空の蒼さを 見つめていると


2003年11月

11/30

 この週末は、この前から見始めた「ポポロクロイス物語」をずっと見ていました。ええ、前作の方。

 放送時には途中までしか見ていなかったりするので(16話まで。思ったよりは見ていた)、最後(25話)まで通して見たのは、実は今回が初めて。だから、途中に突然、1話分丸々「ご先祖様万々歳」ばりの舞台劇風演出の異色作である18話「心の森」という回が挟まっていることなども、初めて知った次第。(ちなみに、「心の森」は、ナルシアにカイという、 ヒロインの少女の人格の二面性とその統合を描いた、単体としては秀作なのだが、全体の流れの中では浮いてしまっている回)

 それまでの盛り上がりが素晴らしいだけに、その「心の森」以降、物語がやや失速してしまうのが残念ではあったけど、最終話は綺麗にまとめた、全体としてはやはり「良い作品」だったと思う。音楽の使い方も非常に効果的で。そう、真下監督もこの頃までは音楽と台詞のバランスが凄く良かったんだけどな…

 途中からは一気に見た反動で、見終えてしまった今はちょっと、空虚感がぽっかりと(^^;; 心の隙間に風がひゅーひゅー?吹いています。仕方ないので、昔買ったファンブックを引っ張り出してきては読み返したりと。そういや、当時の日記に感想を書いていたような?(読み返してみる)。…変わってないな、私(^^;

 いや、まぁ、想いが変わらないのも男のロマーン(なのか?)。

 

 ともあれ、これでようやく「ポポロクロイス」が片付いたので、次からは… 「灰羽連盟」のDVDでも見始めようか、12月だし。って、小津を見ることが出来るのは一体いつに ?

 

11/29

 いかにもミーハーながら、複合機のPIXUS MP370を購入。

 エプソンのあの忌々しい「インク交換自体が出来ない」プリンターからいい加減買い換えるついでに、コピー機も欲しかったので。というのは、今住んでいる住宅地は、徒歩30分以内の所にコンビニが一つもないという、今時そうは無い不便な地域なのだ。これで真夜中にコピーする必要が出てきても、もう大丈夫。

 大きさが少し気になるけど、目立つデザインではないので、まぁ何とか。印刷、スキャン、コピーのどれも突出した性能ではないけど、ストレス無いレベルで、私にはこれで充分。

 

Novel ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 「マライアおばさん  徳間書店

 徳間書店からの新刊なので、クレストマンシーとか既往のシリーズの続編かと何となく思い込んでいたけど、単独の作品だった。

 ここのところ、(中身はともかく)口当たりは割とソフトなダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品が続いていただけに、この作品の序盤の嫌な感じには、結構、パンチを食らった。この辺の容赦の無さが、さすが?ジョーンズだとは思うが、こういうのを小さい頃読むと、ある種のトラウマにならないか心配 。

 もっとも、読み続けるのが辛くなってきた辺りで話が一旦動き始めてからは、止めようにも止まらないジェットコースター(途中で宙返り有り)的エンターテインメントとなるのも、ジョーンズならでは。主人公の女の子 による日記という形式を上手く使っているのには感心してしまう。

 徳間書店の既刊より、むしろ創元文庫の「わたしが幽霊だった頃」や「九年目の魔法」に近い感じで、非常に好みの世界。そうそう、こういう作品を彼女には期待しているのですよ。

 

11/28

 「私の好きなモノすべて」が結構アレだったので、どうしようかと思っていた未見分だけど、一つだけ観ないのも中途半端だし、「見下げ果てた日々の企て」感想を読んだ限りでは、「ガーデン」と同方向の映画らしいので観に行ってみることにした。

 

Cinema マルティン・シュリーク 不思議の世界地図  銀座シネ・ラ・セット

 これはとても楽しかった! 「ガーデン」では、良くも悪くも垢抜けない「不思議さ」が特色だったけど、2年後のこの映画では、ずっと洗練されていた。特に物語の前半は、奇妙な出来事や人と次々に遭遇する軽快な展開が、観ていて非常に心地良い。

 主人公の少女が、奇妙な絵地図を元に母親を捜すという大命題はともかく、具体的な行動においては割と行き当たりばったりにも見えるため、一見、割と即興的に撮ったシーンの集まりにも思えるが、幾つもの事柄が(伏線と言うほどではないにしろ)後の場面できちんと活用されていくところを見ると、実は、綿密な脚本に基づいて作られた作品らしい(当たり前と言えば当たり前だけど)。かといって、全てが物語の構造で説明出来るというほど、理詰めでもない (ように見える)ところが、ちょうど良い案配かも。ラストなんて、そういう落とし方かよ!みたいな終わり方だし。

 それにしても、この監督の映画は、「私の好きなモノすべて」と言い、この映画と言い、(アメリカ映画のような)ここではないどこかへ越境するとか到達するといった可能性 は少しも信じていない感じなのが、印象的。出口のない「世界」の中の話という雰囲気。多分、 配給会社の『スロバキア版「不思議の国のアリス」』というコピーにも、その辺の「別世界」という感じが込められているのだと思う(実際には「アリス」はそういう話ではないけど)。

 何となく、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のあの世界を思い出させる。ここから出て行かないのだから、失望もないけど、希望もない。どこか醒めている。…これって、やっぱり、スロヴァキアという、海がない山国の国民性?

