空の蒼さを 見つめていると


2004年3月

3/31

 (千鳥ヶ淵とかに)夜桜を観に行く暇が取れない。行く前に散ってしまいそうだ。

 

Novel 恩田陸 睡蓮 ( 図書室の海 新潮社 )

 この際、ということで、少女時代の理瀬が出てくる短編を読んでみた。ただし、本を買うのは文庫本化された時にして、とりあえず、立ち読み。短い話だったので。

 なるほど、稔や亘はこちらが初出なのか。どうりで余り説明が無いと思った。「黄昏の百合の骨」の意図の一つとして、少女時代からの隔絶、というノスタルジアも有るようなので、その意味では、「睡蓮」を先に読んでおくべきだったかと(勿論、「睡蓮」を読む前には「麦の海に沈む果実」を読んでおく必要がある)。

 こちらに関しては、狙い通りに決まっている綺麗な短編。ただし、ストレート過ぎて、頭で書いている、と言う気はする。少女時代を描くのなら、もっとエキセントリックな性格でも良かった、と思うのだけど。というか、この時の「ポニーテールの少女」をまだ引っ張っていたのか。…理瀬って、結構、根に持つタイプ?

 

 というところで、今回の恩田陸週間は終了。

 思ったより全体の文章が長くなった一方、思ったほど、個々の作品の良さが語れなかった。というより、毎回、貶し過ぎ?(^^;; いや、そんなに間違ったことは書いてない筈だけど(多分)、結果としては「愛が足りない」文章で終わってしまったような気が。次回の(っていつの?何の?)反省材料とさせて頂きます。

 なお、明日からは更新ペースも適時(要するに、可能な時)に戻す予定。現状の生活で毎日更新を続けると、結構、負担が大きいので。

 

3/30

Novel 恩田陸 「黄昏の百合の骨講談社

 異国文化で知られ、大勢の観光客が訪ねる九州の港町。その高台にある亡き祖母の洋館に、遺言に従い、留学先から戻ってきた理瀬。二人のおばが住むその屋敷は、近所から「魔女の館」と呼ばれていた…

  今まででお分かりの通り、私にとって、恩田陸は文庫ベースで読む作家。しかし、この新刊が文庫になる頃には、「麦の海に沈む果実」の内容は既に忘れ切っているに違いないので、今回は例外的に、その続編たる本書も、単行本で読むことにした。(もう一つの続編「黒と茶の幻想」は素直に文庫落ちを待つ予定 )

 最新作だけあって、さすがに完成度が高い。ミステリとしての謎、主人公の内面、他の登場人物の表裏。「白百合荘」という舞台。どれを取っても過不足無く、最後まで安定して語られる。言ってみれば「どこに出しても恥ずかしくない」出来で、単行本の値段に充分釣り合う面白さだった。

 ただし、今までの作品に対し、そのひどく不安定な部分も含めて(というか、その不安定な輝きにこそ)、強く惹かれてきた者としては、この安定感に、却って物足りなさを覚えてしまうのも事実。…無い物ねだりだとは分かっているのだけど。恩田陸には「上手さ」だけを期待しているわけではないのだ。

 前作が未読でも問題なく読めるが、「理瀬の物語」(「こちらの世界」にいることを理瀬が自覚する辺り)として読むには、前作の知識がないとやや辛いかも。小説の性格としては、全く別の作品になってしまっているとはいえ。あと 、理瀬の内面に繰り返し登場する「ポニーテールの少女」、これはやはり、もう一つの短編も先に読んでないといけない、ということなのだろうか…

 

3/29

 駅前の山下書店で「チャオ ソレッラ!」とユリイカをレジに持って行くと、その二つだけがレジの机上に平積みしてあって、見透かされてる?と敗北感に襲われた、そんな一日。

 

Novel 恩田陸 水晶の夜、翡翠の朝ミステリー・アンソロジーII 殺人鬼の放課後 スニーカー文庫)

 初読時には「三月は深き紅の淵を」しか知らなかったので、ヨハン…それ誰?状態で、話の展開にも付いていけなかったのだが、ようやく、この短編が「麦の海に沈む果実」の既読者(それもヨハン萌えな)に後日談を紹介する、いわば、ファンサービスであることが理解出来た。

 ただ、対象読者限定の短編を、このような一般的な?アンソロジーに載せるのは不親切というか、ちょっと無理が有る。

 無理が有ると言えば、ワライカワセミの歌の使い方… 作品内で言及される一昔前の懐かしい物事にどこまで共感出来るかで、作品の楽しみ方が少なからず左右されるのが恩田陸の小説に共通する特徴だとはいえ、それを登場人物にまで!強いるのは、どう考えても無理が有り過ぎ。

 どうしても使うのなら、童謡の講義が特別に有るとか、「知っている」ことへの理屈付けが必要では? それとも、この学校が誇るスコアのコレクションとは、世界各国の童謡のことだったとでも言うわけ? 要するに、作者が自分の思い付きに酔って書いたとしか。そういう時こそ、「無理が有り過ぎですよ」と冷静に突っ込んであげるのが、編集者の仕事だと思うのだが…

 Comics。わかつきめぐみ「そらのひかり」白泉社〔Amazon〕。 いつの間に!と思ったが、出たばかり? 表題作の連作以外の方がより楽しかったりはするけど、何はともあれ日々是平安。

 

3/28

 やけに暖かい陽気なので、家の近所を一回りしてみるも、桜は(一部の山桜を除いて)咲いているとはとても言えない状態で、満開になるのは次の週末位の様子。それにしても、いつから東京とそんなに差が付くようになったのやら。大体、こちらの方が南に位置しているというのに(^^;;

 

Novel 恩田陸 「麦の海に沈む果実  講談社文庫

 北海道の大湿原の中に孤島のように聳える「青い丘」。丘の上の全寮制の学園に転校してきた理瀬が、そこで出会うものは…

 最も恩田陸らしい、というか、その濃度が恐らく一番高い作品。

 私が思うに、恩田陸らしさ、というのはいわばアルコール成分のようなもので、恩田陸のどんな小説にも当然ながら何パーセントかは入っていて、独特の酔いが味わえるのだが、この小説だけは、火を付けたら炎を上げて燃え出しそうなほど度数が高い「スピリッツ」。隅から隅まで、見渡す限り、恩田陸の世界。そこまで高いと、却って一見、澄んで見えるのだが、しかし、その世界はいつも揺らめいている。

