ベンゲットでメリエス、ポーターを見た。メリエスは今の眼からすると「しょうもなさが笑えると言えば笑える」という程度に思えた。しかし、4000本も作ったメリエスをたかだか4本で判断するのはフェアじゃないだろう。 そこでキートンとロイドの短編のビデオを借りてみたところ、やはりキートンが一番、面白い。そこで今回はキートンを念頭に置いてレポートに取り掛かることにする。
今回見たキートンは「警官騒動」「鍛冶屋」「空中結婚」の3本で、以前見たことがあるのは「恋愛三代記」「荒武者キートン」「将軍」「蒸気船」の4本である。関西ではなかなかキートンが見られない。
ところで、キートンを見ていて起きる笑いは、他の映画と比べて少し異質である。たまらなくおかしいのだが、素直に笑えない。あるいは笑った後に、とげが残る。ブラックユーモアなどと言って解消出来る笑いでもない。勿論、後年キートンがサミュエル・ベケットの「フィルム」(こういうものこそビデオ化してほしい)に出演したように、「不条理」という言葉を持ち出せば、何となくある程度まで理解出来るような気もするのだが、そうやってハッピーエンド(=安易な結末)に落ち着くことなく、その奇妙な笑いを追い続ける方がキートン的ではないだろうか。
そこで、私がまず最初に考えたのは、「笑い」とはそもそも何かということだった。しかし、これはあのベルグソン自身が「アリストテレス以来、最も偉大な哲学者が取り組んできたが、常に彼らの努力の下をすり抜け、逃れ去り、身をかわしては立ち去ってしまった」問題と述べているように、非常に考えにくい問題である。
とはいえ、ここでは何が笑うことか、ではなく、どのような状況下で、人は笑うことが出来るかという命題を扱うことで、とりあえず単純明快な仮説を作ってみた。
すなわち、(ある事柄、状況を)知っている → 笑える ということである
知らない → 笑えない
これだけでは良く分からないので、時間と空間を含めて、もう一度図式化すると、
A…知を所有 B…知を所有せず
(笑う人)B<不可解> → A<了解=笑い>
↓対人的落差
(笑われる人) B<依然、不可解>
となる。つまり、笑いというのは、知の分配における差を外に示す行動だといえよう。すると、笑うために3者が必要である。上のA,BによるとB、A(笑いの送り手)、A(笑いの受け手)となる。勿論、過去の自分をBとして笑うことも出来るから、同時に要るわけではないが、この3者なしには笑いは成り立たない。
共感
A───A’
↓笑い
B
ところで、笑いについて重要なことは、笑う人が笑われる人を客観視出来ることが必要だということである。「他人の不幸ほどおかしいものはない」わけだが、我が身に降りかかるとなれば「笑い事ではない」。
(ちなみに、ベルグソンはここまでのことにほぼ相当すること、@おかしいのは人間に対して Aおかしさは感情ではなく知性と結びつく Bこの知性は他の知性と連絡している というのを基本的考察として挙げている)
さて、ここで不思議に思われるのは、映画とは感情移入(ドキドキ)して見る、という世間一般の常識である。そしてその最も素晴らしい映画を作ったヒッチコックの映画作りの最大のポイントが観客のエモーション、感情を大切にすることであったことも知っている私たちは、同時に、ヒッチコック映画が笑える映画であることも知っている。では、「感情移入出来るコメディー」とは一体、何なのだろう?
まず分かりやすい型から考えよう。主人公が他の人間を何らかの方法で(パイ投げ、ボクシングと言った物理力、あるいは純粋な頭の差で)打ち負かす様は見ていて楽しいし、笑いがこみ上げてくる典型的なシーンである。これは次の通りだろう。
*映画<外>, 映画<内>
観客 A
↓ 同化(=笑い)
主人公 A → 脇役 B
勝利(=笑い)
では、主人公がBの時はどうなるのだろうか? 感情移入する映画の場合、基本的には主人公、観客ともBの立場にいる。この場合、両者ともサスペンスとしての恐怖を与え続けられる。巻き込まれ型の映画を考えればよい。勿論、主人公はAに向かって努力するが、それはラストの解決などで上図にならない限り、別におかしくはない。おかしいのは観客が主人公の一瞬先に状況を理解してしまうからである(例:「北北西に進路を取れ」での飛行機が襲ってくるシーン)。この微妙なA−B関係が笑わせる。となると、感情移入するコメディーとは実はつかず離れずで、主人公に同一化、客観化を繰り返していくということになろうか。
観客 B (→A)
↓ 同化(緊張)
主人公 B ← 脇役 A
攻撃etc
そろそろ、キートンが出てきてもいいころである。しかし、調子に乗って書いてきたこの分析は、ここに至って急停止する。
観客 A
↓笑い
主人公 B
基本的にはどう考えても、上図の通りであろう。しかし、この図ではどこがキートンのおかしさなのか、ちっとも分からない。いや、慌ててはいけない。この図では映画の「中」について、主人公Bの他は何も書いていない。というか、書けない、という辺りから段々キートンに近付いて行けるのではないか。
何故、書けないかというと、キートンの持っていない知を他の誰かが持っているというより、世界全体が違う、としか言いようがないからである。勿論、その「違い」、世界の中のキートンの絶対的違和感を観客はよく知っている。だから、爆笑出来るのだが、しかし… 問題は、その笑いを正当化出来ない、あるいは分かち合う人が観客以外いないことにある。
先程のヒッチコックの場合は、別である。「北北西に進路を取れ」のラストの手のように、ヒッチコック映画は、演出家の笑いであり、演出家=Aとの知の共有だからだ。
しかし、キートンの映画を見ている者は、奇妙な世界の中のキートン(あるいは、世界の中の奇妙なキートン)が圧倒的であるがゆえに、演出家キートンのことなど考えている余裕はない。従って、自信のないまま(それでも笑い続けながら)見ている観客にとって、キートンのあの顔は次第に笑っていいものやら、分からなくなってくる。
状況を理解しない顔という、Bの典型のような顔をしたキートンは、自分の引き起こすことに反省することもなく(時々、驚いたりはするが)、ますます途方もないことを引き起こしていく。観客の笑い(A)もキートンの行動(B)も、どちらも正当化されることなく、その論理に従って、最後まで対等である。
さて、今の時点で書けることはこれ位である。終わり方に困った時の恒例のようだが、今回も「アリス」で終わることとしたい。何故なら、「蒸気船」で突風に向かってジャンプした挙げ句に元の所に着地してしまうように、普通でいるために全力を使ってしまうキートンの姿は「鏡の国のアリス」で、「そこに留まっているために全力で走る」アリスを思い出さずにはいられないし、いかなる時も、決して周りの世界と妥協しようとしないキートンの姿は、「不思議の国」にいるにも関わらず、自分の世界のルールを押し通そうとする、生意気なアリスそっくりだからである。
従って、キートンを見る時の居心地の悪さは、あの「アリス」の最後、アリスの姉さんが「現実」にも「不思議の国」にも完全に溶け込めないと思う時のあの気持ちに近いのでは、と思ったりもしながら、それでも「キートン」というウサギが前を走っていくことがないかと、ビデオ店で探したりする毎日が続いている。
(補足 or 蛇足)