 ところで、改めてサイトを見て、主人公テレスカを演じたボーイッシュな少女が、「私の好きなモノすべて」の疲れた中年男トマスを演じた俳優の娘と知って驚く。全然、気付かなかったよ…

 

11/26

 今読んでいる途中のD.W.ジョーンズの児童書「マライアおばさん」は久々にジョーンズ節?全開という感じで、凄いです。

 

Book  佐藤忠男 「完本 小津安二郎の芸術   朝日文庫

 同じ朝日文庫だが、厚さは2倍以上。文庫化された時、読むことはまず無いだろうと思いつつ買った本だが、 3年経って、読む気になった。

 (どんな文章についても言えることだが)映画についての文章もまた「生きた」文章と「死んだ」文章の二つに分けられる。読んで映画を見たいと思わせる文章と、そうでない文章。言うまでもなく、この著者の文章は後者の代表例である。

 思ったより読み易かったし、さほど間違ったことを書いているわけではない(でも、「晩春」のラスト、父親役の笠智衆が林檎を剥きながら俯くシーンを「寝てしまう」と思い込む辺りは、ビデオの無い時代としても、酷い )。関係者から聞いた貴重な話も含まれているし、小津の映画では台詞を喋る姿をいつも正面から写すことに関して、俳優をお客として遇する「礼儀正しさ」を見て取る辺りの話は、観客としての実感が籠もっている。

 しかし、「甘えの構造」を持ち出す箇所を初めとして、通俗的な社会文化論に回収してしまう弱さは、いかにも「文化人」的な「評論」。(訃報の際に)新聞社(それも、特に朝日新聞辺り)から求められる「識者」としての「映画評論家」の言葉という感じ。

 こういうのを読んで「分かった」気になってしまえば、それこそ最悪なので、資料としてチェックしたい人以外、お薦め出来ず。確かに「知識」としては、これさえ読んでおけば充分だけど、映画を観る上では必要ではないこと。

 というか、「小津安二郎の芸術」と名付けている時点で、この本が駄目なのは明白。「小津安二郎の映画」でしょう、それを言うなら。

 

11/25

 11月後半〜12月前半は自分の中での小津安二郎月間に決定。お陰でディケンズや漱石が全然進まない。

 最初はこの際、(本屋に今ある)小津に関する本は全部読んでしまえと思ったのだが、実際に本屋で見てみると、何だかやけに高い本が多いので前言撤回(^^;; 例えば、デヴィッド・ボードウェル「小津安二郎 映画の詩学」などは読む価値はありそうだけど、8,400円も出して本を読むより前に、作品自体をまず観るべきだろう。

 とりあえず、手軽なものと自分で持っているものの再読から始めようかと。

 

Book  貴田庄 「監督小津安二郎入門 40のQ&A   朝日文庫

 小津についてのハンディな紹介書が今まで無かった、ということで書かれた文庫本。その意味では正しいのだが、勝手に質問を想定しておいて自分で説明する構成は、どう考えても無理がある。自問自答している質問が割と俗っぽい(女性関係とか)のも、どういう読者を想定しているのか、と疑問に思うところ。

 でも、あの「小津安二郎の食卓」を書いた人なので、内容自体はまとも。小津自身についてと、小津の映画については別の話だと分かった上で、小津自身に関心があるのなら、一読しても悪くないかも。個人的には、以前から気になっていたあることに関して、かなり役に立つ?情報が得られたので、得した気分にはなった。

 ところで、帯の「小津を知らずしては、スピルバーグもカウリスマキも語れない」という文句、後者はともかく前者は嘘でしょ。大体、スピルバーグを「語る」必要がある人なんて、この世に何人いるというのだ。

 

11/24

 連休最後の今日は、皆既日食の中継を見た後も、部屋で一日過ごす。寒い日に出掛けるのはもう嫌。併せて、連休中の日記に手を入れる。昨日見た「ガウディ」展の感想とか。

 溜まった小津全集もいい加減開封したいのだけど、どうしても見直したくなった「ポポロクロイス」の前作を、突然、見始めたりしているので、DVDで映画を観る暇が作れそうにない (それは自業自得というものでは?)。

 それにしても、前作はやはり、素晴らしいの一言。ガミガミ魔王のダンディズムに、ギルダさんのミュージカル、そして何と言っても、素直になれないヒュウ様の純情! 馬鹿王子は割とどうでも良いですが。

 

11/23

 東京都現代美術館で「ガウディ かたちの探求」展を見る。この連休、寒い日だけ、わざわざ外に出掛けているような気が。

 

Art ガウディ かたちの探求  東京都現代美術館 2003.10.4〜2003.12.14

 ここはどの駅からも遠いのがネック。近所なら、あの充実した図書室に通い詰めるのに… でも、ガウディだし、と行ってみると、券を買うのに行列させられ、いきなり萎える。大して人が多いわけではないのだが、2人だけでちまちま売っていれば行列にもなるわ。

 とかく財政難の施設(知事がああいう人だから)と聞くので仕方ない面もあるとは思うが(本来なら、自動販売機を初期投資すべき)、休日くらいブース通り3人体制にするとか。出入館時に出来るだけストレスを感じさせないのが、サービス施設としての基本だと思うのだが、余り気にしてないのか。

 数日前、「東京国立博物館ニュース」最新号の、警備担当の係長のコメントで驚いたのは、時代は変わったという趣旨で、お客に「いらっしゃいませ」なんて言うな、と昔は教育を受けたものだと話していたこと。でも、まぁ、公立の美術館は元々そういう体質なのかと。国博が「警備係」から「お客様サービス」と名前を変えたのも、今年の4月になってかららしいし。

 という不満が、展示方法にも同様に当てはまる。1Fはイントロダクションのコーナーで、ガウディの人生や仕事を簡潔にまとめた文章と写真の説明板が並べられているのだが、有る程度の人が来ることを想定せず、隙間無く並べているので、人がちっとも動かない。建築をテーマにしておきながら、見る人の動線を計算出来ていない会場ってお粗末過ぎでは?

 地下1Fの模型やCGは面白かったのだけど。ガウディの建物は実は非常に合理的に出来ている、と建築に詳しい友人から昔から聞いてはいたものの、実物を見てもよく分からなかった私でも、そーなんだ!と分かった(ような気になる)CGの数々。

 カテナリーアーチ、二重回転の円柱、凸面ヴォールト、双曲放物線面の相貫と、初めて聞く言葉ばかりだけど、何だか少しだけ賢くなったような気がしますよ?

