか」止まりの内容だが(私の印象としては、スコットランドの妖精が一番性悪だ)、収録されている図版の数々だけでも、関心のある人なら買って損はな い。カラーを含む、妖精を描いた非常に素晴らしいイラストが多数なので 。
この本で知ったこととしては、草原で妖精が踊り明かした後とされる「妖精の輪」が、実はキノコの胞子で草原が一晩で丸く枯れる現象だということ。そうだったのか。
昨日の続きで、アイルランド神話が、妖精を知る上でなぜ必須かというと、先住民であるダーナ神族が後から来た民族に負けて、海の向こうや塚の下の王国に住む「目に見えない種族」となった、という言い伝えがあるから。ただし、元・神々達は、崇拝もされず、供物も捧げられなくなるに従い、人々の頭の中で次第に小さくなり、ついに数十センチに縮んでしまった。それが妖精だ、というわけだ。
柳田国男に「妖怪とは、零落した土俗の神々の姿である」といった仮説が確かあったが、誰が見ても非常によく似た説である。やはり、これはそういう、当時の西欧の民間伝承研究(イエイツとか)の成果を、柳田国男が日本の民俗学に反映させたということなのだろうか。事実関係はよく知らないのだけど。
ううっ、蒸し暑い…
「ケルトの神話」 井村君江 ちくま文庫
こちらは「妖精けんきゅうのえらいひと」である著者が、妖精について知る上で必須の知識であるアイルランド神話について、主なものを紹介している。
アイルランドの神話は、他の民族の壮大な神話体系と比べると、取り留めのないきらいもあるので(創世神話がなくて、他から移住してきたところから始まる)、面白いと思うかは人によりけりだと思うが、薄くて読み易いので、どういう神話か知りたい人は、この本から入るのが良いかと。また序文で、ケルトについて非常に分かり易くまとめられているので、ケルト文化を手っ取り早く知りたい人にもお薦め。
ところで先日、本棚の後列にある本を取り出そうとして、この「ケルトの神話」やイエイツ編「ケルト幻想物語」「ケルト妖精物語」といった、ちくま文庫のケルト関連 本を発見。学生時代に購入していたらしい。当時の金銭感覚からして、買った本を読まなかったとは考え難いのだが、全然記憶にないなぁ。気付かないで、今回また一揃い買ってしまった… というか、全然身に付いていないのでは、読む意味がないような。
という反省もあって、実は今回、全ての本について、こうして感想を書いているのだった。
最近、ケルトケルトと蛙のように連呼している毎日ですが、そもそも何故アイルランドへ行こうとしたのか、という理由はまだ書いていませんでした。とはいえ、改まって書くと長くなるので、週記の方で再び、その辺を展開。……もっともらしいことを書いていますが、要は、単なる観光旅行ですので。暑いのは嫌なだけ、とか言う方がより真実かも。
「ケルト神話と中世騎士物語」 田中仁彦 中公新書
ケルトの人々が思い描いた「異界」とはいかなるもので、それが後世どう受け継がれていったかを、西方航海譚や、アーサー王伝説等の中世騎士物語を通して考察する。
アイルランドにおける西方航海譚とは元々、海の彼方のケルト的な「異界」へ行って帰ってくる、という浦島伝説的な物語であったが、次第に、キリスト教の価値観で旅が構成され(善悪の観念が持ち込まれる)、目的地はエデンになり、旅の途中には地獄が登場するようになる。しかし、そのエデンとは相変わらず、ケルト的な「常若の国」であった。という前半部分はそれなりに興味深い。ただし、中世騎士物語にはユング心理学的な意味での人格完成の物語が読み取れると、 嬉々として無邪気に語るだけの後半はちょっと…
航海譚についても、「ジョイスとケルト世界」での鶴岡真弓と比べると、同じ物語について語っているとは信じられない位、愛が感じられないし、後半は腰砕け。お薦めはしません。
