空の蒼さを 見つめていると


2004年4月

4/29

 ここ数日に見たもの。

 

Art 特別展 南宋絵画  根津美術館 2004.4.17〜2004.5.16

 前期(5/2まで)。思ったほど混んでなかった。いつも通り、という感じ。ただし、鴨・鶉・鳩の鳥コーナー?だけは渋滞。「桃鳩図」の前で、人がちっとも動かなくなるため。よく見ると、不思議な絵だ(変な絵とも言う)。 重心が後ろ側に偏り過ぎているところとか。でも、全体としては均整の美を感じるのがまた不思議。

 しかし、それにも増して今回のインパクト大賞は牧谿の「老子図」。こんなの有りか、という位、たるみきった線。しかも描かれているのは、鼻毛ボーボーの爺さんのアップ。それが、全く隙のない傑作「漁村夕照図」の横に並んでいる様は有る意味、凄いとしか。あんた天才だよ、と言いたくなる。赤塚不二夫とかそういう感じの。

 

Art 飛ぶ夢を見た 野口里佳  原美術館 2004.4.24〜2004.7.25

 原美術館に行くのは初めて。歩いていくと微妙に遠かった。今日みたいに暑い日は特に。

 行ったのは、ふと目にした各シリーズのタイトルの良さに惹かれて。「星の色」「潜る人」「水をつかむ」「ロケットの丘」… 写真を評価する言葉というのは、私にはまだ無いのだけど、この人の展覧会は、今後も見に行こうと思った。

 展示作品の中で一番鮮烈だったのは、展覧会の標題でもある「飛ぶ夢を見た」の空の青さ(と時間の止め方)。まぁ、こんな↑タイトルの日記を書いている者としては、 当然でしょうけど。

 種子島の宇宙センターの風景を撮った「ロケットの丘」のシリーズは、種子島の宇宙センターに対して普通思い描くイメージとも、ジュブナイル的な「ロケットの丘」という言葉に対して思い描くイメージともまた違った 、日常とも非日常とも言えない「風景」。見た後に、不思議な感触が残った。

 「ロケット好きな」SF系な人にこそ、どう感じるのか、聞いてみたい気がする。

 

 ちなみに、原美術館のサイト↑は辿り着くまで時間が掛かる上に情報量が少ないので、フジTVの「テレビ美術館」の特集ページを紹介。
 http://www.fujitv.co.jp/event/art-net/abe/ (「飛ぶ夢を見た」2枚や、「ロケットの丘」シリーズの写真が掲載されてい る)

 

Art デイック・ブルーナ展  そごう美術館 2004.4.3〜2004.5.5

 「ブラックベア」シリーズというペーパーバックの表紙(どれも皆、ブルーナの装幀!)が、ずらりと並べられた様は圧巻。ペーパーバック系の本好きなら必見。あの簡単なようで考え抜かれた、ミッフィーらの絵本の画面は、装幀画家としてのそれらの膨大な実験が大きく寄与していることがよく分かる。

 昼間は「うさこ」好きなお子様&お母さんで大混雑していると思うので、大人のミステリという雰囲気の「ブラックベア」の世界(赤川次郎なみにシムノンの作品数があったのが印象的だった)をゆっくり楽しむのなら、夕方以降がお薦めかも。

 ブルーナが影響を受けたアーティストを紹介するコーナーでは、マティスやモンドリアン、レジェが置かれていた。マティスの切り絵への傾倒は前から聞いていたし、モンドリアンというのも地元ということで(?)納得だが、レジェというのはやや意外。人の体をシンプルな面と色で構成するところが 、影響を受けた辺り?

 こういう(ドラえもん展とか)キャラクター系の展覧会では、グッズ売り場はかなり危険。今回は特に、そのセンスの良さに、買い占めたくなる。買わなかったけど。

 

 ところで、私が幼い頃、「うさこ」を一冊も買い与えてくれなかった、というのは、実は今でも両親に対し愚痴を言いたいことの一つ。いや、膨大なシリーズを揃えて欲しかったというわけではなくて、せめて最初に一冊位は買ってきてくれても良かったのではないかと。お陰で、その存在自体、私は (今さら絵本を読めない位に)「大きくなる」まで知らなかったのだ。

 もっとも、(親が買ってくれた絵本の中で)一番のお気に入りが「しろいうさぎとくろいうさぎ」〔Amazon〕だった幼い頃の私に、「うさこ」のシンプルな画面の 斬新さは到底理解出来ず、手抜きとしか思えなかったかも、という気はしないでもない。ただし、そういう絵本を幼い頃に与えられなかったからこそ、そうなっていった、という 面もあるわけで…

 Comics。こうの史代「ぴっぴら帳・完結編」双葉社。わ、分厚い(^^;; これだけの厚さで読める、と思っただけで幸せ。特に1枚絵が。

 