 

 ガウディの建物が来ているわけではないので(当たり前だ)、やっぱり実際に見ないと、と言いたくなるが、少なくとも「行きたい」と思わせる点で、良い展覧会だったと思う。

 ちなみに、DVDで紹介されていたガウディ主要作品15点(ここも各モニターを近付け過ぎ…)の内、私が現地で見たのは8点。思ったより見ている。でも外観しか見られなかった所が多いので、 凝った内部の様子は新鮮だった。ガウディの建物も「神は細部に宿る」ので。

 

 

 最近、感想が長い(割には内容がない)上に、潤いが欠けている気がしないでも。内容がないのはともかく、ギスギスしているのは好ましくないな。フラストレーションでも溜まっているのだろうか、私。

 まぁ、見聞きしているものに問題があるだけなのかもしれないが。とりあえず、もっと簡潔に書くように心掛けよう。

 

11/22

 「小津安二郎全集」のvol.3が届く。…前月のvol.2は実はまだ1本も観ていなかったりするのだけど(^^;; でも、時代順に観るのなら、この際、vol.3から観ればちょうど良いか。昨年、ビデオを借りて観たところからだと、2本飛んでいるけど、それは気にしないことにして。

 vol.3では「父ありき」の台詞がどれ位聴きやすくなったかが最大の注目点だけど、一番楽しみなのは、やはりソフィスケイティッド・コメディの「淑女は何を忘れたか」。

 

 TV東京の「美の巨人たち」と「BB-WAVE.tv」を続けて見る。

 「美の巨人たち」はカスパー・フリードリヒの「エルデナ修道院跡」。あぁ、「ノスタルジア」の廃墟の元ネタの一つですね、これは。「ノスタルジア」の廃墟も実際は映画と全然違うらしいけど、フリードリヒが何枚も描いたエルデナ修道院跡の絵も、背景は 、その時代毎の彼が作り上げた脳内風景とのこと(もっとも、番組によると、「エルデナ修道院跡」に描かれた家は当時、実際にあったらしいけど)。幻想の元ネタも幻想ということ? タルコフスキーが撮ったイタリアにある廃墟はいつか一度行ってみたい、と思っているのだが、行かない方が幸せなのだろうか。

 「BB-WAVE.tv」は、ブランコに乗るジブリの鈴木プロデューサーを見た、ということで。

 

11/21

 休み、といいつつ、近所の散歩以外、何もしなかった一日。連休の後半は毎日、こんな調子で終わりそう。

 旧華頂侯爵別邸の横を通ると、またもロケ撮影をしていた。今回はまだ準備中らしく、見るからに怪しげな、カネゴンみたいなお地蔵?のフィギュアを抱いた人が庭を歩いていたりした。撮影機材を運んできたと思われる車には、NHKの文字。…あれ? これってNHKのドラマだったのか。

 それにしても。子供が主役で、妖怪屋敷?が舞台のNHKのドラマって一体、何?

 

 以前利用していたフォトアルバムが有料化されて以来、過去の旅行の写真が見られなくなっていたのを、今のアルバムに載せ直す。今さら載せ直すことに何の意味があるのか、自分でも疑問に思うけど、まぁ、竹本泉がモノクロになった2色ページの原稿を必ず単色で描き直さないと気が済まないのと似たようなもの?

 ともあれ、旅行ページのメンテナンスがようやく終了。これで、新たな旅行にも行ける(^^;;

 

11/20

 上野で展覧会巡り(「大英博物館の至宝展」は混んでそうだったので、止めた)。内容が芳しくなかったのは予想通りだから、それは良いのだけど、わざわざ、こんな寒い雨の日に見に行くことはなかった、と後で思った。

 

Art 国宝 大徳寺聚光院の襖絵  東京国立博物館 2003.10.31〜2003.12.14

 聚光院といえば、大徳寺の数ある(普段は非公開な)塔頭の一つ。学生時代、秋の特別公開で1度は行った筈だが、どうにも思い出せないので、展覧会を見てみることに。

 場内の写真の、苔で覆われた長方形の庭には確かに見覚えが。しかし、襖絵は全く覚えていなかった。昔は襖絵全般に興味がなかったし無理もないのだけど、これだけ印象に残ってないというのは、 私にとってはどうでも良かったということか。

 そう、ここで言い出すのもどうかと思うが、個人的には、狩野派は好きか嫌いかといえば嫌いで、永徳は中でも一番好きでない画家に当たる。だから、寒い雨の日に、こんな展覧会に大勢の人が押し寄せているのを見ると、何故?と言いたくなる。しかも、5,60歳以上の熟年層ばかり。

 襖絵は松栄作と永徳作の二種類。ええと、松栄って誰? 正信─元信─松栄(三男)─永徳、ということで、永徳の父らしいのだが、正直言って他の人より影が薄い。ただし、穏やかな人柄だったことはその絵から伺える。この人なら、一緒にいても楽しい話が出来たような気が。ぬぼーっとした鯰の絵とか見ていて楽しい。

 逆に永徳はさぞ生意気な奴だった気が(推測)。この襖絵が重要なのは、若き永徳(24歳)の描いた絵に、あの太い樹が既に出ているからで、誰かの言葉によれば「ここから桃山時代が始まっている」。真面目に描いているのは分かる。花鳥図ということで、やけに沢山の鳥を描き込んでいる辺りの熱心さも。しかし、どの鳥もプロポーションが変だったりと、一つ一つ丹念に見ていくと、(下手だとまでは言わないにしても) 凄く上手い画家だったとは決して思えない。

 その代わり、彼がやってみせたのは、絵をパッと見、見栄えのあるように仕上げること。具体的には、輪郭線をマジックのような太い線で強調して描くこと。そして、より効果を上げるように、木々の幹は極端に太くし、枝の太さ には実際を無視した強弱を付け、木の根は地面から持ち上げる。Gペンで太い線を描く、少年漫画的ハッタリ画面 。

 要するに、絵が上手くない人でも派手な絵が描ける為のテクニック 。これがいかに有効だったかは、その後の狩野派の隆盛を見れば分かるが、同時に、狩野派が私には素直に楽しめない理由でもあるような。

 と自分の中で、ある程度、納得出来たので、永徳はもう見なくても良いや。その意味では、役に立った展覧会だった?

