空の蒼さを 見つめていると
先週の「絶対可憐チルドレン」をようやく読む。立ち読みする時間が今日までなかなか無くて。久々の「サンデー」本誌ということで、出来が気になっていたのだけど、概ね、安心。…ていうか、気にする位のファンなら、新連載が掲載されている「サンデー」位、買えよ<私。
なし崩し的に、イタリア旅行(計画)月間と化していた今月。
結局、ホテルの予約とか肝心なことは来月に繰り越し、と台風(上陸前)並の速度でしか進展していませんが、そうはいうものの、改めて1日から振り返ってみると、日に日に言うことが変わっているので笑ってしまう。そうそう、最初は気楽にパッケージツアーとか言っていたんだよなぁ。イタリアに行くつもりも余り無かったし。
…どこから、坂道を転がり落ちていったんだろう?
一昨日2件の予約を入れたWeekend a Firenzeから、回答メールが届く。件名が英語なので(当たり前だけど)、あやうく反射的に削除してしまうところだった。
サイトには、回答メールで確認コードを通知する、とあったのだけど、実際のメールにはpdfファイルへのリンクが書かれていて、リンク先を開くとヴァウチャーそれ自体になっていた。で、これを印刷して現地で提示しろと。この方が分かり易いって言えば分かり易いけど。無くしたら困るな。
ちなみにウフィッツィは予約した時間通りだったが、「最後の晩餐」の方は10:30と入力したのに、11:15になっていた。何故? いや、まぁ、別に良いけど。時間まで、隣で臨時営業中のスカラ座博物館でも見学していれば良いだけだし。
この秋、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」が再ロードショーされるらしい。
DVDを2種類持っている(最初に出たのとコレクターズエディション版と)位、好きな作品ではあるのだけど、それだけに今さら…という気がしないでも。
とはいえ、スクリーンで観たら、やっぱり、楽しいんだろうなぁ(実は劇場では観たことがない)。出来るだけ行くことにしよう。本編より、コレクターズエディション版におまけで収録されていた「フランケン・ウィニー」の方が映画館で観てみたいけど。
あっ。今気付いたけど、「ジャイアントピーチ」の廉価版、以前買ったきり、未開封のままだ(^^;; 先にそっちを観るべきでは?
ところで、どうせなら、クリスマス・シーズンにやれば良いのに、と一瞬思ったが、ハローウィンの連中なんだから、10/23からの公開で正解なのか。
11時頃、台風は?とTVを付けたら、いきなり川崎市市民ミュージアム学芸員の湯本豪一が出てきて、幻獣展の説明をしていたので、おっと驚く。
番組は、NHKの「日曜スタジオパーク」。今日のテーマは「う〜めずらしい!?不思議動物を探れ!」(毎回、タイトル名が疲れるダジャレらしい)というわけで、楳図かずおと安藤希がゲスト。安藤希は主演映画で河童とかその手の動物との共演が多い(笑)という理由で呼ばれてきたとのこと。
安藤希が、一橋大学の構内を、伊東忠太が残した不思議動物の飾りを探して歩くとか、テツ&トモが司会の番組とは思えないほどの趣味の世界。紹介されていた何とかいう女性の説らしい、神田明神の周りの神社を全て線で囲むと狐の形が浮かび上がる、というのは、さすがに無理があるだろう、と思ったけど。
しかし、何と言っても、児童公園にある動物の形をした遊技用のオブジェ達に、名前を付けて(子供以上に)はしゃぎ回る楳図かずお先生の姿に圧倒され る。
……あぁ、朝からハイテンションなものを見てしまった(^^;;
前半の外枠が大体決まったので、ようやく美術館を予約。
レオナルドの「最後の晩餐」とウフィッツィ美術館をWeekend a Firenzeで、スクロヴェーニ礼拝堂を公式サイトで予約する。多少躓いたものの、予約自体は問題は無くて。いつの時間に予約を入れるべきか で、半月ほど悩んでいた。寝過ごしたり、電車が遅れたりして必要な時間までに辿り着けなければ、予約した意味が全く無いので 。
ちなみに「最後の晩餐」は入場料+通常予約料6.0+on line予約料2.04=8.04euro、ウフィッツィ美術館は入場料+通常予約料9.5+特別展3.0+on line予約料4.47=16.97euro。特別展は「Moi! Autoritratti del XX secolo」(「20世紀の自画像」?)とかいうもの。スクロヴェーニ礼拝堂は月曜で 隣の博物館が閉館のため、通常(12euro)より安い8euroだった。
ウフィッツィはよく分からない(^^;;特別展(行けば見るから良いけど)付きで、予約料も結構取るのでメリットは微妙だけど、「最後の晩餐」は追加予約料も安いので、今後はネット予約が主流になるのでは?
日経新聞日曜版の美術面「美の美」は今日から、「奇想の国の仙人」と題して、曽我簫白。
意外な人選だな、と思いつつ「群仙図屏風」についての記事を読んでいたところ、最後にさりげなく「京都国立博物館では来春、簫白展(4月12日−5月15日)を開く」「ボストン美術館ビゲローコレクションからも屏風が出品されるほか、百数十枚を集める過去最大の簫白展になる」と瞠目すべき情報が!
こ、これって…初耳なんですけど。もしかして、マスメディアでは初出? ということは、日経主催の企画展なんでしょうか。
しかし、京都国立博物館での開催というのは、当然と言えば当然で、幾ら遠くても必見の(怖い物見たさ、という意味で)、 ずっと待ち望んでいた展覧会ではあるのだけど、そうは言っても、京都まで展示替え含めて見に行くというわけにはいかないなぁ。
引き続き、日程の検討中。決めたのは、ミラノはまる1日だけにする。ヴェネツィアにはパドヴァ経由で、翌日の午後早い時間には着いて1日半弱の滞在とし、出発日はフィレンツェに直行、フィレンツェでは1日半強の滞在を確保する位。…1日掛けて、それだけ?
ヴェネツィアといえば、当然ながら「ヴェネツィア派」の本拠地。とはいえ、この辺の美術史に無知な私の知識といえば、ヴェネツィア派最盛期の3巨匠が、ティッツィアーノ、ヴェネローゼ、ティントレットという位。
各地に王侯貴族の肖像画が残っているティッツィアーノなら、その輝かしい画面がすぐに思い浮かぶし、若い頃ティッツィアーノに弟子入りしたところ、上手過ぎて追い出されたと かいうティントレットは、ケレン味に満ちた構図や、エピソード(ダンピング商法で独占受注とか)だけでも、人をあっといわせる才気と才能を持った「やり手の」(やりすぎ、の)画家だったことが窺えるのだけど、ヴェネローゼだけは、 画集で見ていても、何が独自の「売り」だったのか、さっぱり分からない。…空が青い位?
