NODA・MAP 「オイル」


 今回の舞台で、一番印象的だったのは、果たして拍手して良いのか(これでもう終わったのか)が今一つ確信が持てない、という躊躇いの空気がぎこちなく流れた、終劇直後の観客席だったような気がする。

 

 それまでの内容がつまらなかった、というわけではない。最初と同じ台詞が繰り返された以上、構成上、ここで終わり、というのも明白だった。それでも、観客が終わりをなかなか確信出来なかったのは、最後まで「救い」が示されることなく、終わってしまったからに違いない。

 今までの野田秀樹の作品では、どんな状況においても、最終的には何らかの「救い」となる方向性が言葉で示され、それによるカタルシスが、作品の感動と密接に結びついていた。それが「現実の世界」での救いではないとしても。例えば、厳しい二者択一を迫られる「半神」で、野田秀樹自身が演じる老数学者が言う「あの子には、声を作ってやろう」という台詞。あるいは、この作品と近いテーマを扱った「パンドラの鐘」で、古代の女王が国を救うために決断する台詞。

 今回の「オイル」では、そういう「救い」の言葉を発する登場人物はついに現れない。代わりに「復讐」という言葉を繰り返す富士(松たか子)は、そういう自分を止めてくれる言葉を、受話器の向こうの「神様」に必死で聞こうとするが、不在の「神様」からの答えなど得られるわけもないまま、戦下の風景のような闇の中に、彼女は姿を消し、そしてそのまま作品は終わってしまう。…これで本当に終わり?

 今までの作品では、他者への「呼び掛け」が、「救い」を呼ぶコミュニケーションのチャンネルとして機能していたのをずっと見てきただけに、今回の「つながらない」電話は驚きで、そして切ない。「当たり屋ケンちゃん」(「小指の思い出」)での凧のように、この糸がどこかに繋がっているという確信は、もうここにはない。電話機の向こうには、結局、誰も出ない。

 

 勿論、今回の作品で、「救い」が簡単に示されたら、それは「安易」だと誰もが思うだろう。あの戦争に関して、為政者が責任を全うして国を救う、という(もう一つの世界での)「救い」を見せたのが、「パンドラの鐘」だったが、同じ事をもう一度やるわけにもいくまい。

 しかし、かといって、ここまでで良いのか、というとそれは違うような気もする。時代と余りにもシンクロしてしまったことで多分、記憶されることになる本作だが、次回作以降で、「この先」が描かれない限り、それ以上の意味は見出せなくなるのではないか。

 それにしても、「アメリカでは石油と書いて自由と読むの」「石油を愛すると書いて、自由を愛すると読んでいます」という台詞の鋭さには、さすがという他はないのだが。

 

 舞台の演出としては、久々にモノを色々舞台に出したというだけあって、前後左右、そして上下から色々なモノや人が登場する様は見ていて、とても楽しかった。中でも、舞台奥に零戦を登場させるというのが、今回の見所だったとは思う。ただし、キーとなるイメージとしては、今回の作品は今一つ弱かったのではないだろうか。「贋作・桜の森の満開の下」の大仏とか、「パンドラの鐘」の鐘であるといった作品を象徴するイメージが今作でははっきりしなかった。

 それは台詞においても同様で、言葉遊びの末に真実が立ち現れる(「1/2+1/2は2/4」「スフィンクスの謎の答えはいつも人間」)快感は、ここには無かった。一番のキーワードである「オイル」は、「oil」であると同時に「老いる」でもあることが後に明らかにされるが、「キル」が「着る」でも「kill」でもあるといった話の末に「キルことは生きることです」という言葉へ発展する感動までは得られない。

 

 最初から最後まで充分に楽しんだし、やっぱり劇場で見るのは良いな、と素直に思ったのは確かなのだが、野田秀樹の作品への期待値はもっと高かった、というべきか。本人の方としては、いつもいつも自分の芝居に「救い」や「答え」を期待するな、たまには自分で考えてみろ、ということなのかもしれないが。

 それでも観客としては、次こそは更に一歩進んだものを、と期待してしまう。そして、次回作を見る時、願わくは、この地上がもっと穏やかな世界になっていますように。


(2003.4.26)

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