空の蒼さを 見つめていると


今月 (2003年10月)

10/29

 Bunkamuraの会報に同封されていた次回の棟方志功展のチケットを見たら、「−わだばゴッホになる−」という副題と共に「生誕百年記念展」という冠が付いていた 。

 あ、ということは! 棟方志功って、小津安二郎と同い年の生まれなんだ、そーなんだ! 活躍した分野も出身も違い過ぎて、同時代人としての共通点が全然、浮かんで来ないけど。

 

 ところで、Bunkamuraでは、展覧会の開催時には、隣のドゥ マゴ パリやロビーラウンジで、展覧会の内容に因んだ特別メニューを出すことになっていて、毎回、お洒落な?フランス料理やカクテルとかが並んでいるのだけど、今回はさすがに考えあぐねたと見え、ドゥ マゴ パリのイベントメニューは、青森の帆立貝を使ったグラタン。ロビーラウンジなんか、田舎風しるこらしい。津軽ば、田舎だと思って舐めてねか(←津軽弁?)(^^;;

 というか、田舎風しるこで1000円は、いくら何でも高過ぎだ。

 

 

 先程、ふと気付いたのだが、トルコに行ったのは、ちょうど1年前の今日だった。うわ、もう1年が経っちゃったのか。

 

10/27

 とりあえず、これで、デビッド・リーンの「オリヴァー・ツイスト」をいつでも安心して観ることが出来る。キャロル・リードの「オリバー!」…は別に観なくても良いけど。 (そういや、エイゼンシュテインも撮ってるらしい。それは、ちょっと観てみたいような)

 

Novel  C.ディケンズ 「オリヴァー・ トゥイスト上下   ちくま文庫

 ディケンズとしては初期の作品。内容に期待出来ないのは予想が付いたが、これだけ有名な作品を飛ばすのも、と一応読んでみたのだけど。

 ……読む価値は別に無かった(^^;; やや似たところのある「デイヴィッド・コパフィールド」さえ読めば、それで充分。

 初期の特色らしい、当時の読者層に受けた(のだと思う)滑稽味のある社会風刺とやらも、全然洗練されていないので、(本人だけ得意げな)つまらない親父ギャグを延々と聞かされているような感じだし、ステレオタイプな物語に登場人物と、当時の流行小説はこんな程度だったのか、知ることが出来る程度。

 確かにサイクスやフェイギンといった悪役2人のキャラは活き活きとしているけれど、他の人物は皆、紙人形みたいな造形。

 

 読んでいて思ったのは、この世界は、昭和20年代の手塚治虫が漫画に描くとぴったり来るのでは、ということ。例えば、手塚版「罪と罰」では原作より子供向きというか、「等身を下げている」印象があったけど、この物語に出てくる人物は最初からそのレベルなので問題ない。

 キャスティングとしては、サイクスはアセチレン・ランプ(はまり役だ!)、フェイギンはひげもじゃのおじいさんキャラか(レッド公、と思ったけど鉤鼻しか合ってない)。

 当時の手塚漫画的というのは、波瀾万丈勧善懲悪ではあるのだけど、物語に奥行きがないということで。逆に、手塚治虫の出発点における19世紀メロドラマの重要性についても、もっと注意を払うべきなのかも。

 と考え出して気付くのが、主役のオリヴァー・ツイストの影の薄さ。コパフィールドでもそういう傾向はあったが、オリヴァーに至っては役立たずのお飾りでしかない。手塚漫画であれば、当然、主役の子供であるロックやケンイチが好奇心を持って行動し、悪役を退治する、という話になっていく筈で、そこに作者というか、時代の違いを読みとることが出来そう。

  近代文学における主人公としての「子供の誕生」はだからこの間にある筈だけど、どの辺の作品になるのだろう。今ふっと近代国家成立に伴うナショナリズムの高揚という条件が浮かんできて、それは具体的に言うと「クオレ」が浮かんだということなのだが、「子供」の誕生=「国民」の誕生というのは単なる思い付きなので、それで全てを説明するのは、乱暴す ぎかも。

