空の蒼さを 見つめていると
スニーカー文庫のミステリ・アンソロジー2「殺人鬼の放課後」を購入。
恩田陸、小林泰三、新津きよみ、乙一の4短編中、一番印象的なのは、やはり乙一の「SEVEN ROOMS」。かなり、いたたまれない内容ではあるけど。この話の「姉」は、乙一の世界の割と深い所に存在するキャラクターな気がした。鏡花の、「お母様」みたいな感じで。
先日、浦和へ出張する機会があったので、帰りに美術館に寄ってみる。
ドローネといえば、虹のような輪っかを組み合わせたような絵というイメージで、近代美術の展覧会で何度か観た記憶もあるのだが、それが夫ロバート・ドローネのものだったか、ソニアのだったかは、全然覚えていない。というか、夫婦二人で似たような絵を描いていたことすら、今回、初めて知った。
しかし、若くして亡くなった夫に対し、彼女はその後も、舞台衣装や各種デザインも手掛け、子供を育て、94歳まで活躍したらしい。朝の連続TV小説のヒロインみたいな人生を送った人だ。ロシア革命でウクライナの実家からの仕送りが途絶え、働き始めたとか、歴史の流れに翻弄されつつ、自活していったエピソードにも事欠かない し。
絵は、明晰な意識を感じさせる。テキパキとして、いつも元気な人だった気がする。友人にいると、有り難いタイプ。ただし、このような数色だけ(しかも、黄緑に朱色とか、趣味が 余り良くない)で満足出来たというのは、色彩感覚には鈍感な人だったのでは? 生き方はともかく、その絵は前世紀前半に役割を終えているような。
今日の柑橘類。
グレープフルーツに何かを掛け合わせて作ったものらしい。見掛けは、巨大なグレープフルーツ。勿論、その分、皮は厚い。しかし、味は、グレープフルーツの強い苦味を抑えつつ、爽やかな酸味と甘味はそのまま残した感じで、グレープフルーツより上。上品な美味しさ。これでもう少し安ければ… 280円位/1個。
文庫版「屍鬼」の1,2巻を回収。う〜ん、これを全5冊分並べると迫力有りそう。
一方、先日書いた「プリズナーNO.6」のコレクションBOXの方は、回収に失敗(^^;; 秋葉のソフト屋なら、これくらいのソフトは発売日にはちゃんと確保しておいて欲しい。発売日に入手出来なかったので、割引かポイントが効くような近所の何処かで見掛けた時に買うことにします。急ぐ必要も別に無いし。
いぬいとみこ、上野瞭… 今年は児童文学者の訃報を多く聞くが、海外から届いた、アストリッド・リンドグレーンの訃報の衝撃は、その中でも別格。
小学生の頃、夢中になって読んだ作家は色々いるが、例えばヒュー・ロフティングなら「ドリトル先生」、トーベ・ヤンソンなら「ムーミン」という風に、どの名前も一つのシリーズに付く頭文字でしかなかった。その中で、リンドグレーンだけは、「長くつ下のピッピ」「やかまし村」「カッレ君」といくつもの魅力的な物語の作者として、その名前を意識していた。つまり、私が生まれて初めて意識した、信頼出来るブランド=作者名が、リンドグレーンだったのだ。
追悼の意味で、リンドグレーン原作の映像化作品を観たい気分。ラッセ・ハルストレムの「やかまし村」2作辺りが、適当なのだろうけど、今、もう一度観たいのは、昔、NHKで放送した、外国のTV ドラマ「長くつ下のピッピ」のシリーズ。遠い記憶なのであまり定かではないのだが、原作と違和感の無い、割と良く出来た映像化だったような気がする。
チョラ ホップ チョー ララララ、チョラ ホップ サンサ、チョラ ホップ チョー ララララ、 チョラ ホップ サン。なーがくつしーたのピッピって知ってるかい? すーてきな かーわいい 私のこーとーよー。
という謎の掛け声から始まるOPの歌まで覚えているくらいなので、その歌含めて、ぜひもう一度観てみたいのだ。
しかし、本当に観たいものといえば、かつてのアニメ名作劇場で、企画されながら没になった、宮崎駿による「長くつ下のピッピ」。
この、誰が聞いてもドンピシャリ、なアニメ化が当時の諸事情により実現出来なかったのが、返す返すも残念。実現していれば、恐らく高畑勲の「ハイジ」に匹敵する、国民的名作(海外モノに変な言い方 だが)を、私達は手にしていた筈なのに。
柑橘類系の果物が美味しい季節。
最近では毎日、柑橘類を食べては、甘味と酸味のバランスが一番美味しいのは伊予柑ではないか、などと真剣に考えてみたり。そのうちに、どういう品種から出来たか確認したくなってきたので、本屋へ果物図鑑を探しに行く。
