小野不由美論のために  2001.5.6

1.水面に映る異界


 

「漆黒の闇、だった。
 彼女はその中に立ち竦んでいる。
 どこからか、高く澄んだ音色で滴が水面を叩く音がしていた。」

 「月の影 影の海」の冒頭、主人公の陽子は、異形の獣たちが追い掛けてくる夢に繰り返しうなされる。それは、これから展開される「追われる者としての物語」を、読者に予告するイメージでもあるのだが、しかし、そこに響いていた水音は、その後の物語からは充分には説明されない。にも関わらず、なぜ作者はこの作品を水音の響きから語り始めたのだろうか?

 その疑問は、引き続き「魔性の子」を読んで、初めて諒解出来た。小野不由美は、水の作家なのだと。

 「魔性の子」は、間違って来てしまった異界の者が本来の世界に還る物語である。この本来、突拍子もない物語を語るに当たり、作者が選んだのが異界を、ニライカナイ、補陀落浄土、と言葉はどうでも良いが、海の向こうの世界、としてイメージさせること、そして一連の事件を、海からやって来る台風の通過に準えて語ることだった。大怪獣ですら台風襲来のイメージで語られるこの国において、非日常の出現と日常性の回復を台風一過のように語ることは、極めて有効な技法と言って良い。一方、異界を海の向こうの世界とするのは、選択肢の一つに過ぎないのであって、必ずしも、そう語る必要はない。「不思議の国のアリス」の兎穴のように、異界との通路のバリエーションは幾らでも存在する。しかし、小野不由美の作品において、異界は水の向こうに有る、ものなのだ。

 異界と水について。例えば、悪霊シリーズをもう一度読み返してみるとしよう。ここでの異界とは、ホラーを成り立たせている、もう一つの世界である。軽々しくそれを幽霊とか怨霊とか呼ぶことは、登場人物の一部からすれば許し難い暴挙であろうが、とにかく、この世界に、もう一つの世界が侵入(浸入?)してくる様をどう描いているか、それを確認してみることにしたい。

 まずは、第一巻。調査した旧校舎の異変が実は地下水の枯渇によるものに過ぎなかった、という合理的解決からホラー小説のシリーズを始めるという、意外性のある構成だが、地下水の上に立つ世界、というイメージは遠く「東亰異聞」にも繋がっていく、というのは穿ち過ぎだろうか。ともあれ、この桜の花も満開の、麗らかな春における物語の各章立てが何故か、台風接近から一過までの状態を示す言葉となっているのにはやはり注目したい。

 以下、第二巻の、古井戸への飛び込み自殺(麻衣は、夢の中で、その水音を聞く)であった富子の因縁、四巻の「雨が降っていないのに水が落ちてくる」印刷室で、床一面に溜まった水に踏み込み、霊と対決する麻衣、五巻で、あの赤い水面!から現れる浦戸の姿。と、登場人物達が対峙する、もう一つの世界の描写には、非常に高い頻度で水が登場している。

 勿論、六巻が、その集大成とも言える、海辺の神、戎神との対決であることは、言うまでもない。そして、七巻においても、登場人物達が閉じこめられるのは、土砂降りの雨が降りしきる中の廃校舎であった。SPRの面々が解決を迫られる様々な異変、もう一つの世界の侵入時には、水のイメージが強調されて描かれていることが確認出来ただろうか。

 さて、このシリーズはもう一つの、異界の物語を含んでいる。そう、ジーンの物語である。その物語が明らかになるのは7巻になってからだが、それまでの巻においても、彼は麻衣の夢の中で、優しいナルとして何回も登場している。その際にしばしば雨や霧が先に登場していることに、注意しておく必要がある。彼は7巻で、ダムの湖の中に沈んでいた死者であることが判明するのだが、それを知った読者は、驚きと共に納得をすることになるだろう。そう、彼が死者という、もう一つの世界の住人であるのなら、彼の居場所は、水の中をおいては有り得ない。こうして、二つの異界は水というイメージで一点に集約され、シリーズはひとまず完結することになる。