 

 ところで、文章中に、アイルランド人を蔑視する表現が使われているのには、ややぎょっとする。が、当時は「TIMES」でさえも、アイルランド人といえば侮蔑するのが 当然だったらしい(要するに「野蛮な」アイルランド人など酷く差別するのが19世紀前半の教養有る英国紳士のあるべき姿だった)ので、ディケンズ独自の意見ではなく、当時の常識に基づいていただけなのだろう。

 よく巻末に「現代では不適切なうんぬん」と断り書きがしてある文庫があるが、…こういうのは別に良いのだろうか? いや、断り書きをしろというのではなくて、する/しないの基準を知りたいだけなのだけど。翻訳ものは別に良いことになっているんだっけ? 「ベニスの商人」とかは、ある意味、ユダヤ人差別そのものだけど、具体的に問題になっているという話は聞いたことがないし。

 あ、でも、虎がバターになる話とかは絶版に追い込まれていたりするから、作者が日本人だから、というわけでもないのか… そうやって喚き立てる人達の目に付きそうな範囲だけとりあえず書いてあるということ? 喚き立てるのはまともに本を読む能力など無い人達だから、ディケンズ辺りなら放っておいても(読まないから)大丈夫、と。

 この「オリヴァー・ツイスト」も実は、窃盗集団の親玉であるフェイギンがユダヤ人であるという具合に、典型的なユダヤ人差別小説なんだけど。…まぁ、良いや。

 

10/26

 昨日は久々に鎌倉まで散歩してみた。特に用事は無かったので、行って帰ってきただけ。本当に「散歩」だ。

 

 肌寒い一日で、甘いものが欲しくなったので、途中、若宮大路にもあるLEONIDASに寄る。ベルギーに行って以来、ベルギーチョコにやや填っているのだけど、日本で買うのなら、やはり比較的お得なLEONIDAS。たまにチョコが食べたくなる程度の私の場合、倍の金出してGODIVAなんかで買うより、ここで2個買った方が良いという考えなので。

 試食した、オレンジやレモンの皮にチョコをコーティングしたピールショコラというのが割と美味しかったので、今度、買ってみようかと。

 

 帰りに、旧華頂侯爵別邸の横を通ると、ちょうど、どこかのTVドラマか何かのクルーが、ロケ撮影をしていた。

 門の前で、親?に連れてこられた子供が、この洋館に入るのを嫌がる、というシーンらしく、抵抗しながら「恐いよぉ、早く帰ろうよぉ」と喋っていた。しかも、不気味な雰囲気を醸し出すためか、門と洋館の間の庭ではスモークまで焚かれていたのが、端から見ているとおかしかった。

 …何だろ、「世にも怪奇な物語」とかそっち系のドラマの導入部? 確かに、見方によってはゴシックホラーに出てきそうな洋館に見えなくもないけど。昨日は天気も悪かったし。いつか、このシーンを、TVか映画の中で見掛けた方は、教えて下さい(^^;;

 

 今日は、といえば、天気が良かったので、G4wideの試し撮りの続き。この際、マクロ専用機ということで良いじゃないか、という気が段々としてきた。広角が活かせる近景というのでも有ればまた別かもしれないけど…

 そんなわけで、今日のマクロから数枚。例によって1/3にリサイズ。近所の家の花2 家の花

 

10/25

 凄いことになるのでは?と秘かに注目していた、小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウム「OZU2003」の概要がついに発表された

 

 ………す、凄ぇ。

 これだけの面子が一同に揃うことなんて今後、二度と無いんじゃないか。蓮實重彦なら、「事件」と表現するところかも。100年前に生まれ40年前に亡くなった一人の偉大な映画監督の名前だけが出現させることの出来た「事件」に今我々は遭遇しているのです…とか、討議の冒頭の挨拶で、いかにも言いそう(^^;;