 だから、好きな人には良いけど、駄目な人には全く駄目だろうな、とは思う。私は勿論、前者ですが。今までの恩田陸作品のベスト3に挙げても良い位。

 ただ、あえていえば、長編として再構成したこと、つまりブレンドし直したことで、プロトタイプの「三月は深き紅の淵を」よりは全体に薄まっているのも事実。あのラストの鮮烈さに比べると、理に落ちたラストに、少しだけ物足りなさを覚えなくも無いのだけど。

 ところで、この「世界」には、(恩田陸の小説とは別の何かに対する)既視感を強く感じるのだけど、それが一体何なのかはどうも思い出せない。

 2月の最後の日に転校してきたことで、「世界を破滅に導く」と噂される転校生という設定は、例えば「風の又三郎」のような、「異人」としての転校生の物語のヴァリエーションで、それはまさに「六番目の小夜子」だってそうなのだけど、それとはまた別の話として、この謎めいた学園生活の雰囲気に対して既視感を覚えるのだが。う〜ん、何だろう。

 Comics。熊倉隆敏「もっけ」3巻。袖の「ケセランパサラン」は川崎市市民ミュージアム蔵。ということは、「呪いと占い」展で見たやつだ、これ。うわ、もう3年も前なのか…

 

3/27

 「カレイドスター」最終回。

 1年を掛けて1つの話をきちんと完結させるという、TVシリーズとして本来「有るべき」姿を見せてくれたことに感謝。なるほど、こう来ますか、という締め方も含めて、最後まで作り手の愛情を感じさせる素晴らしい作品だったと思います。

 

 唐突に始めた恩田陸週間。終わるまでは毎日更新しよう、と秘かに決心していたのだけど、昨日は余りに眠くて挫折。

 毎日更新だと、今の生活ではやはり、他のことに若干、無理が掛かるわけで、最終的には睡眠不足な一週間に。単純に、春だから眠いのかもしれないけど。というか、この眠さは異常。今日も余りに眠くて、昼間、2,3時間熟睡。…お陰で、今はちっとも眠くないわけですが(^^;;

 ちなみに、今回の恩田陸週間はあと2冊(+2編)の予定。

 

3/26

 「イノセンス」2回目。

 

Novel 恩田陸 「三月は深き紅の淵を  新潮社文庫

 「麦の海に沈む果実」を読む前に、原点を再確認しておこうと、第四章「回転木馬」を再読。

 「三月は深き紅の淵を」という架空の小説を巡る物語で構成された、この小説の第4章は、3つの文章から成り立っていて、その1つが、理瀬を主人公とした学園もの。作中の「私」が言う、このタイトルで書くことを「そもそも予定していた」「幻想の学園帝国に展開する悪夢のような世界に生きる人々が、ミステリアスな冒険をする話」を実際に(ただし、名場面だけを抜粋して)書いて見せた、いわばプロモーション版。独立した長編で書けば良いのに、と思ったのは作者も同様だったとみえ、設定を新たに書き直したのが、「麦の海に沈む果実」らしい。

 …もっとも、私がこの「三月は深き紅の淵を」を文庫版で読んだ時には、「麦の海に沈む果実」は既に出ていたのだけど。

 第4章を再読した印象は、記憶していた以上に、作家が創作上の秘密を「率直に」語っている、というもの。幼少期の影響や、訪ねた見知らぬ町に「物語」を想像してしまうと言った、ある程度、作品を読んだ今、読み直すと興味の尽きない話が多いが、この構成のため、小説としてはバランスを欠いている気はする。「私」が顔を出し過ぎ、というか。

 ヘンリー・ダーガーについて触れた部分も全く覚えていなかったので驚く。「アウトサイダー・アート展」の感想だが、それを引き合いに、創作活動一般を、人間の「負」のエネルギーから吹き出してくるものというのは、(言いたいことは分かるが)ちょっとどうかと。あの絵だって、ダーガー本人は「負」だとは考えていなかった可能性の方が高いし。

 …と気が付けば、いつまで経っても、理瀬の話に入れない。さきほども書いたように名場面集なので、一つ一つのシーンは印象的であると同時に、これだけを続けて読むと展開がかなり唐突。特にラストは連載漫画の打ち切り最終回のよう。とはいえ、ラストのイメージは、恩田陸の全ての小説の中でも一、二を争う「書きたかった」シーンではないかと思われる美しさ。

 

3/25

 3,4行の感想で終わらせようと思いながら書いているのに、どうして毎回、この長さに?<毎回、どうでも良いことまで書くから。

 

Novel 恩田陸 「ライオンハート  新潮文庫

 「私たちはいつも出会う。時を越えて、場所を越えて」 何度でも巡り合い続ける二人の男女、エドワードとエリザベスの数奇なラブストーリー。

 プロとしての計算で書いた小説というよりは、ふと閃いたロマンティックな着想がどうしても書きたくなって思わず書いてしまった、という感じの連作短編。その証拠?に第1章の「エアハート嬢の到着」が圧倒的にボルテージが高くて、後半になればなるほど、文書の勢いが落ちていく。

 いや、盛り上げておいて最後が腰砕け…というのは恩田陸の定番?とはいえ、この作品は中盤から失速していくので。逆に、最終章では綺麗に終わらせているのだけど。

 でも、嫌いではないです、こういう「書きたくて書いた」小説というのは。

 元々が「エアハート嬢の到着」という絵から閃いた作品ということで、章ごとの最初にカラーの絵を載せ(そのため通常より上質な紙を使用)、各章の絵と話に関連があるような趣向を持たせている。この5枚の中で私が実際に見たことがあるのはミレーの「春」とクノップフの「記憶」。なかでも、後者は、昨年夏に 現地で見たばかりなので、登場したのに驚いた。

 しかし、後者を使うのは幾ら何でも、無理有り過ぎ。恐らく、この最終章だけは話が先に決まっていて、「記憶」という名の絵を後から探してみたものの、他に見付からなかったので消去法で選んだのだと思う。だけど、これって、7人とも画家の同じ妹の顔だし、いかにもクノップフらしい「時が止まった」絵画で、小説の内容と全然重ならない。

 う〜ん、その辺で、手を抜いては駄目だと思うのだが。「光の帝国」もマグリットの作品のタイトルを借用しながら内容は全然関係ない、という前例があるし、ベルギーの画家に対して結構酷い扱いをしているような気が>恩田陸。

 恩田陸はタイトルの付け方が上手い作家だと思うのだけど、こうして、時々見受けられる少女漫画的センスは余り感心出来ない。少女漫画的センスとは、「ライオンハート」みたいなロマンティックな世界観とか「ネバーランド」のような美形の登場人物ということではなくて、少年漫画より少女漫画の方に多いと私が感じている風潮、即ち、印象的なタイトルなら映画とか他のメディアから勝手に引用して名付けてしまっても平気、という感覚なのだけど。