4/26

 「南宋絵画」展について、という以前に、南宋画一般の基礎知識すら無い初心者としては、今月の「芸術新潮」の特集は非常にタイムリーで役に立った。いや、展覧会に連動した特集なのだから、タイムリーなのは当たり前といえば当たり前なのだけど。

 まずは線それ自体をじっくり見るところから始めれば良いのか。とはいえ、そんな余裕が果たしてあるのか疑問。酷く混んでいそうだし(この雑誌もそれに一役買っているわけで)。

 他の記事では「レイモンド・ローウィ」展(たばこと塩の博物館)は見に行くと面白そう、と思った。

 煙草「Peace」のデザイナーというのは、私にとっては全くどうでも良いことなのだけど、「口紅から機関車まで」と言われるだけの仕事の幅の広さは凄い。シェル石油のロゴはともかく、不二家のロゴとか、ミツワ石鹸のパッケージとか、え、そんなのも?と驚くようなものも多数。

 

 Book。押井守「イノセンス創作ノート」(徳間書店)。これだけストレートに手の内を明かしてしまって良いのだろうか、と不安になる位、「正しい」演出論。「ルパン3世」のように、このノートだけで終わっていたら「イノセンス」は幻の大傑作と呼ばれていたかも、とやや人の悪い想像に耽ってしまったほど。

 例えば、「チャイニーズゴシック」の世界で「物語もキャラクターも垂直軸に沿って配置されて動き出します」といった文章に、かつて押井守世界の垂直軸に関する文章を書いた私としては、それはワクワクしていたのだけど、…どこ行っちゃったんでしょ、垂直軸。まさか、ゴシック教会のような本社をお上りさんの如く、上から眺めただけでお終い?

 ともあれ、押井守の演出に関心のある人は必読。ただし、ベースとなる部分は公式サイト内で読めるので(いつまでサイトが有るかは知らないが)、それだけで充分かも。

 そういえば、確認したいこともあるので、絵コンテ集〔Amazon〕は購入しておくつもり。

 

4/25

 結局、1週間空いてしまったけど、マクベスの話の続き。

 

Drama シェイクスピア 「マクベス  新潮文庫

 戦争、予言、暗殺、暗殺、幽霊、予言、抹殺、反攻、錯乱、戦争、死亡、万歳。この間、わずか113ページ。展開、早っ。

 必要最低限、というより、本来必要な部分まで省略している感じを受けるが、それもその筈、今残っている「マクベス」はジェームス一世の天覧用台本をベースにした「抜粋版」らしい。お陰でテンポは良いものの、登場人物の描き込みが不足していて、色々と分からないことだらけ。

 本人が殺されるバンクォーも妻子を見殺しにしたマクダフもどうしてそんなに不用心なのか(マクダフはひょっとしてわざと妻子を残したのか!)。マクベス夫人の変貌にも、何かきっかけがありそうなものではないか。逃げ出したドネルベインは最後まで戻ってこないが、どうなってしまったのか。マルコムが王位に着くまでしか描かれないが、予言通り、バンクォーの息子フリーアンスが王位に着くことが暗示されて終わるのが、この場合の正しい終わり方というものではないのか、等々。

 何よりも、マクベスは元々、王位を(簒奪しても)得るつもりだったのか、それとも予言を聞いて初めて野心が顕在化したのか。一番肝心なところが書かれていない。王の暗殺を決意するまでの必然性が見えないので、本当の意味で「悲劇」になっていない、というのが私の印象。

 勿論、この作品のユニークさはその辺にこそ有るのだろうけど。マクベスという幻想に生きる男の曖昧さ(と対照的に、マクベス夫人という現実に生きる女の明快さ)。

 バーナムの森が攻めてこない限りとか、女が産み落とした者には倒されない、といった予言が逆転する様は、「指輪物語」のようで(逆だ、逆)、明快な面白さなのだけど。

 「マクベス」を傑作たらしめているのは、この戯曲のキーワード「時」に関する名台詞の数々。中でも後半の独白が圧倒的に格好良いが(明日が来、明日が去り、そしてまた明日が…)、日常生活で引用するなら、次の台詞かも。「どうともなれ、どんな大あらしの日でも、時間は経つ」。文字通り台風の日とか、 とてつもなく嫌なことが待っている一日の始まりとかに使うと良さそう。

 

 というように、話を思い出したので、ようやくヴェルディ版の「マクベス」を見ることが可能になったのが今から2週間前。その続きはまた今度。

 

 NHKの新日曜美術館。来週5月2日分の予告は、根津美術館の「南宋絵画」展だった(美術館名は出なかったけど)。

 うわ、やばっ。放送したら、人がどっと押し寄せるな。前期は2日まで、ということは、当日は殺到すること必至。前期分は29日か1日に行っておかないと駄目か。有名な徽宗皇帝の「桃鳩図」が29日から5日までの限定公開なので、どのみち混んでいるとは思うけど。