 ともかく、これは何としても、11日、12日両方の2日券を確保して…… あれ? 11日、12日って、木曜、金曜なのか。どちらも平日じゃん。だ、駄目だ。

 何とかして、1日は休みを取るとしても。2日は休めないよなぁ。一応、私もごく普通の会社員なので。

 11月に3連休(「冬休み」を早めに取ることにしたので)の予定が入っているのだけど、いっそあれを12月に変更する? しかし、忙しくなるこの時期、連休は(ましてや3連休は更に)非常に厳しいものがあるし、もしチケット確保に失敗したら、寒くて何もすることのない12月半ばの連休だけが残る、という悲惨なリスクが待ち受けている。

 それ位なら11月に連休を取って旅に出るか、あるいはフィルムセンターの上映会に通い詰める方がまだマシ。来月の休みは今月中には決めないといけないので、チケットの発売日まで待つことも出来ないし…

 ううっ、どうしよ。一番現実的なのは、やはり1日だけ休むことだと思うのだが、そうだとしても、どっちを聴きに行くべきか… メンバーの豪華さ?から言えば2日目だけど、最後のまとめは一人当たりの時間は凄く少なそう。ビクトル・エリセやホウ・シャオシェンの語る小津は是非聴きたいし。しかし、それを言えば黒沢清や崔洋一の語る小津も聴いてみたいし…

 もっとも、幾ら皮算用したところで、チケットが発売と同時に完売してしまい、悩んでいたのが全て無駄になる可能性も少なくはないのが更なる悩みの種。

 こういうシンポジウム、しかも平日の開催、がどれ位、人を集めるのか見当も付かないけど、映画好きで、かつリタイアして暇を持てあましているおじさんと、同じく映画好きで暇なら何とでもなる学生なら、幾らでもいる街だからなぁ… 小津の場合、特に前者は多そうだし。

 

 とか悩んでいるところに、amazonで予約していた、小津のDVD-BOXの第二集が届く。

 「晩春」から「東京暮色」までの5作品といえば、全ての面で最も充実していた時代の作品群。中でもあの「麦秋」を、綺麗な画面で観直すのがとても楽しみ。……とか言いつつ、第一集もまだ、「彼岸花」しか観てないんですけど(^^;;

 

10/24

 先週の「GUNSLINGER GIRL」2話の、望遠鏡で星を観るというシーンがどうも納得出来ない。

 大体、別に望遠鏡など使わなくても肉眼で見れば良いじゃないか、と思うのだけど、好意的に解釈すれば、ジョゼさんはヘンリエッタに視界一杯のM42、つまりオリオンの大星雲を一度見て欲しかったんでしょう、きっと。というか、それ以外に、オリオン座に小型の望遠鏡を向ける意味が思い付かない。

 一番気になったのは、見ている星を追尾する描写が無いこと。普通、初めて望遠鏡を覗いた子だったら、星が「動く」速さにまず驚く筈で、そこで「標的」の「人を追う」と「星を追う」という対比をさせた方が、オリオン座の神話をぐだぐだ語るより(ここのジョゼの行動はかなり「痛い」。 そもそも、彼女は「星座」を見ていないのに)、今回の趣旨にずっと合っていたと思う。

 まぁ、百歩譲って、その辺の説明は全て省略したのだとしても、ヘンリエッタが接眼レンズを覗いている姿は、赤道儀の追尾ハンドル(画面に描かれていた。だからモーター駆動ではないことも分かる)には手を添えている(ジョゼが教えたという前提で)として描くべきだったのでは? この作品は「道具を正確に扱う」というディテールが大前提なのと違うの?