大体、代表作って何よ。ルーブルの「カナの婚宴」? ユーロスペースで観た「パリ・ルーヴル美術館の秘密」にも出てきたあれか。あの大きいだけの絵。ちょっと 読んだ限りでは、ヴェネローゼはティツアーノが高齢で引退したため、壁画装飾の第一人者の後釜に座った人らしい。いますね、こういう、本人の才能と関係なく、タイミングに恵まれて出世する人。
まぁ、実物を見ないと何とも言えないけど。ヴェネツィアでの最優先事項はティッツィアーノとティントレットで良いや。あと個人的にはより重要なボス(ボッシュ)の絵がドゥカーレ宮殿のどこかにあるらしいので、見逃さないようにしないと (コッレール博物館に出ているという説もあるようだけど)。ていうか、最優先じゃないじゃん(^^;;>ヴェネツィア派
「美の巨人たち」は夏の夜に相応しく?絵金の紹介。挿入されるミニドラマも、年に一度の逢瀬の祭りとか、悪ノリ気味の演出で。と、そんなことより次回は、ブリューゲルの「バベルの塔」! 絶対、見なくては。
頼んでいたコンタクトが店に届いたので、交換しに行く。見え辛かった右目の度を上げて、大きかったサイズも一つ小さく して(感じとして、重かったので)。これでようやく両目で自然な景色が見えるように。何で最初からこうしてくれないのかと言いたいが、交換自体は無料なので(診察料は掛かったけど)、終わりよければそれで良し。
ル・シネマの平日夜の上映なんて、どうせガラガラでしょ、とBook1stで時間を潰してから、15分位前に行ったところ、ロビーに人が溢れている! 実は、今日が最終日 かつ最終上映だったらしい。知らなかった… それにしても、最後の最後になって来なくても良いだろうに。皆、夏休みの宿題を8月31日になるまで手を付けないタイプだな(お前もな)。
何とか座れたけど、立ち見まで出る盛況振り。ここで満席だったのは、押井守レトロスペクティブ以来。って、考えてみたら、それ以来、ここで映画観たこと無かった。
この前書いた通り、風景の予習が目的で、映画自体には期待していなかったのだけど、いや、意外にも良かったです。佳作といった感じ?
冒頭、ひょんなことからトスカーナのツアーに参加するまでの数分間のテンポの良さと、僅かな描写の積み重ねで状況を的確に理解させる無駄のない脚本に、まず感心。見終わってから知ったのだけど、監督 (本作が2作目)のオードリー・ウェルズは、脚本家出身で、この映画の脚本も書いているらしい。なるほど。
ちなみに「Shall we ダンス?」アメリカ版の脚本も書いているという。脚本家が彼女なら、ちょっと観たいかも。
タッチストーン・ピクチャーズの恋愛映画らしく、都会的(上品で抑制されている)な演出。田舎の話なんだけど。舞台としては「イタリア映画」だから(作中で、フェリーニが何度も言及、引用される)、イタリア映画風にもっとベタで大らかな演出でも(景色の良い所では、1分位ぼーっと写しているような)良かったと思うけど、だらだら長くせずにまとめているのには好感。
失恋した女性がイタリアで素敵な恋に巡り会えた(はーと)という、「旅情」以来のストーリー自体はどうかと思いますが。でも、ベースは原作小説通りというか、原作者の体験談らしいので、そういう人もいる、ということで。「それはアメリカ人女性がイタリア人男性に期待する台詞ね」とか、セルフ突っ込みも入れてるけど。
主人公のダイアン・レインは適役。かつての「リトル・ロマンス」の美少女も今やガッツ溢れる中年おばさんになっちゃったのね(しみじみ)。でも、普通のおばさんがやったら身も蓋もないわけで、彼女だからそれなりに絵になるというか、説得力があるのかと。
全体に物足りなさは感じるものの、くどくないところが美点かも。トスカーナに全く興味のない人でも観ても悪くはないと思う。少なくとも私は得した気分になれたので。
家の近所の広場では、夏休みの子供達を対象にしたラジオ体操の集会を、朝の6時半からやっていて、私はその広場の前から6:32のバスに乗るため、前奏曲?の「新しい朝が来た」というあの歌詞を毎日聞かされる今週 。なのだが、この集会が行われるのが、最初と最後の1週間ずつだけ、というのが何となく腑に落ちない。
体裁だけ繕っているというか、こういうのって、夏の間中、やるものじゃないの? 子供達も忙しくて、40日間も参加してられないんだろうけど。いや、まぁ、私も昔から早起きが大の苦手で、この手の集会に参加したのは、早朝(5:55位)に再放送していた「ウルトラQ」がどうしても見たかった小4の夏休みだけだった(見終わってから行った)覚えがあるけど。
…改めて振り返ると、当時から、行動原理が駄目過ぎ(そして、現在に至る)。そういえば、小3の頃も、人はいずれ亡くなるという事実に漠然とした不安を覚えつつ、『とりあえず、「ウルトラセブン」(当時、何度目かの再放送中)の最終回を見るまでは死ねない』という「生き甲斐」を発見して、解決したんだっけ。
恥ずかしながら、この歳まで「嵐が丘」を読んだことがなく、どういう話かも知らなかった。思い描いていたのは、夏にヒースの花が咲く位の荒涼とした土地の物語らしい(嵐が丘という丘に片方の家があると思っていた)。ヒースクリフとキャサリンという二人の大恋愛の話らしい。ハッピーエンドではないらしい。という程度。 あと、手旗信号での会話(それは違います)。
要するに、「風と共に去りぬ」調のロマンティックな、大メロドラマの「名作」と思っていたのだが。
…全然、違うじゃないですか。ヒロインの一人であるキャサリンが物語半ばにして、既に亡くなってしまうのも、意外だったけど、何より衝撃的だったのは、優美とかセンチメンタルとかいった、恋愛小説に抱きがちな先入観を風速40メートルで吹き飛ばす暴力的な作風(実際、ヒースクリフを初めとして、登場人物は暴力的で歪んだ性格の持ち主ばかりだし)。しかし、一方で非常に知的に構成された作品という印象も同時に与えるため、一体、これは何?と言いたくなる。
昨年出たばかりのこの新訳(この新訳については、評価は極端に二分しているようだが、個人的には読み易かった)で、原作の(そういった複雑な性格の)見通しはかなり良くなっているらしい。何がよく見えるようになったかというと、逆説的だが、語り手の不透明さ。
主人公達の乳母や使用人だったネリーという女性の語り、という形式で、<嵐が丘>と<鶉の辻>という二つの屋敷で過去から現在までに起きたことが語られるのだが、このネリーの見聞きしたことが限られる上に、話は前後し、しかも話していることがどこまで客観的に正しいのか、どこまで信じられるのか (結構、嘘吐きである)、全くもって、よく分からない。
更に、このネリーが中立的な話者、観察者ではなくて、登場人物の行動にあちこちで関与している、いや、むしろ動かしている(大抵は、悪くなる方法に)とさえ言えるため、語り手が犯人(の少なくとも共犯)の叙述ミステリを読んでいるような、 ひどく不透明な世界を読み進むことになる。
ミステリと言えば、この作品は細部に至るまでシンメトリーが貫かれていて、本の冒頭に添付されている二つの家系図などは、あんたは麻耶雄嵩かと言いたくなる程の完全な左右対称振り。
シンメトリーの構造であるということは、対称と対照。即ち、何かと何かが比較されている筈なのだが、そこからが難しい。例えば、教育による人格陶冶という物語から、「生まれ」と「育ち」とにおける後者の優位を語っているようでもあるのだが、それだけとも言い切れず、また 物語の終わり方を巡っては、幻想の恋愛と現実の恋愛が同時に成立しているようでもあり、どちらかの優位性を語っているようでもあり。
全てに作者の意図を感じるものの、その意図が何か、(普通に1回読んだ位では)読み取り切れない。結局、ヒースクリフの恋愛/復讐は「勝った」のか、それとも「負けた」のか。私の印象ではそう単純ではなく、「勝ったことで負けた」か、「負けたことで勝った」 のではないかと思うのだが…
最後には全てが説明され、明らかになるのが「名作」だとしたら、これは決して「名作」ではないが、その代わり「傑作」と呼ぶのが相応しい、数少ない作品なのかも。
ところで、「嵐が丘」は、ウィリアム・ワイラー、ルイス・ブニュエル、ジャック・リヴェットといった名だたる監督によって、何度も映画化されていて、その違いも興味深いようなのだが、一度観たいのは、やはりメキシコ時代のブニュエルによる「嵐が丘」。原作以上に狂った愛の映画らしく、多分、唖然とする しかない作品になっているのではないかと。
ちなみに、原作のヒースクリフとキャサリンの関係は、いわゆる他者への恋愛とは違っていて、元々一つの存在が無理矢理引き裂かれたことへの反発作用みたいな感じ。プラトニズム(というか、アリストファネスの話)?