 問題は後期分。いつ行くのが賢明なんだろう。とりあえず、ほとぼりを冷ますべく、GW中は避けた方が良さそうな予感。

 

4/24

  「イノセンス」3,4回目。公開も終了間近なので、1枚残っていた前売りを消化。

 

 前にも書いたように「評価」より「鑑賞」の方が遙かに価値があると思うけど、これだけ見たら一言位書いても罰は当たらんだろう、ということで。

Cinema 押井守 イノセンス 日比谷映画

 この作品特有の居心地の悪さは、主に「語り方」に関する二つの要素のギャップから来ている。すなわち、「脚本」としての「語り方」の出来の悪さと、「演出」としての「語り方」の秀逸さ。後者の、舌を巻くほどの「無駄の無さ」は、2回観ると良く分かるのだが、最初に観る時は、前者を意識しつつ、(無意識の内に)後者を体験させられるので、途中の道順がよく分からなかったにも関わらず、迷路を出口まで駆け足させられたような妙な感覚が残ることになる。

 前者、つまり「脚本」のどこが酷いか。端的に言えば、ヤクザ事務所のシーンだと思う。

 ガイノイドによる殺人をどうして公安9課が捜査しなくてはいけないのか。当初の理由「テロの可能性」が消えた時点で、恐らく突き詰めれば、元々破綻している設定を糊塗するために、というと語弊が悪いが、不自然さに対しより大きな嘘を吐いて納得させる目的で登場したと思われるのが、このヤクザ事務所のシーン(とコンビニのシーン)。

 演出としては、眠気を覚ます「娯楽性」と、物語のステージを一段進ませる「効用」も兼ね備えた便利なシーンであり、いわばエンターテインメント監督としての勘から置かれたのだろうが、脚本としては、躓きの石でしかない。

 正当防衛だろうが、公安だからだろうが、あれだけ一掃して置いて説教一つでお終い、と「この世界では人の命は何よりも安い」ことを見せてしまえば、当初の事件自体、もはやどうでも良くなってしまう。たかが7,8人殺されただけでしょ、という感じだ(まぁ、バトー的には実際、そうだったのかもしれないが)。

 出来の良し悪し以前に、(ハリウッドでなくても)普通なら書き直しを命じられて当然の脚本。ただし、この作品の場合、この脚本と演出が、一枚板の両面というか、切り離せないようにも見えるのが、悩ましいところ。そんなことは無い、と私は思うけど…

 2回目からは、脚本の不具合は脳内で補完されるので、後者の上手さが純粋に楽しめるのだが、しかし、全ての人が2回観るわけではないし。

 

 ところで、日比谷映画の画面が暗いのには参った。シネフロントでもう一度観た方がマシだった(2館限定のチケットだった)。やはり、最後にアイマックスで観るべき?

 ちなみに、「イノセンス」のカンヌ映画祭のコンペ部門ノミネートについては、特に感想はなし。「紅い眼鏡」完成当時、関係者がカンヌへの出品も検討中、とか言っていた無謀さと比べれば、驚くようなことでは全然無いです。

 

 ティム・バートン「ビッグ・フィッシュ」の予告編で、劇場前売りにバートン自身のイラストのポストカードが3枚付くというので、日比谷スカラ座で購入して帰る。元々、観る予定だったし。 実物のカードは良い感じだった。(絵柄は「公式サイト」内のNEWSで見ることが可能 )

 (公開する劇場としては、スカラ座は座席予約が要るし、渋東シネタワーの方が会社帰りには便利だけど、あそこは館内が平べったくて、混むと画面が見えないから嫌 なのだ)

 Book。「イノセンス 押井守の世界 PERSONA増補改訂版」。「攻殻機動隊」公開時のは有るので、差分だけ立ち読み。「BLOOD THE LAST VAMPIRE」についての辛辣な評価を目にしたのは初めてかも。

 要旨としては、試写で観て、脚本が駄目だ、と思ったのこと。いや、全くその通りだと私も思うんですが。ただし、それを「イノセンス」の「脚本家」が言うかぁ?みたいな気も。自分の面が曲がっているのに鏡を責めてなんになる…

 

4/22

 あれから、かなり悩んだのですが、結局のところ、今年の角館行きは取り止め。

 全体的に天気が今一つなのと、垂れ桜が満開(今日)から少し経ち過ぎるのと、予約出来る「こまち」は早くても12時半以降の到着になることと、実は仕事の方も来週は休んでる場合ではないでしょ、という 状況等を総合的に勘案した結果、無理して今年行かなくも良いかなぁ、ということで。一番最後の理由で判断したわけではないですが。

 大体、角館は「こまち」で行けば、幾つになっても見に行ける桜。それより、GW明け位にでも休みを取って、「絵画芸術」を平日の午前中に見に行く方が今年は賢明な気もするし。

 そんなわけで、旅費の3万円もとりあえず浮いたし、どうしようか考えていた「みんなのうた」12巻セットでも購入してしまおうかと。さすがに値段も値段だ から、他の人の感想を聞いてからにしたい、とは思っているのだけど。まだ買った人はいないのだろうか(予約した人も、届くのはこれから?)