 

Art レンブラントとレンブラント派  西洋美術館 2003.9.13〜2003.12.14

 タイトル通り、レンブラントとレンブラント派(=弟子)の展覧会なのだけど、その比率が1:5(版画を除く)というのは、やはり、本人の絵が少な過ぎでは? 弟子と比較しようにも、一番成功していた頃の艶やかな画面の作品が全然無いのは致命的 。

 まぁ、物語画という切り口、弟子や師匠との影響関係の再考といった美術館側の意図や、日本にまで貴重な作品は貸してくれないという現実も分からなくは無いのだけど。

 しかし、この展覧会を素直に4文字で表現すれば、「羊頭狗肉」。

 弟子の作品なんて興味ない。レンブラントだけで良いので、もっと安くして。というのが、普通の入館者の本音だと思う。しかし、それではとても展覧会にならないし、第一、興行的にも成り立たないので、弟子との比較というお題目を設定して作品数を水増ししているのが実態。

 いや、弟子の作品を集めてきたって別に良いのですよ? だけど、それならそれで、一人一人の位置付けをこの機会に日本でも定着させる位の真剣さが欲しい。つまり、レンブラント派という名前抜きで、彼らの展覧会をもう一度、企画する位の熱意はあるの?ということ。あるわけがない。

 なのに、突然、弟子の絵を各1,2点持ってきたところで(普通の人には)ほとんど意味がないこと位、やっている方だって分かる筈。分かっている人だけ付いてくれば良いといわんばかりの、学芸員の自己満足企画。西洋美術館の企画展って、最近、そういうのがとみに多い気がする。常設展は色々と工夫しているのに。

 と余り感心出来ない展覧会ではあったけど、後期の作品が幾つか見られたので、良しとしようかと。版画素描室のジャック・カロの版画は良かったし。(という甘い評価が、展覧会を駄目にしている気はする)。

 (ちなみに一緒にチケットを買えば安くなるもう一つの展覧会は、企画自体から既に安いので、さすがに行く気がしません)

 

 

 「R.O.D-THE TV-」第5話。

 「やつらは騒いでいる」というタイトルの元ネタは当然、ロバート・R・マキャモンの「やつらは渇いている」なんだろうな、と思ったところで、当の小説が、永年の懸案の一つであったことを思い出す。要するに、いざ読もうと思ったら本屋に既に無くて、その後、目にする機会がないのだ。

 昔、モダンホラーが全盛期で、モダンホラーの流行作家の番付がキング、クーンツ、マキャモンと言われていた頃、クーンツに関しては、ほぼ一通り、集中的に読んだのだが(勿論、あのクーンツお得意の物語展開 《恐ろしいものが突然襲ってくる→逃げる→逃げる→逃げる→残り10ページを切る→戦って勝利とヒロインの愛を得る》には毎回またかと思いつつ、その飽くなきサービス精神に毎日、結構、楽しんで読んでいた)、その後、自分の中でモダンホラー熱がやや引いてしまい、ストラウブとかはポツポツと読んでいたものの、マキャモンまで手が出ない状態になっていた。

 それが小野不由美の「屍鬼」を読んだ直後、同じくキングの「呪われた町」に影響を強く受けた小説、すなわち吸血鬼小説のルネッサンスの中で、ストラウブの「ゴースト・ストーリー」と並んで、マキャモンの「やつらは渇いている」が挙げられているのを知り、この機会に(前々から読もうと思っていた)マキャモンに取り掛かろう、と改めて探した 時には、既に本が売って無かった、というのが凡そ5年前の話。

 扶桑社文庫の一冊として、クーンツを片っ端から読んでいた頃はどこでも見掛けた記憶があるだけに、どうにも口惜しい。しかし、所詮は扶桑社文庫、放っておいても、文庫本のワゴンコーナーで一冊100円とかで、その内、見付かるだろう、と高を括っていたのだが、その後、(古本屋に寄りつかなくなったこともあり)気が付けば、そのままになっていた。

 ということを今、思い出した(^^;; 本来的にはキングやクーンツより遙かに自分の趣味に近いらしいマキャモンに未だに手を出しかねているのは、そういえば、あれが引っ掛かっているからだった。いや、探せば有る本、というより、有るところには(Book offとか?)沢山有る本だとは思うのだけど。

 というようなことを書いてみるのも、「R.O.D」には相応しい?