本屋に行ったら、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの今月の新刊「花の魔法、白のドラゴン」(徳間書店)がもう出ていた。うわっ、ぶ厚。
「嵐が丘」の感想はもう少し後にするとして、エミリー・ブロンテの次は、シャローット・ブロンテ。中でも「ジェイン・エア」(または「ジェーン・エア」)を文庫で読む場合、岩波文庫と新潮文庫のどっちがbetterなんだろうか?(「高慢と偏見」ではハズレを引いたらしいので、事前に気にしている)
集英社文庫だと吉田健一の訳らしいのだけど、本屋ではまず見付からないだろうし。まぁ、思い入れも特にないので、岩波でも新潮でも、最初に見付かった方で良いか。
細部はともかく、行く以上は往復の日程は変わらないので、思い切って、航空券をネットで予約購入。PEXの35日以上前売で、126,600円。これで、机上の計画から進展。後戻り出来なくなったというか。一方、月初に予約しておいたツアーは今の内に、キャンセルしておかないと。
NODAMAPの次回公演、「走れメルス」の再演の一般前売日は10/16、ということはプレリザーブや先行予約はその1,2週間前ということで。…いないじゃん、私。初期作品の今現在における有効性がどれ位か、この機会に確認しておきたいんだけどな。
この前読了した「嵐が丘」について語りたいのだけど、ちょっとここ数日余裕がないので、また後日。
アッシジの代わりとして、ローマへの途中駅アレッツォ(フィレンツェから4,50分)を考えたのだが、その場合、コルトーナへ寄らないのは勿体ないけど(バスで1時間)、それでは一日掛かりだし、アレッツォも駅のコインロッカーは残骸らしいし、と散々悩んだ末、最初からコルトーナへ(最寄り駅経由で)向かえば、電車1時間15分+バス12分だけで着くことに気付く。(ようやく発見した「コルトーナへの行き方」)
であれば、荷物はフィレンツェのホテル(or駅)に置き、コルトーナへ半日、日帰り旅行した上で、フィレンツェからローマに特急で移動すればOK。フラ・アンジェリコのもう1枚の「受胎告知」がある以上、コルトーナは是非行ってみたい街だったし、それにトスカーナ地方の田園風景の中の小さな街を訪ねることが出来るのも魅力的。大都市だけの旅行なんて、つまらないので。
これは迷うまでもなく、コルトーナ行きに決定。決まってみれば、最初から望んでいたことにようやく気付いたというか、探していたパズルのピースが有るべき所にピタリと収まった感じ。今日こそは間違いなく、一歩前進した気分。
ちなみに、アレッツォよりコルトーナを選んだのは、端的に言えば、ピエロ・デッラ・フランチェスカよりフラ・アンジェリコ、という画家の選択なのだけど、もう少し分かり易く言えば。
「ライフ・イズ・ビューティフル」(あの広場は、アレッツォのグランデ広場が舞台)でも、「ノスタルジア」(アレッツォ近郊モンテルキの「出産の聖母」、但し、実際には複製を使用)でもなく、「トスカーナの休日」(コルトーナが舞台)の風景を選んでみた、ということ。…却って、分かり易くない?
とはいえ、「トスカーナの休日」は実は未見な私。というか、この前、Bunkamuraに寄った時、ポスターを見掛けて、タイムリー!と驚いただけで、観る予定は全然無かったんだけど(^^;; この際、予習?として今週にでも観に行ってみようかな。
NHKスペシャルの光琳「紅白梅図」の話はニュースで知っていても、思ったより面白かった。こういう話は、結論を聞くだけじゃなくて、ディテールまで必要なんだなと思う。
旅行の計画を一歩か二歩は前進させるべく、ネットで旅行記を中心に情報収集。
イタリアの旅行記は溢れているので、自分に近い趣味を持った人を探そうと、ジョットの壁画がある「スクロヴェーニ」礼拝堂で検索してみると、その内の少なくないページが、「大塚国際美術館」の話だった(^^;; どうせイタリアまで行くのなら、スクロヴェーニ礼拝堂(Web Gallery of Artのページ)を見る位の贅沢は言わなくちゃと、決意を新たにする (20日前と言うことが違う)。
スクロヴェーニ礼拝堂は1回に25人しか入れないので、事前に公式サイトで要予約、というのはガイドにも載っているので、旅行に直接役に立つ情報は余り無かったのだけど、ジョットが見たハレー彗星が壁画に描き込まれているという文章を眼にする。え、そうだったっけ?と1枚ずつ見直すと、どうやらこの絵のような。「マギの礼拝」の図。そうか、これって、あの導きの星なのか。ちなみに、私は遠い昔、幼稚園(キリスト教系)のクリスマス会で、この博士を演じて、「星に導かれて、ここまでやって来ました」といったような台詞を喋りました(だから、何)。
ところで、ハレー彗星の探査機って確かジオットとかじゃなかった?とふと思い出して検索してみると、ビンゴ! この絵に因んで名付けられた名前だった。あ、珍しくSF系な話題かも(^^;;
役に立ったといえば、同じくジョットの壁画がある街のアッシジの駅前で、(「地球の歩き方」の情報とは違い)荷物預かりを拒否されたという方の旅行記(今年のGW)が。うわ、私も「地球の歩き方」のその情報を元に、駅前に荷物を預けて街まで往復という予定でいたのに。テロ対策ではないか、という話らしいが、そうだとすると、現在も状況は改善していない見込大。気にしても仕方ないが、イタリアもテロ組織に名指しで狙われている国なので。とはいえ、預けることが出来ないとなれば、アッシジ途中下車プランは諦めた方が賢明 か。
フィレンツェ、あるいはローマから日帰り往復だと時間を使いすぎるし、困った。…待てよ、スクロヴェーニ礼拝堂を見るのなら、アッシジにそれほど拘らなくても良いのでは? 泊まるのなら魅力的な街だろうけど、サン・フランチェスコ大聖堂の壁画自体はスクロヴェーニ礼拝堂には及ばないし、清廉な聖フランチェスコ本人には親しみを覚えるものの、巨大な大聖堂を建てることで組織の安定拡大を図ったフランチェスコ会は、その正反対の存在として、むしろ私が嫌悪するタイプの組織だったわけで。
となると、街で言えばシエナとかサン・ジャミニャーノだって良いわけだし、絵画を目的にするなら、ウルビーノやアレッツォのピエロ・デッラ・フランチェスカの代表作とか、コルト ーナにあるもう1枚のフラ・アンジェリコの「受胎告知」を目指す、という選択肢もあるわけで(時間的には更に困難かもしれないが)。
あるいは、無理せず、フィレンツェの滞在時間を半日延ばすべきか。
そんなわけで、半日使った結果は無駄知識が多少増えただけで、計画自体は何も進まず。てゆーか、一歩後退?(能登麻美子声で)
眼鏡っこ週間は昨日でお終い。
数日の内に、階段もそれほど違和感なく降りられるようになってきた、ということは頭の中がこの平行線が歪んだ世界に慣れてきたということで、それはそれでちょっと恐いので。まぁ、視界が逆さに見える箱を被っても一週間もすれば歩けるようになるらしいので、『人間はどんなことにもすぐ慣れる動物である』(ドストエフスキー)というだけのことかもしれないが。
e+のメールで、「赤鬼」の追加発売のお知らせが。一般発売日や、この前のBunkamura/ぴあの追加発売日には予約出来る状況になく、日本バージョンのみ購入出来ていなかっただけに千載一遇のチャンス!と画面を眺めていた1,2分の間に希望日が全て売り切れ。
思わず、残り唯一の夜間、10/12(火)のチケットを取ってしまったのだけど、10日間の旅行から前日夕方に帰ってきた翌日から仕事、というその初日の夕方、というのは、あらゆる意味で無謀過ぎ。