ところが。果物図鑑というものは、全然見当たらない。考えてみれば、図鑑とは、毒か否か、食べられるか否かが最大の関心事なのであって、果物屋に名前入りで置かれているものを 今さら調べたい人など、いないのかも。「ヤマケイポケットガイド」シリーズに「野菜・果物」があるのを唯一見付けたのだけど、これはシリーズ21冊目。取り上げるものが 他に無くなってから作られた感じ。
こうやって見ると、一度も食べたことの無い柑橘類もまだまだ沢山。今年は出来るだけ制覇するのが目標。…もう少し有意義な目標を立てたらどうか。
今日の「幻想美術館」はウォルター・シュピース。バリ島に行かない限り、まず知る筈も無い画家で、私も当然、知らなかった。戦前、バリ島の芸術振興に尽力したドイツ人の画家・音楽家で、ケチャダンスを作り上げたことで、一般には知られているらしい。
作品の実物がほとんど残っていない、ということでバリ島の美術館にも一点以外は、白黒写真での複製しかないらしいのだが、その複製だけでも、非常に魅力的な作風だったの がよく分かる。ルソーをもっと細密に、かつ詩的に構成したような俯瞰の絵。人物と牛には必ず長い影が引いていて、夕方なのか不思議な印象を与える。実物をぜひ見てみたい作品だが…
なお、本人は、当時オランダ領内であったバリに住む敵国ドイツ人として、ジャカルタの収容所に入れられた後、欧州に船で送られる途中、日本軍によって船が撃沈され、帰らぬ人となったのだという。何というか、歴史に対して恨み言を言いたくなるような話だ。
寒い→外に出ない→何もしない→書くことが無い、というのが、寒い週末の真実。
とりあえず、お茶でも。花粉症(予防)に効く、という甜茶にチャレンジ。…甘い。当たり前だけど、ただ甘い。しかも、その薄っぺらい甘さが舌に残って後味悪い。
駄目だ。こんなのを数ヶ月飲むくらいなら、花粉症になった方がマシ。いや、それは言い過ぎかも。でも、少なくとも私が買った物は、普通の人が飲み続けられるレベルとは思えない。こういうのを飲む度に、お茶(中国茶・紅茶含む)の偉大さを痛感。お茶以外の「なんとか茶」が美味しかったことって、ほとんど無いから。
続いて、レピシェのクイック・チャイ。鍋に放り込んで、牛乳を入れればチャイになる優れもの? セイロンチャイを飲んでみたのだけど、こちらも甘すぎか。好みの問題だけど。次回は、インドチャイ辺りを試してみよう。というか、自分で鍋で紅茶を煮出して、何かを加えた方が美味しいミルクティーになる気がしないでも。
毎年、12月になると羊の月、と言っていたけど、この冬は色々あって、ようやく今日、冬目景「羊のうた」6巻を入手。
手持ちの文庫本が無くなっていたので、マイケル・ムアコック「グローリアーナ」、E・E・スミス「銀河パトロール隊」と、創元文庫から補充。「グローリアーナ」は、M.ピークへ献辞がされているということで、かなり力が入った作品だと期待しているのだけど、どうでしょう。
木曜の夕方6時台と、最も空いている筈の時間に行った割には、かなり混んでいた。これ以上だと、絵をまともに見るのは困難。休日の様子は、想像するだけで恐ろしい。 まぁ、入場制限を行うのだろうけど。狭い館内だから、放っといたら、人で埋め尽くされてしまう筈。
例によって「中学校の美術の教科書」的な展覧会。ダリの曲がった時計とか。そこだけ人の列が動かなくて大変でした。
マティスは数が有った割には…な気が。あとはピカソで水増し、な内容。「混んだ状態でも見たい」とまで思わないピカソを、さくっと飛ばしていったら、簡単に見終えてしまい、後に、余り残らず。そういう展覧会なのは分かりきっていることで、好きなルソーと、ボナールらしいボナールが1点ずつ有ったことで、個人的には良しと します。
ところで、出口に置かれていたガチャガチャの「MoMAおみくじ」、略して「もみくじ」って何(笑) と言いつつ、引いてしまう私(^^;; カプセルの中は、汎用の籤らしく、美術とは全然関係ない「花みくじ」 で、文面も「あなたの花は、あざみです」とか。あざみ… 肝臓に良いらしいので最近、飲んでみたりしていますが、そういう意味ではないのか。
フォーチュン・キャンディー入りとのことだったが、中に入っていたのは、Mの文字入りの金太郎飴。一体、どこがフォーチューン? でも、製造元は、株式会社金太郎飴本店。由緒正しい金太郎飴なのかも。…あっ! これが入っているから、「もみくじ」? それにしても、おみくじなんて神社みたい。 「パブロ・ピカソ命」でも敬っている神社だろう、きっと。
帰宅途中、テレパルをぼーっと眺めていて。
うわっ! DVD新作のページに、「プリズナーNo.6 コレクターズボックス」の名前がっ! 本当に?