BSで再放送が始まった「ガンバの冒険」。
原作「冒険者たち」(アリス館牧新社の!)と、そのリアリスティックな挿絵のファンだった私としては、子供の頃、アニメを最初に見た時には、何よりもまず、あの大胆なキャラクターデザインに多大なショックを受けた記憶が。ノロイも生き物と思えない程、巨大に(画面一杯に)描かれていて怖かったし。長じて、これが出崎アニメだったと知って、なるほどと思ったわけですが。
果たして、今見ても、文句なし、な面白さ。ただ、以前は出崎演出しか分からなかったのが、今回は、小林七郎の美術の素晴らしさにも気付く辺り、歳を取るのも悪くはないかも 、という感じ。それにしても、息の長い人である。今も「シュガー」とか「フィギュア17」とか現役で良い仕事をしているし(出崎統の方も未だに現役で、鼠アニメなど作ってはいるわけだけど、個人的な印象としては、ある時期からはセルフパロディ以上のものは作り得ていないような)。
「ジョイスとケルト世界」 鶴岡真弓 平凡社ライブラリー
ジェイムス・ジョイスが編み出した言葉の宇宙が、装飾文様というケルト的な想像力の、いわば文学上での再生であったことを解き明かしていく。内容だけでなく、話者や文体が次々に変わっていくという風に 、形式においてもジョイス=ケルト的な想像力をなぞってみせようとする、極めて意欲的な評論。熱に浮かされたかのような「話が尽きない」文章には圧倒される。中でもアイルランド人が生み出したイムラヴァ(西方航海譚)の魅力を語る際の、熱の入り方が印象的 。
「ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展」に行こうとして、出る前に美術館のサイトを確認すると。今まで有った金曜の時間延長が、この展覧会からいきなり無くなっている…
「安田火災東郷青児美術館」が「損保ジャパン東郷青児美術館」に名前を変えようと、一向に構わないのだけど、組織が変わると共にサービス水準が低下するのでは、どこかの統合した都市銀行のよう。休日に来る程の内容の展覧会だった試しがないからこそ、夜間入館したいのに。この美術館に行くことはもう無いかも。
仕事を切り上げたのが勿体ないので、代わりに、前から一度行きたいと思っていた美術館まで足を運んでみる。
熊谷守一とは、以前、自伝について書いた通りの画家で、ここはその娘さんが、本人が最後の数十年(一歩も外に出ずに)住んでいた家の後に建てた、私営の美術館。
この場所で、蟻が歩くのを永年観察していたのか、などと思いながら地下鉄の駅から歩いて数分の、住宅地の一角にある美術館にたどり着くと、モダンな建物のコンクリートの外面に、本人の蟻の絵を拡大したものが填め込まれていた(^^;; 美術館となっている部屋の中の作品は数十点で、代表作が揃っているわけで はないのだけど、熊谷守一の絵が好きな人なら訪ねてみる価値は有ると思う。その雰囲気を味わうためにだけでも。
「ケルト美術」 鶴岡真弓 ちくま学芸文庫
「ハルトシュタット美術」「ラ・テーヌ美術」「ガリア美術」「ケルト修道院文化」「装飾写本芸術」「ケルティック・リヴァイヴァル」の順で、ケルト美術の内容と特徴を、時代毎に解説。ページ数の半分を占める、大きめの図版で参照出来るのは嬉しい。しかし、1400円という文庫らしからぬ定価と、内容的に他の本と重なる部分も多いことを考えれば、この本を選ぶ優先順位は低くて良いかも。巻末の、ケルト/アイルランドについてのブックガイドを必要とする方にはお薦めだけど。
熱血電波なんとか。とりあえず、前半は存在自体忘れる方が賢明だろう、と思いました。
「ケルト/装飾的思考」 鶴岡真弓 ちくま学芸文庫
ケルト文化を理解する上で欠かせない名著。昔から、一度は読もうと思っていた本であり、今回の機会を奇貨として通読。