溜まっている(だろう)仕事の中、開演時間に間に合うのか、間に合っても見る気力は残っているのか。寝不足に耐えられるのか等々。まぁ、その時はその時、ということで。
しかし、いかに無謀な私でも、その前日の新居昭乃のライブについては最初から諦めざるを得ず。うー、本当は今年で一番行きたいライブなのに。…どう考えても、開演までに東京まで辿り着かないから。いや、向こうを午前発の便にすれば、成田も午前着になるなぁ、と一瞬思ったが、やっぱり、そのコンディションで会場に直行しても絶対寝るだけだろうし。
と思ったが、よく見たら10/10(日)。それじゃあ、絶対無理だ(^^;;
予約と言えば、イタリアの主な美術館は、タビニ内のWeekend a Firenzeでオンライン予約が可能なことに先ほど気付いた。予約料4.47ユーロが別途必要らしいけど、国際電話を掛けることを思えば、そう変わらないし、聞き間違いをするリスクもなく手軽で便利。ウフィッツイ美術館と「最後の晩餐」だけはここで予約しようかと。
というか、そろそろ計画を煮詰めないと。
「嵐が丘」を読み始めたのだけど、漠然と思い描いていた語り口と随分違っていて、ちょっと意外な感じ。
6月の「時の町の伝説」に続き、先月、徳間書店から出た作品。こちらはD.W.ウィン・ジョーンズ作品の中でも、普通に面白い作品だったので、満足。
「呪われた首輪の物語」などと仰々しいタイトル(といっても、原題は「POWER OF THREE」と至ってシンプル)、壮大な物語が始まるかのような書き出しなのに、終わってみれば、割とこぢんまりとした話だったのが、妙におかしい。まぁ、それも含めて、常識と思っている価値観が(他者によって)相対化される様が、この作品の面白さなんだけど。
出来の良い姉や弟に挟まれて自分の存在意義をくよくよ悩む、ファンタジーらしからぬ主人公が、いかにもジョーンズらしい。他にも魅力的な、活き活きとしたキャラクターが沢山出てくるだけに、もう少し詳しく語ってくれても良いのでは、と思うものの、幾らでも伸ばせそうな話を、この分量でさらっと綺麗に終わらせるのが、彼女の信条なのかも。
途中で明らかになる驚きの設定は、日本人の読者なら佐藤さとるを連想したくなるところだけど、実際にはメアリー・ノートン辺りが当然、意識されているのだろうな。
ところで、「時の町の伝説」「呪われた首輪の物語」を含む、徳間書店3ヶ月連続刊行だけでも、かつての飢餓状態を思えば凄いことだけど、実は、他の出版社からも続々とダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品の翻訳が出る予定らしい。
徳間書店 8月の新刊『花の魔法、白のドラゴン』(田中薫子訳) 8月30日予定
早川書房 ハリネズミの本箱『星空から来た犬
』(原島文世訳) 9月予定
小学館 『ヘックスウッド』(駒沢敏器訳) 不明(早くても11月以降?)
東京創元社 創元推理文庫 (デイルマーク王国史)
第一部『詩人(うたびと)たちの旅』(田村美佐子訳) 9月刊
第二部『聖なる島々へ』(田村美佐子訳) 10月予定
第三部『呪文の織り手』(三辺律子訳) 11月予定
第四部『デイルマークの王冠 上下』(三辺律子訳) 2005年1月予定
まるで夢のような、怒濤の翻訳ラッシュ。勿論、「ハウルの動く城」劇場公開を当て込んだ、いわばジブリ・バブルが背景にあるわけなのだが、ここまで一気に出るとは思わなかった。まさに、ジブリ様々である。映画「ハウル」が例え、どんなに原作をないがしろにしていたとしても、ここまで翻訳を世に出したという功績だけで、充分許せそうな気が。
特に創元推理文庫のデイルマーク王国史は、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの思い切り長い話を一度読んでみたかった者としては、期待大。
しかし、東京創元社といえば、ジョナサン・キャロルの待望の新刊が今年こそ出る、という噂は一体、どうなってしまったんだろう。9月までの刊行予定にないということは、今年はあと3ヶ月しか無いのだけど…
先週は、個人的にはD.W.ジョーンズ週間。といっても2冊だけですが。
小説としては、今年初めてのD.W.ジョーンズの邦訳作品。ということで、楽しみにしていたのだけど。う〜ん、ジョーンズとしては珍しく、出来が今二つ位冴えない…
全ての歴史から離れた街があって、歴史の安定性を監視している、といった設定自体は面白いのだけど、その街の住人が危機に瀕したところで、そんな高みの見物を決め込んでいる連中なんかどうだって良いじゃんか、と醒めたまま読んでしまった。
ジョーンズはある種の設定マニアというか、世界設定を構築するのに夢中になる一方、ともすればそれが目的と化してしまう傾向があると前から思っているのだけど、それが悪い意味で強く出てしまっているタイプの作品。人の生き死に含め、他の「世界」を平気で操作する「時の町」の住人と、作者ジョーンズが、だぶって見えてしまう。 まさか、自己の作風に対するセルフパロディ?
もっとも、真の問題は、この作品の場合、他の作品だと初期設定に血を通わせる「家族の助け合い」の楽しさ、特に「兄弟(姉妹)間の友情」という要素がごく薄いことにあるんだろうけど。
せっかく第二次戦争開戦直後の英国で、疎開してきた少女が田舎の駅に降り立った途端、別の世界に連れ去られる、という魅力的な始まり方をしながら、それが活かされていないのももどかしい。というか、物語が(「時を駆ける」ファンタジーの構造としては)明らかに間違った終わり方を 迎えるのは、戦時中、小さな子供だった作者の当時の強い思いが発端にあるから、と想像すべきなのだろうか。こんな恐い世界からは一刻も早くいなくなってしまいたい、といったような。
そういった意味では、興味深い作品だけど、邦訳されている中では一番お薦めする気にはなれない一冊。
ちなみに、子供の頃、もしこの本に出会っても、恐らく「バターパイの話」としか覚えてないのではないかと。私の昔の記憶は、「ナルニア国物語」→ライスプディング、とか言 う風に、「何の料理が出てきた話」というレベルなので。まるで「ドリトル先生」の豚のガブガブ並だ(「ドリトル先生」シリーズ の記憶→豚と会話する一方、朝食用にソーセージを平気で炒める小説)。
昨日から、十数年ぶりにコンタクトではなくて、眼鏡で一日生活する実験中。題して、めがねっこ週間。
流石に一つは眼鏡が無いと、と痛感したのが先々月のコンタクト紛失(させられた)事件。一番必要としていたのもその時だったのだけど、そもそもフレームを選ぶにはコンタクトが入ってないと見えないわけで、実際に眼鏡を作ることが出来たのは、コンタクトを作り直した後の先月になってからの話。
もっとも、コンタクトさえ有れば、基本的に眼鏡は要らないわけだが(コンタクトだけで十年過ごしてきたわけだし)、作ったコンタクトの内、右をもう一度調整したいのだけど、行くと、またどうせコンタクトのし過ぎで表面が傷んでいるとか言われるわけで、少し眼を休ませてから店に行こう、併せて実際に生活してみることが可能か試してみよう、というのが、今回の目的。
何だかやけに回りくどいことをやっているような気がしないでもないけど。
眼鏡を掛けて二日暮らしてみた感想としては、当たり前だけど、慣れれば生活出来ないこともないかなと。下りの階段がフレームに入らない(ので想像で降りる)とか、丼がお茶碗のように小さく見えるとか、強い度数ならではの違いが慣れるまで大変だけど。でも、やはり、目の前の世界がフレームで仕切られている感覚は窮屈なので、コンタクトを直した後は、夜くらいしか使わなくなる見込み。
