空の蒼さを 見つめていると
近所のJRもずっと止まるほどの雨の日。当然ながら、一日、家から一歩も出ることなく。
ちなみに、昨日書いた夏の野望とは、こんな感じ。現実化させるかはまだ、やや微妙。最近、気力と根性が全然無いし。まぁ、こういうのは考えている内が一番楽しいのかも。
あと、ふと思い立って、半年近く放置していた週記を更新。…それって月記ですらないじゃん。ちなみに、今回は何故か2本立て(^^;;
Novel。恩田陸「ネバーランド」。良いのだけど、女性の読者に好かれそうな作品だな、と思いつつ、そこまでの愛着は持てない自分を発見。何故だろう。
状況がなかなか改善しないので、帰りに医者に寄ってみる。状況とは、実は膀胱炎的な症状が一週間続いている、ということなのだが、膀胱炎ではなく、「石」があるためではないか、と医者が言うので驚く。えええ? 石ですかっ? もっとも、超音波検査では見付からなかったのだが、非常に小さい石が圧迫しているのではないかと。
とりあえず、抗生物質とツムラの漢方薬を貰って様子を見ることに。どちらにせよ、水分の不足が良くないとのことで、もしかしたら、健康診断のための前夜の絶食(水断ち)が、悪化への最後の一押しだったのかも。石だと仮定して、その原因を訊くが、「体質です」との答え。一説によると、男性の20人に1人は起きる病気らしい、て、それは19人には起きない、ということでは? やはり、私は、目の前のハードルをことごとく倒していく定めなのか。
それにしても。春先から、何かの病気ではなく体調が万全だった日って、5月に晴れた日位の延べ日数しかない気がするんですが… 免疫力無さ過ぎ。近くにSARSの患者がいたら、真っ先に感染するタイプ。
今のところ、別に激痛は起きていないのだが、そんなわけで、気力体力とも低迷中。夏に向け、せっかく、ある野望を抱いているのに、計画を進展させる気力が涌かない…
Comics。あさりよしとお「るくるく」2巻。
今月は「マリみて」の後は、帰りの電車では主に新書を読んでいたのだが、ボールの連続。とはいえ、否定的な感想を書くのも大人げないかと黙っていたら、何の書評も書かないまま、今月が終わってしまった。となると、勿体ない気がしないでもないので、ごく簡単に感想など。
「表現の現場」田窪恭治(講談社現代新書)
子供の頃、友人が宮司の息子だったため、金刀比羅宮の奥書院の若冲を見ることが出来たのがきっかけで画家になった。という話から始まる。持つべき者は旧家生まれの友人、ということ? 内容は、著者が日頃考えていること、という感じだが、著者に特別な関心を持っていない者にとっては、それで?としか。
「自動販売機の文化史」鷲巣力(集英社新書)
ドラえもん話の続き。つまり、その「機能」を最も商品化しているのが自販機ではないか、と思ったところに見掛けた本。資料的には、その発明と発達過程はよく調べてあって、必要な人には参考になりそう。ただし、新書に必要なハッタリ感というか、文化史に対する著者ならではの視点の提示がないので、どうにも退屈。日本は(酒と)煙草の自販機が世界に類を見ないほど、異常に多すぎる、ことはよく分かったけど。煙害を無くすには、自販機を減らすことから始めないと駄目だと思った。
「鳥居」稲田智宏(集英社新書)
テーマ的には面白いと思ったのだが。形の違いを写真で紹介する辺りは多少興味深いが、後半、鳥居とは何かを説明しようとする箇所になると途端に、著者の知っている古代での「鳥」の話の羅列に終始して、読むに耐えない。こういう本は、鳥居という具体的なものから離れては無意味。あとがきのいいわけを読むと、偶然に企画がまとまり4ヶ月で本にすることになって…と事情は察するが、学生の卒論じゃないんだから、そんな中途半端な安いものを出されても困る。
あと、靖国神社等を巡って「保守的」な意見を織り込むのは著者の自由だが、それと抵触する政教分離的な立場に「蛮行」とか「偏見」とか感情的なラベルを貼る著者には、信頼が置けない。 というか、こんな薄い本でそんなこと書いている余裕はないだろう 。
「明治天皇を語る」ドナルド・キーン(新潮新書)
確かに私は明治天皇や皇后のことを余りに知らない、と思ったので。これは普通に面白かった。明治天皇が刺身嫌いだったとか。ただし、そういう面白さはあくまでもゴシップ的なレベルであって、私が興味があるのは、御真影に代表される「メディアとしての明治天皇」だということに、読んでいて気付いた。本人がどういう人であったかは、本当のところ、どうでも良いのだ。
勿論、著者がこういうアプローチで「明治天皇を語る」のは納得。ただ、明治天皇の治世における意思を強調すると共に、戦争の作戦に口を出さなかった=悪い介入をしなかったというだけの消極的な言い方で持って評価するのは、幾ら何でも無理があると思った。こういうのって、いわゆる贔屓の引き倒しでは?