 

 これでも中学生の昔は、お天気部(天文気象部)にいたので、ドラマに登場する、この手の「なんちゃって天体観測」は今でも許容出来ない。よく有るものとしては、部屋の照明を付けたまま、横のベランダで望遠鏡を覗くといった奴(←最近では、 原作、アニメ共に「成恵の世界」にあった)。

 という方が、物語の「設定」より遙かに気になって仕方がない私は、人としてどこか間違っているのでしょうか? 

 

10/23

 「R.O.D -THE TV-」第2話。ある日突然、自宅に押し掛けて来た3姉妹がそのまま生活を始めてしまう、という話。……安部公房?(違います)

 

 パソコンの液晶下部で、一線分が突然死していた。見た目はちょうど取消線の状態(画面の端から端までこーいう感じに)。画面の真ん中では無いので、とりあえずこのままで我慢するつもりだけど(こういうのって、液晶全体を替える以外、修理不可能ですよね?)、ちょっとめげる。今月はやはり家電製品の故障月間なのかも…

 今日の1枚(といつつ、前に撮ったもの)。夜の駅前。こんな感じに、人工物は一応それらしく写るのだけど。自然物、木々はどう努力しても綺麗に撮れないのがG4wideの難点。

 

10/21

 TV版が始まったのを機会に、今まで観ていなかったOVAの「R.O.D」を観てみる。なるほど。ねねね本人は出て来ないのか。

 非常に良い出来だとは思うけど、「脚本が不自由な」作品には、どうしても点が辛くなってしまう。いや、三蔵法師が口から火を噴いて暴れようが、それは別に構わないのだけど。結局、本の話はどこへ行ったんだ? 幾ら何でも、設定としては有ったんだろうけど、本編の中で説明出来なければ無いのと同じ。まぁ、その辺の安さがOVAらしいといえば言えるけど。

 

 紫堂恭子さんの日記で紹介されていた、Lord of the Ringsの名場面をフィギュアで再現する「ACTION FIGURE STORYBOOK」。そっち方面(ってどっちだ)では散々既報なんでしょうが、私自身は初めて見たので。自宅?の庭で写しているチープさが楽しい。やっぱり、こういうのには、愛が大切ですよね。

 

10/20

 ところで、何で柳田説をあんなにも単純に信じ込んでしまっていたかというと。柳田翁は正しいという権威主義、では必ずしもなくて、「取って食われる」のが人間の根元的恐怖だと 常日頃から思っている私にとって、余りにも納得出来る説明だったからだと思う。

 

 職場の人に「横浜高島屋の展覧会の入場券」を貰ったら、先月、日本橋高島屋でやっているなと思っている内に終わっていたウッドワン美術館所蔵作品展だった。全国の高島屋を巡業しているらしい。そんなわけで。中に入るのは実は十数年ぶりの横浜高島屋へ。 (地下の食品売り場なら西利の漬け物を買いに、たまに行くのだけど)

 

Art 近代日本の絵画 名品展  横浜高島屋ギャラリー 2003.10.8〜2003.10.20

 あるわあるわ、明治以降の有る程度の有名な日本画家の作品なら、とりあえず誰でも有る。まぁ、大半はその画家として最も良い作品、いわば一流の絵、ではないのが痛し痒しではあるけれど。でも駄作、三流というほど酷くも無い。一応、その画家の特色は分かる程度の作品が並んでいる。

 まるで可能な限りのサンプルを集めている、という印象を受けるのだけど、ここにさえ来れば、日本の近代絵画の流れが分かるというのが、この美術館の最終的な目標なのだろうか。

 だから、一点一点はそれほど感動しなくても、まとめて見ることで生まれる妙な面白さ、というのが今回の思わぬ収穫だった。大観をご丁寧にも明治、大正、昭和と3枚並べて、駄目になっていく(笑)様子とか、熊谷守一の戦前の裸婦(線と色彩が入り乱れるアバンギャルドな画面)と戦後の裸婦(ひたすらシンプルな色彩と描線)を2枚並べるとか。

