良い天気だった。傍らのシロの機嫌は非常に良いようだった。もちろん、飼い主の僕も全く同意見だった。晴れ渡った秋の空の下、秘かに好意を寄せている女性と共に、のんびりと犬の散歩をしていて、それが楽しくない男などいる筈もない。

 しかも、真理といえば、生まれ付き弱い体とのことで、僕が知り合ってから、家の外に出たこともない。そんな彼女の願いに応えて(彼女の保護者となっている、僕の叔父の了解をようやく取り付けて)の外出、だったとなれば、なおのこと。口笛の一つも自然と出ようというものだ。

 シロは既に老犬で、その足取りも決して速くはない。ゆっくりと歩きながら、僕は陽の光の下での彼女の美しさに改めて見とれていた。透き通るような肌、一見無表情だけに、微笑む時の、はっとする魅力…

 気が付くと、真理が不思議そうに僕を見つめていた。
「どうしたの、さっきから私の顔ばかり見てない?」
 僕は慌てて誤魔化そうとしたが、その時急に、頭の中に、あるイメージが蘇った。
「実は、小さい頃のことを思いだしてさ。」
 今回の目的地である、住宅地の外れの丘の上まではもう少し。辿り着くまでの道すがら、僕はその思い出を彼女に語ってみせることにした。

「僕が小さい頃、犬を飼うことが流行したんだ」

 話し始めてから、真理にこんな話をしても良かったのか、心配になった。彼女には、最近までの記憶がない。正確には、一応覚えているのだが、彼女に言わせると出来事は覚えていても、その時の気持ちを全く思い出せないのだそうだ。叔父の話では、彼女は幼い頃は外国にいたという。7歳の頃、叔父の親友であるその両親が事故で亡くなり、その後、身よりのない彼女を叔父が引き取ったらしいのだが、体調に悪影響を与えかねないとして、彼女に過去のことを聞くのは叔父に固く禁じられていたのだ。

 しかし、真理は意外にもあっけらかんと
「私が、まだここにいない頃の話ね」
と、続きを聞きたがった。そこで、僕はまず、当時の状況をかいつまんで説明した。

 当時、本物の動物を飼うことはより困難になりつつある一方、人々のペット需要は逆に高まっていたこと。そこに登場したのが、人造犬という新しいペットで、バイオメカニクスなる、新しい先端技術の進歩にはすさまじいものがあり、発売当初は動きの乏しいロボット犬だったのが、数年後にはもう一見しただけでは見分けが付かない程までなり、静かに始まったペット熱を爆発的なブームへと押し上げたこと。

「で、君もその一人だったわけか、シロ君」
 真理が、傍らのシロを眺めやる。シロは自分の名前が呼ばれたのが嬉しいらしく尻尾を振って応えて見せた。
「当時は、最新の、そりゃとてつもなく高価な犬だったんだよ、な、シロ」
 僕もシロを眺める。今では、すっかり老犬だ。この人造犬が、今までのロボット犬と一線を画したのは、年を取ること、だったのだ。もちろん、本来的には、部品というか細胞組織の取り替えで、その若返りも可能だ。しかし、最初期のオーダーメイド製品であるシロに、適合する部品はもはや製造されていない。
 今度、本格的に故障したら、あるいはこのまま「老化」が進んだら、シロを助けることはもう出来ないだろう。

「そんな高価なものを買って貰うなんて、実はお坊っちゃまだったんだ?」
「まさか。叔父さんに貰ったんだよ。ほら、叔父さんは、タイレル社のエンジニアだっただろ。だからだよ」
「良い叔父さんよね」

 今では、叔父が僕にくれたのは好意という以上に、モニターとしての反応を得たかったからだということも分かっている。貰ってしばらくしてから体調を壊したシロを心配する僕に、叔父は、たまには、こういうことが有った方が、より自分のものだという気がしないかと訊ねたのだ。幼い僕には意味不明の言葉だったが、あの時のシロの「病気」が、僕の反応を観察するために、引き起こされたものだったのは明白だ。

 もちろん、そんなことは彼女には言わなかった。理由は何であれ、シロを僕にくれたのは確かなのだし、それに今の彼女にとって、叔父は育ての親と言っても良い大切な人なのだから。

 「シロを貰った日、あ、名前はその時付けたんだけど、僕は喜び勇んでいつもの場所にシロを連れていったんだ。それが、ほら、ここ」
 話している内に目的地に着いていた。給水塔があるきりの、小さな丘の上の小さな広場。
 15年の歳月で変わったのは、その一隅にベンチが置かれたことくらいだ。