気力というか、体力というか、全般的に低調。
改装後のブリヂストン美術館は、平日は毎日夜8時まで開いている。素晴らしい。
多分、昔「ベルギー美術コレクション展」辺りで見たことがある筈なのだが、名前を意識して見たのは今回が初めて。事前には、ポスターに使われている「めまい」の印象が強くて、ヒッチコックの「めまい」、じゃなかった「白い恐怖」の幻想シーンみたいな絵を描いた画家なのかと思っていたのだけど(「白い恐怖」の美術はダリだが)、実際には画風の変動が大きかった画家のようで、メランコリックな「めまい」で全て代表出来る、というわけでもないらしい。例えば、初期は完全に世紀末絵画風(時代もそうだが) 。
一番独自性が有るというか、(少なくとも私にとって)魅力的だったのは、夕方の海岸等を描いた風景画の数々。単純化されてはいるものの、一見普通の風景に見えつつも、穏やかならざる何か(会場では「神秘的」という便利な言葉を使っていた)を感じさせるのは何故?と思いながら、眺めていた。
恐らく、堤防や川べり、海岸線によって作り出された極端な奥行きが、その何かを生み出している最大の要因であることは間違いないのだけど。まるで、世界から「意識」が遠ざかっていくような印象。画面奥の、遠近法上の消失点にある目的地?(灯台とか)には決して辿り着けないような不安感。
ところで、同じ幻想性といっても、南だとダリやデ・キリコや初期のミロのように、光と影はくっきりと二分されるのに、ベルギーでは夕暮れのぼーっとした風景になるのだなと、改めて土地柄と画風の違いの関連性におかしみを感じた。もっと北の方に行くと、薄明が関心事になるらしいから、その中間なのか。ムンクはもう少し夕闇が濃かったと思うし。
スピリアールトの絵の魅力は、一言で言えば「孤独」、だと思うのだが、お陰で、結婚してからは(晩年を除くと)、緊張感のない平凡な絵になってしまったらしい。難しいものだが、勝手なことを言えば、こういうタイプの芸術家は「不幸」な時の方が、見る方としては有り難い。例えば、ティム・バートンなんかも同じタイプだと思うので早く不幸に戻って欲しい。
それにしても、こういう彼の絵が、自分のことのように?よく分かるというのは、いささか芳しくない精神状態なのでは、と思わないでもないのだが…
職場での健康診断受診日。
などと毎年受けるものをわざわざ書くこともないのだけど、実は、心電図や胃検診まで受診したのは、今回が初体験だった私。つまり、何が言いたいかというと。
「初めての!すごい!バリウム」。……いや、それだけのことですが。というか、別に凄くないし(^^;;
終わった後の胃の重さは、確かに不快だったけど。飲むこと自体は特にどうというものでも。(もっとも、静かに飲まないといけないのかと思って、そのまま流し込もうとしたら、いつまで経っても全然、喉を通らなくて、給食の牛乳が飲めずに居残りをさせられている小学生みたいな状態に陥ってしまい、看護士のおばさんから「もっとグビグビ飲んで!」と言われた)
大滝詠一の「恋するふたり」は、ようやく回収。特典はもう無くなってたけど… 原曲もさることながら、ストリングズバージョンがまた良いのです。
今日はエイリアン日和だったので、一日「エイリアン9 コンプリート」や「エミュレイターズ」を読んでいました。…エイリアン日和って何よ。
「コンプリート」版はやはり、分厚過ぎて読みにくい(^^;; ミニエピソード1編と描き下ろしの短編が加わっているのが、単行本と違うけど、そのために買わなければ、というほどでは無いです(買っておいて今さらだけど)。一方、「演じてきました」というのは無かったことにするらしく、各巻の巻末のあれは無し。
後半は絵的には忘れていたので、割と新鮮だった。続編の「エミュレイターズ」は悪くは無いのだけど、新たな興奮も無かったという感じ。先輩のキャラは立ってますが。「エイリアン9」の時点で、この世界でのサプライズは充分に見てしまったというか。物語を閉じることが重要な話ではなかったというか。
再読すると、深読みしたくなる誘惑を色々感じるが、何かを抽出したり、読み取ったりするべき作品では元々無いのだと思う。多分、良い意味で単純な?エンターテインメント。
DVDも見直したくなったので、一番平穏かつ魅力的な3巻を見た上に、止せば良いのにそのまま4巻も見てしまい、エンディングでまた落ち込む(^^;; ああ終わるのなら、その先も作って欲しかった。それにしても、井端珠里のふええええん、という泣き声を思い浮かべずに原作を読むことは、もはや不可能になってしまっているな。
先週見たもの、の続き。
ちょうど開催されていたギャラリートークで、掛け軸の表装の部分毎の名前等を教わったりして、勉強になった、という印象。内容的には、柴田是真が一番目立っていたかな? 個人的には、月岡芳年の羽子板の絵とか、かなり笑える絵も有ったので楽しかった。しかも、無料。これで近くに有りさえすれば、もっと行くのに…
ちなみに途中のどこかで昼を食べようと思っていたら、西高島平駅から美術館まで本当に何も無くて、5時前に都心に戻ってくるまで、空腹を堪え忍ぶ羽目に。
ところで(毎回トイレの話を書いているようだけど)、ここの男子トイレに「使用出来る」現代artが置かれていたのには笑った。というか、作品保護のため、水が少ししか出ないので大事に使用して下さい、と断り書きが付いているのが更におかしかった。こんなので良ければ、駅のトイレは皆、現代artじゃん。
来月、国立博物館で開催予定の「建長寺創建750年記念 特別展 鎌倉−禅の源流」。北条氏やお坊さんの像なんかに興味ないし、全体に地味なので行かないつもりだった。大体、近所の寺の宝物を、何故、上野まで見に行かなくてはいけないのか。
しかし、展示内容をよく見たら、…あれ? 牧谿の観音猿鶴図? それはこの際、是非とも見ておくべきなのでは? だけど、あれって建長寺じゃなくて、大徳寺の持ち物だったような。ひょっとして友情出展?(なんだ、それは)。
俄然、行く気になってきたんですけど。というか、もう決定。借り物のためか、観音猿鶴図の出展期間は、15日までらしいので、始まったら早々に行かないと。
ようやく、現在の放送分まで追い付いたでございますですよ>「プリンプリン物語」。(…なぜに軍曹口調?)
