少年科学者が見た世界

〜 ピーター・グリーナウェイ「数に溺れて」

 

 1.「理科系の映画」

 さて、ピーター・グリーナウェイという名前を前にして、 僕は一体何から言えば良いのか迷っている。というのも彼はかなり変な映画を撮る監督だからだ。勿論、言うまでもなく彼は イギリス人で、イギリスの映画というのは何故かは知らないが、ヒュー・ハドソン「炎のランナー」のように折り目正しい映画の系列と、 ケン・ラッセルテリー・ギリアムの作品のように 変な映画の二極分化が激しいことを考えれば、彼も一方のまともな正統派と言えなくもない。

 しかし、その中でもやはり、グリーナウェイは孤立しているように見える。 それを説明するために、一つの比喩を使ってみることにしよう。理科系/文化系という区別である。勿論、これは ある監督が数学に出来るかということでもなければ、ましてや現実にどちらのコースを過去に選択したかということでもない。 映画自体に関する区別である。

 映画は、他ならぬグリフィスが「女と銃」と言ったように、グリフィス以降、綿々と人間の心理にまつわるドラマ、 一言で言えば恋愛の物語を描き続けた。つまり、そこにもいつも理解できる心理を持った(共感できるかは別にして)登場人物がいて、 彼らはその物語の主人公=主体であり続けた。良い悪いはともかく、映画はまずそういうものと思われてきた。

 こういった映画(世の中のほとんどだ)を仮に文化系の映画とするならば、グリーナウェイの 映画は明らかに理科系の映画である。冷静な観察者の視線で作られた映画。そこには実験の対象、すなわち客体としての人間、 あるいはチェスの駒としての人間しか登場しない。彼の映画は死に満ちているが、観客は、決してそのことで喜怒哀楽の感情を 左右されない。ペットの猫が死ねば誰でも悲しいが、研究用のマウスが死んでも研究者は悲しまない。それと同じである。

 こういう映画はそうないが、他のメディアなら存在している。SFである。但し、SFと言っても、 その多くは異常な状況下での人間心理というシチュエーション・ドラマであり、例え状況の方に重点が置かれていても物語であること には変わりがない。しかしハードSFと呼ばれるもの中には、先程の観察者の眼で描かれているものも存在する。man as animalというか、心理そのものには興味がないといった作品だ。

 とここで突然、グリーナウェイの先達を発見した。スタンリー・キューブリックである。SF映画というのは、それなりに大きなジャンルであるけれども、 ここで言う理科系のSF映画として成功しているのは、ほとんど「2001年」位ではないか。また、今から見ればやはり失敗作としか思えない「時計仕掛けのオレンジ」も一人の青年の洗脳実験を中心にした話だったし(言うまでもなく「未来世紀ブラジル」の洗脳とは全然描き方が違う)、最近の「フルメタル・ジャケット」など、まるでサル山の観察記録では なかっただろうか。余りキューブリック作品を見ているわけではないが、そこに一貫して流れるのは、徹底して、 人間を観察の客体として捉える「冷たい」眼差しである。そのせいだろうか、キューブリックとグリーナウェイは 構図の取り方がよく似ている。左右対称の人工的な構図だ。「実験室」はシンメトリーであるべきなのだろうか。

 

 さて、グリーナウェイは、理科系の作家だという以外は、余り言うこともないような気がする。 実際、それを考えれば、昆虫にこだわることも、数を数える映画を作ってしまうことも、ゲームが好きなことも別に不思議では ないからだ。あえていえば、他に指摘すべきこととして、美術との関わりを挙げても良いかもしれない。ご丁寧にも「数に溺れて」のパンフレットには彼自身の注釈が付いていることでもあるし、西欧絵画に関する知識が あった方が無いより、有った方がより楽しめるのは事実だろうから(そういう所が、snobという気もするのだが)。しかし、 同時にその程度のことでもあり、美術史的に見ても、彼の映画はドラクロワよりアングルというか、理科的な方向が貫かれている気がする。 しかし、何か言えるほど美術的教養が有るわけでもないので、これ以上はやめておこう。