 ちなみに、「ライオンハート」というタイトル自体は、ケイト・ブッシュのアルバムから。…いや、まぁ、それは意味があるので、別に良いけど。

 解説は梶尾真治。本人も自分が書くのではないかと思っていた、というように、この場合、まさに適任。もっとも、だからといって解説として面白いかというと……

 

3/24

 イノセンスの絵コンテがすぐ出るのは良いけど(説明が色々書き込まれているらしいので)、フィギュアは余計だよなぁ。

 

Novel 恩田陸 「月の裏側  幻冬舎文庫

 九州の水郷都市「箭納倉」で、堀割に面した家の老人が一時的に失踪する事件が相次ぐ。事件を調べ始めた4人は、次第にその真相へと迫っていくが…

 文庫化された1年半前に読み掛けたままで中断していた本。「MAZE」の「満」と同種の登場人物である「多聞」のキャラクターに今一つ乗れなかったからかもしれないが、今回最後まで読んでみたところ、思わせぶりな前半より、物語が実際に動き出す中盤以降の方がずっと面白 い。さっさと読んでおけば良かった。

 作者が描きたかったであろう魅力的なシーンが随所にあって、実際のところ(有り過ぎたのか)物語としては整理し切れていない気もするのだけど、全体として、「郷愁の街」という世界を造形することに掛けては、かなり上手くいっている小説だと思う。

 といっても、恩田陸にとって「郷愁」とは、自分が永年住んできた場所で積み重ねた現実の体験というより、初めて来た場所で何故か感じる、いわば虚構の記憶に対する「懐かしさ」を指すので、それを反映した「世界」もまた誰かの 「記憶」で成り立っているといえる(だからこそ、記憶が断絶することが最大の恐怖として描かれる)。

 もっとも、私は、初めて来た場所に強い郷愁を覚える、ということは余り無いので、その辺を強調されても、やや他人事のような気がしてしまうのも事実。ちなみに、私の「柳川」を訪れた時の「記憶」と言えば、3月なのに雪がちらつく程寒くて、船上に置かれた炬燵が暖かくてほっとした、という学生時代の旅行。特別、懐かしい風景だとは思わなかった。

 …まぁ、寒さで、他の印象を感じる余裕が無かっただけかもしれないが。

 Comics。ながいけん「チャッピーとゆかいな下僕ども(大増補版)」(大都社)。私はローディストでは無かったのだけど。それでも意外と覚えているものだなと。

 

3/23

 恩田陸の小説の場合、「場所」を書いておいた方が良い気がするので、感想の頭に、場所付き紹介文を簡単に付けることにしました。

 

Novel 恩田陸 「ドミノ  角川文庫

 東京駅とその周辺を舞台に、27人の登場人物の行動がもつれあって一つの事件が転がっていくその先は…

  新幹線で大阪から東京(その逆でも良いが)まで乗る間の暇つぶしには相応しい小説。恩田陸としては毛色が変わっている。それだけに、登場人物の性格や思考が類型的だとか、そういう批判をするのは野暮なのだろう。少女の友情の織り込み方などは 、定番ながら、やはり上手いし。

 しかし、無関係な人同士での紙袋の取り違いという、この作品の前提となる設定だけは肯けない。いや、取り違い自体が悪いのではなくて、それが「どらや」の袋だということが。

 「とらや」をもじって「どらや」というセンスも正直気持ち悪いのだが、「とらや」は明治始めに天皇家にくっついて東京に移ってきた和菓子屋だとはいえ、東京を象徴する紙袋では無い。むしろ、ブランド的には今でも京都の和菓子。いや、とらやの羊羹を提げた人の数人が東京駅を歩いていてもおかしくないし、作者 が実際にそういう光景を目撃したことが、この作品のアイデアの元になっているのかもしれないが。

 ただし、東京駅を舞台とするのであれば、東京駅なら起こりうる、かつ東京駅でしか起こりえない取り違いの品にするのが、こういう作品のセオリーではないのか。言わせて貰えば、恩田陸は東京駅に対する愛情が足りない。この一番肝心な設定に説得力が無いから、その後の展開も、所詮何でも有りでしょ、みたいな「安さ」 が先に立ってしまう(実際、何でも有りに近いのだけど)。

 まぁ、お気楽な「安さ」こそ狙った小説なのだと言うのなら、それ以上文句も言えないけど…

 

3/22

 大滝詠一「EACH TIME 20th Annniversary Edition」〔Amazon〕を聴きながら。

 「Final」と書かれたステッカーが貼られていた。多分、複数のヴァージョンが有った「EACH TIME」のFinalという意味であって、NiagaraのFinalでは無い筈(希望的観測)。「魔法の瞳」とかここまで色々な音が詰め込まれていたのか、とか改めて驚く。

 ボーナストラックを除いたラストは「フィヨルドの少女」というわけで、「レイクサイド・ストーリー」がやはりフェイドアウトだったのが、個人的には残念…

 

Novel 恩田陸 「MAZE  双葉文庫

 トルコのカッパドキアと思われる大地の高台に存在する、入った者が消えてしまうことがあると伝えられてきた「建物」。その調査にやってきた4人の男達は…

  暫く漱石しか読んでいなかったからか、読み始めた時、冒頭がえらく安っぽい文章な気がしたが、今読み返すと、それほど気にはならなかった。ただ、冒頭部分のように、作者が神の声のように解説する、しかも「なのだ」とか「だったはずである」とか偉そうに?断定する「小説」は、私には駄目なのだった。…あ?  もしかしたら、司馬遼太郎の小説がトラウマに?

 恩田陸の世界ではお馴染みの、というか典型的な人物造形。恩田陸におけるこうした賢明で慎重な<中性的な>男性キャラというのにも実は余り惹かれない。そういう人物像で説得力が有ると思えるのはせいぜい高校生まで。古典的な少女マンガにおける男性キャラみたいな 、嘘っぽさが多分に有るので。

 しかも、横文字のタイトルと来れば、連想するのは「puzzle」。これも同じく「とんでもミステリ」なのだろう、と期待値がかなり低いところから読み始めた。のが良かったのか、予想したよりはずっと面白かった。

 恩田陸といえば、地霊の作家というか、舞台の「場所」の持つ神秘的な「力」を物語の源泉にすることが多いわけだが、この「MAZE」はある意味、そういう作風のセルフパロディと言って良 い内容。この作品を楽しむポイントも多分、その辺だろう(と思った)。逆に言えば、他の作品を抜きにしてこれだけ読んでも、単なる「とんでもミステリ」(ですらない?)にしか読めないような…

 ところで、満(先程の登場人物)がこの場所に呼ばれた最大の理由って、…やっぱり料理番として?

