最近、何となく物語について考えている。僕は多分、元々物語が大好きなので、去年「闘争のエチカ」を読んだ時、この二人は、なぜこうも、外部、外部と叫んでいるのだろうと思っていたのだが、その後、物語とか小説とか表層とかが題名の最初に付く一連の本を読むにつれ、その苛立ちも分かってきた。恐らく蓮實重彦も実は物語が大好きで、それゆえ、その安手な流通(それも無自覚なもの)に耐えられないのだ。
彼らの言う「物語に安住する醜さ」は、今では分かりすぎるほどよく分かるが、そうは言いつつも、物語の持つ強力さを、最近遅ればせにファミコンのRPGをやって思い知らされている。
一つ一つはカビの生えた話に過ぎないのだが(叶わぬ恋を秘めたまま身代わりとなって死ぬ仲間、生き別れて、一時は敵味方に別れて戦った末にようやく巡り会う姉妹、といった様々なキャラクターが相変わらずのお姫様救出、宝探しといったイベントを通して成長し、悪の皇帝を倒してエンディング)、ほとんど単調なまでの個々の戦闘が、そうした物語によって意味付けられ、組合わさっていく快さというのはやはりあって半月もの間、ずっとやり続けてしまった。その間、映画をほとんど見なかったので、正直言って映画を見るより、はるかに引力があったわけである。
こういう時間の使い方というのを時間の浪費というのだろうが、勿論、そのことの副産物もないわけではなく、その最大のものは、神社が(今でも)magical
worldであることの発見だった。言うまでもなく、この「発見」はいささか倒錯的だけれど、RPGをやることで初めて神社がリアルに見えてくるのが現代という奴なのだろう。
中でも貴船神社があの「丑三つ参り」の元祖ともいう神社で、現在も境内の絵馬の幾つかに「誰それを呪殺したもう」と書かれているのに気付いた時には、ダニエル・シュミットの「デ・ジャ・ヴュ」のように感動的な?瞬間だった。
しかし、
勿論、RPGについて語るのがここでの目的ではない。映画における物語について少し考察したいだけで、しかもそれは「物語批判序説」的な作業を目指しているわけでもない。二項対立と言ってしまえば全て同じになってしまう、その善悪の割り振りの移動らしきものが気になってしまうというだけのことであり、それは川本三郎的な「同時代の感性」とかいう奴に過ぎないかもしれず、まぁ実際、その程度のことかもしれない。
ともあれ、今回は映画的なものについて書くわけではないので、「映画から遠く離れて」いることは確かである。要するに。今回は講義についての一つの感想である。
勿論、どんなジャンルだって大して見ているわけではなく、それゆえ、ご多分に洩れず、とした方がいっそ正確ですらあるのだが、それにしても戦争映画というのは、特にどこか縁遠い映画であった。古くさい感じがしていたと言ってもいい。それだけに先日の講義は、それを説明してくれていて興味深かった。要するに、全体を支配する物語自体が古いのだ。
文明(善)←→野蛮(悪)という物語。確かに西欧文明の基本とも言うべき物語だが、この図式が崩壊したのが現代であり、他ならぬヴェトナム戦争こそその一つの象徴だったのだから、今でもこの物語で戦争を描こうとするのはどうしても時代錯誤的である筈だ。
しかし「博士の異常な愛情」のカウボーイを思い返すまでもなく、戦争というものは、所詮、時代錯誤でしかあり得ないのかもしれず、となるとそれを忠実に反映した「戦争映画」に文句を言ってみたところで、しょうがないのかもしれないが、だからといって、この壊れている筈の図式の上に更に被害者としての主人公という物語=メロドラマ、を載せる「ディア・ハンター」や「プラトーン」は物語に関して言えば、非常に嫌らしい映画でしかない。
ともかく、この物語は戦争映画以前にも西部劇を支えていたわけで(駅馬車、列車←→荒野、インディアン)、主流の物語であったとさえ言いうる。宣教師的映画とでも言おうか。これをひとまずT型の映画としておこう。
しかし、上でも触れたように、このT型はいつしか正気では大声に口に出せないものとなり、U型の映画が登場することになる。文明(悪)←→自然(善)という物語である。一応、70年代の風潮に対応すると考えていいだろう。映画において市民権を得たのは大体、ニュー・シネマの辺りということになろうか。
このU型の映画は多かれ少なかれ文明批評的であり、それゆえ、その多くはSF的な色彩を帯びることになる。又、文明(テクノロジー)=悪に重点を置くものと、自然=善に重点を置くものでは、無視できない違いが生じる。実際には、そう簡単に二つに割り切れるものではないだろうが、典型として前者の例に「ターミネーター」、後者の例に一連の宮崎駿作品を挙げて、それぞれの物語について考えてみることにしよう。
「ターミネーター」は、未来からのロボットの反乱というのが中心のストーリーである。これは創造主殺しという神話の焼き直しの気がするが、実際ありふれた物語らしく、フランスのアニメ「ガンダーラ」というも、設定こそ違え、物語は同じである。
こういう映画は、テクノロジー暴走の危機を訴えているのかもしれず、一見良心的な物語に見えなくもないが、しかしこの時、行われているのは主人公=人間=暖かい、敵=ロボット=冷たいという、恥ずかしいまでの抽象的なメロドラマであり、自分やこの文明世界自体を疑うことなく、都合の悪い部分だけを機械に反映させているわけであり、悪い奴はぶち殺すが、自分と自分を使ってくれるアメリカ政府は絶対正しいという「ランボー」(少なくとも2では)の思考とどこも違わないことに気付かざるを得ない。従って、ここまではTもUも同じことに過ぎなかったわけであり、いささかウンザリする。いや、Uの方が、偽善的であるだけに一層たちが悪い。