 

11/19

 (自分での)連休第1日。とりあえずは、気になっていた映画を観に行く。

 

Cinema マルティン・シュリーク ガーデン  銀座シネ・ラ・セット

 父から家を追い出された放蕩息子が、(昔、祖父が住んでいた)今は廃屋同然の田舎の小屋で暮らす内に、近隣の「奇跡の少女」と知り合い、自分も生まれ変わっていく…

 というのが、この作品の大まかな粗筋で、題名にも有るように、小屋を取り巻く「庭」が、「この世界」の象徴として寓話的に描かれている。のは分かるのだが、どこまでが真剣なのか、冗談なのか、いささか判断付きかねる作風。似たような映画は余り思い付かないが、メキシコ時代のブニュエルを少しだけ思い出させる?  ある朝、起きると、どこからか来た羊が、自分のベッドを食べている、といった辺りの描写とか。ただし、ブニュエルのような、あれよあれよと突き進む「何でもあり」の可笑しさではなくて、その位のことでは驚かない、という感じ 。

 色々と不思議なことも起きるけど、ことさら神秘的な美しさに向かったりはせず、あくまで田舎の暮らしの中に溶け込んでいく。東欧的な感覚なのか、監督個人の資質なのかは不明だが、その辺の土俗的なユーモアセンスは悪くなかった。こういう映画が日本で公開されるのも(それを自分が観るのも)たまには良いのでは、と思った。

 ただ、エピソードが章立てなのは分かり易いけど、予定調和的な印象を強調してしまっているのは良し悪しかも。

 

 ちなみに、途中、故障で、10分くらい音声が出なかった。お詫びとして招待券をくれたので(当然と言えば当然の対応だけど)、さっそく使用して、次も観てみたわけなのだが…

Cinema マルティン・シュリーク 私の好きなモノすべて  銀座シネ・ラ・セット

 38歳の主人公(バツイチ、失業中)の日常を描いた話。じきに帰国する愛人の英国女性からの、出国の誘い。音楽院を目指している、神経質な息子。極めて精神状態が不安定な、離婚した前妻(相当に身勝手な人物にしか見えないが、主人公もどうやら非人情なタイプらしい)。彼らの生活が大きな事件もなく、短いエピソードの積み重ねで描かれる。まぁ、何というか、最後までグダグダと煮え切らない話である。

 92年のスロヴァキアにおけるベストフィルム・オブ・ザ・イヤーらしい。スロヴァキアって、こういう煮え切らない国民性なのか(^^;;

 どうしようもなくつまらなくはないのだけど、他国の中年男性の冴えない日常に付き合うほど暇ではさすがに無い 。断片の積み重ねというのも、余り感心出来ないし。無料(実質)で観たのでなければ、結構、腹が立ったのではないかと。

 主人公が途中、キートンの「将軍」を見ようとTVの室内アンテナを部屋の中で振り回す場面には、なるほどと思ったけど。というのは、自分だけを避けるように庭の温室が倒壊するとか、サイレント映画のギャグ、特にキートンを思い出させる場面が「ガーデン」には幾つかあったの だけど、あれはやはり、キートン的なギャグのつもりだったのね。

 ところで、主人公が息子と愛人を連れて親元(これも田舎だ)に帰省した時の戸外での昼食場面は凄かった、というか呆れた。

 体調の悪い母親がやっとのことで兎を殺して用意したシチューなのに、主人公は「自分は断食しているから要らないし、彼女も菜食主義者だから食べない」と言い、父親が「孫は脂身は駄目だ」と注意したため、母親が中身を避けて皿に盛ろうとして孫の服に零してしまうと、主人公は「 いいんだ、どうせ、息子はスープ嫌いだし」と更に言う。父親は父親で一口食べるが、「冷たくなったので、まずい。もう要らない」と自分の皿の分を鍋に戻す。一家団欒の筈が、皆、食卓から離れてしまい、母親も泣き出して去ってしまう。

 ……あんたら、酷すぎだよ(^^;; でも、スロヴァキア人的には、ここって、朗らかに笑う場面なの?

 そんなわけで、こちらの作品はお薦め出来ないけど、スロヴァキアの国民性を知るには良いのかも。知らないけど。あと一つ「不思議の世界絵図」という作品が残ってるのだが、こういうのを観てしまうと、ちょっとなぁ。でも、一番新しい作品だし、 『スロバキア版「不思議の国のアリス」』と聞くと、気になるのは確かではあるし…

 

 過去の整理として、ベルギー・オランダ旅行の前に読んだ本と、トルコ旅行の前に読んだ本のページを追加。こういうのはまとめておくことに意義があるので(あるとすれば)。勿論、過去の日記の編集なので新しい文章は特にないけれど、今回、ヴァルター・シュピースの絵を載せているサイトを発見出来たのは、個人的には嬉し かった。

 

11/17

 先週の「世界美術館紀行」は、ギュスターヴ・モロー美術館。

 …前から思っているのだけど、この番組、自分の行った美術館の時だけ面白く見られる気が。そんなわけで、今回は興味深かった。子供時代のモローが夢中になって読んだギリシア神話の本とかも紹介されたり。BGMが「天使のたまご」のサントラだったのは似合っていたのような、そうでもないような感じだったけど。というか、今どき何故「天たま」?

 

11/16

 今日、チケットをファミリーマートで発券してみたら、整理番号すら無かった(^^;; うわ、先着順ですかぁ。まぁ、良いですけど。

 

 トルコ旅行編に当時のメモ書きを追加。

 まさにメモ書きなんで、他人が読んでも、何のことやら分からない箇所が多いですが(自分でも既に分からないところもあった)、こんな感じの旅行だったということで。

 

11/15

 小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウム「OZU 2003」

 本日発売のチケットは無事、確保。しかも、候孝賢監督の新作試写付き2日券の方。…って、あんた、平日2日は休めない「ごく普通の会社員」と違ったんか 。

 いや、チケットを取るからには、2日休む内諾は事前に取得済。いわゆる「根回し」の成果。まぁ、「上司が私用で休暇を取った次の日」という、他人が休暇を取るのを駄目とは言い難い日を見計らって、話を切り出しただけなんですが。

 そんなわけで、休めない不安も消えた以上、気合いを入れて、@ぴあに10時にアクセスしたのだけど、実際には、全然余裕だった様子。2日券(250枚)が無くなったのは、どうやら夕方になってからだったみたいだし、1日券の方はどちらも余っているようだし。 …やっぱり、普通の社会人なら、平日のイベントなんてそうそう行けないよなぁ。

 ちなみに、天気が悪くて外出しなかったので、発券は後日。従って、席順も不明。もしかしたら整理番号だけ?