 

 いつも人気のないその場所からの眺めを、初めての「仲間」に見せてやれることに僕は興奮していた。走って登り切ると、しかしそこには思い掛けないことに先客が居た。
 座り込んで俯いている一人の少女だった。僕たちが来た途端、びくっと怯えたように顔を上げたところを見ると今までは眠っていたらしかった。少女は、僕たちを一瞬厳しい目で見つめたが、シロを見ると表情が和らぎ、手招きした。
 と、シロが彼女目掛けていきなり走り出したので、僕は慌てた。しかし、さらに驚いたのはその後の、シロが少女に親しげにすり寄っている姿だった。マスター登録した後の人造犬は設定しない限り、主人の友好度以上に他人に懐くことはない筈なのに。ただし、幼い僕が感じたのはその奇妙さより、初めての友人をいきなり他人に奪われたような不快感だった。
 とはいえ、気弱だった幼い僕に「返せ」などと、年上の人間に言えるはずもない。途方に暮れていると、犬を撫でていた少女が僕の方を向いて訊いた。
 「君の犬?」
 改めて見た少女は、幼い身にもはっとするほど美しかった。肌の色は透き通るほど白く、ほっそりとした全身を薄いグリーンのワンピースのような服で包んでいた。年は14、5歳に見えたが、それは当時の僕には当然ながら随分大人だった。

 

「なーるほど。あたしの横顔の美しさに初恋の人の面影を思い出したってことなんだ」
 真理の口調と来たら、いつもこんな調子だ。もっとも、彼女が言うと、嫌味には聞こえないのが不思議だ。
「あのな。実際のところ、顔はよく覚えていないんだ。ただ、何でかな、君を見ていたら、その時のことをふと思い出したんだよ。シロが余り嬉しそうだったからかも知れない」
「ふーん。で、その後は?」

 

 僕が肯くほか何も言えないでいると、少女は微笑んで、シロを僕の方に戻らせた。それから急に真面目な顔になって、
「いつまでも、大事にしてね」
と、非常に重要なことを話す口調で僕に頼んだ。
「はい」
幼いなりに真剣に僕が答えると、少女は何故か、
「ありがと」
と肯くと、ふらふらと立ち上がり、この丘を住宅のない方へと下りて行ってしまった。

 

「それだけ?」
「それだけ。その後のことはよく覚えていないんだ。シロと一緒に家に帰ってきた時はとても遅い時間になっていて、親にひどく怒られたようなことくらいかな。その時、叔父さんが働いていた研究所で事故が起きて騒がしかったので、巻き込まれたのかと心配したと言われたような記憶があったけど、叔父さんにその話をしたら、その年にそんな事故なんて起きなかったと言われたくらいだから、今ではどこまで本当だったのかもう分からないな。多分、シロとこの丘に来たことまでは本当だと思うけどね」
「研究所って?」
「ああ、今では木が茂って見えなくなったけど、ほら、あの方向にタイレル社の研究所があってさ、当時、叔父さんもそこで働いていたんだよ。何をしていたのかまではよく知らないんだけど。真理は、訊いたことがあったっけ、叔父さんの仕事?」
 返事が無いのに気付き、真理の方を振り返ると、彼女はひどく混乱したような表情で、自分の体を抱えていた。
「…どうしてだろう、私、その時の祐貴君の姿が目に浮かぶような気がする。思い浮かべたんじゃない。頭の中に既にその姿があるみたい。この風景だって、初めて来たのに、初めてじゃないような」

 久々の外出で疲れたのだろう。僕は、真理をそっとベンチに座らせた。
「そういうのを何というか知っているかい?」
「もちろん、デジャ・ヴーでしょ。記憶については悩んでいる分、人より詳しいんだから」
「まぁね、でももっとちゃんとした専門用語がある」
「そんなの有ったかしら?」
「気のせい、て言うんだ」

 

 そう、これら全てが気のせい、だったら、どんなにか良かっただろう。

 

 シロと真理と散歩をしたこの日の後、彼女は若干体調を崩して、また家の中の生活に戻り、彼女に会うためには叔父の家を訪れるしかなかった。もちろん、僕は毎日のように、叔父の家を訪れた。

 しかし、その日、叔父の家に行ったのは、真理に会うためだけではなかった。いわば彼女の親とも言える、叔父に正式に真理との交際を認めて貰うつもりだったのだ。彼女が自分の部屋で、いつもの午後の眠りについた後、僕は居間で叔父と談笑をしていた。そして、頃合いを見計らい、思い切って、話を切りだした。