もっとも、これだけのことなら、今さら述べるまでのこともなく、放っておけば良いのだが、やはり気になってしまうのは、この種の映画に欠かせない、テクノロジーの権化としての悪役のイメージに、どうも日本というのが抽象的に反映されているのではということで、その楽しい例としてテリー・ギリアムの「バンデッドQ」のサタン、「未来世紀ブラジル」のサムライを挙げておこう。
この悪役不在と言われる現代において悪役の紋切り型として「日本人」が活躍するのは「名誉ある地位を占め」ているとして喜ぶべきなのかもしれないが、そう笑ってばかりもいられないのでは、と思わざるを得ない。
さて、では、後者、宮崎駿ではどうなっているだろうか。他ならぬ日本人でしかあり得ない彼にとって、上のような物語を作るわけにはいかない。その代わり、東洋的思考を活かして?自然の一員である人間、言い換えれば、自然との調和の元に成り立つ文明が唱えられることになる。冒頭にパンダの絵が出てくる「ナウシカ」辺りが特にその主張が強いと言えようか。
しかし、本来「乗り物」が好きな彼にとって、機械文明(というのも古い言い方だが)自体を否定できるわけもなく、自然賛美と共に機械(手作りの感じがするものに限るが)への愛情が並列することになる。
だが、彼の場合、人間を特権的な位置に置く偽善は避けているもの、また別の偽善を持ち込んでしまっている。彼が思い描くのは、産業革命は起こっているもの、未だ大量生産は行われておらず、農業と工業の調和が取れているような、かなり自給自足的な社会だが、しかし、そんな世界は言うまでもなくイメージを借用している18〜19Cのイギリスであろうと、どこであろうと存在したことが無い。
そのようなユートピアを設定することで最初から、自然と文明との対立を曖昧に解決してしまう。従って、その世界は確かに快いが、どこかネヴァーネヴァーランドである虚しさが付きまとう。
「ラピュタ」の一番の名セリフであると思われる、シータの言う、『私達は土を離れては生きていけない』は正論だとは思うが、もはや「土を離れて」でしか生きていけないのが、現代に生きる「私達」ではないのか。だから、「ラピュタ」において、本当に主人公=私達の分身、といえるのは、シータでもパズーでもなく、テクノロジーを求めて破滅していくムスカの方である筈なのだ。
しかし、宮崎駿の映画はどうしても愛と勇気が全てを解決する心温まるファンタジーとして見られてしまう。本人も半分それで納得しつつも、半分はそれではいけないと思っているらしいのが、「トトロ」を見るとよく分かるのだが、結局、この「トトロ」でさえ、レトロ=懐かしさ、という安全な「古さ」でしか評価されていないわけで、なまじ彼が極めて上手い監督であるだけに、一層事態は深刻であると言わざるを得ない。一度、現代について、真正面から「失敗作」を撮ってみる必要が有るのではないだろうか。
前から、宮崎駿については憂慮していただけに、少し余計なことまで言ってしまったが、前者にせよ後者にせよ、古いと感じてしまうのが、現在である。では何が、今どきの図式なのだろうか。
基本的にはテクノロジー=悪という物語は変わっていないと思う。しかし、それを認めつつ、その「悪役」を応援してしまうという倒錯した見方が一般的になってきているというのが僕の考えである。
U’型としておこうか。例えば、もう一度、あの「ターミネーター」に戻れば、あの映画を支えているのはシュワルツネッガー扮するターミネーターのゴキブリ以上の(笑)不屈の生命力に対する興味であり、本来忌まわしい筈の悪役をいつしか、そこで諦めるんじゃない、などと応援しているのが、この映画であった。他にも「ブレードランナー」のルドガー・ハウアーを挙げてもいいし、「バンデッドQ」のテクノロジー好きのサタンなど、この型の原型とさえ言える位である。
既に述べたように、高度な文明の中で生きざるを得ない現代人というものを直視すれば、恐らくこの種の役になる筈で(その意味で「日本人」は現代の紋切り型か)、それゆえ、彼らに屈折した共感を持ってしまうのも当然と言えば当然なのかもしれない。
現在、映画界は新たな物語の主役探しに四苦八苦しているようである。去年は「善なる者」=innocent manとして天使や少年、赤ん坊、それに動物といった主人公が色々動員されていたが、もうそれもいい加減苦しくなってきたのではないだろうか。勿論、T型の映画も健在で、最近では「ダイハード」のような映画(どうでもいいが、こう毒にも薬にもならない映画ほど詰まらないものはない!)にさえ、西部劇の影が見える。それはエリセ的な美しさとは無縁の、安直な物語の再利用に過ぎない。
言うまでもなく、映画が存在し続ける限り、その中の善悪も不滅で、その限りにおいて、所詮、どんなものをそこに持ってこようと同じなのだが、現代の小悪役の紋切り型(手塚キャラなら「ハムエッグ」という所か)である日本人の僕としては、無垢なる主人公にも飽きたし、願わくはもっと魅力的な悪役を、とつい願ってしまうのだった。
(補足 or 蛇足)