ここ数回の「忘却の旋律」をまとめて見たら、いつの間にか、スクリューボールコメディ映画におけるヘイズ・コード、みたいな展開になっている。
(注)ヘイズ・コード(プロダクション・コード)についての簡単な説明。要するに、新婚夫婦がベッドに腰掛けるや否や、猛烈な夫婦喧嘩(機関銃のような台詞の応酬)が必ず始まってしまう当時のスクリューボールコメディの面白さは、いわば、コードによる規制の産物でもあったということ。
そろそろ決めていかないと、準備が先に進まないので、今日は一日、部屋に籠もって、旅行の日程を再検討。結果はこんな感じに。
結局、最初に漠然と考えていたものと余り変わらず。まぁ、現地で8日しかないのに4都市(+2都市)を訪ねようとすれば、自ずから決まってしまう ような。アッジジで泊まるというプランも検討したのだけど、前が厳しくなるだけなので諦める。ツアーと違って、ピサやシエナ、ヴェローナも日程からカット。
イタリアといえば、タルコフスキーの「ノスタルジア」のロケ地を訪ねる、という昔からの夢もあるのだけど、今回は断念。場所自体は「CinemaItalia」などに書かれている通り、シエナ近くのサン・ガルガノ修道院(跡)とバーニョ・ヴィヴィーニの温泉(hotelのサイト。日本語!) だと分かってはいるものの、時間かお金を掛けない限り、なかなか行けない場所であることを考えれば、シエナすら行かないこの日程ではちょっと無理。
大体、フィレンツェで行く場所が有り過ぎて収拾付かないような状態だし。ヴェネツィアも同様。どうせ個人で行くのならと、あれも見たい、これも見たい、と欲を言い出すと切りが無くなってしまうわけで。現実にはこれでは回り切れないと思うので、数をもう少し絞らないと駄目かも。
ちなみに、ローマで行く場所が少ないのは、そこまで考える気力がまだ無いだけ(^^;;
あとは、時間の細部を詰めた上で、飛行機のチケットを取って、前もって国鉄のパスを買うかどうか決めて、必要な美術館に予約の電話をそれぞれ入れて、各都市の宿を決めるだけ…って結構有るな。実は、この宿を決めるという段階がかなり苦手(決断力が無いので)。かといって、行ってしまえばケセラセラ、という楽天性は今は無いしなぁ。
行ってきました、県立近代美術館葉山館(の図書室)。
午後の3時間、ずっと読んでました。ヴァザーリの「ルネサンス画人伝」、じゃなくて小学館の「世界美術大全集」第11巻「イタリア・ルネサンス1」を。
ルネサンス期の画家達の面白可笑しいエピソード満載な(想像)ヴァザーリの伝記を読む前に、画集で作品の基礎知識を、と思ったのだけど、とてもヴァザーリまで辿り着けず。というか、この大全集、イタリア・ルネサンスだけでも3巻有るんですが、 最初の1冊を見ているだけで閉館時間。
建築家、彫刻家を除いた画家だけでも凡そ30人の概要と代表作を一気に読む(見る)と、お腹一杯。その大半が15世紀後半のしかもフィレンツェを中心とした北イタリアで活躍していたことを思えば、やはり綺羅星のごとく素晴らしい画家が登場した時代だったことがよく分かる。 といいつつスター中のスターである盛期ルネサンス御三家はこの11巻にはまだ出て来ないのだけど。
この中では、フラ・アンジェリコの清明な美しさに強く憧れつつも、それは、私のような者には所詮、手の届かない世界(だから、憧れるわけだけど)。一番、ツボに嵌ったというか、知れば知るほど面白かったのが、ピエロ・ディ・コジモ。変な海獣の絵を描いている人、という知識しかなかったのだけど、その絵も人物像も相当に風変わり。
ヴァザーリからの孫引きによれば、ピエロ・ディ・コジモは、いわば現在流行のヒッキーとでもいう人物で、室内で「動物じみた」(よく分からないが、整理整頓とかに無頓着な室内だったのではないかと)生活を送っていたという。ゆで卵に凝って一度に50個食べたことがあるとか、壁のシミで一日、空想(妄想?)に耽っていたとか、ジュリアーノ・ディ・メディチのために海の怪獣の絵を描き、怪獣ばかり描いたスケッチ帳を持っていたとか、どうみてもオタク的な、素敵なエピソードばかり。
…やっぱり、ヴァザーリ読もうかな、ピエロ・ディ・コジモの章だけでも。
彼の師匠はコジモ・ロッセリという画家(コジモという名は師匠から来ている)なのだけど、ロッセリはシスティナ礼拝堂での競作の際に、参加者の中で一番劣っていたにも関わらず、ウルトラマリンと金色を沢山使用して目立つことで、目論み通り、教皇に一番受けたという話が残っている、「ギャラリー・フェイク」辺りでこき下ろされそうな俗っぽい画家で、ヴァザーリは、その成功で一儲けしたものの、その後、錬金術に嵌って、金を浪費し、経済的に困窮して死んだ、という話を書いているらしい。
ピエロ・ディ・コジモの絵は妙に細部に執着するというか、どこか幻想的で、美術史的にはマニエリスムを先取りしていると言われており、例えば妖精画を描いていた19世紀の英国画家達と 雰囲気が似通っている。私は健康的なルネサンス絵画より、こういう方が親しみが沸くんだよなぁ(…私はやはり、ルネサンス向きではないのかも?)。
もっとも、いわゆるルネサンス絵画の象徴のように思われているボッティチェリの絵だって、内実は複雑というか、ラファエロ前派並に不健康な、虚ろな視線だったりするわけで(あ、だから 彼等は「ラファエロ前派」なのか)、そう単純なものでもないようだけど。
ちなみに、ピエロ・ディ・コジモといえば、あの、蛇を首に巻いている「シモネッタ・ヴェスプチの肖像」の画家として有名。澁澤龍彦の読者だけかもしれないけど。Web Gallery of Artではこの絵(撮影が良くないが)。こっちが海獣の絵(本当はペルセウスの絵)。
閉館近くなって美術館を出、夕方の光に照らされた海を眺めてから、海辺特有の湿った生ぬるい空気の中を御用邸まで歩くと、あたかも海岸で一日、健康的なアウトドアライフを送った帰りのような気分に。ええ、まぁ、単なる錯覚なんですけど 。
展示概要によれば、コレクションの収集方針には複数の人物が関わっているらしいのだけど、会場に置かれた作品には、共通の基準があるような気がした。それは色彩の美しさ。特に沢山の色が画面に散りばめられているオモチャ箱のような絵が好きだったんじゃないか、と思わせられた。
例えばポロックやサム・フランシスのような画面上の絵の具の氾濫を目を輝かせて楽しんでいる姿が目に浮かぶ。きっと、会場のジャン・デビュッフェの「幸福の瞬間」のように (ちなみに、ここは笑うところ)。
決定的な作品は無い(とはいえ、ボナール「奥に面した広いダイニング」だけでこの前の「ボナール展」の全てを軽く上回る、という位の名品が並ぶ)ので、満腹感は無いものの、コレクター達の幸福感が伝わってくるだけで充分だと思う。
ところで、ROY LICHTENSTEINってリキテンスタインと書くものだとばかり思っていたけど、今回の展示はリクテンスタインだった。まぁ確かに、綴りを見る限り、クの方が正しそう。東京都現代美術館ではリキテンスタインだったような気もするけど。もしかして、クを使用する人達には、キだとダサいね、とかいったオシャレ感覚の違いが有るんでしょうか。
オシャレといえば、グッズshopで、5人の日本人クリエーターが今回の展覧会のために作成したオリジナルのTシャツというものを売っていたのだけど、こういうのは格好良い と思うべきなのか、私にはさっぱり分かりません。
スズキトモユさんのニュースな本棚「トラウマ児童文学」。
ああ、確かに「クラバート」はトラウマでした。「大どろぼうホッツェンプロッツ」的な作品を期待していただけにショックが大きくて。