 

 Book。押井守「TVをつけたらやっていた」(徳間書店)。(主にケーブルTVで)部分的に見た映画の印象をだらだらと語ったもの。

 大地アニメの(というか、「素浪人 花山大吉」の)サブタイトルみたいな題名で、今回の「イノセンス」バブルで出版された中では、最も楽しい一冊。

 「押井守が好きな映画ジャンル」は、戦車映画>潜水艦映画=爆撃映画=ヘリコプター映画>聖書映画>軍艦映画=鉄砲映画の順らしい。同じく、これがあれば5分は見るという要素。SF濃度>銃器>犬>(非日常的な)女優(例:佐伯日菜子)。または、甲冑、集団戦闘、濃いオバさん、オカッパの女性。

  私の場合、どうなるかなぁ… あんまり映画ジャンルに対する拘りは無いのだけど。小道具が効果的に使われている映画なら総じて、高評価。想いを言葉ではなく何かに託して渡す、といったシーンに弱いので。「これさえ出てくればとりあえず許す」要素としては 、……空中浮揚とか?

 

4/21

 続きは次回、とはいったものの、今週は他にやることがあったりして、その「続き」をまとめる時間的余裕がなかなか出てきません。

 「他のこと」の一つとして、来週の初めに角館の桜を見に行こうかと考え中で、行く手段をここ数日検討している、ということもある。その時点での開花状況はほぼ 大丈夫だ と思うけど、ネックなのはやはり費用。この前の薄墨桜は往復2万円(帰りは普通を使用)だったが、角館までは実質「こまち」に限られるので、往復3万円になる。併せて5万円か、う〜ん…

 実は早朝のこまち1号を利用すると2万2千円、という格安の割引切符が有るのだが(ということも今回初めて知った)、さすがに4/28以前は既に満席。かといって、28日には既に見頃を逸しているだろうし。弘前の時のように夜行バスというのも些か辛いものがあるような(既に予約で一杯の可能性も大)。

 諦めて素直に、往復で買おうか。と、チェックすると、東京・角館間は600.0qであることが判明。往復割引の条件って、片道が601q以上。…1q足りない。ということは、横浜・角館の往復で買った方が安いのか。

 まぁ、値段の問題と言うよりは(勿論、それもあるけど)、今年行くべきか、ということなのだけど。GW中はどうせ遠出はしないので、前倒し?としてそれ位、使ってしまっても良いか、という気もしないでも(まだ、結論は出ていない)。

 

 「ウルトラQ」第3話。金子修介の演出回。悪くない。「アンバランスゾーン」というタイトルで制作された前シリーズの趣旨を踏まえた内容も、手堅い演出も。ただし、映像的にもう少し、ハッとするシーンがあれば文句ないのに、という恨みも。ラスト辺りが特に弱かった。

 Book。押井守「これが僕の回答である。1995−2004」(インフォバーン)。ここ10年、雑誌のコラムとして書いた文章の寄せ集め。

 一言で言えば、正論。間違ったことは書いてないけど、面白味も余り無い。「その時々で本人の思っていたこと」の捌け口としての性格が強いので、その時々で読むのならいざ知らず、別に今、まとめて読む必要は無いかと。他の所でも似たようなことは繰り返し述べているし。

 

4/18

 来月は新国立劇場の「マクベス」(e+)を観に行く予定。勿論、野田秀樹の演出が主目的なのだが、そもそも、この作品の「普通」が分かってないと、 演出の違いなど充分に愉しめないことに、チケットを取った後で気付いた。

 今まで、オペラなどというものに全く縁のない私は、当然ながらヴェルディの「マクベス」がどんな作品かも知らないわけで、更に言えば、「マクベス」自体、昔々、NHK教育で放送したBBC制作のシェイクスピア全集(毎回、パッパカパッパカパーというファンファーレで始まったあれ)の中で見たことがある程度、しかも、余り印象に残っていなかった。

 正直言って、「マクベス」といえば、魔女達の「綺麗は汚い」という言葉と有名な森が動く予言とマクベス夫人のアライグマのような夢遊病、しか覚えていない有様。

 …幾ら何でもこれでは駄目だろう、ということで、一応の事前準備をしておくことに、急遽決定。

 用意周到な余り、周到過ぎて目的まで全然到達しないという迂闊さが、私の特色ではあるのだけど、今からイタリア語を始める、などという無謀な行動は今回は止めて (過去には有る)、素直に、戯曲を読んでDVDで予習するまでに留めておこうかと。それ位なら可能だと思うので。