扱われているのは主に、ケルト写本と呼ばれるアイルランドの修道僧達が手書きで作成した福音書写本の数々。ページを飾る装飾文字や装飾文様は、美しいという以上に異教的とも言える躍動感に満ちている。著者は、このケルト写本を手掛かりに、地中海など他地域の装飾文化と比較しながら、ケルト文化が具象ではなく抽象的な表現を重んじ、組紐、渦巻きといった「永遠に変化し続ける」装飾の形で、この「世界」を表現していたことを、豊富なディテールを元に説明していく。
釣りをして海面を暫く眺めていた日の夜、目を閉じても上下する海面が消えないように、組紐が作り出す渦巻きが、読み終えても頭の中で回り続ける。
ただし、文庫という制約上、モノクロかつ縮小サイズで、よく見えない図版が多数なのは残念。カラーでケルト写本の装飾ページを載せている本が、別に必要かと。
広島まで、出張。往復の新幹線では、携帯playerに放り込んだ「COWBOY BEBOP」のCD BOXを。4枚目のライブヴァージョンが、新鮮な分、とびきり魅力的。
それにしてもCD4枚を聴き終わらない内に着いてしまう、のぞみの早さには驚く。特に、前に住んでいた街をいつのまにか通り越していたのに気付いた時には。主に負の意味で精神的に引っ掛かかる(良い思い出がない)街として、近付き難いものを感じていたのだけど、車両の方は当然ながら減速することなく、通り過ぎていた。…それだけのことだったのか。いささか呆然とした気分。ある種の呪縛が解けた? とはいえ、あの駅に降りたいと思わないことに今も変わりはないのだが。
広島では蒸し暑い空気の下、街中を歩き回る。中国地方の方が、この時期は関東より暑いような。太陽がじりじり暑い、という感じ。
時間がやや余ったので、涼しそうな所ということで、美術館へ寄ってみる。特別展の内容も何だか涼しそうな気がしたし。
スウェーデン・ノルウェー・デンマーク3国の19世紀の風景画を特集した展覧会。同じ風景画でも、画家と時代によって題材、描き方は千差万別。ただし、 乱暴に要約すると、19世紀前半、これらの国の風景画は細密な写実表現を特徴とするが、後半はそういうアカデミックな画風に反発し、より単純化した、あるいは象徴的な表現を目指す画家が増えていく 。
興味深いのは、昼間の輝く海を描いた外光派(印象派の影響を受けた)もいるとはいえ、世紀末に近付くに連れ、夕方ないし白夜の薄明の夕闇を捉えることが流行していくこと。この地域では、最も美しい光とはtwilightであるという認識らしい。そして、その薄明に象徴主義的なイメージが重ねられる。ムンクの「叫び」の背景も、そういう北欧の風景画の流れの延長線上に存在していることが、実感として何となく分かった。
常設展は、印象派、フォービズム、エコール・ド・パリといった辺りのコレクション。日本の美術館の同種のものの中では充実していて、一見の価値はあるかも。キスリングあたりまで押さえているところとか。個人的には、ルドンのペガサスのパステル画はここのだったのかと感心したり。
ただし、どうして日本人がこれらの画家を集めないといけないのか、毎度のことながらよく分からない。集めたのは、地元の広島銀行(だかそのオーナーだか)らしいので、対象として印象派以降しか思い浮かばなかったこと自体は不思議ではないけど。
先月の日記は冗長すぎた、という反省があるので、今月は簡潔にしたいところだけど、引き続きアイルランド月間だし、望み薄かも。
ところで、明日の番組予定表を見ていたら。アニメ「十二国記」の後の「ビストロレシピ」とかいう謎のアニメの後番組が「ガンバの冒険」とは! 明日から一緒に録画しておくことにしよう。大昔とは言え、以前見た番組を見直すことはそれほど生産的ではない気もするけど。とりあえず、しっぽを立てとけ、ということで(意味不明)。