帰って、東北新社を見てみる。本当だ。1月30日発売、6枚組、29800円。LDは幻と化し、DVD化はされず、出来ない事情でもあるのかと半ば諦めていただけに、嘘みたい 。
半数以上のエピソードは、学生の頃、レンタルビデオ屋の片隅に置かれていたのを借りて、既に見てはいるのだけど、全話通して見るのが長年の夢だった私にとって、今回の発売は、非常に嬉しい限り。嬉しさの余り、同社から、引き続き発売されるらしい「サンダーバード」BOXまで買ってしまいそうな位。
ところで、解説は、今回も、押井守なのかしら?
リンクページ、美術と映画に関するサイトを少し追加。実用的な観点からのもの 。
上野のMoMAはそろそろ、会期終わり間近の混雑で大変な予感。今週中に行くことにしようかと。
で、MoMAで思い出したのだが、熱海のMOAの梅も、来月、観に行かないといけないのだった。
つまり、MOA美術館で、尾形光琳の紅白梅図という有名な作品が、梅の季節だけ毎年公開されるので、今年こそは観ておきたい、ということなのだが、しかし、どうせ2月に熱海まで行くのであれば、伊豆半島まで足を伸ばして、河津桜も見に行きたい、というのは桜好きとしては当然かと。そして、伊豆まで行くのであれば、ついでに温泉にもゆっくり浸かって旅館に一泊くらいはしたい。というのも温泉好きとしては(以下略)
と、すっかり旅行気分で盛り上がっているのだが、実は、2月は、一年で一番出張が多くて忙しい月でもあるのだった。果たして、日帰りではなく行ってくることが出来るのか、今のところ予断を許さず。
NHKの「新日曜美術館」で、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌを取り上げていて、嬉しくなる。
一般には馴染みのない名前かもしれないが、昔、オルセー美術館を一日掛けて見た時に、綺羅星のような印象派の画家達の絵の数々にもまして、最も心に残ったのが、この画家の「貧しき漁夫」という絵だったのだ。
それは、小川の岸に留められたボートの上の若い漁夫が、祈るように佇んでいる様を描いた静謐な絵で、思わずその前で一緒に手を合わせて祈りたくなる作品だった。
シャヴァンヌは、イタリアの昔の宗教画(例えばジォット)に影響を受けたという。なるほど彼の絵(壁画が多いことを今回知った)には、宗教的な崇高さがある。逆に、彼の絵に最も影響を受けた画家が、若いゴーギャン だというのも興味深い。確かに、南洋での作品は、シャヴァンヌの影響下にあるのが一目瞭然だ。
いつか機会があったら、彼の他の作品、特に最後の作品、を是非見たいと思う。…恐らく、その機会は来ないと思うが。
「幻想美術館」の方は、クリムトだった。
世紀末の退廃に拘り過ぎな演出。ウィーンはそういう時代でも、もっと陽気な街だった筈。大体、この陰々滅々なナレーションは何? プロジェクトXの田口トモロヲみたいで、最悪。と思って見ていたら、本人だった(^^;;
あの「…た」ばかり強調する、粘ったような、気持ちの悪い喋り方をする人間を、どうしてNHKがナレーターに採用したのか不思議で仕方ない。あの声を聞かされる度に、苦情の電話を掛けたくなる 。そう思っている人は他にいないのかしら? 私があの番組を嫌いな理由が、何よりもあのナレーションなのだが。今さらNHKには、事態の改善は期待しないが、民放でわざわざ真似 しなくてもなぁ。
本屋。金井美恵子の噂の新刊、「噂の娘」を買う。高橋源一郎の新刊も有ったようだが、夏に買った「日本文学盛衰史」を箱から出してもいないので、パス。他の作家については言うに及ばず。
喜国雅彦「本棚探偵の冒険」を購入してから、著者検印付きの初刷でないことに気付く。古本屋で探すべき?(^^;;
昨日、自分の無知がまた一つ判明したので、「骨董の名人に聞くやきものの見分け方 伊万里」(学研)という入門書を購入してみる。同じ図柄の真贋の品を比較したページが、面白い。骨董を集めるには真贋の目利きが必要、 ということね。
牧野版「オズ」を読んだのを機に、観直すために購入。その内、買おうとは、前から思ってはいたのだけど。
結論。田舎の少女は、おさげが良い。…じゃなくて。改めて観ても、本当に名作。古典的、というべき完成度の高さ。ボームの原作以上に、丁寧に伏線が敷かれた脚本。豪華絢爛なテクニカラー。そしてジュディ・ガーランドの永遠の歌声。今見ても、文句なく楽しい。「アリス」は原作を超える映画は存在しないのに対し(人によってはディズニーなんでしょうが、私は認めません)、「オズ」は原作よりも映画の方がずっと良い。そう思うよね、トト?