 日本画に関しては1人1点ずつ位、時代順に沢山並べてみせることで、時代と共に「日本画が段々と堕落していった」様が一目瞭然(^^;; 昔は「線」が描けたのが「日本画家」だったのに、ある時期から「線」が 描けなくなり厚塗りの岩絵の具で画面を埋めて何とかするようになっていたのがよく分かる。一言で言えば、「日本画」というのはもう終わってしまった、ということなんだろうなぁ。

 洋画の方は、余り恐くない「麗子像」とか、それなりに重要な作品もちらほら。しかし、こちらは藤田の壁画が何と言っても圧倒的。藤田というと、パリで描いていた裸婦等の絵と、戦争画のイメージまでで、壁画を描いていたというのは全然知らなかったのだが、一部であっても人を惹き付ける画面だった。あと、 藤田のもう一枚の絵に描かれた、料理を狙う猫の視線も絶妙。やっぱり、藤田の猫は上手い。

 ゴッホ(しかもどうでも良い絵)を今時大枚を叩いて買うところとか(多分、人寄せとしての投資効果を純粋?に計算しただけなのだろう)、あの野暮ったい薩摩焼をコレクションするところとか、はっきり言って私の趣味には合わない美術館なので、わざわざ広島の山奥まで行くことはまず無いと思うけど、今回は意外と楽しめたという印象。藤田の壁画を見られただけでも見に来たかいはあったかと。 …大体、今回は入場料も払ってないわけだし。

 

 

 

10/19

 昨日に続いて、ももんがー!に関する話。

 

 「日本国語大辞典」では、「ももんが」(=動物)と「ももんがあ」(=化け物、人を脅す時、相手を罵る時に使う言葉)を別に項目立てしているが、後者も前者から派生した言葉である旨、前者の「語誌」で説明していた。その内容を抜粋してみると。

 (1)古くはムササビと区別されていなかった。中古にはモミともいったことが知られるが、中世の資料にはムササビのみでモミ、モモンガは見えない。しかし、ムササビの呼称としてモモグハ(東国)、モマ(薩摩)等、モミから形を変えたものが方言として残っていたらしい。

 (2)近世の資料には「ももんが(あ)」の「が」が多く「グヮ」と表記されているが、当時、「グヮ」は漢語や擬声語にしか用いなくなっていたことから、その濁った大きな声を写したものと思われる。

 (3)不気味な語感を持つモモングヮは化け物として恐れられ、脅すときや罵っていう時にも用いられた。「ムササビ」が動物名しか表さないのと対照的。しかし、化け物とされた本来の理由は「常食火煙」とも記されているように、夜に人の持っている灯を目がけて飛んでくる習性によるものだったと思われる。

 

 もま? どこかで聞いたことがあるような… あ、そうだ、「むささび・もま事件」のあの「もま」じゃん。懐かしいな…

 ていうか、あれ?柳田の「噛もう」起源説は? 語源説の一覧には確かに載っているけど「語誌」上では全く無視されているっぽい? ここで、あれが単なる柳田の空想に過ぎなかった、という可能性の存在に初めて思い当たる私。そこで、更なる真相を究明すべく調査した結果(といっても検索してみただけだが)、一冊の本に辿り着いた。

 山口仲美「犬は「びよ」と鳴いていた」。どうやら、「ももんが」という名前について取り上げている唯一の本らしい。というわけで、柳田国男の「妖怪談義」と一緒に本屋で買ってくる。

 

 まず、柳田の「妖怪談義」(講談社学術文庫)。該当の文章は「妖怪古意」という章にあった。改めて読んでみたものの要約。

 地方の青年に、妖怪が何と鳴くかを問うたところ、「モウ」だと答えた者が居たところから、東北の妖怪「モウコ」等は、自らを表示する声からそのまま付与された名称(犬をワンワンというようなもの)だとし、妖怪(おばけ)を表す方言に子音gとmの組み合わせが多いことから(ガモウ、ガゴ、ガンゴンジー、モウ、モッカ、モウコ…)、さらにその「声」は元々「噛もうぞ」という脅しだったと推測し、その根拠として、空想として生まれた言葉であれば、意味がある方が古いもので、それが(伝言ゲームのように)訛っていった筈とする。