 叔父は、しばらく返事をしなかった。やがて帰ってきた答えは、
「こうなることも予想しておくべきだったな」
という言葉だった。要領を得ないながら、それは了承の意味かと考えていた僕に対し、続いて飛んで来たのは次の言葉だった。
「お前がそこまで真理に肩入れしていたとは思わなかった。だが、それは諦めろ。真理とお前は、…そう、住む世界が違うんだ」
「ふさわしくない、と仰るんですか?」
「そうじゃない。いや、どちらにとってもそうだというべきか。なぁ、祐貴、人魚姫の話を知っているだろう。結局、住む世界が違うもの同志がうまくやっていくことなど出来ない、そういう話だ」
いきなり、童話を持ち出すなど、理科系一辺倒の叔父らしくもない発言だ。それにそんな説明に納得出来るわけがない。

「世界が違うって言ったって、だって同じ人間じゃないですか、どんな違いが有るというんです」
くってかかる僕に対し、覚悟を決めたような表情の叔父の返事はとんでもないものだった。
「だからお前は何も分かっていないんだ。良いか、本当のことを言うぞ、真理は人間じゃないんだ。お前のシロと同じ、我が社の製品なんだ」

 ………………………………。
 僕はひどくぼんやりとした頭で、叔父は何を馬鹿なことを言っているんだろうと考えていた。真理が、人間じゃない? あの真理が? そんなわけがある筈がない…
 しかし、それと同時に今まで頭の中で抑えていた数々の疑問にそれが明確に答えていくのに、気付いてもいた。

「ようやく理解したようだな。こんなことになるならお前を巻き込むんじゃなかったよ。真理が適切に成長するためには、その相手が必要だった。しかし、その機密保持上、それは誰でも良い訳では無かった、それでお前を彼女に紹介したんだ」
「……モニター、だったんですね、僕は。シロの時と同じだったんだ」
「どう受け取るかはお前次第だ」

「だけど、真理は本当に、本当にそうなんですか? 僕にはまだ…」
「今、街で見掛ける犬が本物か、それとも我が社の製品か、祐貴、お前に分かるというのか。もちろん、ヒューマノイドを作る困難さは、犬の比ではない。だがな、我が社はお前が生まれる前からこの課題にずっと取り組んできたのだ。人造犬はその過程での副産物に過ぎない」
「何でそんなことを…」
「それは言えない。だが、お前が考えているより、これは大きな使命に基づく計画なのだ。最初の成功例、RP0027号は、自立した思考を開始し、あろうことか、施設から一時的に抜け出しさえした。15年前のことだ」
「まさか、それは…」
「そう、この前の彼女との散歩の記録を解析させて貰ったよ。本当に、まさかだ。小さい頃のお前が逃亡時のRP0027号に遭遇していたとは。RP0391号、言うまでもなく真理のことだ、にお前が恋をしたのも、こうしてみれば運命だったのかもしれないな」
どこか遠くを眺めているかのようであった叔父は、僕の方に向き直るとこう締めくくった。
「だがな、祐貴、ヒューマノイドを愛するのは、人造犬を愛するのとは訳が違う。諦めるんだ」

 僕は、思わず叫んでいた。
「同じことです。彼女が何かなんてことは関係ない」

 だが、溜め息をついた叔父は物わかりの悪い甥を辛抱強く諭す口調で、その「講義」を続けた。
「彼女のことを思っているのなら、なおのこと、私の忠告に従うんだ。真理の精神構造は極めて微妙に、本物の人間以上にだ、出来ている。その基層に使われているのが、RP0027号の認識パターンなのだ。もっとも、それ以来、多くの世代の経験を統合して作られた真理の精神にかつての記憶自体が存在する訳ではない。しかし、この前以来、真理の精神バランスは不安定さを増しているのだ。お前とのやり取りの中で彼女は自分の存在に疑問を感じ始めている。お前がこれ以上、真理に迫れば、最悪の場合、真理は自分が人間ではないことに気付き、そして繊細な彼女の神経はそれに耐えられず、機能不全に陥るかもしれないのだぞ。彼女にとって、自分は人間なのだからな」

「…………」
 僕は何と言っていいのか分からなかった。部屋に一瞬沈黙が訪れた。

 と、その時、隣の部屋で、何かが倒れる物音がした。
「!」
「真理!」
 僕と叔父は慌てて、隣の部屋に駆け込んだ。
 そこには、今の話を聞いていたらしい真理が真っ青な顔をして倒れていた。

 

 

 (未完)


home/pastに戻る