ところで、呪文のようにドロシーが繰り返し唱える“There is no place like home”(やっぱりおうちが一番だわ)こそが、1939年に製作されたこの映画のテーマなわけだが、『大不況の社会で、弱者として不幸な目に遭いつつも、homeそしてfamilyの価値を最終的に再確認して終わる』という当時のメロドラマの構造は、戦後、徐々に崩壊していく。
主人公を守ってくれる筈の、あるいは何をおいても守るべき筈のfamilyこそが、いつしか、主人公を抑圧するものとして存在するようになっていく。例えばヒッチコックは 、夫婦をめぐるメロドラマ、つまりファミリー・ドラマを撮り続けた監督だったが、「サイコ」のように、崩壊への裂け目を既に幾つも示している。
時が移って、90年代のヒッチコックというべきデヴィッド・リンチが、「オズの魔法使い」を「ワイルド・アット・ハート」としてリメイクした時、悪い魔女が母親であったのは、だから当然の話で、主人公たちは「家」から逃れるべく旅を続け、ラストでも「家」に戻ってくることはなく、「道」に立ったままだ。(それを、抜け抜けとハッピーエンドとして演出するところがリンチらしく、感動的でもあったのだが)
牧野修「だからドロシー帰っておいで」は、本家よりは恐らく「ワイルド・アット・ハート」と共通点が多い。というか、そうでなければ、今時「オズ」をやってみせる意味もないのだが(「AI」は意味のない例)、リンチに比べると、突き抜けていない出来に留まっているの は残念。
寒くなって、途絶えている美術館巡り。定番のところから、少しずつ復活。
地味な展示が続いたため、暫く足が遠のいていた。年会費の元を取るべく、久々に入館。大して期待はしていなかったのだけど。
当館所蔵の品々から、より選った展覧会。さすが、サントリーだけあって器の収集は充実。今回の展示でも、奈良三彩から始まって、伊万里や仁清の優品を並べていて、 知識のない私でも、見るだけで楽しめた。
特に驚いたのは、鍋島の数々。伊万里を少しでも知っている人なら、何を今さら、なのだろうけど、私は、この鍋島という種類は今まで全然知りませんでした。鍋島、…化け猫? というくらいで。 実は、鍋島藩は、有田から上手い職人を集め、上等な食器(皿)を、主に大名家への贈答用として、金に糸目も付けずに、藩を挙げて作らせていたとのことで、鍋島といえば、その特別に上等な磁器を差すのだという。
このページで「鍋島」と題されているのが、そのごく一部なのだが、実物を見て、驚嘆。こんなにも素晴らしい磁器の伝統が、日本にもあった のを知らなかったなんて、恥ずかしいことしきり。現代でも通用するモダンなデザイン、上品な色彩感覚、高度な技術、しかも、あくまでも工芸品としての存在、 すなわち極めて贅沢だとはいえ、実用的な器であること。
鍋島は茶器を作らなかったので、茶の湯中心の骨董からは抜け落ちてしまうのが、今まで知らなかった原因の一つ 。そうか、日本のやきものは侘び寂びだけではないんだ。
アッパーズ今号に、押井守+神崎将臣の短編「殺人者たち」が載っていることを思い出し、購入。…そのまま忘れておけば良かったと思う。
一言で言えば、牧野流「オズの魔法使い」。とある事件をきっかけに「別世界」に放り込まれた、ある主婦の「冒険の旅」の物語、などと要約すると、もっともらしいが、実は二重三重に邪悪、なのが、牧野流たる所以。
前から、牧野修はクレバーな作家、というイメージで、今まで読んだ作品では、その技巧が却って、物語への没入を妨げる、という印象があったのだけど、この作品では、非常に見事に物語を読ませるようになっている。筆力の高さ が存分に味わえる。
が、あのラスト… 悪意をぶつけることが出来ればそれで良いのか。安易な落とし方に思えて、個人的には疑問。現代において、ドロシーが帰りたがっていたhomeこそが、抑圧の元凶になっている、というのは出発点に過ぎないのに。こういう 『現実世界に戻らない』ラストを平気で書ける点で、牧野は結局、ファンタジーの作家ではないのだと思う。その辺が、ジョナサン・キャロルの「月の骨」と一見似ているようで、全然違う。