 

 昨夜、マリオンからの帰り、銀座シネ・ラ・セット(昔の有楽シネマ)の横を通る時に一瞬見掛けたポスターが一体、何の映画だったのか、その後で非常に気になってきたので、帰宅してから改めて探してみる。

 あっ、こ れだ。マルティン・シュリーク… 全然知らない名前だけど、スロヴァキアの監督らしい。それにしても、改めて見てみると、コピーと言い、映画のタイトルと言い、そして画面と言い、これで反応しなきゃ嘘でしょ、という位、私の趣味の世界ではないですか。

 …もしかしたら、私は単に空中浮揚の場面に弱いだけ、かもしれないけど。タルコフスキーとかもそうだし。

 ここで目に留まったのも何かの運命。この際、「ガーデン」「私の好きなモノすべて」「不思議の世界絵図」の3作品とも観に行く方針で。勿論、この手のヨーロッパ映画は、外す可能性もあるけど。(→シネカノンの紹介ページ

 

11/14

 運良く時間が空いたので、観て帰る。それにしても、この前、映画館に入ったのっていつだったっけ… ひょっとして夏以来?(^^;;

 

Cinema クエンティン・タランティーノ キル・ ビル  丸の内ピカデリー2

 馬鹿映画。では決してなくて、むしろ、タランティーノってclever(=お利口さん)過ぎるんだろうな、という感想に収斂する映画。

 例えば鈴木清順のような映画監督としての生まれつきの「才能」を持ち合わせていない者が、敬愛するジャンルの映画を再現するために、自分で出来ることは何でもやってみせたという感じ。だから、青葉屋の決闘の場面より、「関東無宿」の方が凄いとか、そういうことを言ってみても始まらない。そんなことは端から、本人にも分かっているのだ。分かった上で、やっているのだ。そういう計算通りの映画は馬鹿映画とは呼ばないわけで、その辺のお行儀の良さが、観客としてはやや物足りなかったかも。

 復讐のドラマツルギーが充分に描かれていない、というのも些細な話(別に主人公に感情移入する映画でもないと思うので)。というか、全然描かれない方がこの際、良かったんじゃないかとも思うのだけど、章立てまでして分かりやすく説明しようとしている辺り、妙に律儀な気はした。良い人なんでしょう、きっと。

 凄くはないけれど、愛すべき映画。これであと才能さえ有れば…、と一瞬思ってしまうけど、才能がある人は普通、こんな映画作らないだろうしな。難しいものです。

 

 ただ、ジャンクフードも良いけど、観終えた後で口直ししたくなるのも事実。特に「正しい」雪上の剣劇として、森一生の「薄桜記」を観直したくなってしまったのは私だけ?

 

11/13

 風邪気味、微妙に継続中。先週の微熱風邪は完治した。と思ったのに、今週も、夜になるとクシャミが止まらない。風邪というより、アレルギー性鼻炎?

 

Novel  ディケンズ 「大いなる遺産下   新潮文庫

 この邦題は、いかにもタイトルらしい名訳だとは思うけど、原題は「Great Expectations」なので、「大いなる遺産」と言い切ってしまうのは、ちょっとニュアンスが違うかも。より適切な訳としては、ちょうどこんな感じ?→ 『貰えそうな  すごい 財産』

 下巻は、その「期待」に対する苦い「真実」が分かってからの話が中心だったのは、やや予想外。とはいえ、全体としては、どの人物に対しても、落ち着くところに落ち着く、まともな展開だったので、良くも悪くもそれほど意外性は無かった。登場人物が身内ばかりであることが最後に判明するという、いかにも19世紀的なご都合主義はまぁ、いつものことだし。

 勿論、さすがは古典的名作だけあって、展開をブラッシュアップ(主にスピードアップすることで)すれば、今でも連続TVドラマとかに充分使えそうな「面白い」物語であるのは確か。

 ただし、厳然たる「階級社会」であることと、それにも関わらず、金で階級は買える(金を出して教育を受けることで教養を身に付ければ、「紳士」にもなれる)という、この19世紀の大英帝国特有の時代背景を抜きにしてしまうと、面白さも半減してしまいそうな気はするけど。

 

 登場人物は、「オリヴァー・ツイスト」や「デイヴィッド・コパフィールド」と違い、悪役も善人も類型的で余り冴えないが、それを埋め合わせる位、興味を引くのが、ウェミックという人物 の生き方。

 彼は、主人公ピップの後見人として物語に登場する辣腕弁護士ジャガースの下で働いており、職場においては、ジャガース同様、極めてビジネスライクな仕事振りを無表情にこなしている。一方、郊外ウォルワスの自宅およびその近辺では、「ウォルワス気分」と称する、自分のささやかで心地よい私生活を非常に大事にしている。シティ(仕事)にはウォルワス気分(私生活)は決して持ち来まないし、逆も同様というのが、彼の信条 。

 公私の生活が分離するという20世紀以降の社会を先取りしている人物像として非常に面白い。恐らく、多分、世界でこの時期に初めて出現したライフスタイルだったのだろう。

 というか、これって、私と同じだ(^^;; 職場で働いている「私」と、今ここでこうやって書いている「私」は、言うまでもなく、「別の存在」なのだから。

 ウェミックの趣味は、依頼人から「動産」を譲り受けること。要するに、放っておけば、国庫に財産を没収されてしまう死刑囚から記念品として財産を手に入れることによる蓄財であり、そのことに何ら倫理的問題を感じていない様が、微妙に不気味で、それだけにリアリティがある。「未来世紀ブラジル」に出てくる、主人公サムの友人だった医師の公私の二面性をふと思い出す。