 幸か不幸か、現在、容易に入手可能なヴェルディの「マクベス」のDVDは2枚しか無いので、チューリヒ歌劇場の方を購入。戯曲は 本屋で最初に見付かった、福田恒存訳の新潮文庫版を購入。とりあえず、戯曲を読み始めた。

 というのが、2週間位前の話。続きは次回。

 Book。今さら、だけど、先月以来の押井守関連書籍の個人的なメモ書き。一編に書くのも大変なので、1回に1冊ずつ。

 「押井守論」(日本テレビ)。

 色々な評者による雑文集。玉石混淆、と書こうと思ったが、玉があったか、もはや定かではない。確実に言えるのは「固有名詞の引用頻度が高い文章ほど内容が無い」 こと。例えば、冒頭の編集部の文章とか。

 

4/17

 BShiで一日放送していた「一本桜の物語」。第二部まで見たのだが、熱心な桜好きのスタッフがいたのか、色々な要素が盛り込まれていて、思っていたよりも良かった。

 もっとも、目配りしすぎて(東北の桜は元々坂上田村麻呂が持ち込んだ征服者の樹といった伝承を紹介する一方で、一万年前から縄文人は桜の皮を使っていたと言ってみたり、各地 の一本桜を称揚する番組なのに、ソメイヨシノの歴史をお浚いしてみたりと)焦点が何だか定まらない、という感じも強かったけど。ただし、桜が「分かっている」ゲストとして夢枕獏が参加していて、基本的には間違わないだろうという安心感は有った。

 梶井基次郎の桜も安吾の桜も鏡花の桜も(やや過剰な演出付きの朗読で)紹介していたが、一番面白かったのは、むしろ「桜嫌い」の宮沢賢治の文章の紹介。

 「けれどもぼくは桜の花はあんまり好きでない」「下から見ると何だか蛙の卵のような気がする」「歌など詠むのろのろしたような昔の人を考えるからどうもいやだ」

 あははは。蛙の卵、言い得て妙だ。ていうか、「のろのろしたような昔の人」って、面白過ぎ。あんまり受けたので、全文を探してみた。→「或る農学生の日誌」1925年5月5日

 あ、これって嫌も嫌も好きのうちというか、必ずしも嫌いじゃないみたい。でも、賢治の小説で桜が出てくる場面は浮かばないな(有るのかもしれないが、印象にない)。

 (桜とは関係ないけど、「日誌」のその後に出てくる修学旅行の話は、心を打つ。興奮と落胆と屈折と… この若き日の賢治に、「銀河鉄道の夜」のジョバンニの姿を重ね合わせてしまうのは、私だけだろうか?)

 中継は福島の三春町と岩代町、そして岐阜の臥龍桜が中心。薄墨桜も登場して、今年、8年振りに本当に「薄墨桜」になったことを知る。確かに良くは咲いていたけど… 他に(映像で)紹介されたところの中では、わに塚の桜は見てみたいかも、と思った。眺めの良い場所の桜に憧れるので。韮崎なら不可能じゃないし、来年の目標にしようかと。

 

 プラネテス。甘めな最終回では有るけど、きちんと完結させた脚本は勿論、高評価。誰もが「繋がっている」という作品の世界観を、ゲストキャラのその後の寸描を通して再確認する(しかも、一人として見捨てない) 綺麗なED。忍者の奥さんのシーンとか。

 とにかく全体として、良いものを見せてくれたという感想。SFか否かとか、プラネテスか否かとかは、それに比べれば些細なこと。

 

4/16

 何と言ってよいやら、という感じの出来事が多かった気がする今週。

 

 当時、購読していた「文學界」で「川べりの道」を読み、その端正な文章に感心すると同時に、何もその歳で、こんな旧態依然な純文学を書かなくても良いだろう、と呆れ果てて以来、(結局、そのデビュー作以外 、読まなかったのだけど)、ずっと気にはなっていた作家の死とか。まぁ、それは同い歳だった、ということも有るわけだけど。

 あと、一つだけ、白状すると。今回の事件が起きるまで、17年間ずっと、「もえ」だと思っていました。

 

 今関あきよし。…………。そういえば、数年前、中古ビデオ屋で「りぼん RE-BORN」を何となく買った記憶があるような…と探してみたら、500円のシールが付いたパッケージが確かに出てきた。そのフィルムグラフィー(「少女映画」しか無いわけだが)の中では比較的良い方の、愛すべき佳作、と劇場で観た時は思った作品。ファンタゴールデンアップル味なノスタルジー。

 せっかくだから、この「機会」に、観直してみようかな(^^;;

 

4/14

 「ウルトラQ」の第2話は、「まぁ見られる」レベルの話だったので、ほっとする。次回は金子修介の演出回なので自分的には要注目。より「らしい」のは、7話の方みたいですが。

 

 復刊ドットコムのメールに、天沢退二郎の話が登場。もしや、と復刊特集ページを見ると、「オレンジ党三部作」を含む彼の児童文学作品が軒並み復刊確定した様子!