 ……ええと。結構、というか、かなり強引な気が(^^;; 飛躍に飛躍を重ねた帰納法? 少なくとも、言語史的検証を踏んでいないこのままでは単なる仮説でしかないよなぁ。この「妖怪談義」って、その後の民俗学ではどういう位置付けになっているんだろう。最近では熊倉隆敏の「もっけ」とか、この本を「常識」のように踏まえたものも出ているけど、大丈夫なのか不安になってきた。

 

 さて、山口仲美「犬は「びよ」と鳴いていた」(光文社新書)は、日本語の擬音語・擬声語に関する幾つかのトピック(主に動物の鳴き声)について書かれていて、「ももんが」についても一章を設けていた。題して「ももんがの鳴きやうを知らぬ」。

 柿の木に登って盗み食いしていた山伏が、(地主からあれは猫だ犬だと言われて)動物の真似をする羽目となり、最後に「ももんが」だと意地悪く言われたため、その鳴き方を知らない山伏が困ってとうとう「ももんが」と叫ぶ、という狂言を読んだ著者が、では一体 「ももんが」の声はどう表現されてきたのかと関心を抱き、「ももんが」について調べたことが、この章の成り立ちらしい。

 

 で、その結果を、勝手ながら私が簡単に要約すると、次の通り(著者は日本国語大辞典も参照しているので、内容は一部重なっている)。

 古代の文献は「むささび」のみ。江戸時代になって初めて、元々関東地方の方言だった「ももんが」が一般で使用されるようになる。しかし、それは現代のムササビ/モモンガの区別ではない(2つの言葉で、2種を区分するよう定義したのは昭和になってからに過ぎない)。

 同じものに対し、「むささび」「ももんが」と2つの言葉が何故両立したかというと、前者は伝統的な和歌、散文で使用されたのに対し、後者は庶民文学、川柳、狂言で使用された、つまり、使われる世界がそもそも違ったから。

 「ももんが」はその後、本来の動物そのものより、化け物を表す(ユーモラスな)言葉として活躍する。例えば、結婚式を終え、花嫁の丸綿(角隠し)を取った花婿の驚きを描いた川柳が「丸綿を 取って見たれば ももんぐゎあ」といった具合。さらに化け物という意味から、「ももんぐゎあ」は子供を脅かす言葉や相手を罵倒する言葉にもなった。

 化け物となったのは「火に向かってくる習性」と「グヮア」という語感、そして「グヮゴジ」(その前から有った、化け物を指す言葉)を連想しやすいといったことからか。

 なお、「ももんが」の声は一般には知られていなかった、というのが結論。だからこそ、かの山伏も「ももんが」と言う他、無かったわけである。

 

 言葉の歴史的な変遷は大体こうだとして、「ももんが」が何故化け物になったのかの部分は未だ推測であるところが大きい。それは、江戸の人達にとって「ももんが」という動物自体がどこまでポピュラーなものだったかによって違うと思う。すなわち、「飛びかかってくる」イメージがどれ位、「ももんが」に含まれていたのかがよく分からないのだ。

 想像出来るのは、ある時点から「モモングヮア」という言葉の響き自体が化け物として捉えられるようになったということ。つまり、化け物がいて「ももんぐゎあ」と命名されたのではなくて、元々あったその名前に対する人々の認識が、いつからか化け物のイメージに変化していったということなのだ。そして、そこには恐らく、本来の動物「ももんが」の実像が江戸町民に縁遠くなっていたことや、「そういう化け物」を新たに必要とする社会の変化があった筈である。

 …あ、何だか、まるで京極夏彦の小説内の妖怪蘊蓄として語られそうな内容になってきた(^^;;

 