軽い散歩がてら、数年前に隣町へ引っ越してきたという某作家の家を見に寄ってみる。
以前、本人が新聞のコラムに、古い家で雨戸を開けてまわるのが大変と書いていたので、少し興味を覚えた上に、昨年、とあるニュースで住所を知り、いつか確かめようと思っ ていたのだ。別にストーカーとか、「ミザリー」 ではなくて。犬が散歩コース内の電柱にマーキングしないと落ち着かないように、私の心理的な縄張りの中にある以上、一度は見ておかないと、というほどの話。
といいつつ、実は家から2分もしないところに、TVで思い切りよく見掛ける芸能人が住んでいることすら、つい先月まで知らなかった迂闊な私。いや、そちらは同じ住宅地内ということは昔から知っていたのだけど、まさかそんなに近いとは… いや、近くに住んでいたから何だ、ということもないのだけど。
作家の家は、本人が書いていた通り、鬱蒼とした草地、というより藪の中に建つ古色蒼然な平屋建て。とりあえず、湿気と蚊は多そうだ、と思った(余計なお世話だ)。敷地(というか藪)の中に数軒建っている家を3世帯が別々に借りているらしく、門には三つの表札と三つのポスト。どんな人が住んでいるのかは不明だが、作家の家だけがNHKを払っている、ということは分かった。勿論、それが分かったから何だ、ということもないのだけど。
職場での、他の人の歓送迎会。その席で、TVのCMの話になった際、周りから、(私は)「民放なんか見ないんでしょ?」と訊かれる。どうやら、ここでは、そういう風?なキャラとして私は認識されているらしい。 それに対し、「むしろ、民放はCMしか見ないですけどね」と答えたことで、変なキャラとしてのレベルは着実にアップしている様子。
という枕とは何の関係もなく、一週間前に見たもの。
…私の先祖は、マヤ人の先祖とは余り近い親戚付き合いはして来なかったのかも。
マヤ文明といえば、私の世代だと、70年代的な怪しげなワクワク感、具体的にいえば「三つ目がとおる」のイメージなのだけど、実際に発掘品を間近で見ても、自分に繋がる何かを感じることは出来なかった。もっとも、別会場のVRシアターの最終が閉館1時間前で、超特急で回らなければいけなかったせいもある のだけど。それなのに、会場は満員で入れず、外で映像だけ見ることに…
食べ物に関しては、南米起源で今の生活に欠かせないものは数多い。トウモロコシとか、チョコレートとか。私たちも聖ウァレンティーヌスの聖日を祝う前に、カカオの神様(展示されていた)に感謝の祈りを捧げるべきではないか、と か思わないでも。しかし、精神的な面での理解は難しい。というか、拠り所となる共通点すら、思い付かないのが実態。
現地に行って、神殿とかを見ると、また違う感想が出てくるのかもしれないのだが。日本にいる限り、私には無縁の文明?
久々の科博なので、グッズショップを眺めたりしたのだが、来る度に、ここはアウェーだと思う。恐竜(及びそのグッズ)を見ても、何も惹かれないという時点で、既に失格の烙印を押されている気が。つまり、お呼びでない、というか。私は結局、ここの住人ではないらしい。
そんな科博ではあるが、チラシを見る限り、次回以降の展示は少し面白そう。6/24〜8/31の「江戸大博覧会」と8/1〜10/26の「THE地震展」。
前者は、江戸のからくりを多数展示、というだけで見せ物としての価値は充分だし、後者は、…割と駄目な予感はするものの(^^;;、地震の疑似体験コーナーに期待。「起震車や起震台を使わず」と書いてあるので、もう少しバーチャルなアトラクションでも置くのではないかと。まぁ、どのみち、揺れるだけですが。
引き続き、「プリンプリン物語」消化週間なので、他に書くことが有りません。それにしても、ランカーに自然と感情移入してしまう、とは私も歳を取った、ということなのか。
あれから2日も経つのに、未だに大滝詠一の新曲は入手出来ていない。買うつもりの店が、昨日は何と定休日。今日こそは、と思っていたら、既に品切れだった… 別にそこでないといけないわけはないのだが、若干の特典が貰える上に、駅までの帰り道にあることを考えれば、わざわざ他の店で急いで買うこともないか、という感じなので。
そんなわけで、今日のところは、angelaや上野洋子・伊藤真澄の新譜を聴いていたり。…そういえば、あのオレンジだかレモンだかといったユニット名は1回限定だったんでしょうか。
Comics。橋口たかし「焼きたて!!ジャぱん」7巻。川原泉「笑う大天使」文庫版1,2巻(人に薦めていたら、読み返したくなったので)。
大滝詠一の久々の!新曲「恋するふたり」の発売日。
当然ながら、絶対に買って帰るつもりでいたのだが、気が付けば、電車に乗っていた私… 会社を出るなり、あの雨の激しさに、それ以外のことが頭から抜け落ちてしまったらしい。うう、不覚。仕方ない、明日こそ忘れないようにしないと。
今週は「プリンプリン物語」消化強化週間につき、他のことは余り進まない見込み。殆ど未見のまま一ヶ月分溜まってしまったので、何とかしないと、さすがにまずいと思って。そんなわけで、結局、買ってみた「エイリアン9」の分厚い新装版とかも再読していないまま。
今日の新日曜美術館で取り上げていた、ルオーの展覧会。私は厚塗りの絵画は苦手なので、パスするつもりだったのだけど、版画は見てみたいかも、と思った。
会期切れ寸前につき、慌てて来てはみたものの、人形を見る、とはどういうことか一度も考えてみたことがないのに、会場で初めて気付く迂闊な私。
大体、私は、立体的な造形に対するセンスが子供の頃から欠如していて、粘土細工や彫刻が多い3学期の「美術」(小学校では「図画工作」?)が大の苦手だった位なのだ。
とはいえ、漠然と見ていても仕方ないので、とりあえず、視線の方向(眼差し)、手付き(手の位置)、全体のプロポーション(及び重心)の3点を意識して見る。 色々な人形を続けて見ていると、一目で「立体的な感動」(C.島本和彦)が伝わってくる、とはいかないにしても、人形の持つ独自の魅力というのは少し分かる気はした。
しかし、今回の近現代作家の人形と、伝統的な工芸品としての人形が「違う」のは分かるのだが、具体的にどう違うのかは、全くの初心者にはよく分からない。漫画が自意識の反映としての瞳の輝きで、手塚治虫以前と以後に分けられるように、伝統工芸に対する、近代的な自意識を表現するロダンのような近代彫刻がまず有り(そういう「人形」があるのかは知らないが)、それから更に象徴化された人間の表現が、これらの「人形」なのか、とは思ったのだけど。榛野なな恵が描く硝子玉のような瞳、みたいな?