他に子供の頃のトラウマ的な読書といえば… 「不思議な少年」とか「ガリバー旅行記」の馬の国とか、って児童文学じゃないか、それは。何かというと「悪魔の発明」みたいに、人類社会への復讐に燃えた博士が登場するジュールベルヌ全集にも、人類への憎悪心を刷り込まれましたが、あれも元は児童文学じゃないし。
私の場合、児童文学は、基本的には清く正しく?岩波少年少女文庫や福音館、それにアリス館新牧社で育ったので、トラウマ的な作品といってもそんなに無くて、むしろ絵本の方が多かったような。例えば、斉藤隆介の絵本は どれも恐かった覚えが。「モチモチの木」とか「ベロだしチョンマ」とか。まぁ、あれは滝平二郎の切り絵が既に恐いんだけど。
あ、トラウマとは少し違う気もするけど、一つ思い出した。絵本「おしいれの冒険」にドキドキした記憶は、数十年経った今でも残っている。黒い表紙、そしてねずみばあさん。
ルネサンス期の画家について簡単に予習出来る本が無いものかと、ここ数日、本屋を巡ってみたが、どうも適当なのが無い様子。レオナルドやミケランジェロについての本なら色々有るのに。まさか、東京書籍の画集「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」のシリーズを全て揃えるわけにもいかないし。
この際、思い切って、ヴァザーリの「ルネサンス画人伝」を読んでしまう方が、名前(とキャラクター)を覚える上では、いっそ早道か。と言っても、正と続の2冊で1万5千円もするような本を一々買っていられない。こういう時こそ、美術館の図書室。近所の県立近代美術館葉山館の蔵書を検索してみると、さすがに両方揃っている。この週末に読みに行こうかな。
今度はヴィスコンティだ! というわけで、今秋に予定されているヴィスコンティ映画祭。
ぴあは「観なくてはいけない」古典の紹介に力を入れていくつもりらしい。しかし、ヴィスコンティを今観たいかというと、う〜ん、ちょっと微妙。というか映画祭の前半、日本にいないし(予定)。戻ってきた後半も多分、腑抜け状態で、しばらくは映画を観に行くような気力はないだろうしなぁ。
ぼちぼちと、その旅行の細部を詰めようとしているのだけど、行きたい教会や美術館が増えるばかりで、一向に進まない。1週間程度なら、この前のツアー同様、4都市を縦断するのが一番無理がないので、ミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマ、あるいはその逆なのだけど、週末出発・帰国の場合、ヴァチカン博物館が大きなネック。
日曜休み、土曜も午前のみ。ローマが起点だと月曜まで見られないし、終点だと土曜の午前に行くしかない。ここが、日曜日を安息日と決めた団体の本拠地だったということに、もっと早く気が付くべきだった 。
今回のテーマはルネサンスで、ローマ人のローマではないので、ローマよりフィレンツェで時間を取りたいのだが、そんなわけで結局、各2泊という日程は動かせず。ツアーの日程というのは、なるほど、全て意味があるわけだなと納得。土曜に行くと、さぞかし日本人の団体を含めた団体客で溢れているのだろうだけど、まぁ仕方ないな。
今年は花火をほとんど見ていないため、今日の隣街の花火大会を少しでも見よう、と帰宅後、住宅地の外れの丘まで急ぐ。ようやく上まで辿り着いたのが、終了直前(2分前)だったのは、それでも間に合って幸運だったと思うべきなのか。昔は もう少し長いことやっていたんだけど… 不景気のせい?
この日は毎年、遠くの花火も見えるのだが、今年は更に伊豆半島の方角にも、豆粒のような花火が上がっているのを発見。帰ってから調べると、寒川の花火大会と、伊東の花火大会らしい。…一度に3つも見られて得した??
ところで、住宅地の外れから丘までは、鬱蒼とした林の中の小道を行くのだけど、真っ暗な中、懐中電灯だけを頼りに歩いてみたら、何だか凄く楽しかった。 こういう戸外の闇の感覚を久しく忘れていた気がする。
オースティンならこの新書の紹介がまとまっている、という話を聞いたので。なるほど、その生涯と作品について基本的なことは網羅されていて、作品を読んだ者にとっては、ほぼ肯ける記述が大半。
例えば、大学の教養で、来週までにオースティンについてのレポートを提出せよ、と言われた時(しかも、一冊も読んだことがないときたら)、種本として凄く役立ちそうではある。しかし、他にこの本をまず読むべき読者がいるかは疑問。というのも、彼女の小説の粗筋に関してネタバレ全開、というか粗筋の紹介がメインでそれに若干の感想が付け加えられている内容は、オースティンの未読者にとって、 彼女の小説を読む際の最初の楽しみを削いでしまう筈。
若干の感想の部分も、著者が私淑するデイヴィッド・セシルという評論家の著したオースティン論の紹介が目立つばかりで、これでは、人の意見で飯を食っているというか、「横書きを縦書きに」しているだけ、と言えなくもない。
新書という性格上、著者の独創性という点は目をつぶるとしても、未読者を誘うのが役目だと思うのに、これでは「読まずに分かるオースティン」でしかないような。
まぁ、唯一参考になったこととしては(他の本にも書いてあるけど)「ジェイン・エア」のシャーロット・ブロンテとオースティンは小説観という点で全く相容れない存在だったということ。ということは、オースティン作品が面白かった私の場合、シャーロット・ブロンテは全く駄目、ということか。この次には、ブロンテ姉妹を読む予定なんだけどな…
ここで先月の話に戻るわけですが。
今年の6月に、(岩波文庫としては)出たばかりの新刊。今回、オースティンを読もうと思った理由としては、これがちょうど出たことも大きかった。200年前の作家が、日常的に姉に書いていた手紙といえば、どういうものなのか興味を覚えたので。
内容の大半は、姉妹間の「他愛ない」日常の便り。しかも、話題としている近隣の「誰それ」の消息に関しても、人物自体、よく分からない。まぁ、言ってみれば見ず知らずの他人の姉妹の会話を耳にするようなものなのだが、しかし、それが結構面白い。
というのは、気心の知れた姉妹の間の親密さと、小説でもお馴染みの辛辣なユーモアが加わって、第三者が読んでも、この手紙のやり取りが日々の生活の大きな楽しみだったんだろうな、と窺える楽しい文章になっているから。
当時の手紙のやり取りは、今で言う長電話みたいなもので、当時は受取人が配達料金を支払う制度だったため、(コレクトコールで掛ける以上)相手を楽しませようとするのは当然だった とはいえ、それ以上に「書いて伝える」こと自体が好きだったのがよく分かる。
面白いのは、やはりディテール。
20代の頃の「怖い物無し」な、ある意味エマのような青春時代の恋愛(未満?)。帽子に花を飾るのが流行っていて、最近では果物(の飾り)を付けるのが最新流行だとか言ったファッション情報。この街にはアイスクリームが無いので駄目、といったいかにもアッパーミドルクラスらしい贅沢な文句。トワイニングに、ツケが残っているけど、余裕が無いので暫く払わないでおく、といった生活風景。姪に対する小説指南(知らないことを書いてはいけない)。皇太子への献呈にまつわるやりとりに困惑(迷惑)している様子。
これら書簡はオースティンの人生のごく一部でしか無かったのは言うまでもないが、しかし、その一部を通して、全体としては家族の愛に支えられた人生だったことも分かる。綺麗な書簡体小説を読み終えたような満足に浸る。
…ところで、今までの岩波文庫は全て「ジェーン・オースティン」なのに、これだけ何故「ジェイン・オースティンの手紙」なんでしょうか? 訳者の強いポリシー?