 

3/21

 生涯を通して全国の桜を見るというのが、ライフワーク?の一つである私としては、どこの桜を見に行こうか、と今年もそろそろ考えるべき時期なのだが、気候が逆戻りしていることもあって、今一つ気分が盛り上がらない。

 まぁ、4月半ば以降に、東北のどこか一箇所には行く予定として(JR東日本が昨年以上に盛大に宣伝しているのが恐怖だけど)、関東以西はどうしようかと。有名な所から手を付けるという観点からすれば、残る三大桜、岐阜にある根尾谷の薄墨桜になるわけだが、やはり相当に遠いのは改めて言うまでもなく。でも、いずれは行かないといけないわけで…

 

Art 香月泰男展 東京ステーションギャラリー 2004.2.7〜2004.3.28

 金曜日、つまり平日の昼に行ったのだけど、高齢者層を中心に、思ったより混んでいた。割と人気が有るのだろうか。

 シベリア抑留中の極限的な体験を後に描いた<シベリア・シリーズ>で有名な洋画家。あの画風も戦争体験で出来上がったのかと思っていたが、戦前の初期作品を見ると、既に抑制された画面構成で、元々「余計なことは描かない」画家だったのがよく分かった。今回一番惹かれたのも、実はその頃の絵で、犬の絵とか、そのモダンさにはっとさせられた。

 <シベリア・シリーズ>に関しては、企画者の意図もそこに有ったのでは?という位、絵の「重さ」と赤煉瓦の壁面が調和していた展示室になっていたのが何よりも良かった。

 このシリーズは確かに、普遍的な「力のある」絵だと思う。ただし、普遍的な表現に昇華した、ということは、個別的な体験が抽象化されたわけでもあり… 実際に体験した人の中には、(個性のない骸骨の顔として人々を描いた)こういう作品が許せない人もいるだろうとは思った。そこまで昇華しない限り、表現不可能な深刻な体験だったことは、「戦争を知らない」(という言葉も死語か)私にも、想像だけは付くけど。もっとも、普遍的な抽象性と個別的な具体性のどちらを優先するかは、「表現」一般に付いて回る葛藤なのかも。

 ところで、戦後は山口の田舎(三隅町)に引っ込んだまま、シベリアの記憶と身の回りのものだけを描いていた様なイメージがあったので、年表を見て驚く。亡くなる年まで(今回は没後30周年展)、世界各地を取材旅行していて、当時の平均的な日本人より遙かに、海外旅行三昧の日々。楽しそうだ。しかも、軽妙なマティス風のスケッチを残していたり。<シベリア>の画家という思い込みだけで理解しては多分、画家にも迷惑なのかと。

 

3/20

 天気が悪い上に寒いので、一日、部屋に閉じこもっていました。そんな中、ふと思い付いたので、

LD 押井守 GHOST IN THE SHELL

 ソフトを購入したことが有るかどうかすら、忘れていたが、一応探してみたら、LDが出てきた。しかも限定BOX。定価を見たら14,800円、て今から思えば泣けてくるほど高い。開封していた以上、流石に1回は観たらしいが(覚えてない)。せっかくなので、久々に観てみる。(前に書いた通り)裏返してB面としてしか再生出来ない、既に壊れ掛けのプレイヤーで。

 ……まぁ、普通。観た当時は「ぬるい」とか「物足りない」とか色々思った気もするのだけど、9年も経つと、そういうことすら気にならなくなったというか。かといって「面白い!」と思うようになったわけでもなくて、当たり前のことを当たり前にやっているな、と淡々と観ている内に終わる、という感じ。

 最後の少女の少佐の声が坂本真綾だったのにはちょっと驚いたけど。9年前なら15歳位の時の声?

 ともあれ、個人的にはこれ以上観ても新たに得ることは無さそうなので、DVDで買い直す必要は無しと。

 DVD。「イノセンスの情景」。絵の出るサントラ。それ以上でも以下でもないけど。シークレット(というほどでも無い)トラックはなるほど、押井守のためだけにある映像だった(^^;;

 

3/19

 有給消化日の休日。最初に、銀行で普通預金から振り替えて、定期を作成。勿論、定期にすること自体には何の意味もなくて、その結果として時間外手数料を無料にするのが目的。前々からそうしたいと思っていたのだが、平日に銀行の支店に行くのは、なかなか難しくて。これからは平日に下ろし忘れても大丈夫。コンビニでも今の期間は無料みたいだし。

 その後、予定通り、吹き替え版で「王の帰還」を再び観る。

 今回は、字幕版と吹き替え版の違いは余り感じなかった。これ位なら、好みの問題の範囲? 情報量の違いを感じたのは、サムがホビット庄の風景をフロドに語ってみせるところとか割と一部だったし。まぁ、台詞で話を進める映画じゃなかったこともあるのだろうけど。

 そんなわけで、今回は字幕版を観る方がお薦め(観る人は既にもう観たと思うが)。グロンド、グロンド!の掛け声は、吹き替え版の方が明瞭で格好良かったけど、この映画最高の燃えどころであるセオデン王の演説、ここだけは、字幕版(というか、原台詞)でないと決まらないので。 「死のう!死のう!」て、「死のう死のう団」じゃ無いんだからさ…

 Book。野田秀樹「透明人間の蒸気」(Shincho On Demand Books)。初演時の脚本。ふうん、ラスト以外は基本的に変えてないのか。逆に、ラストが変わったというべきなのか。やっぱり、簡単にでも感想を書いておいた方が良いかな…

 

3/18

 というわけで、見てきました。新国立劇場での「透明人間の蒸気」。

 感想を書くかどうかは分からないけど、一言で言えば、「まぁまぁ」だったかなと。初演は見ていないので、見ている人なら、もう少し辛口かもしれないが。

 明日は、せっかくの休みなので「王の帰還」をもう一度観てこようかと。今度は、吹き替え版の方で。

 

3/17

 明日の芝居のチケットを@ぴあで購入したままなので、Family Martで発券しよう、と改めて探してみたら、勤め先のある街は、勤め先のある側には1店も無かった。えー? 一応、有数のターミナル駅だというのに…(だから?)。下車駅にも、駅のすぐ近くには無いので、やむを得ず、一駅前で途中下車して、駅前のFamiy Martで発券。