四谷シモンの人形は、もっと年上の世代が騒いだモノ、というイメージが強いためか、実際に見ても、自分との接点は余り感じなかったのだが、吉田良の人形は、生で? 目の当たりにすると、さすがに少し興奮した。…ミーハー?
ところで、展示されていた吉田良の人形は皆「個人蔵」だったが、所有者は、普段、一体どうやって保管しているのだろう。包帯で目隠しされた、黒い下着だけの少女像とか。
自分の部屋に大事に飾っておく、というのも余りにもアレだし。というか、その光景って、ユーザーフレンドリー(C.田沼浩史)な会社の品と、区別付かないような… まぁ、こういう高価な人形(前者)を買うような人は、「人形のための部屋」くらい、別に用意しているのかも。子供部屋みたいに、専用のベッドとか椅子とかも置いてあって。
でなければ、「ブレードランナー」の老化病のエンジニアみたいに、家全体に人形がいる中で暮らしているとか。あるいは、服やパーツを傷めないため、もっと散文的に、大きな箱に仕舞ってあるとか? そういう「棺桶」がうずたかく積まれている倉庫というのも、何か怖いが… (そういえば、四谷シモンの箱人形は仕舞うのに便利かも)
こちらは「見る」ことでさえ、覚束無いというのに、「所有する」こととなると、どういうことなのか、正直、見当も付かない。しかし、そう考えてみた時に起きる、ある種の混同というか、倒錯こそ、これらの人形の「秘密」の源泉ではあるような気はする。本当に理解するには、一緒に「暮らして」みるしかないのかも。私は… ええと、遠慮しておきます。部屋も狭いし(そういう問題ではないと思う)。
…展覧会自体の感想はほとんど書いていないのに、何故、こんなに長くなってしまうのか、我ながら不思議。
(竹内海南江の時は見ることにしている)「世界ふしぎ発見」で、沖縄の「チャンプル」はインドネシアの「混ぜ合わせる」という言葉から来ている、という話を見ていて。…ということは、長崎「チャンポン」も同語源なのでは?と閃く。
先人の調査を読む限りでは、結論はそう簡単なものでは無いようだが、無関係、というのも考え難い。いずれにせよ、アジアというのは、(砂漠の民の二者択一好きとは違って)ごちゃ混ぜ文化圏なんだな、と改めて思ったり。そういえば、やたらと二者択一を登場人物に迫っていた「マトリックス」は、続編でもまた、何かの選択を強要する展開になっているのだろうか。
(…どうでも良いけど、昨日ああ書いておきながら、翌日また食べ物ネタかよ、と後で読み返して思った(^^;;)
実はこの半月ほど(今さらながら?)、「マリア様がみてる」を帰宅時に毎日1冊ずつ読んでいたのだが、昨日、ついに「真夏の一ページ」に辿り着いてしまい、来週から一体、どうしたら良いのかという状態。
そんなわけで、楽しませて貰ったのは確かだし、否定的なことを言って気取るつもりもないのだけど、これだけ人気があるのなら、かつての「丘ミキ」に比肩する作品なのかと 期待した私が間違っていたのかも 、とは思った。
あるいは、私の場合、こういう作品に求めているものは「物語」それ自体の心地良さなんだろうな、と再認識したというか。萌え絵になるシチュエーションとかではなくて。
とはいえ、ないものねだりしても仕方ないので、「マジな芸で感心するより、心の底から笑いたい」私としては、この際、今後はそっちの方向で磨きを掛けて貰えないものかと。…そういう作品じゃない?
最近、自分の好奇心というか、物事に関心を持つエネルギーが非常に弱まっている気がする。その中で、多少は何かを考える気力が起きるのは、昼食どき程度。したがって、気になることといえば、メニューに出てきた食べ物の由来くらい 。
まぁ、私の場合、多忙だと、こういう風に現実逃避し勝ちな傾向は、前からあるのだけど、今はそれほどでもないし。…単に気力が低下しているだけ?