秋休みは「イタリア旅行」にするところまでは決定。やはり、ジェントルマンになるためには、一度は「グランド・ツアー」に出掛けておかないと<それは英国の貴族子弟の話だろう。
実は、パッケージツアーも既に予約済。これですが。ツアー名が、あのコバルト小説の最新作と、どこか似ている気がするのは、単なる気のせいです。
ただし、コース的にはこれしか無いと思うもの、阪○トラ○ックスより安い、という驚きの低価格だけあって、色々凄そう。今時、朝食はコンチネンタル(パンとコーヒーのみ)だし、設定人数40人だし、ホテルはツアーで使用する最低クラス(のしかも、シングルルーム)だし。いかにも、団体旅行という感じの詰め込み方は話のネタ的にも、一回体験してみたい気もするけど。
かといって、他のところで似たようなコースを探すと、+10万円も余計に掛かる上に、宿と食事はともかくコース自体は改善どころか悪化するのがネック。良くなるんだったら、それでも考えるんだけど… 結局、昨年同様、一人で旅行をする計画を立てた方が良いかな、という気分に段々なってきた。
というわけで、暫くは資料集め。都市とか美術とかこういう方面を一覧するなら、まずINAXの本屋かな、と昨日行ってみる。ここは、ある種の本が文庫本から大判の画集まで一箇所にある、という雰囲気が凄く好きなので。自由に使えるお金と置き場所さえあれば、「ここの本、全部買いま〜す」とミー姉のように言ってしまうに違いない。
ついでにギャラリーに寄ってみたら、やっていた展示。ちなみに、ビルを建て替えていて、本屋もギャラリーも今までと場所が変わっていたのには驚いた。1Fの本屋なんか、ギャラリー側からだと、非常ドア?を開けないと入れない、秘密結社のような造りになっているし(あの入り口だけだったら、更に素晴らしかったと思う)。
設計という観点から動物園を取り上げた珍しい企画。展示といっても、要するに設計図と模型と写真位なので、「動物園という施設の設計に関心を持っている人」という極めて対象者の狭い企画ですが。上野動物園の飼育日誌(園内全部で1日1枚らしい)のコピーが貼られていて、こういうのに興味がある人には貴重な展示かも、とは思った。あと、こういう施設の設計をする建築事務所が専門にあるんだな、と。当たり前と言えば当たり前なのだけど。
とはいえ、動物園という施設の存在自体を肯定出来ない私にとっては、好奇心以上の関心は持てず。動物の保護は必要なことだとしても、そのために観客が見る必要はない筈。そこでは施設の運営維持と見せ物としての興業価値がバーターにされているわけだけど、それはかなり前時代的な発想で、今後も疑いもなく続けて良いことだとは思わない。
生きた動物を飼育、展示することが生態系の再現であるならば、どうして生きた人間も一緒に展示しないのか。という問いを発してみれば、この動物園という施設のある種の欺瞞 性というか忌まわしさが理解出来る筈。西欧的なヒューマニズムを自明のものとして初めて存在しうる施設。
ところで、私は動物園というものを考える時は、いつも、別役実の「けものづくし」の巻末のエッセーを思い出してしまう。
それによれば、動物園とは19世紀以降の近代人が「人間」とは何かを自覚するため、そうでないものと対面する必要から作った施設であり、18世紀における「精神病院」に当たるものだという。しかし、今や「人間でないもの」は更に後退している。水族館や爬虫類館の人気が上昇しているのも、そのせいである。
従って、今後、「動物園」が辿る方向は、「陳列する動物を哺乳類から爬虫類、爬虫類から両生類、両生類から魚類、魚類から無脊椎動物へ」と移行していき、21世紀の「動物園」では「そこにはもう既に、動物なんかいない。ただ《竜安寺》の石庭のように、そこここに手頃な大きさの石がぽつんと置いてあるだけ」になるだろうと予想する。というのも、その時代、「人間はもう、人間というものが石ではない、という程度にしか人間を理解出来なくなってしまう」 からなのだ。
現在の状況を少しずつ演繹する内に、ついには途方もない「結論」を導き出してしまう別役実お得意のレトリックという捉え方も出来るけど、私は、この「動物園」の風景、寂しいけれど、嫌いではない。そういう時代が来たら、初めて「動物園」は、私のお気に入りの場所になるかもしれないと思っている。
昨日、要らない、と書いた(も同然な)「まるごと川原泉」の本体の方だけど、改めて読んでみると、端が空いているページのあちこちに「おまけのウンチク」が書き込まれていたりするので油断が出来ないのだった。多分、この大半は川原泉自身で書いていると思う。少なくとも、次のような文章は間違いなく。
ショバ:「場所」の倒語で俗語。特に露天などの縄張りをさす。テキヤ系、暴力団系の方々が、主に用いておられる言葉である。こなれた使い方をするためにはかなりの熟練とそれなりのファッションが必要。
思慮深い:「思慮」とは注意深く考えること。「思慮深い」とは注意深い考えがさらに深いのであるから、底知れず深慮な思想を持つ人のことであろうか。「何も考えていないだけ」なのにそう見える人もいるので注意。
↓これもまた一昨日の話。なかなか今日の分まで辿り着きません。
絵描きとしてのトーベ・ヤンソンを取り上げる展覧会。
最初に置かれているのは油彩画の数々。芸術家夫婦の娘として生まれただけあって、決して凡庸ではないのだけど、うーん、物足りない。あっさりし過ぎているというか。
一方、メインとなる「ムーミン」シリーズの挿絵の原画の数々は、予想以上に小さい画面にペンで緻密に描かれていて、見ている者を引き込む。色彩よりも、線の画家だったと言えるのかも。「彗星」の頃の、黒々とした風景の中に豆粒のように見えるムーミン達、といったドラマティックな画面も良いのだけど、個人的に一番嬉しかったのは、「仲間たち」の中の、姿が見え無くってしまった女の子ニンニが姿を取り戻した後の笑顔の絵があったこと。あの笑顔は良いです。
最後は、漫画版「ムーミン」の原画とか、「ガルム」という雑誌の表紙とか。雑誌の方は、風刺画という奴なんだろうけど、正直言って、今一つピンと来なかった。
グッズ売り場は、平日夜7時過ぎにも関わらず、結構いい歳をしたおばさま方(ムーミン世代?)中心に、繁盛。ここで気付いたのだけど、ちびのミイって実は魅力的なキャラ なのかも。フィギュア買おうか、と割と真剣に思ったので。ついでに、奈良美智の女の子を最初に見た時の既視感は、あれはミイだったんだ、とも思い当たる。
書籍は当然ながらムーミン中心。後半生に書いた小説もあったけど、昨年読んだ彼女の日記「島暮らしの記録」は何故か置いてなかった。…たまたま?
ところで、今回、一番の収穫だったのは、トーベが描いた「不思議の国のアリス」の原画が見られたこと。2枚だけだったけど、それだけで、トーベ・ヤンソンが、(テニエルを除いた)最高のアリスの挿絵画家の一人だと分かる素晴らしさ。同じくファンタジー作家としてもイラストレーターとしても名高いマーヴィン・ピークの「アリス」と匹敵する位。
トーベ・ヤンソンの「アリス」も手に入れたい、と思いつつ帰宅。ピークの時はamazonの洋書コーナーであっけなく購入出来たので、同様に探してみたが、英語版はないのか、見付けられず。しかし、ネットというのは 何とも便利なもので、探している内に、挿絵画家としてのトーベ・ヤンソンの仕事を見ることが出来るサイトがあるのを知る。
「Zépé's Virtuelles Muminforschungszentrum」→Illustrationenで、トーベ・ヤンソン描くところの「不思議の国のアリス」が、「スナーク狩り」が、「ホビットの冒険」が!
