2005年10月〜12月に見た展覧会のうち、日記に感想を書き漏れたもの (9月以前分は→こちら)
大きいていうから期待したのに、それほどでは無かった…
と、何故か妙にたどたどしい当日のメモ書き。あんたは、チャーリー・ゴードンか。
いや、だって。「アメリカ美術の特色の一つは、一般にその作品の大きさと迫力にあります。 この機会にぜひ会場でアメリカ美術を体感してみてください」と言うからには、よほど大きな作品ばかり並んでいるのかと思ったのに。
しかも、府中市美術館といえば、昨年の遠藤彰子展で見た1500号サイズの作品(500号の3枚組)の印象(「でかっ!」)が強いだけに、この程度じゃ大きいとはとても言えないね、と思ってしまった。
サイズはともかく全部で46点と、30分も有れば見終えてしまう。気合いを入れて見に行くには(府中は遠いので、気合いを入れないと行けないのだが)、物足りなさ過ぎ。でも、自転車で気軽に来られるような近所にいて、こういう展覧会を普通に見ることが出来たら、それは結構、素敵なことなのではないかと。普段着のアメリカ絵画展。
入ってすぐ、DesireとDespairの文字を十字に組み合せたジャック・ピアソンのオブジェを見るなり、「Get up,Get up,Get up,Get up…」という歌詞が頭の中を回ってしまう。のは、ええ、30歳台以上だけですね。
マーク・ロスコ。テートモダンのロスコ・ルームは本人の意図に沿った照明下の展示と聞いたが、実際に入ってみると、かなり薄暗い部屋だった(川村美術館のロスコ・ルームよりも更に暗かったような)。 絵を見るというより、瞑想するのに相応しい暗さ。じゃあ、こういう明るい部屋にマーク・ロスコ を展示するのって、どうなんだろう、とちょっと疑問に。
展示作品の中では、やはりエドワード・ホッパー が、絵の印象深さで別格。特に「踏切」という作品は一見地味だが、見続けていると次第に張りつめてくる怖さがあった。自然と文明、此岸と彼岸といった二つの相反する世界の「境界」で、時間が一瞬停止している緊張感。ああ、この不気味な平穏さって、デビット・リンチ作品のイントロ部分での、惨劇の予感を孕んだ静けさと、どこか近い気がするな…
でも、今回来たホッパーは僅か3点。ホッパーを89点も持っている美術館なんだから、もう少し 気前よく貸してくれても良いのに… 仕方ないので、図譜や画集が色々置いてある広い机にあったタッシェンのホッパーの画集で自習?してから帰ったのだった。(10/1)
美術館を置いた三井本館は重要文化財指定というだけ有って、ある意味、美術館以上にワクワクする建物だった。私の勤め先の本社(の一つ)もえらく旧式な建物で、エレベーターの回数表示が1〜0のそれぞれの形に電線?が光る旧式のデジタル表示なのだけど、この三井本館のエレベーターは何と時計のような針が左右に振れる形の回数表示が外に付いていて、これには負けた、と思った。一度じっくり中を探検したい位。
さて、美術館。いかにも三越御用達といったマダムな奥様方で溢れていた。まぁ、どうせ無料券を貰って来た人が多数かと(…僻み?)。
最初は茶碗等の茶器。モダンな洋風建築の部屋の中、柱のように立てられたガラスケースに収められた志野や楽の茶碗。どれも良い茶碗だとは思うけど、何かの悪い冗談のような妙な感じ。何というか、怪盗が予告状でも出してきそうな雰囲気の部屋だった。
今回の目的は、応挙「雪松図 屏風」。三井文庫別館では狭いからと!半分しか展示しなかったり、三越で開かれた「三井文庫名品展」では孫による模写しか展示されなかったり(百貨店の催場では「国宝」は展示出来ないと言うのを後で知った)、あの「応挙展」へは頻繁な展示替えのため、4回も見に行ったというのに東京では「雪松図」は展示すらされなかったり、と今までちゃんと見る機会が無かったので、ようやく見られたわけなのだが。
応挙の他の作品同様、だまし絵的な立体感が印象的。代表作だろうけど、全体に当たり前過ぎて、応挙の最高傑作では別に無いな。もっと凄い作品は他に幾らでも有るわけで。まぁ、そのつまらなさにこそ、国宝に指定されてしまうだけの隙が有る、とも言えるのかも。むしろ、展示されていた応挙の絵では故人の一周忌に描いた花の絵の方に心打たれた。