だから、牧野修の読者としては傑作な気もするが、ファンタジーとしては中途半端、というか甘っちょろい感じかも。
途中、視覚障害者用の誘導ブロックを「黄色い煉瓦の道」として登場させたのには、やられた、と思った。そう、The Emerald Cityへの道は、私たちの身の回りに、いつも有る。ただ、気が付かないだけで。
昨日の「波」の話とは少し違うのだが、毎月1,2人だけとはいえ、とあるページ経由で来られる人がいる。
WestRiverさんが大昔、月極掲示板という形で、一人の漫画家について語るBBSを開かれていた時の過去ログ、そこから、数少ない情報を求めて なのか、その辺は不明だが、時々、人が現れるのだ。ちなみに、私が参加したのは、外薗昌也、安永航一郎、あさりよしとおの 3人なのだが、何故か、後2人からだけなのが、個人的には寂しい。
ちなみに、日記を含め、彼らについて書いたことは特に無いので、失望してお帰りになる、のは間違いないが、毎月の話でもあり、私としても、やや申し訳ない気もしないではない。
とはいえ、私にどうしろというのだ、とも言いたくなる。安永作品について、一体、何を書けと? 作品中のスネ毛の長さの変遷でも調べて書けとでも?(逆ギレ気味)。 もっとも、充実したファンページが有ったら、自分でも見に行くと思うので、気持ちは分からないでも無い。だから、そういうページを作ってくださいな、来られる方々。
そういえば、「安永作品での中華料理店チェーンの名前は何故、猿人殺法か」は未だに不明。理由をご存知の方はぜひ教えて下さい。
「クラムボンはわらったよ。」「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
宮沢賢治の「やまなし」は、「クラムボン」という言葉で、よく知られている童話。川底にいる二匹の子蟹が、その「天井」を見上げて会話をする、というだけの話だが、静かな川底の世界でも、恐ろしいことも美しいことも、その「天井」を通して見ることがあるという、その気になれば、色々深読みが出来そうな作品でもある。
私が今書いているこの場所も、小川の底というか、世間からは一つ隔てられたような、訪れる人も稀なサイトだが、「天井」を見上げると、世間の動向が間接的に伝わってくることもないわけではない。この場合の「天井」とは、どうやって来たか、つまりはアクセス解析の話である。
例えば、先月、(本人も既に忘れ去っていた)あるゲームを題材にした某SSを読みに来る人が突如、発生し、そのゲームが、携帯ゲーム機に移植されていたことを知る、とか。もっとも、来て頂いた人からのリアクションは全く無かったので、誰の期待にも添えなかった ようだが…
まぁ、川底なので、大した出来事は起きないのだが。そうした波紋はそれなりに面白いので、機会があったら、一度紹介してみようかとも思っている。
体が堅いので、サウナに行ってみたり。あと、宇宙からの指示に従い、甜茶を探してみたりと。
こんな日記でも、もはや6年目。思い切って、前世紀分(^^;;のリンクを整理しました。今度はまた、えらく寂しくなった気もしますが。
今日の「幻想美術館」は、エドヴァルド・ムンク。
ムンクといえば、「叫び」。つまり、世紀末的絵画のイメージだが、中年になって、酒に溺れ、精神病院に入院するまで至った彼は、しかし回復し、「太陽」という、生命への賛歌に満ちた壁画を製作、更には70歳になるまで、穏やかに、絵を描き続けたのだという。
それらは、芸術としては、不安に満ちた、前半生の作品を越えなかったようだが、人生としては、後半の方が遥かに良い生き方だった。「この世界に、生きたいと思う」との言葉を遺してこの世を去った という、ムンクの人生は意外だが、聞いてほっとさせられるものだった。