 そう、私も前の前の職場の頃は特に、職場では「自分」を殺して理不尽な仕事をしていて、こうやって「私」の日記を書くことでかろうじて精神的バランスを保っていた記憶がある。ああいう「自分」の分け方はもう再現したくはないが、幾つもの「私」が存在するというのは、今後とも続いていくと思う。

 従って、せめて、この日記が(来る人をほっとさせる)「ウォルワス気分」に少しでも満ちていることを祈るばかり。

 

11/10

 先月、「モモンガー」の件で、各文庫の「坊っちゃん」を本屋で比較してみて、岩波文庫が実は一番高いことに初めて気が付いた私。今までてっきり、一番安いとばかり思い込んでいましたよ。あんな表紙だし。

 同じく先月以来、漱石の再読を考えているところだけに、それなら、他の文庫の方が安くて良いや、と思ったのだが、しかし、そうは問屋が卸さなかった。

 まず角川文庫は、送り仮名を片っ端から平仮名に替えていて、論外。ちくま文庫は「全集」版で一作品一冊でないため(=一作品ずつ読了する楽しみが無いため)嫌。

 となると、結局、一通り揃っている岩波文庫か新潮文庫からの二択。しかし、新潮文庫の写植は改めて見てみると、正方形の明朝体(秀英明朝体?)なのが駄目。いや、現代の小説(例えば、恩田陸とか)を読んでいる時は、そこに引っ掛かったことなど一回もないのだが、漱石の文章がその字体というのだけはどうしても違和感が拭えないのだ。

 どうやら、私は昔、岩波文庫で読んだため、漱石に関しては、岩波文庫の書体が、内容とセットで刷り込まれてしまっているらしい。やはり岩波文庫で揃えるしかないのか…

 まぁ、そんなに字体に拘るのなら、本当なら初版の単行本か、あるいはその復刻版でも買っとけ、という話なのだけど、あくまでも過去のインプリンティングとの整合性が問題になっているだけなので、 旧かなの初版(復刻版)にも却って違和感を覚えるだけだと思う。というか、通勤電車で読むには文庫以外は辛い。

 

 ところで、最近、本屋に置いてある岩波書店の「こころ」「道草」「明暗」3冊の袖珍本の復刻版セットの宣伝チラシを見ていて驚いたのだが、袖珍本「道草」の表紙は、花の絵をカラフルにあしらった意匠だった。しかも、これって津田青楓による、単行本と同じ装幀らしい。

 「道草」といえば、日の当たらない、じめじめと湿気の多い崖の下の家で、主人公達が日陰者のようにひっそり暮らしていくという、ナメクジが這いそうな位、陰気な小説だったと記憶しているが、この装幀では、内容と全然違っているような… 当時の読者は、この表紙は詐欺だ、とか思わなかったんでしょうか(^^;;

 

 ちなみに、今の生活では、帰宅途中の電車でしか本は読んでいないので、その数少ない時間を、ディケンズと漱石と今月のもう一つのテーマ(予定)の3つで割ると、どれも全く進みそうにない。「遺産」が終わったら、とりあえず、ディケンズは暫く封印して、その分を漱石に回すしかないか… 

 

11/9

 「ポポロクロイス」の「ガミガミ魔王の城」。

 噂通り、金田系の作画は、確かに凄かったし、ほのぼの日常partの描写も非常に良かったのだけど、これが見たかった話かというと、ちょっと違うような… 何というか、ガミガミ魔王的には、「男のロマーン」が足りない、と思うんですけど。と言いつつも、既に繰り返し見たりしている私。

 ちなみに、今シリーズの出来もそれほど悪くない気が。とはいえ、やはり、ヒュウ様の魅力が圧倒的だった前シリーズにはまだまだ及ばないなぁ。前作をもう一度、見直したくなってき ました…

 

 ぼーっとしていたらいつの間にか(というのは嘘だけど)終わってしまった東京国際映画祭だが、「TEN MINUTES OLDER」は既に年末の公開が決まっているようなので、一安心。10分の短編映画集という構成から言って、過大な期待は禁物だけど、割と楽しみ。まぁ、その前に「キル・ビル」とか、現在観に行く映画があるだろ、という気もするけど。

 

11/8

 昨日、↓を見るために東京駅の丸の内北口を通ると、ホール中央に「世界天才会議」という看板が掲げてあって、Dr,中松を初めとして、奇跡の水といった怪しさ大爆発なトンデモ系のブースが集結していた。どうやら、毎年やっているらしいが、こういうものは見なかったことにする、のが多分、一番正しい対処法なんだろう(なら書くな)。

 

Art 浮世絵 アヴァンギャルドと現代  東京ステーションギャラリー 2003.9.27〜2003.11.9

 面白かったです、以上。

 とだけ書くとまるで馬鹿みたいだけど。視覚的な面白さという観点から、江戸の絵画表現の多様性を再発見しようとする、最近流行の?展覧会。といえば、大体、用が済んじゃうんだよな…

 

 北斎や広重といった定番よりも、変なサンプルの方が面白度数は高かった気が。江戸時代の「世界七不思議」の浮世絵図版(ロードス島の青銅の巨人!)とか。明治の酔客の絵とか。後者は、官僚、書生、幇間、代言屋といった人達がそれぞれの服装で寝っ転がっていて、それぞれの言葉遣いで管を撒いているという妙な作品 だった。確か、芳年の作。

 そういえば、歌川芳年と表記されていたけど、月岡芳年としない拘りは何なのか、ちょっと気になった。歌川国芳からの連続性を意識して?

