夢から抜け出す夢─押井守試論 89’─

 

 

 押井守の世界は、いつも閉じている。しかも、それは気が付いた時には 既に閉じているという風に描かれる。

 いささか安易ではあるが、押井守を語る際によく持ち出される「夢」で例えれば、人は夢にはいる瞬間を 知ることはできず、気が付いた時には既に夢を見ているということになろうか。そして、悪夢を見ている人がそこから逃れようと するように、押井守の世界の登場人物もその世界から脱出しようとするのだが、起きてしまいたい夢に限って、目を覚ますのは いつだって困難なのではないだろうか。

 

 例えば、まず、こうした押井守世界の構造自体を極めて分かり易く物語化した(勿論、その分退屈と いえなくもない。押井守はいつもどこか退屈である)「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(以下、BDと呼称)を考えてみよう。

 登場人物たちは世界の閉鎖性を、最初、繰り返される学園祭前日という時間の閉鎖性において気付くのだが、 すぐに空間も水平方向において遮断されているということを発見する。即ち、バス、電車といった交通機関に乗ってもいつの間にか 元に戻って来てしまうし、「向こう側」へ架かっているはずの橋は既に無くなっている。

 従って、こうした押井守の世界では、西部劇のように地平線の向こうからヒーローがやって来たり、あるいは 向こうへ去って行くといったことは基本的にはあり得ないということが言える。

 

 さて、世界が閉じており、水平方向への脱出は不可能だと知った彼らはどうするか。当然ながら残された 方向、垂直方向への脱出を目指すことになる。「BD」では垂直上昇機(!)であるハリアーで飛ぼうとするのだが、結果は不成功に終わる。最後に もう一度触れるが、それは友引町だけがカメの背中に乗って飛んでいるという、世界が閉鎖していることの確認をもたらすだけで、 すぐに燃料不足から飛行機は元の地面に落ちてしまうのだ。

 ここで押井世界における重力の強さというものを指摘しておかなければなるまい。垂直方向への脱出というから には当然上と下の両方向が考えられるわけで、実際どちらも存在はするのだが、一般的には、この世界では人も物も落ちる、少なくとも 下への動きとして描かれることが多いというのをまず第一に考えなければならない。

 例えば、今回ここでは扱わないが、押井世界を絶えず満たしている水が、多くは雨という下方への運動で 描かれていることを思い出せばよい。人も従って下へと向かうことになり、その例は「BD」の校舎から落ちる一同を始め枚挙に暇がない。

 脱出ということでいえば、確かに、落ちることで夢から覚めるのはよくあることではあるし、実際「BD」は、あたるの落下によってその世界から一応目覚めることで終わるのだが、しかし、全てが 下向きの世界において、下に落ちていくことで脱出など果たして可能なのだろうか。

 

 その問いは、上に上がっていける「少女」の存在の重要性に目を向けさせることになる。奇妙なことにとでも 言おうか、上昇するのはあくまでヒロイン、少女だけなのだ。(宮崎駿「風の谷のナウシカ」以来飛ぶ役は全て少女である。重力から 自由な少女というのは元形的な存在なのだろうか)

 この少女の一人目は、勿論、完全な無重力性を持っていたラムである。前述した、水平方向において世界が 閉じてしまった時、誰もが校門の前で立ち尽くしてしまうのだが、ラムだけはいとも身軽にカサを差したまま、あたるを抱えて 飛び上がりその場を抜け出してしまうシーンを思い出してもらいたい。

 しかし、「BD」ではラム(あるいはその分身とも言える少女)は舞台の 裏方のような存在であり、登場回数は少ない。上昇する少女と下降する青年の対比は、むしろそれ以降の作品で顕在化する。「天使のたまご」がその二人しか出てこないという点で分かり易いだろう。

 だが、そこでの少女は「たまご」を割られて(そう、押井世界は「卵を割る話」とも言えてしまうのだった)、 川に落ちて行き、そのことが同時に上がってくるもう一人の自分との一体化となり、その結果、少女は人工太陽のブロンズ像となって 上昇しながら元の方舟から離れていくというその一人二役ぶりのためか、方舟の岸辺に残された青年はもはや落ちることも適わず、 ただ立ち尽くすようであった。

 