買い物に出掛ける。結局、お茶を多少、買っただけ。
ところで、未だに、DVDの映画ソフトを買うことが出来ないでいる。他の人は、どういう作品なら買ってまで観たい、と思うのだろう。私の場合、未見の作品を買う勇気がない、という時点で間違っているのか。有ったら即、買う作品がないこともないのだが。
例えば。綺麗な映像、「非情城市」「天国の日々」「誰かに見られてる」。お気楽、「プリンセス・ブライド・ストーリー」。魅了、「ラ・ピラート」。興奮、「ロンゲスト・ヤード」 等。何で出ないのかな。(「誰かに…」は出ているかも)
筆者のことは、新聞の土曜版に、全国温泉巡りの記事を載せている人という認識で、それで飯が食えるなら(某大学の「観光学部」教授だ)気楽なものだ、と永らく思っていたが、温泉に関しては「憂国の士」であったことが分かり、やや見直した。
現在の温泉ブームとは裏腹に、実は本物の「温泉」が危機に瀕している、というのが筆者の主張。湧き出てきた温泉を浴槽へ引っ張って来るのが、普通思い浮かべる「温泉」だが、実際に自然に湧出しているのはごく一部で、ポンプで吸い出しているのが大半。しかも、中には出てきた蒸気に水道水を当てて、「温泉」にしているところさえ有る 。
しかし、筆者が最も問題視するのは、多くの施設で、循環湯が使われている事実。特に、全国で続々と作られた公共温泉に顕著で、多くの施設で、週に二、三回しかお湯を換えていない(結果、レジオネラ菌で死者を出した所まで有る)というショッキングな現状を示す。温泉=温かい水、としか理解しない、箱もの行政が、こうして、温泉文化を殺しつつあると いう。
こうしたことは、大衆化という過程では何にでも見られることかもしれない。しかし、温泉くらい、本物に浸かりたいではないか。そのために、利用者が温泉の質(源泉をそのまま使用しているか)に関心を持つべきだという筆者の主張は頷ける。もっと(本物の)温泉を!
日差しが暖かいので、昼休み、近所の神社まで足を伸ばす。お御籤を引くと、大吉だった。…もしかしたら、初めて?
正月映画は、松の内に見ないと。というか、そろそろ打ち切りな予感。私より前の7列(240席)に10人しか座っていなかった位だし。
観るのは一応、2回目。やはり大画面で(頭空っぽにして)観るべき、バカ映画だった。深刻にならないラテンなノリ。
なるほど、劇中に出てくる子供番組のテーマ曲は、ティム・バートン作品でのダニー・エルフマンそのもの。これを聴いただけで、個人的にはOK。主役の姉弟の内、 姉の方が、少しでも「萌え」なキャラクターだと、更に良かったのだが… 世の中そう上手くはいかないか。まぁ、弱虫の弟の成長が本筋の物語なので、姉のほうが目立ってはいけないとは思うが。
実は、マリオンで観たのは初めてなのだけど、頭の後ろまでシートが有るのは素晴らしい。というか、全ての映画館がそう有るべきでは?
渋谷のシネタワーみたいに、段差も無く、前の席の頭が必ず邪魔になる劇場は、設計者の良心を疑う。死ねたわー、と言いたくなる。そこへいくと、ここはちゃんと前席とスクリーンとの位置関係が考慮されていて、満員でも「マリオンの壁」がよく見える 筈。もっとも、やけに横長の席配置なので、左右の端に座ると観るのは辛そうだが…
「指輪物語」は上映時間が長いらしいので、ここで観ることにしよう。
目医者へ。幸い、傷ではなかったようだが、両目共に違う種類の結膜炎ということで、4種類の目薬を与えられる。しかも1日各4回点眼。
「テレパル」に、あの「歌って踊れる」ホラー漫画家、山崎トオルのインタビュー記事が半ページも載っていて、驚く。昨年6月に芸能界デビューし、今では、テレ東深夜の番組で、「トオルの部屋」というコーナーまで持っているらしい。…今度、見てみようか(^^;; しかし、本人はともかく、その漫画は一回も見たことが無いのだけど。一体、どこで連載を?