で、今回、気になったのは「鰆の西京焼き」、の「鰆」ではなくて「西京焼き」の方。昔から、この言葉を聞くと、漠然と京の地名を連想していた。といえば、普通、西京区を思い浮かべるところだろうが、あいにくと西京区は、学生時代の生活圏からは遠すぎたので、もっと近く。なぜか「西ノ京円町」という具体的な地名が思い浮かんで仕方ないのだ。
というか、私の頭の中では、いつの間にか両者を「関係有るもの」として勝手に結び付けてすらいたのだが、今週、「鰆の西京焼き」を食べていて、そんなことは無いだろう、とはっと気付いた(^^;;
確認してみると、「西京焼き」とは、「西京漬けにした魚を焼いたもの」で、「西京漬け」とは、「西京味噌に漬けたもの」で、「西京味噌」とは「京風の甘い白味噌を言う」らしい。ああ、あれは西京味噌というのか。当たらずといえども遠からず、のような(全然違うってば)。
しかし、京都で、京都のことを「西京」などと呼ぶわけはない。よって、これは明治以降の東京で使用された言葉であり、食べ物ということになる。そのものズバリな名前の会社のページを見ても、どうやらそうらしい。しかし、現在、西京焼きという名前はポピュラーだけど、「西京」という言い方や「西京味噌」という言葉は (多分)それほどでもない。
となると、西京焼きという料理が広まる過程には、更に何かのファクターが存在した筈であり… と妄想はどんどん広がる一方なのだが、そんなことを考えても、勿論、何の役に立たないわけで。というか、次の日、違う料理を口にすると、また同じことが始まってしまう、というのが、今日の話の一番、恐ろしいところなのだ 。
たまには、もう少し違う(食べ物以外の)ことを考えてみたらどうか、と自分自身を説得したい今日この頃。
ちなみに、辞書を見ると、「西京焼き」の2つ目の定義として「サツマイモの皮をむいて薄く切り、塩と胡麻を付けて蒸し焼きにしたもの」というのが載っている(明治時代、そういう「西京焼き」なる焼芋屋?が流行したらしい)のだが、そちらをご存じの方はいるのだろうか。
Comics。紫堂恭子「東カール・シープホーン村」上・下巻。「キラキラ」瞳は確かに苦手だけど、今回はそれほど気にならず。「黒い爪」の話については、なるほど!という感じだけど、薬草に詳しいというところから、その説明をさせるのは無理がある気がしないでも… でも、全体の話は綺麗にまとめているので、 まぁ良いか。
雑誌サライのムックであるショトルシリーズの一冊として(及び今年の「生誕百年記念」の一つとして)刊行された「いま、小津安二郎」。
内容自体は、いかにもサライ風の記事(小津の愛用品や、小津の贔屓にしていたお店のメニューを写真入りで紹介したりと)で特に意外性はなかったのだが、巻末に収録された、今回の小津作品DVD化を担当したカメラマン・川又昂とテレシネ技師・井関修の対談に思わず興奮する。
というのも、今回のDVD化に当たって、明るさとコントラスト、色の修正から始まり、コマ単位での手作業による傷の修復、飛んでいるコマを勘案したスピードの修正、そしてノイズのデジタルな消去 、と現在の復元作業として出来る限りのことを行った旨の話が載っているのだ。
中でも、音声に関しては、何とか聞き取れるかどうかという、台詞が全編ノイズに埋もれっ放しの、あの「父ありき」すら、『台詞どころか、隣の家の機械工場の騒音もはっきり聞こえます』という位、回復させたらしい。(いや、あれは流石に、何故、今の技術でノイズを消去してくれないんだろう、とは前から思っていたが)
これはもう、「数十年間、誰も観たことの無かった小津がここにある。」というコピーを付けてもおかしくない程の復元なのでは?