 ところで、今回、一番驚いたのは、江戸時代の狸の絵が、狸顔じゃなくて狐顔だったこと。あれれ? 信楽焼にあるような狸って、実は結構新しいイメージなのだろうか。

 明治の子供を題材にした石版画の不気味さには、シュバンクマイエルの映画を見せられたような気持ちの悪さを感じたが、最後は奈良美智で幸せになって終了。という構成も上手く出来ていたのでは。ここでの展覧会はいつもながら、外れが無いです。

 

 

 Novel。西澤保彦「黄金色の祈り」(文春文庫)。

 先程、購入してきたばかりで、当然ながら、まだ読んでないのだが、解説を見たら小野不由美だった。少しだけ得したような、それより自分の小説を少しでも書いて!と言いたくなるような、微妙な心境。ちなみに、解説自体は、ごく普通。

 

11/7

 勤め先の左隣が先週半ば、右隣が今週初めに風邪で休んだので、ヤバイかなと思っていたら、果たして私も引いてしまった様子。更新する気力も失ってました。

 昨日の午前中などは、微熱のため、頬が紅潮しているのが自分でも分かる有様。かあああああっ、という擬音がピッタリな古典的少女マンガのヒロイン状態。 いやだわ、私ったら。

 幸い、風邪は悪化するまえに沈静化に向かったようで、今日はいつものように「血の気のない」青白い顔色に復帰(^^;; 

 

Novel  ディケンズ 「大いなる遺産上   新潮文庫

 昭和26年の翻訳だけど、山西英一の訳は思ったより古くなかった。半ドンという言葉が気になったくらい。

 むしろ、原作の展開の仕方が気になった。子供の頃から順を追って一人称で回想していくのだが、囚人に脅され助けさせられた出来事を語る最初の数章は、正直言って、読んでいてだるい。今時の小説なら、現在の話が進んでから、過去のトラウマ等の記憶をしかるべきタイミングで挟むのが、常套的な 手法だと思う。村上春樹的な表現を借りれば、「囚人を助けた話をしよう。」という文で突然、回想が始まるような感じ?

 まぁ、19世紀半ばの当時は、順を追って語る以外の技法が無かったのかとも思うが。いつの時代から、一人称小説の時間の順序は自由になったんだろうか。

 というようなことはこの際、どうでも良くて。

 

 この「大いなる遺産」、ごく貧しい若者が、とあるきっかけで匿名の者からの莫大な遺産継承見込者として上流階級としての教育を受けることになるという、一種のシンデレラストーリー( というのは、男性の話には使わないのかな)らしい。実は皮肉な結末が待っている、という話らしいが(その結末は上巻だけでも予想は付く)、それもとりあえずは置いておいて。

 

 子供時代の主人公ピップが、街に住む富豪の未亡人のところに、未亡人の気晴らしのために連れて来られるという下りがあるのだが、そこでは未亡人の養女エステラと一緒に遊ばされることになる。エステラはピップと同世代ながら、上流階級の娘として育てられていて、庶民のピップを酷く軽蔑している。ピップはエステラからの冷たい眼差しに打ちのめされながらも、その美しさには惹かれている。未亡人はそういう二人の姿を愉しんで眺めている。

 という屈折した設定だけでも、既に凄いのだが、ある時、ピップがその家に来ていた他の若者を拳闘で打ち負かすという出来事があり、それを2階から見ていたエステラが(秘かに感心して)、ピップが家から帰る前に、呼び止めて、キスをさせるというエピソードが描かれる。

 『彼女の顔は、なにかうれしいことでもあったように、明るく紅潮していた。彼女はまっすぐに門のほうへいくかわりに、小道のなかへはいって、わたしを手招きした。

 「こっちへいらっしゃい! もしわたしにキスしたかったら、してもいいわよ」

 彼女が頬をわたしのほうへさしむけたので、わたしはそれにキスした。彼女の頬にキスするためなら、わたしはどんなことでもしたろうと思う。しかし、わたしには、このキスは、粗野でいやしい少年に、まるで金でもあたえるようにあたえたのであって、なんの値打ちもないものだというような気がした。』

 どうですか! お高くとまった上流階級の少女が、普段軽蔑している庶民の少年にキスしても良いわよ、と言い放つ辺りの高揚感と言い、対する少年の嬉しさと惨めさが混じった屈折振りと言い、階級社会ならではのシチュエーションに萌え(^^;; これぞ、19世紀の英国小説を読む真の楽しみというものですよ!  いわば、大英帝国の遺した「大いなる遺産」と言っても過言では無いかと(…過言です)

 とりあえず、今日の結論としては「萌えを求めるのなら19世紀」、ということで。

 …何だか、色々と間違っているような気もしますが、いつものことなので、気にしないで下さい。

 

11/3

 昨日のアルバムの写真に、タイトルと説明書きを追加。ちなみに、この中で、自分が一番気に入っている写真はこれです。

 併せて、トルコ旅行の表紙ページも一応、作成。まぁ、結局、アルバムに飛ぶだけなんですが。

 

 トルコへの旅行は夏休みでも冬休みでもないこの時期に行ったためか、記憶の中で宙に浮いているというか、振り返ってみると不思議な気がします。何だったんだろう、あれは?

 

11/2

 連休に入って2日間。昨年のトルコ旅行の写真をフィルムスキャナーでひたすらスキャンしていました。

 何とかupするところまで漕ぎ着けたので、下の5つのアルバムを公開。

 首都から地中海側に南下するまで温泉地経由で西のエーゲ海に出て北上イスタンブール(トプカプ宮殿等の有名どころ)同左(ややマイナーなところ)おまけ

 

 今は亡きT3の名誉のために書いておくと、実際はもっと良く写っていますが、質より量、と強力に圧縮した結果、ぼーっとした画面に(特に前半はノイズ処理をやり過ぎて不鮮明)。その代わり、割とサクサク見られる筈です。

 しかし、今どき、1枚1枚スキャン、なんて、とてもやってらんない、というのが正直な感想。1年間放置していたのも、それが主因だったわけですけど。フィルムにはもう戻れないなぁ。もっとも、今の私には、撮ろうと思っても、銀塩のカメラ自体、既に無いですが。