見て頂ければ一目瞭然、「ムーミン谷のアリス」「ムーミン谷のビルボ・バキンズ」という趣だけど(^^;;、どれも傑作。男性が描くところの少女像と違うアリスも興味深いが、チェシャ猫の凶悪そうな笑顔が最高です。
何かしら書くだけの話題(自分にとっての)は毎日ある気がする今週なのだけど、余裕が無くて、書く方が全然追い付きません。
昨日購入した「メロディ9月号増刊 まるごと川原泉」。
要するに、過去の短編の再録雑誌、の川原泉版、なので、単行本に加えて、白泉社文庫版まで全て所有している者にとっては、ほとんど有り難みがないなぁ、と思いつつも、単行本未収録の2本が載っている以上、川原教信者としては、やはり購入せずにはいられないのだった。
というか、それだけで良いのに、と思いながら、ビニールを破くと、文庫サイズの付録になっていた。これだけ取っておけば良いや。
で、単行本未収録作品の2本は、「ドングリにもほどがある」「レナード現象には理由がある」。
最近(ここ1年の「メロディ」に)掲載されたものなので、絵柄についてはとやかく言うまい。内容的には、2本とも、優秀だけど無愛想なクラスメートの男子と、地味だけどマイペースな女子の心の通い合いを描く、例えば「フロイト1/2」や「かぼちゃ計画」みたいな、いわゆる川原泉らしい、読んでほっとする作品だった。
のだが、気になってしまうのは、彼女たちが、昔の作品の主人公に比べ、どこか自信を失っているように見えること。「誰にでもその人だけの才能がある」と改めて結論付けなければならないほど、「平凡であること」にアイデンティティやコンプレックスを 抱いている姿には、もっと自信を持ってよ、と言いたくなる。
「お気楽さ」と他人の評価を気にしない「ふてぶてしさ」こそ、川原泉作品のヒロイン(という言葉が全く似合わない気がするのはともかく)の魅力の源泉だったのに。
体調が今一つなせいか、化け物屋敷というか、千の部屋を持つ迷宮のような館に何故か迷い込んでしまった夢を見る。
ようやく最後には、嘗て親しかったらしい誰かの導きによって抜け出すことが出来たのだが、笑顔で送り出してくれるその人が誰だったか全く思い出せず、申し訳ないと思いながら、その場所から出たのだった。薄れ行く夢の中で、我ながら、それは人としてまずいだろう、と思った。
今月の「芸術新潮」の特集は「スペインの歓び」。
いつかまた行きたいものだ、と本屋でカタルーニャ地方の風景写真をペラペラ眺めていたら、芝山幹郎によるビクトル・エリセのロングインタビューが有ったので、驚く。一度挫折した、ヴェラスケスの「ラス・メニーナス」を題材にした映画の企画を今また練り直しているところらしい。考えただけでも魅惑的なその企画がぜひ実現して欲しいと思う。例え、10年後になっても。
新潮社の「芸術新潮」のサイト。エリセの記事も1Pだけ読めます(本人の写真くらいだけど)。
一晩経って考えが変わった。秋の旅行は、九寨溝は取りやめにしよう。
冷静になってみれば、黄龍はトルコのパムッカレと同じだし、九寨溝だって五色沼みたいなものじゃん(一万倍くらいスケールが違うけど)。一見の価値が有るとはいえ、何も優先して行くことはないよな。
というわけで、現在の心はイタリアに傾きつつある。果たして今が最適のタイミングなのかやや疑問だけど(イタリアは若い時に体験するか、あるいは、歳を取ってから楽しむのがベストな土地という気がする)、いつかは、と思っている内に、一生行けなかったら、それはそれで悲しいものがあるので、行ける時にとりあえず1回行ってしまえ、ということで。
今回は初めてなので、ウフィッツィ美術館やシスティーナ礼拝堂、「最後の審判」といった超基本な場所以外は、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂のジョットと、フィレンツェの聖マルコ美術館のフラ・アンジェリコさえ見られれば良しとします。ジョットならパトヴァのスクロヴェーニ礼拝堂を見なくちゃ、とか決して贅沢は言いません。と開き直れば、何とかなるかな…
そうと決まれば(いや、決まってないけど)、事前の予習か。まずは「GUNSLINGER GIRL」を最後まで見ないと(その発想はどこか間違ってます)。
でも、先月一杯、19世紀英国月間(というより、ジェーン・オースティン月間)だったので、行き先を英国にする考えもまだ捨てきれない。
没後刊行された、ジェーン・オースティン最後の作品。オースティンの小説というのは、まるで小津安二郎映画のように、どれも皆、ヒロインの結婚話なので、3作目ともなると( 本当は6作目になる)、またか、というマンネリ感は否めないのだけど、皆が言うように、この晩年の(といっても40代だけど)小説は、それまでと雰囲気がどこか違う。しみじみとした味わい深い小説というか。日本人的な感覚に直せば、気が付けば秋風が吹いている世界。小津安二郎なら、「秋刀魚の味」に当たるのは言うまでもない。
主人公アンは27歳の独身女性なのだけど、この時代では文字通り「オールドミス」を指すらしい。若さと自信に満ちあふれていたエリザベスやエマとは違い、一歩身を引いて静かに微笑 んでいるアンは、十代の時に読んだら多分、じれったい内気な女性にしか思えなかっただろうけど、今の私からすれば、一番、身近に感じられる存在で、その心理描写は非常に納得出来る。
「高慢と偏見」のように夢中で読んでしまう痛快娯楽小説ではないけれど、(恋愛映画として)映像化するなら、その繊細な美しさから言っても、一番向いている作品のような気がする。と思っていたら、やっぱり、既に映画化されているらしい。当然か。何故か邦題は「待ち焦がれて」だけど。(観た方の感想は結構良いみたいです)
19世紀の風俗描写ということでいえば、温泉町バースでのアッパークラスの生活風景が詳細に描かれているのが興味深い。
ちなみに、この小説もハッピーエンドでなければ、もっと傑作になったと思うのだが、それでは作者にとって書く意味が無かったのかと。
「夏休み」がほとんど取れなかった代わりに、「秋休み」を10月に取る予定なのだが、残り2ヶ月となったので、そろそろ真剣に使い道を考えることにする。
まぁ、順当に行けば、旅行だが、行くとしても、今年は気力が無いので、とりあえず気楽なパッケージツアーから選択しようか、という気分。問題はどこに行くかで、この季節ならではの観光地、といえば紅葉の名所。この際、九寨溝を是非訪れてみたい気もするのだが、その時期は中国の連休で死ぬほど混んでいるらしいのが悩みどころ。
ヨーロッパの中で、実は今まで避けてきたイタリアにも一度は行かなければ、とは思っているものの、ローマカトリックやルネサンス文化と、色々な意味で、自分の中で折り合いが付いていない状態で行ってもどうなのか、という感じもあって、ちょっと微妙。観光客として何も考えずに行けば、多分、非常に楽しい国なんだろうけど。
あとは、日程的になかなか難しい。いっそのこと衝動的に「ペルシア8日間の旅」とかに申し込んでしまうのも、それはそれで有り、かもしれない…
そんなわけで、全然定まってないのだけど、今週位には一応決めないといけないだろうな。
ちなみに、ヨーロッパで一度は行ってみたいところを思い付くまま挙げると、英国全土(スコットランド含む)>イタリア中北部>スペイン北西部>北欧>アイスランド、とい った感じ。ドイツだけは、行ってみたいと、今まで一度も思ったことがないのは何故だろう。
Comics。TAGRO「宇宙賃貸サルガッ荘」4巻。