 ちなみに、一昔前までは、子供を脅かす仕草で「ももんがー」と叫んでみせる遊びがあったらしい(とり・みきの「るんるんカンパニー」で秋田冒険王先生が、「ももんがー」と叫んで人を脅かすギャグがあったが、あれは多分、その真似)。格好としては色々だが腕を広げたり、着物を被ったり(昔よくやった「ジャミラ!」みたいな感じ?といってももはやそれも死語か…)。機能的にはちょうど「いないいないばぁー」と同じ。語感もよく似ている。要するに最後に「ぐゎー」と、急に迫るような風に脅すのがポイントなのだと思う。

 

 話が横道に逸れたが、今回の「ももんが」が罵倒言葉であるのは、化け物という意味を抜いてはやはり理解出来ない。「この化け物野郎」といった啖呵の切り方なのだから。

 その意味で柳田国男の仮説も全く誤りだとはいえないが、柳田説はどう見ても、前提と結果の因果関係が逆である。噛もうと脅す妖怪が「モモンガー」になったのではなくて、「モモンガー」と脅す文化が「モモンガー」を妖怪にしたのだ。勿論、「モウコ」等の他の妖怪の語源については、「モモンガー」とはまた別に検証 してみる必要があるわけだけど。

 

 ということを踏まえて、では「坊っちゃん」の「モモンガー」にどういう注を付ければ良いのかが今回の課題だが、無難なところで、こんなのではどうだろうか?

 「相手を罵る表現。元々はムササビ科の獣のことだが、江戸時代にその語感から(見栄えの悪い)化け物という意味で用いられ、転じて、人を脅したり罵る言葉としても使われた。なお、ムササビとモモンガを区別するのは昭和以降であり、この時代では必ずしも現在のモモンガを意味していなかった」

 2行目は不要? まぁ、ちくま文庫等の詳注用として。結局、最初と余り変わらないじゃないか、と思われる方もいるかもしれないが、決して、畜生と同じ、ではない。江戸由来のユーモラスな悪口言葉というニュアンスを理解する上で、化け物というところを抜かして欲しくはないのですよ。

 

 ちなみに、「むささび・もま事件」とは、刑法の講義で「たぬき・むじな事件」と共に必ず出てくる有名な判例(←こんな話です)。両方聞くと騙されたような気分に陥りますが。

 で、違法性の認識というその争点はともかくとして、改めて事件を振り返ると、大正時代の話。ちょうど、むささび/ももんが(もま)が別の物として認識されるようになる直前の時期に起きたことも、この時期、「むささび」という名前が、地方にはまだ必ずしも浸透していなかったこともよく分かる。

  今回述べてきたような、むささび/ももんがの二重名称という歴史的経緯が無かったら、この事件は起きなかった可能性が高いわけで、被告人は、言葉の歴史の被害者と言えなくもないのだった。

 

10/18

 先月、四国への旅行時。松山に行くなら再読しなくては、と神戸の本屋で、漱石の「坊っちゃん」を買ったのだが、翌日、道後温泉本館横のホテルにチェックインして、部屋の机の引出しを開けると、聖書と 共に(私が買ったのと同じ岩波文庫の)「坊っちゃん」が入っていた。こんなことなら買わなくても良かった… それにしても、全室「坊っちゃん」備え付け、ですか。

 実際のところ、松山は思っていた以上に街中で「坊っちゃん」を崇め奉っている街だった。「坊っちゃん団子」は勿論のこと、「坊っちゃん列車」「坊っちゃんスタジアム」といった風に、名付けるなら何でも「坊っちゃん〜」である。温泉本館横の地ビール屋のビールの名前も「漱石ビール」「マドンナビール」「坊っちゃんビール」。松山の人は「坊っちゃん」が余程好きなようだ。

 しかし、今回読んで気付いたのは、「坊っちゃん」は、松山については、『ほかの所は何を見ても東京の足下にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。』といった具合に温泉以外、何も誉めていない こと。というか、貶している。

 「マドンナ」が皮肉を込めた表現であって、物語の中で否定的に描かれている人物であるのと同様に、イメージと実際の作品はかなり乖離している。松山の人は実は「坊っちゃん」を読んだことがないのか? それとも皮肉に気付かないくらい鈍いのか?