 その後の作品の中では、例えば「紅い眼鏡」は下りる側、「機動警察パトレイバー(劇場版)」は上がる側を中心にした話だということが出来るだろう。しかし勿論、 少女の存在はどの作品においても重要である。

 

 「紅い眼鏡」は実はアニメではなく、パートカラーの白黒実写作品だが、 上下方向を中心にした押井世界という点では全く変わりがない。

 主人公の紅一は、冒頭部で一人、ヘリコプターによって上に向かって脱出するが、それは初めから戻ってくる ことが期待されていた。そしてその通りに戻って来た紅一の行動は、以後終わり近くになるまで徹底して下へ向かうものとして 描写される。

 中でも、空港ロビーの透明なエレベーターで降りる紅一が、隣の逆に上がってくるエレベーターに乗った赤い服の 少女と上下にすれ違うシーンは、この作品を、更には押井世界を象徴するシーンだと言うことが出来る。

 その後も、マンガ的に描かれる、ホテルの窓から下のタクシーへの飛び込みによる脱出や、非合法立ち食い ソバ屋へのトイレのドアの奥にある階段を降りる箇所等、彼の動きはどれも下へ向かうのである。逆にその階段を上がろうとすると 途端に激しい腹痛に襲われる(ソバに一服盛られたらしいのだが)有様。そして、彼は降りていくその中で、自らの迷宮に迷い込んで 行くことになる。

 従って、上がることによってそこから抜け出そうとするのが後半の展開となるのだが、その過程の中で彼は 少女に出会い、導かれるようにして崖の上の一軒家に有ったらしいプロテクトギア(それは探していた自分自身、そして自分の過去と いうことなのだが)のところまで上がって行くのである。実は、それは死ぬ直前の夢の中でのことだったのだが(「難解」なことに 死んでいる紅一も更にもう一つの夢の中のことらしいが)、死ぬことが「救い」であるかはともかく、少女の導きによって彼は そこから「抜け出した」ことになる。

 

 一方、「機動警察パトレイバー」は初めて、上昇する少女を正面から主人公として描いている。 今までの「不条理風」の内容とはうって変わって、アクション映画として、ごく普通に見ることが出来る作品なのだが、それにも 関わらず、重力からの特権性を備えた少女という押井世界を貫き通しているのが興味深い。(実はその愚直なまでの一貫性に思わず 感動してしまったのが、この文章を書くそもそもの原因となったのである。)

 

 即ち、この映画においても下降の放物線はヒロイン以外の全てを支配している。

 冒頭の科学者の飛び降り自殺から始まったこの物語は、すぐに空挺用レイバーの降下に受け継がれ、下降の 物語というのを鮮やかに刻み付けるが、本編も方舟に降りて行くヘリから始まることになる。その後も零式を降りる南雲、課長室の話を 立ち聞きしてから階段を降りて行く進士、隊長室から榊と八王子工場へ行くため同じく階段を降りて行く遊馬、警視庁の会議室を出て 下りエレベーターに乗る後藤と遊馬という具合に、ほとんど全ての登場人物の上下方向は下方向に集中している。

 その中で、野明がシゲの下宿の階段を差し入れを持って上がってくるのは、やはり注目すべきことであり、この シーンが後半、方舟へ突入してからの彼女の役割を予告しているとさえ言えるだろう。

 勿論、後半のそこでは特車隊全員が一気に上昇に転じることになり、ある種の爽快感をもたらすことになるのだが、 しかし、最上部のサブ・コントロール室まで上がっていけるのは野明ひとりなのである。というのは、重力からの特権性を備えているのは ヒロインだけだからだ。

 だからこそ、方舟が崩壊し、バベルの塔となって倒れていくという落下の試練にも、途中にぶら下がるという形で 耐えることが可能だったのであり、最後の戦いも同様に、下へ落ちることの誘惑を見せる零式に対し、アルフォンスはかろうじて空中に 留まり、単身、零式の首まで駆け上がった野明の活躍によってやっと解決するのである。

 

 しかし、その後、話を締めくくる、上昇して行くヘリからの俯瞰ショットを見ながら、改めて浮かんでくる疑問が ある。上昇することは、本当に脱出すること、押井世界という悪夢から目を覚ますことになるのだろうか。それはあくまでその世界の中 での逃亡に過ぎないのではあるまいか。