 そういえば、少し前に、ローソンを同様に探した時も、勤め先のある側にはほとんど無かった。ついでに言えば、セブンイレブンも無い。…実はかなり、コンビニエントでない地域? その反面、サンクスとam pmだけはやたらと有るのが不思議といえば不思議。どちらも、滅多に使わないけど。

 関西の某都市にいた頃、「コンビニに寄らない日はない」位のヘヴィーユーザー?だったことを思えば、隔世の感。その頃は毎日、違うヨーグルトを食べ比べするとか、よく分からない目的意識に突き動かされていた、というのも有ったとはいえ。

 それにしても、@ぴあ→family Martで発券、はこれからも有るので、Famiy Martだけは通勤経路に有ると便利なのだが。ローソンは無くてもまぁ、良いけど。

 ああ、でも、ロッピーで購入するものが今後、絶対無いとは言えないか。「私の夢になってよ」BOXを予約しなくちゃ、とか突然、思い立ったら困る(^^;;

 

 今週は「恩田陸の文庫本」週間にしよう、と思っていたのだけど、やはり、平日に感想を書いていくのは、なかなか出来ない。多少準備した上で、来週あたり、チャレンジしようかと。

 CD。メロキュア「メロディック・ハード・キュア」。ようやく、というか。

 

3/14

 昨日に引き続いて、3/13「若冲と琳派」、3/6「高山辰雄展」の感想を追加。

 

Novel 夏目漱石 「こころ  岩波文庫

 有名過ぎて、書くことがない… 「短い」上に、「私」という一人称、かつ「先生の過去」というミステリーで最後まで引っ張る、一気に読めてしまう作品なのは確かだけど。

 以前にも書いたが、「私」→先生、というやおい的関係を抜きにしては成り立たない小説。漱石の作品では通常、(池や風呂の)水面の側でヒロインに出会うのだが、 この小説では、鎌倉の海岸で、海水浴に来た先生を「私」が見掛ける場面から物語が始まることでも分かる。

 しかし、「私」→先生という熱視線はよくある「異性の恋の前段階」だったとしても、人間嫌いの先生が何故、この傍若無人で無神経な若者の接近を拒絶しなかったのか 、というのは、「先生の過去」が明らかになった時点、つまり小説を読み終えた時点で、改めて浮かび上がる疑問だと思う。

 「私」は誤解しているが、若い頃の先生と「K」とではあったかもしれない一種の恋愛的感情は、先生→「私」には存在しない。「好き」だからではないのだ。

 代わりに言えるのは、「門」の、恋人を奪ってしまった昔の親友に再会し掛けた動揺から仏門を潜る行く主人公のように世捨て人のように暮らしていた先生は、Kの身代わりとして自分を譴責する存在を(内心では)待っていた だろう、ということ。自分の過去に首を突っ込んでくる無神経な「私」はまさしく、待ち望んでいた存在の出現として映った筈。

 最愛の妻を遺してどうして自殺出来たのか、という謎も、そういう先生の意識(無意識?)を前提にして初めて理解出来る。端的に言って、(妻を)「私」に任した、というのが「手紙」の趣旨だとしか思えないが、そんな無責任なことが何故言えたのかというと、先生の中では 、「私」はKの再来(に近いもの)として位置付けられていたからに違いない。Kの物を奪ってKを死なせた以上、Kに返して自分も死ぬ。カエサルのものはカエサルに返せと。

 鈍い「私」はその辺の事情はよく理解しないまま、しかし恐らくは、精神的な一体化を望んでいた先生の「遺言」通り、奥さんの再婚相手となるのが、後日談なのだろう。そして、「私」は先生の「罪の意識」も受け継ぐのだ。「こころ」という平明な小説が与える、どこか不気味な印象は、そういう将来への予感にあるのではなかろうか。 (←とたまには、読書感想文風に書いてみた)。

 それにしても。フェミニズム的な読み手からすれば、焚書扱いされそうな内容なんですが。どうなんでしょうか、女性から見た、「こころ」の「先生」像というのは。独り善がり?

 

 ちなみに、私がこの小説で一番好きなところは、何にも起きない、穏やかな場面の描写。こんな感じの。

 「この芍薬畑のそばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った端のほうに腰をおろしてたばこを吹かした。先生は蒼い透き通るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよくながめると、一々違っていた。同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂に投げかぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。」

 

3/13

 「月刊ZERO SUM」ロゴ入り、一賽舎からのクロネコメール便。心当たりが全然無いなと思いつつ開封すると、「OGAKI新聞」なるペーパーが入っていた。

 ……そういや、「Landreaall」1巻のアンケート葉書を送った時、葉書に「送付してくれた方にはおがきちかのマニアックな情報を掲載したペーパーを送ります」と か書いてあったっけ。昨年の春の話なので、すっかり忘れていた。1年経ってから発行するというのは、ずぼらなのか律儀なのかよく分からないが>一賽舎。ともあれ、貰えること自体は嬉しい。

 一賽舎ほどではないが(^^;;今までの遅れを取り戻すべく努力。3/12「パリ マルモッタン美術館展」の感想と3/11「円山応挙展」の感想と、3/4「円山応挙展」の感想を追加。

 

Art 若冲と琳派 きらめく日本の美 横浜高島屋 2004.2.26〜2004.3.15

 ここは前の催会場の音声で五月蝿いし、照明は暗いし(七宝の展示があんな薄暗くてどうするという)、凡そ絵を見る環境じゃないんだけど、近いので行ってしまう。今回は内容的には充実していただけに、環境の悪さが特に気になった。

 今回は実質、其一&若冲展。色々な其一が一気に見られて得した気分。正月用の飾図とか、「やり過ぎ」感の強い作品が特に楽しい。抱一ゆずりの情緒的な「絵」よりも、デザインに走った「画」の方が、其一らしい、という気がするので。

 若冲も思った以上に点数が有って、楽しめた。野鳥の屏風で、翡翠が水に突っ込んでいく姿の描写がアニメチックなおかしさ。後ろの草など完全に「集中線」になってるし。現代なら、個性派アニメーターが天職だった ?