逆に当初の目的では全く無かったのだが、一番凄いと思ったのは、部屋の両面に能面をずらりと掛けている部屋。全く門外漢の私にも一目で名品と分かる面の数々。それだけに訴え掛ける力も尋常じゃなくて。大勢の人が右往左往しているから、まだ普通に見られるけど、もし、これら数十の面と一人だけで向き合うことになったら、とても耐えきれず、泣き叫んで逃げ出してしまうのではないかと。まぁ、一度やってみたいような気もちょっとだけしますが… (11/3)
こちらは住友家のコレクション。どうでも良いけど副題の意味がよく分かりません。至純って、「混じりけのない」ってことでしょ。今で言うなら、なんとかナイン。今回はその99.99999%以上を住友コレクションで構成、てこと? この美術館なら、当たり前だと思うんですが。
純度はともかく、三井家伝来のお宝を見てきたばかりでは、こちらは(近代日本画に限ったこともあって)、かなり地味目。狩野芳崖の「壽老人」はそのゴツゴツした描線(特に顰めた顔)が面白くて、さすが芳崖と思ったんだけど、それ以外は凄いとまで思えるものは無く。木島桜谷が、その中では印象的だった位で。あと明治から大正に掛けての日本画が並ぶ中、東山魁夷だけ、時代を飛んで、2点有ったのも何故か良く分からず。
ところで、会場で妙な金属音がするので何かと思ったら、お上りさん風の老夫婦がビデオカメラで作品を撮りまくっていて、そのピントを合わせる時の駆動音だった。私が注意することでもないので放っておいたが、この老人は「ビデオに撮る」ということでしか、物事をリアルに体験出来ないんだろうなと、哀れには思った。しかし、この程度の作品(というと語弊が有るが)を撮って何になるんだか。まぁ、どんな絵だって、どうせ見ないんだから別に良いのか。(11/3)
今まで殆ど無かった「ベルギー美術を包括的に紹介しようとする展覧会」が2つ、奇しくもほぼ同時期に開催。どちらも、これからの「ベルギー美術展」の基礎を目指した(作家一人一人をきちんと紹介しようとする)姿勢が好ましかったのだけど、「ゲント美術館」の方は外国の作家を含めて西洋美術史を俯瞰しようとしたところが、やや欲張り過ぎで中途半端な感も。
その点、「ベルギー近代の美」の方が、元が個人コレクションであることと、ベルギー美術に絞っていたこともあって、印象派から抽象絵画というかなり広い幅での紹介にも関わらず、全体に一体感が有って、見ていてより楽しかった。
ともあれ、2つの展覧会を続けて見たことで、「気になる画家」が結構増えたのは嬉しい。「冬の老果樹園」の雪景色の中の樹木が印象的だったヴァレリウス・デ・サデレールとか、兄弟の割に作風が違うグスターヴ・デ・スメットとレオン・デ・スメット(特にレオンの方)とか。
ただし、1,2点で画家を知るのは無理があって、ベルギーの美術館巡りの時に名前を覚えたエドガー・ティトガットやリク・ワウテルス(向こうではリック・ワウタースと覚えた)も今回紹介されていてそれ自体は非常に嬉しかったのだけど、来ていたのは余り印象的な作品では無く、全体の中に埋もれていた。逆に言えば、今回印象に残らなかった画家も、本当はもっと凄い画家なのかも。
そんなわけで、これでベルギー美術はお終い、ではなくて、これを機に、更にベルギー美術が見られるようになると良いのだが…
ところで、ゲント美術館といえば、現地で自分が見た美術館だった。なので分かるのだが、(美術館が改装中で)通常よりは「名品」も含まれているとはいえ、本当の代表作は今回来ていない。公式サイトの(English→)Collectionをずっと追っていくと分かるように、14世紀から20世紀までの幅広い作品を収集している美術館だけど、その最頂点たるボッシュの「十字架を負うキリスト」はゲント市から出てないし、近代でもvan Rysselbergheの「The lecture by Emile Verhaeren」みたいな記念碑的大作は来ていない(絵の写真は貼ってあったけど)。当然と言えば当然だけど。「ゲント美術館名品展」がいささか地味だといっても、それは美術館のコレクション 全体がそうだというわけではないので、来年以降、ベルギーに行くことがあれば、聖バーフ大聖堂のついでに寄って見る価値は充分に有ると思います。
自分の場合は、ボッシュだけで満足してしまったので、あとはついでに、のスタンスで1時間位で軽く回った覚えが。旅行記を見ても、エミール・クラウスのこと位しか書いてない けど。それにしても、エミール・クラウスが日本でこんなに早く出世?するとは、当時は思わなかった。
あと「ゲント美術館名品展」については東京近郊だけでも、世田谷美術館と埼玉県立近代美術館の巡回展。チラシの方向性が両者で微妙に違うのが面白かった。