 

 2.「グリーナウェイとルイス・キャロル」

 せっかく「数に溺れて」を見たことでもあるし、ルイス・キャロルについて少しだけ触れておこう。又しても、という気もしないでもないが、 この映画を見たら、誰も一回はその名を出してみたくなる。奇妙なクリケットを始め、3を中心として数への異常なこだわり(「鏡の国」でのアリスが女王になる時の周囲の合唱“And welcome Queen Alice with thirty-times-three!”を思い出す)、ラストの、何となくあの「黄金の昼下がり」を思わせる小舟のシーン、とまるでルイス・キャロルのような映画だからだ。

 もっとも、それだけで似ているというのはどうかとも思ったのだが、パンフレットにある (1から100までの)「数が描かれた場所」のリストで95が「縄跳び少女が死ぬほんのわずか前に彼女の前を走っていったウサギの チョッキに」とあるから(ウサギなど気付かなかったが)やはり意識してルイス・キャロル的な映画にしたのは 間違いないだろう。

 とは言え、グリーナウェイとルイス・キャロル、両者の違いも又、かなり大きい。 一言で言えば「少女」の位置だろう。勿論、パンフレットの細川周平の文章のように、縄跳び少女をアリスと重ね合わせ、その重要性(countingを始める)を指摘するのもあながち間違っているわけではないだろうが、それにしてもこの少女といい、 あるいは「Zoo」の少女といい、非常に影が薄い。縄跳び少女など、本当にあっけなく死んでしまう。 そこには少女としての特権性など少しも存在しない。結局のところ、彼の作品において活躍できるのは「少年科学者」だけ なのかもしれない。

 

 この前、初めて溝口を見たのだが、 撮り方には息を呑みながらも、物語に関しては正直言って付き合ってられないと思ってしまった。まぁ、それは僕がまだ若い、 ということなのかもしれないが、小津に比べるとどうしても古いと思ってしまう。(そうだ。小津、ヴェンダース、ジャームッシュという流れは文科/理科では説明できないような気がしてきた。 困ったな) このグリーナウェイもとことん好きというわけではないのだが、そうしたドロドロした映画を見ることが最近多かった ので、非常に救われた気がした。今は皆、むしろこういう、さっぱりとした映画を必要としているのではないかと思う。


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(補足 or 蛇足)

テリー・ギリアム

とはいいつつ、アメリカ人である(笑) 前者(正統派)の方の、えせ?イギリス人としては、ジェイムズ・アイボリーが挙げられよう。

グリフィス

「国民の創世」とか「イントレランス」とかを撮った監督。いわゆるアメリカ映画の父というべき人。とわざわざ書くこともないか。

*最近の「フルメタル・ジャケット」

当時は、最近だった(笑) ちなみに、キューブリックグリーナウェイをどう思っていたかは定かではないが、グリーナウェイキューブリックを尊敬していることは、まず間違いないと思う。

*「黄金の昼下がり」

ルイス・キャロルが、リデル家の三姉妹とボート遊びをして、そこで姉妹に語ってみせた物語が、「不思議の国のアリス」に発展したという、その日のこと。しかし、当時、晴れてはいなかった筈との考察もあり、どこまでが真実かは割と謎。どうでも良いことだが、某声優の「Dream Child」という曲名は、元を辿れば、作品に付けられている、この黄金の昼下がりを歌った詩の一節から来ていると思われる。

*Counting

念のため言うと、この「数に溺れて」という映画では、ストーリーと直接関係なく、画面上に1〜100の数字が付けられた色々なものが順番に登場し、予想通り100まで来たところで、ストーリーも完結し、映画は終わる。

溝口

当時は、僕もまだ若かった。というのはともかく(笑)、勿論、溝口健二のことだが、この時見たのはよく覚えていない。「西鶴一代女」