今回のDVD化では、近年再発見された「和製喧嘩友達」「突貫小僧」を含め、現存する全作品を収録する予定らしいし、期待は高まる一方。出るまでに一度、ビデオで全作品を観ておこう、などと思っていたのだけど、ここは、DVD化を大人しく待つ方が、どう見ても賢明かと。「父ありき」も早く「聴きたい」が、綺麗な「麦秋」を早く観てみたい。
買い物のついでに上大岡のヨドバシのDVD売り場をのぞく。
この前のヘッドフォンの効果を体感出来る、派手な音響の映画を何か観たいものだと思いながら、店内をふらふら彷徨っていると。
「ひ」の欄に、待望の「悲情城市」が! 気軽に観られる映画ではないので、手元に有っても何度も観るかは分からないが… でも、とりあえず、迷わず買うでしょ、この場合。
元々の目的だった「派手な音響の映画」は結局、思い付かなかったので、同じくふと見掛けた(公開当時、好感を抱いた)アニエスカ・ホランドの「秘密の花園」(1500円なら良いかと思ったので)と併せて、購入。ちなみに、画質等はまだ観ていないので、何とも言えない。
レジ横に、DVDを購入した方は1点好きな物をお取り下さい、と書いた箱が置いてあって、まほろさんのコースターとか、販促用のDVDとかが入っていたのだが、店員はその中から、無造作に後者の何かを封入していたので、帰って開けてみると、それは「FOXヒストリー」という、20世紀FOXの歴史を歴代作品の紹介で振り返る非売品のDVDだった。
試しに再生してみると、この映画はヒットしたとか、しなかったとか経営的観点から解説している様や、制作者のザナック親子が経営陣から追い出されたり、復帰したりする社史が面白かったので、そのまま、ぼーっと見ていたら、終わるまで2時間も掛かってしまった。長過ぎ。
改めて思ったのは、映画制作は、大ヒットが出てなんぼ、の世界なんですな、ということ。というか、これで見る限り、20世紀FOXは(お金に余裕が有る時は)基本的に大作志向のような気が。その分、大味な感じがしないでもないが。
登場する作品は、さすがに「名前くらいは知っている」ものばかりだが、(実際に観たかは別にして)公開時の記憶が鮮明なのは85年の「コクーン」辺りから。しかし、それら、80年代後半から90年代の作品の話になると、途端につまらなくなってしまうのは何故? まぁ、最近の話は自画自賛モードだから仕方ないか。作品も「ホーム・アローン」とか「タイタニック」とかそんなんばかりだし。
どの作品を見ても、折笠富美子の配役を見掛ける気がする今春のTVアニメ。「フィギュア17」「あたしンち」の頃から(といえば、そんなに昔ではないが)注目していた 者としては、嬉しいのだけど。
せっかく「成恵の世界」「TEXHNOLYZE」を見切ったというのに、そんなわけで「スクラップド・プリンセス」や「金色のガッシュベル!!」を追加した結果、視聴に費やす時間が全然減らないという自業自得。
特に前者「すてプリ」はヒロインなので外せないのだが、原作自体は、わたし的には全然評価出来ない、ファンタジー「もどき」な世界なのが、難点。あくまで一例でしかないけど、中世欧州風の世界で「御手洗団子」は無いだろう、みたいな 。それなのに、作画だけは意外に手堅い出来なのも、却って困ってしまうところで。
今見聞きしているものについて、とりあえず後回しにすると、書くことが何も無くなってしまった一週間。なので、この機会に、先月読んだものから少し書いておこうかと。
大魔法使いクレストマンシーの世界を舞台にした短編集。イントロダクションというよりは、あくまでもファンサービス、というノリなので、D.W.ジョーンズの次の邦訳は?と飢えている人のためのものかと。ちなみに、そうやっていつも飢えている私は、昨年、本書のペーパーバックを丸善で衝動買いしておきながら、本棚に入れたままで、この邦訳が出てしまったのだった。
いや、まぁ、読めれば良いんですよ、読めれば。この際、ジブリの魔法?で、もっと邦訳が出ることを祈ることにしよう(←自分で原書を読むのは諦めたらしい)。
西欧の画家は「自画像」という絵画によって何を表現してきたのかを、中世以来、現代に至るまでの代表的な画家達の「自画像」を検討することで概観する、「自画像」史。
通読をすると、何というか「勉強」をしたような気分にはなる、明快な論調。やはりレンブラントが「自画像」というジャンルのハイライトなんだなと再認識してみたりと。ただし、画家がどういう欲求や意図を持って「自画像」に取り組んだのかは、多少、分かったような気になったとしても、では、他者である画家の「自画像」を見る、ということは一体、どういうことなのか、については語られていない。それは学問の範疇ではない、と著者なら言うのかもしれないが、私が関心のあるのはむしろ、そっちの方なのだ。
レンブラントの自画像を見ることと、レンブラントによる(他人の)肖像画を見ることは、一体、私にとってどれくらい違うことなのか、あるいは、どう違っているべきことなのか…
先日、BSで放送した「鏡の国のアリス」をようやく見る。
わー、確かに変だ。どう見てもトウが立った大人の「アリス」が歳を訊かれて、7歳と6ヶ月、は無いでしょ。ただし、原作の、登場人物誰一人として「まともじゃない」感じが、端々に出ていたのは良かった。セイウチと大工の話とか、妙にハイテンションなエピソードになってるし。
目的の、イワン・ホルムによる白騎士は、まぁ普通。悪くは無いのだけど、誰がやっても余り変わらない役どころなのかも。
しかし、シュヴァンクマイエルの「アリス」ほどではないにしろ、変則的過ぎる作品を見てしまうと、もっと素直に、これだ、といえる「アリス」の映像化は無いのか、と言いたくなる(多分、有るのだろうけど)。とりあえず「ドリームチャイルド」でも良いから、口直しをしたい気分(^^;;
このサイトを初めてから、今日で丸6年が経過。6年といえば、言うまでもなく、小学校に入学してきたピッカピカの1年生が卒業してしまうまでの長さ。
そう考えると、その間の私自身の代わり映えの無さに、改めて打ちのめされる。心機一転、とかいったキャッチフレーズが必要なのでは?と思ったりもする。とはいえ、思うだけで何かが変わるわけもなく、当分の間は、ここも従前同様に続いていくかと思いますので、よろしければ、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。
Novel。先週より「ごきげんよう」週間となっています。
今年になってから、色物系? しか行ってない気がするので、普通の展覧会をまとめて見に行こうと思ったのだが、蒸し暑さに、途中でバテてしまった… 本当は世田谷美術館にも行こうかと思っていたのだけど。
地下鉄の六本木一丁目からエスカレーターを乗り継ぐだけで、ほぼ到着。と非常に便利な所に出来た東京分館。こんな一等地に、平屋建ての、しかも人が来そうもない美術館を作ってしまうとは、さすがは住友財閥、やることが太っ腹。まぁ、実際には、都市計画上の「大人の事情」だったりするのかもしれないが。
今回の展示は、茶道具と文人画がテーマ。渡辺崋山の弟子とかいう椿椿山(しかし、変な名前だ)のフラワーアレンジメントの絵が華やかで良かった。若冲は「海棠目白図」。白で画面を統一するためでは有るのだろうけど、目白の白い腹を強調しすぎ。枝の上に、雪見大福が群れをなしているのかと思った。実際は、もっとほら、鶯餅みたいというか。
ところで、どうでも良いことだけど、今回ここで一番印象的だったのは、トイレの洗面所。この洗面器みたいな流しには、一体、どういう意味があるんだろう。掃除し易い?