世田谷は「きらめく陽光への憧れと見えざるものへの夢」の副題とグスターヴ・ヴァン・デ・ウーステイネ「田舎娘」の絵で内省的な印象、埼玉は「ヨーロッパの薫り、花の都から」の副題とアンナ・デ・ウェールトとエドワード・アトキンソン・ホーネルの花盛りの風景2枚で、開放的な印象。ちなみに、ゲントが花の都と言われるのは本当らしいが、それは単に、5年に1回、ゲントで花博が行われるから、らしい。(11/5,11/26)
1度目は混雑のため、入場を挫折。2度目のチャレンジで、土曜朝9時の開館前に行ったところ、ようやく普通に見ることが出来た。
こういう展覧会は今さら私が感想を書かなくても良いじゃないか、という気は凄くしますが。ええ、印象派とかゴーギャンとかマティスとかピカソとか、いわゆる「泰西の名画」が沢山飾ってありましたよー(棒読み口調 で)。
でも、内容的には「捨て作品」が殆ど無い、しっかりとしたセレクションで、中でも、個人的にはナビ派の辺りが充実していたのが良かったなと。 公式サイトだと、その辺は完全にスルーですが。
大体、マスメディアが手掛けるこの手の公式サイトって、「作品紹介」が有名な数点だけで、展示作品の一覧とか無いんだけど。観客を馬鹿にしている。とは、どうして誰も思わないのか、というと、見に行く人の大半はその情報だけで充分なんだろうな、やっぱり。
確かに今回の目玉たるマティスの「金魚」は凄い 。というか、凄く変。テーブルの脚は小さいし、金魚は異様に巨大だし。冷静になって見てみれば、どんな大きさだよ、と驚く。だけど、一見、不自然に見えないのは、見た目の感覚に沿っているから。広角レンズでのマクロ撮影みたいに、心のレンズ?が金魚をクローズアップしている(けど、実際に広角で撮 れば水槽(ビーカー?)の枠が歪むわけで、こうはならない)。見れば見るほど空間の繋げ方の力業に感嘆するばかり。マティスの色彩感覚で無かったら、絶対、破綻していると思う。あと、金魚の獰猛な肉食魚顔も印象的。
グッズ売り場で(プーシキン美術館所蔵の)アンリ・ルソーの別作品の複製を売っているのを見て、飛行機の絵じゃなくてこっちの方を持ってきてよ!と切に思ったが、ルソーはこの手の展覧会では、オマケ的な扱いなんだろうから、無理か… (11/6)
会場に置いてあった各作者の紹介(略歴)がとにかく凄いので(投獄や病院に収容される他、屋根裏部屋に隠れたまま生涯を送ったり、宇宙と交信したりと)、展示された絵を見ながら、何かのヒントを求めて、その略歴をつい読んでしまうわけだけど、こういう絵を見る場合、作者のことを知ろうとすることが正しいのか、実際のところ、よく分からない。作者の境遇と作品は切り離せないとしても、その生涯を知ったからと言って、「理解」出来るようになるわけではないだろうし。
ともあれ、内容を理解出来るかはともかく、無意識に思い込んでいる様々な常識を疑うためにも、こういう「描くために描いた」アール・ブリュットに対面する衝撃を得る機会がもっと有るべきだと思う。現状では殆ど資生堂頼みになってしまうが、また次回、やって下さい。次回も(出来れば)無料で。
ちなみに、私の小学校時代の同級生にも、アール・ブリュットというべき創作活動を続けている人がいるので、色々と思うことが有り。(11/7)
「会場芸術」という川端龍子の発言は、言いたいことは分かるし、戦後の日本画は現実にそういう方向になったと思うけど、今回の展覧会の展示品を見る限り、龍子の場合は、ハッタリすれすれの「鬼面人を驚かす」に近かったような。
「RIMPA展」での「草炎」で、川端龍子を意識するようになっただけに、ああいう作品を他にも沢山描いていたら凄い、と思っていたのだが、実はあれ(と今回出品されている同様の「草の実」)は、龍子の中では例外的に繊細な作品だったらしく、今回展示されている他の作品は皆どれも大きいのだが、割とスカスカな印象で、全体を見るのに30分も掛からない位、足をじっと止めさせる絵が少なかった。
元々画力は高い人なので、発想と技術がぴたっと嵌った時のクリティカルヒットのポイントの高さは凄いのだけど。「爆弾散華」とか。
昭和20年秋の展覧会に特攻機の絵を出品しようと描いていたら、日本が敗戦してしまったので、急遽、題材を龍に替えて出品したというエピソードには、たくましいというか、節操の無い人というか。描けるもの(で 人に受ける題材)なら、基本的に描くものは何でも良かったのでは?