年末から読んでいたのだけど、毎回数ページしか読むのに耐えられず、日数を要する。ほとんど義務感だけで、読み通してはみたものの…
う〜ん、どうしてこんなにも消化の悪い作品なんだろう。4人の娘たちの共同生活の、例えば庭の草をも食べる日々であるといった細部においては、さすが庭の作家らしい魅力を見せてくれるのだけど、全体として は、余りにも頭で書いたような作品。
作者が示したかったであろう「感動」が、物語からは自発的に生まれてこない。妙に回顧形式の語り口が、冷めさせてしまうのもマイナス。関係者だけが集まってくる、という前近代的な人物配置も、「ご都合主義」で片付けられても仕方ないと思う。
言っていることは間違っていないかもしれないが、小説としては、駄目。厳しい評価だけど、「裏庭」「西の魔女が死んだ」と既読作品が非常に素晴らしく、期待していた分、ショックも大きいというか。
でも、雷で打たれたかの如く、感銘を受ける人もいるんだろうな、という気はする。
目を労わる週間。乾燥のせいか、眼に傷が付いているようなので、帰宅してからはコンタクトを外すことに。=何も出来ません
帰宅時のオフィス街の道にバンを止め、餃子を売っている夫婦があった。不思議なのは、拡声器から聞こえてくる「餃子〜、餃子」という言葉の調子。「たけや〜、さおだけ〜」という竿竹売りの調子とイントネーションがそっくりなのだ。だけど、売っているのは餃子 。
何とか売りの調子は、皆似るものなのか、それとも、竿竹屋(これも不思議な商売だ)が上手くいかないので餃子売りに転職したのか、その奇妙な調子を耳にしながら、 真相が気になってしょうがなかった。
ちなみに、買っている人は見掛けなかった。そうだよな、あの道端で買っても、家まで遠い人ばかりじゃん。
仕事始め。さくっと終わる予定が、いきなり急ぎの仕事が入って、そうもいかなくなる。十日間休みきっていただけに、反動がきつい。
「The Sneaker」2月号を購入していなかったことに気付き、帰宅途上で読む。もっとも、いつものように乙一、押井守、火浦功だけ。「ガルディーン」は今回、3Pのみ。もう驚かない。本文以上にタイトル下の、編集の文章が笑える。というか、泣ける。
『火浦先生のお宅で原稿待ちする間に、奥さんから鍋のレシピを教わりました。チャーハンと焼きそばと餃子のおいしい作り方も知りました。辛いこともあるけど、私(担当編集者)元気です。』
…これからも頑張って下さい。次に何のレシピを教わるのかは知りませんが。
それから、あの暗黒系な、乙一「GOTH」は、連作だったようで、第二話が掲載されている。最終的にどういう話になっていくのか興味津々。ちなみに次号は羽住都イラストの読み切り、ということで、久々に「切なさ」系の短編だと思われます。
そして、私は、何処か外国の風景のような場所、あえて言えば英国の田舎のようなところ、に来ていた。
旅人として滞在していると思しき私に対し、現地の?男が、場所の案内をしてくれる。
分かったのは、どうやら、ここは「死後の世界」に当たる世界だということだった。とはいえ、生前の人そのものが来るのではなく、影のようなものが来るところなのだという。しかも、全ての人からその「影」が剥がされる(と言っていた)わけではなく、善き人の場合だけ、らしい。つまり、いわば、「影」こそが、本当の存在で、人の一生とは、それを準備するためだけの繭のようなものに過ぎないのだ。人生の結果、「影」が取り出される、のではなく、良き形としての「影」を取り出すために、人々に一生を送らせているのが真実、というの だ。
それを聞いて、私はすっかり感心した。逆だったのか… しかし、男の例示する、「影」が抽出された過去の人物が、キリスト教的聖人に偏っているのには疑問を感じ、他の宗教の聖人も、善き人に値するのではと、男を詰問した。男は返答に困って、言い返すことが出来ない。それを見て、私は、本当のことはまだ隠されているのではないか、そう疑いを抱いた…
という夢を見た。
この時期、正月映画を観るのが正しい休みの使い方かと。
平成ゴジラのどれも(私の見た限りでは)が始まって30分もすると、「ゴジラ映画を作ることの不可能性」に関する哲学的思考に、観る人を誘ってしまうのに対して、少なくとも最後まで観られる映画、ではある。
勿論、話に突っ込み出せば、キリが無いが(最大の問題点は、「怨霊たるゴジラ」を物理兵器で退治しようとするところだ)。正月映画としては十分、楽しめた。これからは、正月映画なら、 少なくともこれくらい人が死ななきゃ、と言われるようになるのかも。って何か違うような。
私がかつて、退屈なゴジラを何本も観ては、ゴジラのあるべき姿を考察した結果は「ゴジラは物理的にはこの世界には存在しない」という、言ってみれば至極当たり前の結論だった。…それでも描こうとすると、平行世界の混入とか、少年の幻想とか、何がしかメタフィジカルな装置を必要とするわけで、それって、正月映画にはならないよな、やっぱり。
一回で良いので、そういう「存在しないゴジラ」を待ち望む都市の物語、というのを観てみたい気もするのだけど。「天使のたまご」じゃあるまいし、と言われるのがオチ?