砧公園内にある世田谷美術館と似て、府中の森公園内にある美術館。実は、こういう「広い公園内の小綺麗な美術館」には、むしろ嫌悪を感じる私。「健康で文化的な生活」とかそういうお題目で作られた様が目に浮かぶではないか。歯磨きのCMじゃ無いんだから。artとはもっといかがわしいものだ、とまでは言わないけど、もっといい加減なものだ、とは思う。大体、どこも駅から遠いっちゅうねん(←それが「嫌い」な理由か)。しかも、この場合、府中市自体が既に遠いし(家からだと)。
そんな悪条件?にもめげず、足を伸ばしたのは、モーリス・ドニの展覧会だったから。昔、オルセー美術館に行った時、(既に馴染みのある画家を除いて)一番印象的だったのが、1Fはシャヴァンヌで、2Fはドニだった。知的に省略化された、曲線で描かれた世界と、その微妙な色彩の妙が、気になったのだ。その後、パラパラとは見掛けるものの、まとまって見る機会がないと思っていたのだが、それもその筈、今回の展覧会は、20年振り2度目の「ドニ展」らしい。
ドニというと、今まで見た作品の印象から、こぢんまりとした絵のイメージだったのだが、今回は室内装飾、つまり壁画が幾つも来ていて、それだけでも見に来たかいはあった。最も有名なのはナビ派と呼ばれていた時代の作品だけど、それ以降の絵も今回、初めて見た。後の時代では、ナビ派の頃の強い魅力は失われている、とは思うが、人生としては充実していたことは伺え、興味深かった。
今回は一通り見た後で、学芸員の説明会にも参加。漠然とした印象だったものが、その説明でなるほどと、納得する所も多々。ドニの絵の特徴は、多くは宗教的な題材が、 画家の時代の人物像で、象徴的に描かれていること。しかも、背景は必ず、地元の町(^^;; しかし、光線の具合(背景の斜面は、朝か夕の光で照らされる一方、前面の庭や室内は逆光となる)から、どこでも無いような神秘性を感じさせる。画面上に画家を含めた家族がしばしば描かれている。などなど。
つまり、強い宗教性、家族愛、地元の風景、神秘性、象徴性といったものが、不思議に混じり合っている、というのがドニの絵の特色。そういえば、シャヴァンヌも宗教性の強い画家だったと、ふと気付く。私の趣味って、実はもの凄く単純? それにしても、宗教性と個人的な家族愛が矛盾無く描けたのは、この時代ならでは。その意味では幸せな画家だったのかも。
今後も、ナビ派の頃の、新しい表現にどんどん踏み込んでいくという勢いを感じさせる絵はもっと見てみたい、と思った。あと、ドニの猫は割と好きなので、猫のいる絵も。
雪村展とか、「目の革命」での簫白とか、この美術館は、「奇想の系譜」的な絵画がよっぽど好きらしい。お陰で、お盆もまだまだ先だというのに、会場は、もののけ(を退治する英雄)大集合。現代で言えば山口貴由とか荒木飛呂彦とか、そっち系?の絵面満載。こういうのも、伝統有る「日本の絵画表現の一ジャンル」なんだ、と改めて認識したり。
今回の最大の見所は、歌川国芳の武者絵のダイナミックさなのだろうけど、個人的には、月岡芳年の、空間表現の格好良さに惹かれた。牛若丸、空飛んでるよ!みたいな。
歌川広重の「平清盛怪異を見る図」(手塚治虫も「火の鳥」か何かで引用していた、庭に積もった雪が全て髑髏に見える絵)とか有名な作品も有ったので、この手の物が好きな人なら見逃せないな、という感じ。図録も安いし( と言いつつ、買ってないけど)。
池袋の少し西の方で、縦笛集会その2。という割には持参者がえらく少なかったけど、それはそれとして。
そういえば、今回は、間もなく「誕生日」、という意味合いも多少は残っている筈で、それはつまり、ここの元々の開設日も間もなく、でもあることに、今頃気付いたのだけど、…もう遅いよ。ということで、今年は(今年も?)新たなcontentsの用意は、特にありません。
一昨年のこの時期、勢いで書いた小野不由美論に関しては、いつか2つ目に進みたい、とは思っているのだけど… せっかく、いつからか、googleの「小野不由美」での検索結果で、最初の1ページの中に出てくるようになっているのになぁ。このチャンス?を全然生かせていない私。少なくとも、以後更新無し、というのは問題のような。まぁ、その間、新作も出てないけど。
というか、相変わらず、反応がほぼ皆無なところを見ると、そうやって来た人々に失望しかもたらしていないのではないかと(推測)。ごめんなさい。とここで謝っておきます(^^;;
DVDでもう一度観たい映画、と以前書いた作品をようやく店頭で発見。KING RECORDの「80's プレミアム・シネマ コレクション20」の一つとして、先々月リリースされていたらしい。ちなみに、この20作品の選考基準が何なのかは、さっぱり不明。「戦慄の絆」「黒い瞳」「ハンバーガー・ヒル」「新・死霊のしたたり」… 80年代の未発売作なら何でも良いのか?
