榛野なな恵 「Papa told me」


 このサイトを始めた当初、自分が好きなComicsを幾つか選び、それぞれに関してまとまった文章を書こうと思っていた。その際、必ず取り上げようと思っていた作品の一つが、この「Papa told me」。冬目景の「ZERO」に続いて2番目に書く、という予定まで決めていた。…実際には、根性の無さから、書くまでには至らなかったのだけど。

 この非常に優れた作品に、欠点を探すとすれば、「長く続け過ぎたこと」に尽きる。タイミングを逸した今、作者にも終わる方法が思い付かないように さえ見える。今回のドラマ化が無ければ、永遠に休止させておきたかったのかもしれない。勿論、こうなってしまったのは、そもそも「時間が止まった」世界として描いたことに原因がある。

 

 「Papa told me」は、非常に大雑把に言うと、「少女マンガ(的な価値観)をもはや単純には信じられなくなった」2,30台の(独身)女性に対して、もう一度、少女マンガという手法でエールを送る作品だったと思う。少なくとも、連載開始当初はそうだった。そのため、知世=理想、ゆりこ、北原さん=現実(読者が感情移入する対象)という二重構造を設定し、現実に傷付かない、精神的な核の象徴としての知世の在り方に、現実の中で悩む北原さん等(=読者)が励まされ、自分のライフスタイルを諦めずに進めていこうとする、という話になっていた。

 しかし、季節がいくら巡っても、小学生の知世が歳を取ることはなかった。現実側のゆりこや北原さんも同様で、些細な変化は有っても、決定的な転機が訪れることはなかった。確かにどの巻でも上質の「癒し」には事欠かない。しかし、今やこの作品が、読者にとっては、(作品が当初拒否していた筈の)抑圧的な装置としてむしろ機能していることに目を向けるべきではないだろうか。その心地良さでもって、現実と理想の綻びを曖昧に肯定してしまう、閉じた世界の物語として。

 大体、これでは、知世はいつまで経っても成長することが出来ない。そして、それはひどく残酷なことに思える。

 そこで、私がこの作品について、機会があれば書こうと思っていたのは、「終わらせること」だった。押井守の言い方を真似すれば「たまごを壊してみる」こと。そう、これが「少女マンガ」であるなら 、「世界」を終わらせることによってのみ、物語は真に完結する。

 

 浮かんで来たイメージは、大人になった知世が、過去を語り出す、というものだった。映画「エル・スール」の少女のように。

 その朝、わたしは、もう父が戻ってくることはないのだということを実感しました。
 思い出すのは、遠い少女時代。いつも、わたしと父は一緒でした。

 その思い出は、さぞ幸せに満ちていることだろう。父と一緒にいた時代の絶対的な幸福感。問題は、その子供時代を経た「今」の知世をどう思い浮かべるかということ。…私がその文章を書けなかった最大の理由は、納得出来る「未来」を思い浮かべることが ついに出来なかったことにある。子供時代の全能さが単純に継続しているとは考えられないが、しかし、映画「カラスの飼育」(これも女性が幼い頃を振り返る映画だ)のように、「アナ・トレントが成人したら、不幸顔のジェラルディン・チャップリンになってしまった」というのも凡そ承諾出来ない。

 ただし、この物語が先ほど述べた二重構造である以上、それを止揚するこの方向こそが、この物語を最も「正しく読む」ことだと思う。…未だに答えは、見付からないけれど。

 

 ちなみに、この未来の知世の話だが、過去を振り返る過程で、あんなにも一緒にいた時代には、本当には分かっていなかった父の気持ち(メッセージ)が、いなくなった(勝手に殺すなと的場氏は言うだろうが)今、初めて理解出来た。として、 父の言葉(のモノローグ)で、締めくくるのが、定番ながら美しい終わり方で良いと思う。 それでこそ、このタイトルが生きてくるというもの。

(2003.2.11)


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