ちなみに、私は、金子監督は「足に地の付かない」コメディの監督として好きなのであって、最近の怪獣映画シフト振りは今ひとつ。「どっちにするの。」や「香港パラダイス」みたいな軽妙かつ荒唐無稽なコメディをもっと量産して欲しい。
正月が終わってから、年賀状に取り掛かる私。一枚一枚違う図柄にしてみたりする。…そんなことをする暇があるなら、もっと早く出せば良いのに。
ところで、年賀状というのは、何事も無かった人しか送ってこない気がする。転居・転勤・出産等の連絡を兼ねて寄越してくる人はいるが、それらの出来事も日常の一環として処理されているから、暢気に賀状など送ってくるわけで、それどころじゃない位、テンパっている人は勿論、それどころではない。というわけで、年賀状を見る限り、知人には何も起こっていない、としか思えないが、それ以外のところでは色々波乱万丈な出来事が起こったりしているのだろう、多分。
来年は私も、年賀状なんか出していられない人生を目指そう。…今から、来年、年賀状を出さなくても済む言い訳を探しているわけでは決してないです。
結局、本当に何もしないまま、正月を終えてしまった。
ああ、こんなことで良いのだろうか。よくない(反語) 実は年賀状の返事すら、まだ書いていないのだ。ほんの十通くらいなのに。
箱根駅伝を見ていたら、富士山がよく見えたので、昼過ぎ、西の丘へ富士山を見に上る。
青空の下、真白い富士山を眺めるのは久し振り。私は初詣をする習慣が無いのだけど、そういえば、富士を見る、のはそれに近いものである気はする。つまり、ここからの富士の眺めは、私にとっての宗教的な風景、と言って良い ような。近くで仰ぎ見る絶対的な神体ではなく、手は届かないけれど確かにそこにある、聖なるものの具現化。
BS日テレに「幻想美術館」という番組がある。若干、演出過剰だが、毎回、一人の画家を選び、その作品と、画家の生活した場所を丁寧に辿る、民放では珍しい贅沢な教養番組だ。
年末の放送は、戦前、奥インドで暮らしたレーリッヒという画家だった。 ヒマラヤの山々を描いたそれらの作品は、非常に気高い青が印象的で、まるで日本画のように見えた。実は、当時からレーリッヒブルーと呼ばれた有名な青らしい。日本画に見えたのも当然で、現地の岩を砕いた岩絵の具なのだった。
その青を使って、彼が描いた山々は、シャンバラを隠している風景だという。シャンバラ、あるいはシャングリ・ラ。ヒマラヤの高峻な峰の奥にあるとされる、永遠の楽園。ネパール仏教が説く、輪廻を解脱した者のみが行ける場所。映画「失はれた地平線」で描かれた別世界。勿論、山を登っても誰も辿り着けない「聖地」。
私が富士を通して見ているのは、恐らくそういうものなのだと思う。
今日は、その「幻想美術館」のスペシャルがあった。画家は北斎。そう、「冨嶽三十六景」を描いた、あの北斎。九十年の生涯の中で、三万五千点にも渡って、ありとあらゆるものを描き続けた「画狂老人」にとって、富士とはどんな意味を持っていたのか。そんなことを考えながら二時間、番組を見ていた。
北斎はその最後の歳に、富士の頂から天に向かって駆け上がる龍の絵を描いていた。その龍は北斎かもしれない、と思った。
二日目といえば、箱根駅伝。見る目的は再三書いている通り。しかし、今年は、早すぎ。眼を覚ました時には既にリタイアしていて、がっかり。
正月といえばカードゲーム、な気がしたので、WINDOWSに付属しているゲームを初めて、一通りやってみる。気が付くと、フリーセル猿と化している私。…虚しい。
飛び込んできた「十二国記」アニメ化のニュース。朗報なのか、ぼーっとした正月頭にはよく分からない。BS2なら、そう酷い作品にはならない、とは思うけど。
昨日の話を頭の中で引き摺っていて、「私」が奥さんと結婚すると、職の世話、という主題にも合うし、と思う。何か「めぞん一刻」みたいな気もするが。そういえば、教生中の五代君が、「こころ」を八神に教える、なんてというエピソードも有ったっけ。……。新年早々、遠い過去を振り返るのは止そう。
とはいうもの、ニューイヤーコンサートを見たこと、くらいしか印象に残っていない…