 >天沢先生ご本人から復刊のご許諾について了解を頂きました。シリーズの順次刊行を年内に着手できるよう、鋭意準備いたします。

 「光車よ、まわれ!」を小学生で読んだ時の異様な感動は今でも鮮烈。今読むと、どう感じるのか楽しみだし、オレンジ党シリーズは読んだことさえ無いので、更に楽しみ。

 

4/11

 ちなみに、昨日帰りの電車で読んでいたのは岩波文庫の「ハムレット」。何で今さら「ハムレット」かというと、それはまた今度(というか、主目的は「ハムレット」ではないのだけど)。とりあえず、2作品が残っている↓を早く片付けるべく。

 

Novel 夏目漱石 「道草  岩波文庫

 「縁を切った筈のかつての養父が現れ、金を無心して来るのを嫌だと思いつつ、正直になかなか断れない主人公が、ようやく最後に、手切金を払って絶縁するまで」の話。といえば、実も蓋もないが、実際その通りなので、仕方がない。

 嫌な人物にいかに金を払わないで済ませるか、というサスペンス?だけの小説が、十代の私に受ける筈もなく、というか、受け入れることが出来ず、記憶から抹殺した上に、「門」の内容で上書きしてしまったというのが、以前にも書いた『「門」の前半の内容を「道草」として記憶していた』事件の真相らしい。

 今読んでも、主人公の優柔不断振りには苛々するけど、相原和邦の力の入った注釈と解説が言う、漱石作品の中でも重要な小説、というのには納得。しかし、ここは、漱石研究のページではないので、(興味のある人は文庫本の巻末を読んで頂くとして)、いつものように些細なことだけ。

 

 「帽子を被らない男」。主人公・健三が養父・島田を道で見掛け、その後も目にするようになる、という冒頭部で繰り返される表現。

 外出時に帽子を被るのが当然だった時代(その習慣が日本人から失われたのは、太平洋戦争後である)の変わった習性としての表現とも、島田という名前を含めた相手への忌避感とも取れるが、それ以上に、漱石の帽子に対する執着が窺える 。樋口覚の「日本人の帽子」では、「道草」は取り上げられていたっけ?

 

 「来たか長さん待ってたほい」。姉の夫・比田が、遅れて来た健三の兄・長太郎に言う冗談めいた挨拶。どこかで耳にした気がするこの表現について、ネット上では「長さん」とは「長嶋茂雄」か「いかりや長助」のことだと考えている人しか いないようだが、少なくとも、「道草」には既に登場することを、注意喚起しておきたい(…誰に?)。

 問題は、これが初出なのか、ということ。比田は長太郎を元々「長さん」と呼んでいるので、有り得なくはない。辞書にも、これに類する諺・地口は載っていない。しかし、「ほい」が気になる。「ほい」とは何かに答える(行動する)際の掛け声である。こちらから相手に呼び掛けるのに、いきなり「ほい」と言うだろうか。

 というわけで、ここからは全くの個人的仮説なのだが、「長」は「丁」を転じて書く場合もあるらしい(辞書で確認した)。丁といえば、丁か半かの丁。つまり、「来たか丁さん待ってたほい」である (どういう状況か分かりますよね?)。比田というのはその口調でも分かる通り、粋人というか遊び人なので、賭博場の掛け声を、「待っていた長さん」に掛けた、とすれば、非常に納得出来る。

 ほとんど死語のこの表現が今でも一番使われるのが将棋等の勝負事の際であるらしいことも、この言葉の出自(だとすれば)に相応しい気がするのだが、どうだろうか。

 

4/10

 行ってきました。根尾谷の薄墨桜。やはり、凄かったです(人が)。

 薄墨桜といえば、昭和半ばからの延命手術で、樹勢を蘇らせたことで有名。実物を見てみると、沢山の添え木や樹脂の充填といったその手当がよく分かる。 お陰で、今も満開の花を咲かせている。花の多さは思っていた以上だった。

 だけど、桜自身が咲きたいと願って咲いているようには思えなかった。樹の意思とは関係なく、というより既に意思が消えた(植物状態の、という比喩も変だが)桜を人工的に咲かせ続けている、というような 印象。3年掛かりで、いわゆる3大桜を全部見たわけだが、その中で、薄墨桜が一番空虚な咲き方に感じられた。

 まぁ、すり鉢状の舞台にモノリスのように聳える滝桜や、冠雪残る山々を借景にして菜の花畑を見守る神代桜と比べ、舞台効果が今一つなのは確かだけど。(いつ枯れても良いように?) 周りに同じ種類の桜が有って、引き立たない上に、良くも悪くも宴会桜の位置付け。記念撮影とお昼の弁当場所でしかない。

 すぐ近くに設けられている「野外ステージ」にも唖然。見ている間にも、無名の演歌歌手がショーを始めたりして、雰囲気を更に台無しに(^^;; というか、元々、そういう雰囲気の場所。…やっぱり、静かな内に、寿命を全うしていた方が良かったのでは?

