私にとって、桜と言えば、(伝統的な日本人の美意識と同じく?)もともと山桜のことだ。私が育った町は、住居表示に「桜山」というのがあるくらい、山桜が多いところで、4月になると、周りの丘は桜しかないのでは、というくらい桜の花と様々な色の新葉で染まった。この地域の特色として、大島桜という、黄緑の葉と一緒に咲く山桜が混じっているため、爽やかな印象を受ける、その穏やかな春の丘が私はとても好きだった。その風景を小説で探すとすれば、同じ半島の丘陵を舞台にしてきた、佐藤さとるの諸作品の中にきっと描かれているように思う。
家が有るのは、その丘を切り開いて作った分譲住宅地というやつで、大通りにはソメイヨシノが並木として植えられていた。 しかし、山桜が好きな私としては、実はソメイヨシノという桜は余り好きではなかった。裸の幹に、花だけが毒々しいまでに 咲き誇る人工的な樹と、いわば嫌悪感の方が先に立っていたのだ。
しかし、とある作品に4年余り付き合う中で、その人工的な美しさだからこそ、作り出す事が出来る美もあるのかもしれない、 と思うようになっていく。
それは、今ではすっかり過去の作品になってしまったが、当時はあくまで現在進行形で暴走を続けた「うる星やつら」というアニメーションだった。ここでは、この作品に対して語ることが目的ではないので、 詳述は避けるが、とにかくこの作品には背景として桜が咲いていることが多かった。振り返ってみると、まるで全てが桜の下の宴会であったかのような気さえする。少なくとも番組の後期は「うる星」=「花見の宴会」というテーゼなしに語ることは 出来ない。
あの友引町というモラトリアムな時空は、確かに、花見という、日本人が生み出した数少ない、非日常的、祝祭空間と 酷似していた。「〜番、〜をします!」と果てしなく続く登場キャラクター達の「芸」。まさしく、非常に楽しい、終わる ことのない宴会。しかし、である。桜の花はいつしか散ってしまうものではないだろうか。永遠に続く花見などあり得ないの ではないだろうか。作品が続いていく中、視聴者も制作者も疑問と不安を増していったのかもしれない。
だからこそ、劇場版の4作目 は、町の中心にある桜が切り倒されることで、今までの「終わらない毎日」が終わってしまうという話でなければならなかったのだ。 内容的には不出来、という以前に物語が完結してさえいない作品ではあったが、その後の「完結編」などより、観ていて遙かに動揺させられたのは、その「終わり」について何とか描こうと していたからに他ならない。
こうした、非日常の美しさと残酷さの背景となるのは、あくまで、非日常的なソメイヨシノの美しさである。
というわけで、気が付けば、私はソメイヨシノが花のトンネルとなる桜並木の風景も愛するようになっていた。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」 という、あの有名な梶井基次郎 の文章を読んだのも、その頃。成る程、上手いことを言う、と感動したものである。(ちなみに大学時代のある時、 サークルの同期が梶井基次郎がかつて下宿していたのと同じ部屋に下宿していることが判明。そいつは梶井基次郎的な感受性を全く持ち合わせていない奴だったので、余りにも勿体無さ過ぎると思ったものだ)
もっとも、墓地に垂れ桜が植えられたりしていたという柳田翁の文章もあるし、死者と結びついた花である、というのはあながち文学的な感受性だけでは ないのだろう。
学生時代を過ごしたのは、京都。暇なのを良いことに、その時期になると、桜ばかり見に出掛ける毎日。京都といえば 何と言っても垂れ桜の優美さが、東男(あずまびと)?の私にとっては新鮮で、谷崎潤一郎の「細雪」みたいに、その年の桜狩りを平安神宮の庭園で締めくくるのが通例だった。
勿論、ソメイヨシノの定番スポットというのも沢山あり、例えば、疎水に映る桜というのは、毎年必ず見るようにしていた。
そういえば、有る年の春、その一つである、近代美術館前の疎水で写真を撮っていた時。京都府警の文字が入ったゴムボートが 流れてきた。上に乗っている警官達は長い竹竿を水の中にあちこちで突き刺しては探していた。…つまりは、土左右衛門を。 澄み切った青空のもと、疎水には満開の桜が映っていて、のどかな春景色。その中を(傍目にはあくまでものどかに) ゆっくりと移動していくゴムボート。あの風景は忘れられない。
余談だが、疎水での土左右衛門探しというのは昔から有るようで、菊池寛の「身投げ救助業」 という短編に皮肉なタッチで描かれている(といっても、私も北村薫の「六の宮の姫君」 で初めて知ったのだが)。
大学時代、もっとも影響を受けた作家の一人が、坂口安吾。彼の作品は殆ど全てが素敵なのだが、やはり「桜の森の満開の下」 がその中でも最も素晴らしい作品の一つであるのは間違いない。桜に対しての小説といえば、何と言ってもこれをおいてない。
で、「桜の森…」といえば、安吾の生まれ変わりと称する、野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」 も、原作の美しさと哀しさを表現しきっていて、流石と感動した記憶がある。(尤も全体の構成は「火の鳥 鳳凰篇」だったのだが)
社会人になった今では、桜が咲いているからといって、退屈な日常を放棄することも出来ない訳なのだが、 春のこの時期、どこかで満開になった桜をふと目にする度に、一人で桜を見続けて終いには気が変になりそうになり掛けた、 かつての日々を懐かしく思い、もしかしたら、あの時間こそが私の求めていた時間だったのではないかと、思い返したりも するのである。
…きっと、私は世間でいうところの「花見」の中に身を置くことが合わない人間なのだと思う。それよりは、満開の桜の下で 独りただ立ちつくしていたいのだ。
いや、そうではなく、やはり花見の中に入りたいのか。毎年、自分は何を望んでいるか、自問しながら、桜の花を見上げる 日々が続いている。
遠い昔に書いた、桜の木が出てくる習作でも見てみる