 例えば、前に述べたハリアーの場合でも、上からの視点を手に入れて得るのは、世界が閉じていることの再確認 であったし、「天使のたまご」のラストシーンのように上昇して行く視点によって次第に方舟の全体像が見えてくる時も 同じく、観客が受け取るのは脱出の爽快感などではなく、高く上れば上るほど、その世界が閉じており、そこから抜け出すのはいよいよ 出来ないという、諦念の絶望感のようなものなのである。

 そして視点が上昇するしないに関わらず、上からみた画面、俯瞰ショットは押井守の多用するショットなのだが、 それはいつも、そこが閉じていることを示すために使われているようにさえ見えるのだ。「惨め!愛とさすらいの母」という「BD」の原型のような「うる星やつら」のテレビシリーズの一本は、あたるの母が夢の中を果てしなく目覚め続ける話だったが、 彼女がその場面のベッドで起きあがる度に、部屋の様子は上から描かれ、その閉鎖性が執拗に強調されていた。

 あるいは、普通なら外への通路として描かれる窓も、あくまで閉じたものとして機能している。「天使のたまご」で少女が街並の二階の窓ガラスを見上げるシーンがあるが、それはすぐに無人の室内から 少女を見下ろすショットに切り替えられ、その時、少女はまるで窓枠に閉じこめられてしまったかのように見えるのだが、実際に その次の瞬間、少女は本当に袋小路にはまり込んでしまっているのだ。

 

 上がれば上がるほど閉じている世界。こうした俯瞰ショットの使い方は、宮崎駿とはあくまで対照的である。

 彼の場合も、同じく高所からのショットがよく登場するが、それは正反対に開放感に満ちたものとなる。彼が空 を飛ぶことに付いて「視点を変えると、違う世界が見えてくる」と言っていることが思い出されたりもする。

 勿論、この差は究極的には個人の性格の差と言うべきものではあるのだが、対象としている風景の差ということも 両者を理解する上で無視してはならないだろう。

 あたるの家のような一軒家からなる住宅地、それは昭和40年代からごく普通の風景となったのだが、それを 少しでも上から見たことがあるものは、それら家々の閉鎖性というものに嫌でも気が付かざるを得ないだろう。マイホームという いじましい名の示すように(そういえば、あたるの父はいつも家のローンで苦しんでいたものだ)、極めて排他的な小世界の集合体。 押井守のこだわり続けるその世界は、しかし宮崎駿においてはほとんど全く登場しない(「となりのトトロ」の素晴らしい農村風景は30年代に設定されていた)。

 彼の俯瞰ショットが閉塞感を与えないのはだから当然のことで、それだけ確かに心地よいのだが、しかし、 現代に生きている者としては、押井守の閉塞感にこそ共感してしまうのだ。

 勿論、その絶望的なまでの反復ぶりには時にはうんざりせずにいられないし、今更、観念的な長セリフでもある まいとも思ってしまうのだが、押井守が脱出を試みる限り、それに付き合い続けていくことだろう。

 

 最後に、押井作品の中で極めて例外的なシーンを取り上げて終わることにしよう。

 「紅い眼鏡」のラストシーン、赤い服の少女が(実は赤いというのはここで 初めて分かるのだが)「対話タクシー」に乗って早朝の薄命の中をゆっくりと(上り坂を上がりつつではあるが)地平線の向こうに 消えて行くシーンである。

 「紅い眼鏡」という作品が不思議に心に残るのは、おそらく押井世界において 初めて脱出するのに成功したこのシーンが感動を与えてくれるからではないだろうか。あたるさえ結局、友引高校という閉鎖空間に 戻って来てしまうように、他の押井キャラクターが全てその世界に留まる続ける中で、彼女だけが確かにそこから抜け出したのだから、 このシーンは押井世界の中で最も美しいシーンと言って良いだろう。

 目を覚ましたところで、それは次の夢の中のことでしかないのが、押井守の世界である。しかし、例えそうだと しても、押井守はそこから抜け出す夢を見続ける。そして、それは僕等の見ている夢でもあるのだ。


 89年(「機動警察パトレイバー」を観た年)に書かれたもの。当時としては、かなり説得力のある押井論では 無かったかと(個人的には)思う。ただし、その後の作品について、この上下方向での分析が全て有効かというと疑問。それについては、 別の角度から、別の方がきちんと論じていただければ有り難いのだが、なかなか刺激的な押井論を目にする機会に巡り会えていない。 

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