 世話の甲斐あって、当分枯れそうもない感じだけど、個人的には再び見たい、という桜ではなかった。

 

 帰りは東海道線を乗り継いで帰ったのだが、茅ヶ崎まで来たところで、茅ヶ崎辻堂間の人身事故で1時間以上、足止めを食らう。7時間以上乗り、ようやく、という段階で起きたので、非常に腹立たしいものがあったのだが、上の感想はそれとは(一応)関係ない筈。

 ともあれ、薄墨桜の写真。お散歩デジカメしか相変わらず無いので、こういう時の写りは今一つ。あと、満開なので、まだ薄墨色(散る時の色らしい)ではないです。

 (参考までに、2002年春の滝桜の感想と、2003年春の神代桜の感想。前者は、感想と言うほど書いてないけど)

 

4/8

 決心が付かず迷っている、と書く時は大抵、心の中では既に決めているものだ、というわけで。

 週末、薄墨桜は見に行くつもり。朝6時の電車に乗ることが出来れば、だが。ちなみに、冒頭の一文は格言の引用ではなくて、自分に関する単なる経験則です。

 

 「ウルトラQ dark fantasy」。真面目に反応するのもどうかと思うし、リメイクという企画自体、そういうものだとはいえ。新たな何かを作り出す気が無いらしいのには失望。少なくとも、第1話は、今見せるならこれだ、という話から始めるべきでは? まぁ、円谷プロ自体、 「前世紀の遺物」という感じだけど。

 あと、懸念していた通り、主要キャラクターがまたステレオタイプなマスコミ関係者。30年前ならいざ知らず、今時、そういう(人権侵害の犯罪予備軍みたいな)無神経なキャラクターを平気で配置出来る辺り、やっぱり駄目だと思った。まぁ、dark fantasyという題名は、作り手は昔のままの夢を今も見ている、という意味かもしれないけど。

 でも、「ウルトラQ」に永年の因縁を抱えた金子修介の演出回とかもあるようなので(余り期待はせずに)見続ける予定。本当は、リメイクならせめて「鉄人」位のものは見せて欲しいところだが…

 

 訃報。加山又造氏、死去。うわー、年初の回顧展が、最後の展覧会になってしまったのか…

 ある程度偉くなると、自分のパターンの再生産だけで余生を送ってしまう日本画家が多い中で、幾つになっても、新たな「次の展開」を見せてくれた数少ない画家だっただけに、惜しい人を亡くした、という気分。本当に上手い人だったし。

 

4/6

 この週末、薄墨桜を見に行くかを検討中。要するに、1本の樹を見る一瞬のために最低2万の交通費とまる1日を費やすかどうか、ということなのだけど。

 

 今月、最も特筆すべき展覧会といえば、「絵画芸術」を擁する都美術館の「栄光のオランダ・フランドル絵画展」。ではなくて、4/17から始まる根津美術館の「特別展 南宋絵画」だと思う。「出展目録」(pdf、重い)を見れば分かるとおり、徽宗以下、馬遠、夏珪、そして牧谿、玉澗と錚々たるメンバーが並ぶ。国宝11件、重文28件というのも肯ける。

 その中でも、牧谿、玉澗の有名な「瀟湘八景図」の現存分が、GW中の更に期間限定とはいえ、一同に会するのは極めて稀で、歴史的事件と言っても良い位の快挙。世が世なら、将軍だけが為し得た贅沢なイベントである。今回は、分散した八景図を徳川吉宗が集めて描かせた時の写本も展示される念の入れようで…、あれれ?

 玉澗の八景図は現存するのは確かに3枚だけど、牧谿は半分の4枚は残っていた筈。…1枚足りない。貸出しを受けるのが困難な個人蔵とかだったっけ? と思って、確認してみると、残りの1枚は畠山記念館の「煙寺晩鐘図」。

 南宋絵画を集めた展示で、しかも、「瀟湘八景図」といえば中でも目玉の作品なのに、この1枚が無いのは如何にも画竜点睛を欠く。というか、東京・京都の国立博物館を初め、各地の美術館がこれだけ協力している中で、畠山記念館だけ、肝心な作品を持ちながら、それに参加していない、というのはどうも理解し難い。

 茶道具のコレクションが豊富な私立の美術館として、素人目には、根津美術館と非常に近い性格の美術館だと思っていたのだが。…一体、何故?