そんなわけで、期待していたよりは若干(かなり?)がっかりだったのだが、冒頭の少年少女雑誌の正月付録の双六は面白かったので(江戸東京博物館としての展示的には)まぁ良いかなと。見るなり、また双六かよ、と突っ込んでしまったのは言うまでもない ですが。(11/9,11/24)
経験値の違いというか。今回来た程度の内容で、アンコールワットの文化が理解出来たりするわけではないのだろうし、例えば、ローマ時代の彫像がこの程度来たところで(見慣れているので)、それほど感動したりはしないと思うのだが、普段、見たことのない世界なので、面白かった。
ジャヤヴァルマン7世の頭部像は、権力者の像としてはかなりユニークで、壮麗な宗教都市を作り上げる王のイメージとはなるほど、こういうものなのかと。
しかし、更に興味深かったのが、半人半獣の姿の神像の数々。象の顔をしたガネーシャとか。カラス天狗みたいな嘴を持った若い男のガルーダとか。
イソップの昔からディズニーの黒鼠まで、西欧人は動物を擬人化することでしか感情移入出来ないのに対し、人間に化ける狸狐や恩返しする鶴亀のように、日本人の場合、動物に感情移入する場合、直接の擬人化ではなく変化(へんげ)する方がイメージし易い。といった風に、動物/人間のイメージについて、西欧と日本の違いについては、以前から興味を持っているのだけど、こういうのはそれとは、また違う方向性 で。
頭だけが動物で体が人間。って日本人の感覚で言うと、山海経的な「妖怪」の類で、今で言えば、子供向け特撮番組に出てくる「何とか怪人」のイメージだけど、それこそが「神」の特徴を示すことになる世界があるのには、驚きと感動を覚えてしまう。
と展示品の良し悪し以前のところで、結構、楽しめたのだった(超初心者)。そういえば、展示品は石像と銅像ばかりで木像は無かったのだけど、土地柄、木だと長くは保たないんでしょうか。
ちなみに、一番良かったのは、すごく閑散とした平日夜の美術館の雰囲気そのもの、だったかも。一世紀半前、アンリ・ムオが密林の中でアンコールワットを発見した時のように(大袈裟)、歴史に取り残された遺跡の中を歩いているようで。(12/13)
こういうのって、「考えるヒント」というか、考えるための触媒というか。見終わった後、美術館のトイレ に入ったら、床のタイルが一部分だけ濡れて黒く光っているのが、あたかも李禹煥の作品のように見えて、つい笑ってしまったのだけど、その気になれば「全てが李禹煥になる」ということかも。
悪くは無かったのだけど、展示されている作品の時代区分が割と狭くて、「ヒント」の種類がかなり少なめというか、ダブっているものが多いという印象だったのはちょっと残念。あと、せっかくの野外展示が、(夜行ったら)暗くて全然見えないのも、どうかと。見えないのも展示である、というよりは、ただ単純に、そこまで考えることなく外に展示したんだろうな、という感じ。多分、会期前は夏だから7時位ならまだ明るかったんだろうし。
こういう展示なら、作家も美術館も、せっかくの夜間を活かすための照明を考える位のことはすべきだと思うけど、同時開催していた2Fギャラリーが6時で閉館していたように、美術館は夜間延長に全く力を入れていないようなので、期待するだけ無駄なのかも。まぁ、採算を考えると、美術館から見た夜間延長は、慈善事業みたいなイメージなんでしょう し… (12/16)
こちらも、「考えるヒント」大会。ただし、こちらは「こういうの考えてみたんだけど。どう、どう?」と作者が今まで考えたことの発表大会みたいな感じ。評判良いだけ有って、全体に面白かった。会場で流していた、作者へのインタビューで構成したドキュメンタリービデオまで全部見てしまった位。
もっとも、全てのアイデアが私にとって凄く面白かったというわけでもなくて、その辺は様々。個人的に面白いと一番素直に思えたのは、ジオラマ風景の写真化とか、蝋人形の写真化といった「偽リアル」系のアイデア。一方、時間の視覚化の方はどうも今イチ。
上映開始から終了までシャッターを開けておくことで写した「スクリーンが白く輝いている映画館」とか、焦点を無限の2倍にすることで形をぼかした近代建築物の本質?のイメージとか、アイデア自体はなるほど、と一回は思うけど、世界の細部を潰す方向へのアイデアは余り好きになれず。
特に太古の 世界をイメージして、世界中の海を撮ったシリーズは、個人的には全然、駄目だった。海だって、太古の海と今の海では、実際はかなり違う筈で、そのディテールを平気で無視して、よくもまぁ、時間超越ごっこが出来るな、と。
会場は(森美術館ではいつものことだが)、展覧会を見に来た若い層と、展望台のついでに入り込んでしまったお上りさん的な老夫婦層に2極化していて、後者の存在がこういう展覧会に対する批評となっていたのが妙に面白かった。それとも、通り過ぎていった人達にも今後影響を与える展覧会だった ? (12/21)