 異界を描くに当たり、水という道具立てを使う。あるいは、水を描写することで、異界を描く。でも良いのだが、語られる世界の中に、何らかの異界を必ず、水の描写と共に導入する、それが小野不由美作品の基本的な構図である、と言っても間違いではないのではないだろうか。

 ちなみにリメイクされたホラーの二作品の内、「過ぎる十七の春」の世界に現れる「過去」では、「雨が降っていた」ことが繰り返し述べられるし(小野不由美の読者にとっては、その一行だけで既に充分に恐い)、「緑の我が家」では主人公への脅迫めいた無言電話でいつも水が滴る音がすることが、じわじわと恐怖を呼び起こしていく。ここでも、迫り来る異界という危機を水が象徴している。

 だから、「月の影 影の海」の冒頭でも、水音が、危険を知らせる意味で響いていた、ということなのだろう。そしてその予告通りに、陽子は、月の影差す海面を抜けて、苦難が待つもう一つの世界へ旅立つことになる。

 

 ところで、ここまでの水は「魔性の子」の触を例外として、舞台の背景に留まるものであった。主役として、水が前面に押し出されたのは、何と言っても「東亰異聞」だろう。ラスト、水に飲み込まれ、水上都市になってしまう帝都・東亰。その水の奔流振りは、かつての水の作家、泉鏡花の「龍潭譚」や「夜叉ヶ池」のそれを思い出させる凄さだった。ここでは、もう一つの世界が押さえ込まれることなく、今までの日常を全て洗い流してしまう。

 

 さて、こうやって、水の作家、と繰り返し書いてくると、では、あの「屍鬼」は何なのか?と問われる向きもあるかもしれない。確かに、あの作品は暑い夏の盛りに物語が進行し、最後には山火事が燃え広がる程の乾燥振りであり、今までのような、辺り一面を浸す水とは無縁の小説である。

 しかし、考えて欲しいのだが、あの作品は、人と屍鬼の違い、即ち「血」を巡る物語ではなかったのか。「血」とは体の中を流れる、ほとんど水と言って良い液体である。あの作品で描かれる屍鬼は、外見上、人と区別できない。血が違うだけだ。そう、血という「水」が違うだけで、相容れない違いがそこに生じてしまう、その悲しさ。「屍鬼」は今のところ、水の作家である小野不由美が、水と異界というテーマを最も深化させた作品であると言って良いだろう。

 その後の「黒祠の島」は、「血」の物語の続きにも見えるが、水と異界の物語という点では、久々に台風も到来するものの、今一つ明確な輪郭線に収まらない(推理小説的には明確なのだが)作品に思えた。

 閉ざされた世界の中での物語である十二国記においては、この水という描写はそれほど意味をなさないと思われるが、それ以外の作品において、今後、作者がどのような「水」を描いていくのか、引き続き注目していきたい。

 

 なお、ここまで述べてきた水の描写とは、作品を成り立たせる上でのあくまでテクニックの一つとして、作者が導入しているものであり、直接的に作者の無意識を反映している、とかそういう類のことでは、ない。但し、これらの描写の積み重ねを通して、読者は小野不由美の世界を理解しているわけであり、それらをより味わうためにも、小野不由美作品における水の出現についてはもっと注意を払う必要があるのではないか、と思う。このような文章を、今さらながら、あえて書いてみたのは、そういう理由による。

 

 ちなみに、小野不由美作品の中で、私が一番好きな「水」の場面といえば、やはり「魔性の子」になる。高里と広瀬が楽しそうに会話する、あの場面。ここで雨の話題が出るのは、勿論、偶然では無い。二人の抱いている異界のイメージには、水が不可欠だったのだ。


 「赤い傘がいいな」
 「赤ぁ?」
  広瀬が聞くと、高里は笑ってうなずく。
 「赤ですよ。岩の色が暗いから、赤。ビルほどもある奇岩が立った迷路に霧が流れてて、そこに赤い傘。メルヘンでしょう?」
  広瀬は笑った。
 「じゃ、おれは黄色にしよう」

(了)


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