 もしかして、根津美術館と畠山記念館って、もの凄く互いの仲が悪いとか? 財団の理事長同士が犬猿の仲で、互いの頼みだけは聞かないとかそういうこと?と妄想を膨らましてしまうのも無理は無いほど、不自然な欠落。保存状態が悪くて出せないなら仕方ないけど、もし所有者の都合で、というのなら、馬鹿馬鹿しい限り。こういう機会は滅多に無いんだから。

 

4/4

 ううっ、寒い… 冬のように冷え切った曇り空を背景にすると、ソメイヨシノのピンクに、ストロベリーのアイスクリームを連想してしまう。それも、懐かしのレディーボーデン(の大きい奴)。

 

Art ベン・ニコルソン展  神奈川県立近代美術館葉山館 2004.27〜2004.3.28

 3月に終了した展覧会だけど、先月の後半には付け加え難いので、ここに追記。なお、一つ前の「もうひとつの現代展」も今さらながら、1月に感想を追加。

 ベン・ニコルソンは20世紀イギリス絵画を代表する画家、ということだけど、今回初めて知った。葉山館がこれからも、こういう機会を与えてくれる美術館になれば、と思う。

 穏やかで繊細という印象は生涯通して変わらないが、作風は、前半生の平明な風景画やキュビズムの静物画から後半生のレリーフに至るまで、20世紀の画家らしくかなり変貌。その中で一番面白いのは、やはり、後半生のレリーフ 。

 こういう単純な円や矩形による「コンポジション」の試みは、モンドリアン等、最初にやった者はともかく、これ以上やっても余り発展性のない「過去の遺物」だと今まで思っていて、実際そうだとは思うのだけど、ベン・ニコルソンの場合、その色彩の微妙なバランス、つまり、センスの良さだけで、作品たり得ているのが特徴。

 志野茶碗の色合いが味わい深い、のと同じレベル。理屈じゃないんだ、という感じ(^^;; 勿論、実際の制作に当たっては、試行錯誤に加え、理論的な裏付けもあったのだろうが。

 ともあれ、ぬるま湯の気持ち良さというか、全体が穏やかに調和している世界。和辻哲郎じゃないけど、イギリスという温暖な風土が産んだ画家という気がする。例えば「光と影の国」で生きるスペイン人なら、このぬるさは絶対認めないと思う。その点、日本人向きな画家であるとは言えるかも。何となく「分かってしまう」 のだ。それも良し悪しではあるけど。

 

 ちなみに、展覧会は、愛知県美術館を経て、5月末には東京ステーションギャラリーに戻ってくる様子。あの灰色や茶色で構成された画面は確かに、赤煉瓦の壁に非常によくマッチすると思うので、興味はあるけど、あの狭い会場には入り切りそうにない。点数もそうだけど、結構大きなレリーフが多かったし。

 ところで、会場の違いは別にして、葉山と東京で同じ展覧会をやる意味って何? いや、葉山まで来るのが大変な人は多いだろうけど(間接的に葉山館の存在意義を否定しているのも同然だが)、例えば、横浜そごうで開催したばかりの田中一村展を、東京大丸でもやるのは、どうなのか。

 まぁ、昨今のアニメ制作に必須の「委員会」方式と同様、リスク分散が主目的なのだろうけど。首都圏で2回やっても、誰もどちらかにしか行かないわけで、結局、自分達の首を絞めるだけだと思う 。ただでさえデパート系展覧会は「場所」が減ってしまって、絶滅の危機にあるというのに。

 

 余り期待していなかった春改編。「美鳥の日々」「レジェンズ」と1回目は好調な作品が続いているので、視聴本数は余り減らない予感。「ケロロ軍曹」は微妙だけど。

 

4/3

  せっかく桜が満開だというのに、天候が不順だったり、風邪気味の日が続いたりして、東京の夜桜は見損ねました。

 一方、家の周りの桜並木のソメイヨシノはようやく今日、ほぼ満開。周りの丘陵は既に満開の山桜で春一色。ということで、昼と夜と、ふらふらと歩き回る。桜並木については、今年は余り勢いが感じられなかったのが残念だが、それでも満開の花の気配を肌で感じながら夜歩く時の独特の気分は味わえた。頭の上で、無数の鈴が音もなく鳴る、といった感じの。

 

 BSの「うる星やつら」再放送は「ときめきの聖夜」。ここから押井守の「うる星」が始まったのだな、と感慨に耽る。…もっとも、私が見始めたのは放映開始後、半年経ってからだったので、この回 は放映時には見てないのだけど。

 あと、「プラネテス」。毎回タナベに「愛が」と連発させてきたのも全てはこの日のためだったのか。詰め将棋のような容赦の無さは、脚本の在り方として素晴らしいです。