 あとは例によって鶏、鶏、鶏。この時代、食用だったかは知らないが、少なくとも若冲が相当な鶏好き(飼う方)だったのは間違いないので、全羽埋め立てとかの昨今のニュースを聞けば、号泣するかも、と思いながら見ていた。

 Comics。小田扉「男ロワイヤル」。お馴染みのご近所3人娘の中では野木さんが割と好き(誰も訊いてない)。一番ツボに填った短編は「ともみの親友」かな。

 

3/12

 先週の反省を活かして、上野に直行し、何とか閉館前の1時間を確保。空いている館内で、気分良く見る。

 

Art パリ マルモッタン美術館展 東京都美術館 2004.1.27〜2004.3.28

 とかく評判の悪い(モ)の宣伝が目立つ展覧会。いや、まぁ良いけど。モネとモリゾでマルモッタン、って、昔の漫才か何かみたいだ。「パリ」と題名に最初に加える辺りも恥ずかしい。これもそれも日テレのセンスなのか。

 ところで、マルモッタンは昔の旅行時に訪ねた美術館だが、 今回来た作品はほとんど覚えていなかった(^^;; 今回の一番の目玉、大きな睡蓮 の絵は流石に覚えていたけど。上野の睡蓮とは美しさが全然違う(今まで騙されていたのか!)と思った覚えがあるので。あとはアイリスの絵とか数点のみ。モリゾに至っては、全然覚えていない (オルセーで見た記憶のみ有る)。

 美術館のすぐ近くに小さな公園が有って、近道するために横切った時に、それまで曇っていたのが、ちょうど日が差してきて、木々の紅葉(というより黄葉)が綺麗に見えたことなどはよく覚えているのだけど…

 ともあれ、今回は実質、ベルト・モリゾ展。完全に描き込まない画風で、生き生きとした印象を上手く作っていて、心地よい絵だった。(宣伝を除けば)割と良い展覧会だったと思う。

 Comics。紫堂恭子「王国の鍵」4巻。竹本泉「よみきりもの」6巻。

 

3/11

 会期終了が近くなってきたので、夜間と言えども、さすがにガラガラ、ではなかった。

 

Art 円山応挙 <写生画>創造への挑戦 江戸東京博物館 2004.2.3〜2004.3.21 (4回目)

  第1,2週の作品が再び展示されたりしているのに再会して懐かしい気分に。こうして、ぐるぐると一周したりするのよ。

 再会組の中では「雨竹風竹図」が、抜群の人気。竹の伸び伸びとした勢いが見ていて気持ち良い。線に迷いがないし。

 新しく加わったのは「狗子図」の幾つか位。第6,7週の目玉というのは、余り無かった。と思ったが、「資料」扱いで展示の「四条河原納涼図画稿」は、かなり面白かったので、これだけでも私としては来たかいはあったというもの。下絵かスケッチらしいのだけど、河原で涼んでいる町衆の様子を、ややコミカルに捉えた絵。河原に設けられた高床に寝っ転がってくつろいでいる人や、出店を冷やかしている人。何かを食べている人。中には、喧嘩を始めた二人の腕を周囲がまぁまぁと押さえている場面まで描かれている。

 北斎漫画とか、そっち系の観察描写で、応挙がこういうのも描いていたというのは意外だった。もっとも、浮かれる群衆を捉えた視線に温かみを感じるのは、応挙らしい気も。

 ちなみに、素っ裸で泳いでいる人達も描かれているのだけど、当時の鴨川はそこそこ綺麗だったんでしょうか。

 昔、七夕コンパか何かの勢いで、出町柳の三角州から、対岸まで加茂川を往復する(水深数十センチなので、走って)という競争をした時(これは、往々にして地元の学生が一度は、やってしまう愚行だ)、岸に上がってみると、ジーンズの裾がヘドロまみれでベトベトになっていて、(気持ち的には)泣きながら(^^;;下宿まで戻った、という痛い思い出がある私としては、鴨川の流れ=かなり汚い、という印象が強いのだけど。

 まぁ、江戸時代は合成洗剤は無かったわけだし。でも、当時は、何でもかんでも流していたような気もするので、余り綺麗でも無かったのかも。

 「七難七福図」は福寿巻。やはり、人災巻ほどは面白くないです(^^;; 食足りて礼節を知る、ということなのか、食材が山のように積まれた調理場の描写は、当時のご馳走がどういうものだったか分かって興味深かったけど。鯛や伊勢海老、蛤、鰻、松茸、果物… 当たり前かもしれないが、意外と今と余り変わらない。ただし、肉はないわけで、肉食は文明開化の産物なのだな、と改めて実感。もっとも、鳥は材料として加わっているので、食べてないのは牛と豚だけなのか。

 新発見の「東方朔龍虎図」が第6週のみ公開、との話だがどこにもない、と思ったら、最後の大乗寺の山水の間の横に、ガラスケースが設置されていた。先祖が応挙本人から入手した作品 とか。持つべきなのは金持ちのご先祖様だな… 中央の仙人(東方朔)のどこかひょうきんな表情が楽しかったが、(もし自分で所有出来るとするならば)第1,2週で同じく特別公開されていた「四睡図」のほわわわんとした感じの方が私の好み。

 というところで、来週は新たな作品の展示はないので、この一ヶ月、通った応挙展も個人的にはこれで終了。最後に記念として、「狗子図」のミニ色紙を買って帰った。

 (応挙展の感想は分散しているので、整理すると→1回目2回目(以上、2月の日記)、3回目(3月の日記))

 

3/10

 公開と同時にネット上に溢れた「イノセンス」の感想。

 全体に、すぐに「評価」しなくてはいけないという強迫観念というか、何らかの言葉(「どこまでも押井守だ」または「押井守でしかない」といった)で断定することで「観た」ことを 「封じ込めたい」という欲望から書かれているように見える。まるで、異物に対する免疫反応を思わせる過敏さを思わせるというか。

 それが「イノセンス」に特有の反応なのか、ネット上の批評/感想の一般的な特徴なのか、俄には言えないが、ともかく、皆、そんなにも「評価」することが好きなのか、「傑作」か「駄作」かを瞬時に目利きすることが作品を観る目的なのか、と言いたくもなる。

 この映画に限った話ではないが、作品の細部に対する魅力を引き出す、新たな読み方を提示してくれる文章こそ読みたいのだが… 「評価」ではなくて、「鑑賞」。

 とはいえ、かくいう私も、「擁護」などと物々しい言葉で「評価」したりしているわけで、やや大人げなかったとは思う。 

 

3/7

Novel 夏目漱石 「吾輩は猫である  岩波文庫

 「虞美人草」に続き、飛ばしていたことに気付き、遡って通読。昔、読んだのは全集版(確か中公の「日本の文学」)だったので、今回、文庫を手にとって、ぶ厚いのに驚く。さすがに、京極夏彦ほどでは無いけど。