ちょうどヘッドフォンを買ったばかりだし、ということで、購入。どういう映画かは昔、書いた通りだけど、改めて観てみると、やっぱり、楽しいわ、これ。傑作とかでは別に無いのだけど、手作り感(どう見ても、着ぐるみ四つ足な巨大鼠が襲って きたり)とか、どこかマヌケなキャラクター達の言動とか。「考えられない!」の連発とか。
肝心な時に役に立たない主人公より、凸凹コンビの方が遙かに美味しいところを持って行っている映画だが、片方がアンドレ・ザ・ジャイアントだったのは、今回初めて気付いた。奇跡屋の爺さんがビリー・クリスタルだったのも同様。前回は、オールナイトの最後に見たから、物語しか頭に入ってなかったらしい。ピーター・フォークは流石に分かったけど。
そんなわけで、映画の「娯楽抜粋版」振りも良いのだが、ほろ苦い原作も、もう一度読み返したくなってきた。
ところで、最近のロブ・ライナーって、どんなのを撮ってたんでしたっけ?
PCでも、この前のヘッドフォンが使用出来るよう、ONKYOのサウンドボードに変更した結果、ミニコンポには遜色ない位の音にレベルアップ。今までは「単に音が出る」程度だっただけに、結構、感動的。
このボードには、アナログ入力の端子も付いているので、この際、昔のカセットテープで残しておきたい物をデータ化しておこうかと、ふと思ったりする。もっとも、当時、レコード等を録音したものとかは、音質的には辛いと思われるので、ラジオ番組を録ったものだけでも、ということだが。「二人の部屋」で放送した、寺山修司の「赤糸で縫いとじられた物語」とか、前にも書いたけど「絶句」とか。
といいつつ、こういう媒体の変換は、時間を掛けても新たな何かを生み出すわけではないので、手間が面倒になってやらない、というのが真実かも。結構乗り気だったフィルムのスキャン作業も、時間が掛かりすぎて、過去の分まではやってないし。
Comics。小泉真理「ジンクホワイト」3巻。
私にも人並みな小学生だった時代はあるもので、「ドラえもん」は、自分でお金を出して買った最初のComicsだった。しかし、いつしか、途中で「卒業」してしまっていた。
その理由は、もはや思い出せないが、一番もっともらしく思えるのは、当時の私は次第に、「ドラえもん」のいつまでも「変わらない」世界に、ある種の恐怖と憎悪を抱くようになっていたのではないかということ。 従って、小さい頃は良く遊んだのに、その後、疎遠になってしまった友達のように、「懐かしさ」よりも「気まずさ」がまず先に立つ、というのが、「私にとってのドラえもん」のイメージ なのだ。
そういう「愛読者、では必ずしもなかった」者が言うのもどうかと思うのだが、今回の展覧会は全体に、「ドラえもん」に対する愛が足りない。「ドラえもん」というお題を貰ったから、出展しました、という感じ。だから「懐かしい未来」などという抽象的なイメージ止まりの参加者が多い。かといって「ドラえもんとの一日デート」の写真集を作れば良い、というものでもない。
愛というのは、対象にどういう「恩返し」が出来るか、という謙虚な姿勢で臨むもの。平たく言えば、昔「楽しませて」貰ったのであれば、その「楽しさ」を今度は観客に差し出す作品を作るのが、こういう展覧会で有るべき趣旨ではないかと。勿論、批判的に見直すというやり方もあって、artとしては後者が本道だろうけど、少なくとも、今回はそうではない筈。
しかし、多く並べられているのは、自分のフィールドで「ドラえもん」を使ってみましたよ、という自慢。「現代art」は「独り善がり」だということを証明する展覧会としては、よく出来ていた、というべき ?
今回の展示品の中で、一番人気を呼んでいたのは、「助けて!ドラえもん」。TV電話BOXのような所に入って、画面のドラえもんに悩みを打ち明けると、それにまつわる漫画が刷られた紙を呉れる、という自動御神籤機みたいなブース。面白かったのは、悩みを訊いているのが、実際には人だったらどうする?と後ろに並んでいた女子中学生のグループが話していたこと。確かに、それだと凄く嫌な気がする。機械だからこそ、言えるし、答えを聞ける、という感覚。「初めてのアコム」も自動契約機で済ませたい、というのと同様の気持ち? この場合、中の人などいない。というか、いることなど考えたくないのだ。
この御神籤機の方向性が、現在における「ドラえもん」像としては、恐らく一番的を射ていたのではないかと。原作でののび太とドラえもんの関係はもっと直接的でウエットだったけど、ロボットという「機械」だからこそ、自分の部屋にいても平気、どんな頼み事も出来る、というのが、現在から見た「ドラえもん」の存在意義に思える。…何だか、あらゆる欲望に直結するネット(に繋がったパソコン)を使用するイメージと非常に良く似ている気がする のは、気のせいだろうか。
というような妄想につらつら走らせる、という点では、それなりに刺激的な展覧会だったのかも。
ちなみに、グッズは売れるわ、親子連れは来るわ、ということで、デパートでやる展覧会としては(内容が若干、伴わなくても)理想的な企画だったらしく、会期は10日間ほど延長されていた。
Comics。岩原裕二「いばらの王」1巻。「B級映画」に最も必要なのは、語りの効率化、即ち、いかに無駄なく語るか、である筈。ここまでで1巻も使ってしまうようでは、まだまだ甘い。