 まるで蛇口が壊れた水道管のように、言葉が止まらない過剰さに圧倒される。近代の日本語が溢れ出る瞬間に立ち会っている感覚。まぁ、半ば、ただの故障にも見えるが。

 「猫」といえば「笑い」の文学。今までずっと、「猫」は、自らを客観視する、カラっとした笑いで、「坊っちゃん」は(世間のイメージとは異なる)陰鬱な笑い、と対照的なイメージを持っていたが、全く同時期に書かれた文章がそう違う筈もなく、改めて読むと、江戸の落語や滑稽ものから続くおかしさに溢れた箇所もあるとはいえ(「天璋院様の御祐筆の…」のやり取りとか)、「猫」も全体的には、社会に対する「不愉快さ」が原動力になっている、「濁った」笑いが多かった。

 子供達の怪物的な食事風景の描写が強烈だけど、これは実体験の反映か。強烈と言えば、銭湯のシーンの描写も強烈。

 そういえば、漱石は無類の温泉/風呂好き作家だったのに違いない(ほとんど全ての作品に、入浴場面が有る!)と最近ようやく気付いたが、だからといって、月村了衛的なユートピア(湯ーとぴあ?)として必ずしも描かれるわけではなくて。例えば、この作品での男湯の混雑振り・不潔さは、恐ろしいまでに誇張されていて、そこまでして何故入る、と言いたくなる。

 でも、温泉に浸かっていると何故かそこに女の人が入ってくる、というパターンも漱石の十八番だったりするので、月村了衛の世界とも実は余り遠くなかったりするのかも、ええ。

 

 「最初に海鼠を食べた人は偉い」という言い方が有るが、それを最初に言い出した人は誰なのかしら? というのは、この「猫」にまさに同種の文章が載っているから。

 「始めて海鼠を食い出せる人はその胆力において敬すべく、始めて河豚を喫せる漢はその勇気において重んずべし。」

 天道公平なる人物からの手紙の一節で、苦沙弥先生は、この手紙にいたく感心するのだが、実は差出人が巣鴨の病人であることが後に判明する。それはともかく、「猫」といえば、国民的文学だから、これ以降のこの表現は全て「猫」のパクリであるというか、意識的・無意識的を問わず、その影響下にあると言って良いが、問題は、「猫」のこの文章が初めてなのか、ということ。もしかしたら、当時からある種のクリシェだったかもしれないのだが、その辺が良く分からないのだ。ところで、この文章、前者はさておき、後者は違うと思う。勇気が有ったのは、「一番目に食べた人物が毒に当たったのを見てもなお河豚を食べた」二番目の人物だろう。勇気があったというよりは、食い意地が張っていただけ、かもしれないが。

 

3/6

 前と同じように、長距離バスで、東京駅から水戸まで往復。

 ただし、今回は、梅のシーズン中なので、行きのバスは凄く混んでいて、定員の最後の一人としてようやく乗り込めた(増便も出るようだったけど)。もっとも、私は、茨城県立近代美術館の「高山辰雄展」を見て、そのまま帰ってきたので、偕楽園には全く寄っていません。桜と違って、梅には余り惹かれるところが無いので。

 そして、夕方からは、渋谷シネフロントで押井守の「イノセンス」。という、私としては、かなりアクティブな一日だった。…バスの往復4時間、ひたすら寝ていた一日を、アクティブと呼んで差し支えなければ。

 

Art 高山辰雄展 茨城県立近代美術館 2004.1.31〜2004.3.28

 約百点の作品による、まとまった規模の回顧展。若い頃の作品から通して見たのは初めてなので、その変遷振りがなかなか興味深かった。

 東京美術学校を首席で入学し、首席で卒業。最初から相当に上手かった筈で、(上手くなりすぎた)写生の上手さから脱却するのに十年掛かった、と本人も言っている程なのだが、当時の卒業制作とかを見ても、上手いんだかそうでないのかよく分からない(^^;; 最初から「画面」の画家で、「線」の画家でないことは分かるのだが。

 その後、絵を描くことに相当に悩みながら、油彩風の風景画等を描いていたが、ゴーギャンに影響を受け、似たようなオレンジや緑で単純な画面構成を試みた時代を経て、更に、暗く濁った曖昧模糊とした独自の世界を描き出すのが中年 以降。50代の絵が、青春の苦悩といわんばかりの観念的な絵で、これまた良いのか悪いのか、よく分からない(^^;;

 だから、いわゆる「高山辰雄らしい」、中間色による微妙な色調の、柔らかい肌触りを感じさせる絵を描き出すのは60代になってから。大金晩成タイプ?

 しかし、一つところに安定するのは嫌らしく、現在に至るまで変貌し続けている。年と共に成熟するとか絵が澄むのではなくて、いつになっても、今までと違うことをやりたいらしい。

 絵によっては、「何を元に描いたか」の説明が付いていたが、元の地名と似ても似つかないのがおかしい。沼津で見掛けた風景を元に描いた「秋の日」とか、どこの沼津なのか、中世ヨーロッパじゃないのかと思ってしまう黄土色の景色。アウトプットの際に変換されるのか、インプット自体、こう「見えている」のか、画家の眼はよう分からん、と呟くばかり。

 中でも一番笑ったのは「海」という絵。日展に海の絵を出展すると決めた直後に足を骨折した画家は「ひと目でも見なければと自動車にかつぎこんでもらって」大磯で写生し、「海はやはり写生しようもない大きさで迫ってきた。ギプスをはめた足でやっと仕上げるのが精一杯であった」というのだが、しかし、その絵を見ると、ひたすらどんより黒い空の下、ひたすら黒い海面がどんより一面に広がっている。………一体、どこが(陽光差す湘南の)大磯の海? というか、これならそもそも写生なんかしなくても別に良かったんじゃ…

 ともあれ、現在の日本画家の最高峰、などという言葉に収まりきらない、独自の世界を堪能。実は「凄い」「美しい」とかより「面白い」「変」で評価すべき画家なのかも。いや、本人の中ではきっと、ちっとも変ではない世界なのだろうと思うけど。あえて言えば、回顧展なのだから、1枚でも未公開の新作があれば、もっと良かった。

 

 後者の感想は後日、といいつつ、何がしかの態度表明が求められているようなので、とりあえず。

 一見さんを受け入れて気持ちよく送り返す、という「過不足のないエンターテインメント」としては、明らかに難があって、特に、storyにおける基本的な問題点は誰でも指摘したくなる部分だと思う。「評価」するのであれば、恐らく(映像の凄さだけは褒めておいて)「批判」しておく方が遙かに「安全」な作品。

 だけど、どちらかと問われたら、私は「擁護」する方に回りたいと思う。そもそも、先程述べたような観点で判断すべき作品なのか?という気もするし。少なくとも、「パトレイバー2」以降、久々に、2度観る意味のある(価値のある、かどうかは人によって大きく違うだろうけど)作品ではないかと。

 ただし、公開形態と作品内容がアンマッチかも、とは確かに思うところで。結果オーライ、なら良いんですけど…

 

3/5

 「マルモッタン美術館展」を見るべく、急いで退社して山手線にまで乗ったのだが、あえなく挫折。落ち着いて見るには1時間は欲しいのに、7時まで、というのは、やはり無理があったかも。素直に、さ来週の休みの時に見ることにして、秋葉原で降りて、「イノセンス」のサントラだけ買って、帰る。燃えた後のヤマギワソフト館を見たのは、実は初めて。

 

3/4

Art 円山応挙 <写生画>創造への挑戦 江戸東京博物館 2004.2.3〜2004.3.21 (3回目)

 東京国立博物館の作品が沢山並んだ第5週。だけど、その大半が一週間のみの展示、というのは吝嗇過ぎやしない? 展示場所の都合も有るだろうけど。

 ただし、印象に残ったのはむしろ、それ以外の作品。例えば、「竹雀図」「若芽南天に雀図」の水墨の闊達さとか。応挙の表現の幅の広さを改めて感じた。

 三井文庫の「山水図」も、右隻で西洋的な遠近法、左隻で伝統的な山水画法が使われていながら、全体では統一感があるように見えてしまう奇妙な作品で、一見の価値有りだったが、「雪松図」屏風すら一双で展示しない同じく吝嗇な狭い三井文庫では、これが一双で展示される 機会もまず期待出来ない。この機会に見られて良かったなと(皮肉?)。

 一見の価値有り、といえば、この第4、5週の目玉は何と言っても「波上白骨座禅図」。波の上で骸骨が座禅を組んでいるあの異色作。思っていた以上に、(何故か)ユーモラスに感じられる。骸骨が笑っている(ように見える)ことが大きいのだろうけど。それも呵々と笑う、という感じ で。いますよね、そういう妙に陽気な爺さん。

 宗教画として描かれたものらしいが、意味合いとしては自己との対面みたいなもの? こういう「場面」って、東洋思想を意識したアメリカの小説とかにありそう。カリフォルニア経由の禅というか、ウエットではなくてドライな印象を受ける。意味としては少し違うが、バリー・ヒューガードの「霊玉伝」の一場面を思い出した。

 ところで、この絵の骸骨、足の骨が幾ら何でも小さ過ぎるような。いや、まぁ、私は「座禅する骸骨」を実際に見たことなどないですが(というか、普通の人は皆そうか)。

 あと今回の「写生図鑑」は、猿の写生。今さらながら、頭の毛の柔らかさや足裏の硬さまで再現している上手さに感歎。ポイントとしては、手足の爪を他より濃く(黒く)描くことらしい。覚えておくと、年賀状で猿の絵を描く時に役に立ちますよ! て12年後の話か。

 

 6日から公開の「イノセンス」。

 前売りを何枚、買うべきか思案中。「映画は2度見る必要がある」以上、2回行くことまでは確実なのだが、作品について何かを書こうとするのであれば、最低3回は観ておくべきだと思うので。ただし、今さら何かを書こうとする気になるかは分からないし(というか、書く必要は別にないし)、前作のように、1回観ればそれで充分、となる可能性もないとはいえない。逆に何回も行くのなら、せめて前売りを買っておきたいところ(勿体ないので)。

 などと書くと、いかにも押井守フリークのような感じだが、最近の作品はロードショーではいずれも1回しか観ていないし、初回を観なくては、とかも別に思わない(そういえば、「パト2」の時は初回の挨拶を聞いたような気もするが)。初日でなくても別に構わない位だが、平日だと予定が不明なので、とりあえず、初日の夜の席を引き替え。

 ちなみに、特別な期待はしていないが、ここまで来たら最後まで付き合うしかないか、という感じ。因果な縁というか。

 

3/3

 会社の施設で、宴会。伊勢海老のしゃぶしゃぶ、というものを初めて食べました。

 Comics。おがきちか「Landreaall」3巻。綺麗な終わり方…って、まだ続くのか。

 

3/2

 漱石月間は、ようやく「明暗」に入り、遂に終了間近。とは言え、書く方はずっと先になりそうなので、「明暗」の文章から先に一つだけ。

 「二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い丘が、怪獣の背のように黒く長く横たわっていた。」

 …私は今まで、「怪獣」とは、昭和生まれの言葉だとばかり思っていました。「ドラゴン」には妖精国製の商標が付いている、というトールキンの言葉に倣うなら、「怪獣」には円谷プロの商標が付いている、というか。ちなみに、メーカーはバンダイでもポピーでもなくて、やはりマルザンかブルマァクでしょ、というのはまた別の話で…

 改めて辞書を引いてみると、200年前位からの用例が既に載っている。「椿説弓張月」の一節とか。そうなのか。更に漢文で言えば、司馬相如「封禅文」まで。至って無知な私は、…誰それ?何それ?とか思ったんですが、漢の時代の非常に有名な文学者(というかカップル)の遺作らしい。2000年前からなのか!

 ただし、そこで言われている「怪獣」が、今の「怪獣」と同じような存在かというと、それは微妙で、「山海経」に沢山出てくるようなキマイラ的な獣なのではないかと(そういえば、「山海経」では「怪獣」という言葉は使われてい るのだろうか?)。「十二国記」で言うところの「妖魔」。

 そこへいくと、漱石の「怪獣」はスケール感で、今の「怪獣」と違和感が無いのが不思議といえば不思議。あるいは、この「怪獣」は英語の翻訳だったりするのだろうか。怪獣…、センダックの「かいじゅうたちのいるところ」の原題は「Where the Wild Things Are」? 「ワイルドなヤツらのいるところ」でスね。ちょっと違うな。monsterでも無さそうだし。

 むしろ、発想を変えて、特撮映画において何故、「怪獣」という言葉が使われるようになったのか、そっちを調べた方が早そう。…調べないけど。

 

 なお、全くの推測だけで言うならば、戦前から続く大衆娯楽小説の文化から来ている言葉ではないかと。怪盗、怪人、怪物、怪獣…と皆、同時代の言葉、という気がするので。