 それとも、もしかしたら。あえて、こうやって観光資源化しているというのは、そうやって貶した漱石に対する(百年間に及ぶ)壮大な復讐なのかもしれない。と「漱石ビール」(先程の黒ビール。美味しかった!)を飲みながらつらつら考えたりもした 。

 とはいえ、松山城内の案内板の全てで「国宝に一度指定されたが、法改正によって重要文化財になった」と書いているくらい、過去の一時的な栄光でも諦め切れない街らしいので、多分、取り上げられたことだけで嬉しかったのだろう、と結論を下した。だとすれば、ある意味、幸せな街、幸せな人達ではある。

 

 「坊っちゃん」といえば、最初に読んだのは中学生になったばかりの頃。何てつまらない作品だと、真剣に腹を立てた記憶がある。 当時は感情移入して読む、という以外の発想が無かったから(坊っちゃんに感情移入して読むことが出来るのは単なる馬鹿である)、愚かな人物だけが登場する(←当時の私の印象)憂鬱な内容に、嫌な気分だけが残った。

 その後、高校時代、漱石の小説を一通り読んだ時も、「坊っちゃん」だけは避けた覚えがある。だから今回は、中学以来の再読になる。

 この歳になると感情移入する以外の読み方も可能になるので(例えば、ピクチャレスクという英国の絵画趣味を正しく、しかし強引に作品内で引用する辺りを楽しむとか)、今回の再読はそれなりに面白かったが、憂鬱な小説だということは再認識した。こういう作品を書いた漱石の思惑は興味深く思うものの、松山市民ではない私には、この作品はやはり好きになれない。

 

 ところで、今回、巻末の注を何気なく見ていて、気になったところがある。坊っちゃんが赤シャツを罵倒する啖呵の一つ「モモンガーの」という台詞に関して、注は『ムササビ科の獣。ここでは、人を罵って「畜生」というたぐい。 』とあるのだ。

 …違うでしょ、全然。

 「モモンガー」が、「モウコ」や「ガモウ」といった「噛もう」と脅す意を表す妖怪の名前のヴァリエーションであると説明する柳田国男の「妖怪談義」を読んだことないのか。いや、漱石の研究者であるらしい平岡敏夫(注釈者)が無知なのはともかく、「坊っちゃん」といえば日本で最も読まれている文庫本の一冊。普通の作家や、少なくとも岩波の編集者なら誰でも一回位は読んでいる筈でしょ う。どうして誰も訂正しないのか。

 この後に再読した「三四郎」(岩波文庫)では(この機会に漱石も再読することにした)、『映画「それから」では(…する場面での)台詞になっている』といった、注釈者の趣味でしかない注、少なくとも小説「三四郎」の注としては何の意味もなさない注、が書かれていて唖然としたのだが、そんなものを入れるよりも、まず「モモンガー」の注を直すべきだろう。(まぁ、後者は また違う大野淳一という人ではあるのだけど)

 ちなみに、他の文庫ではどうだろうと、本屋でチェックしてみたところ、驚いたことに皆、大同小異。

 ムササビ科の小動物という説明で始まり、ここでは罵る意味であるとする。「角川文庫」しかり、「集英社文庫」しかり。罵る言葉なのくらい、本文を読めば誰だって分かるってば。何故そういう意味になるのかこそ注釈すべきじゃないのか。

 その説明のつもりなのか、「岩波文庫」同様、「畜生」と同じ、と書くのが、「ちくま文庫」。詳細な注付きの「ちくま文庫」にはもっと期待していたんですが。

 一見もっともらしいが、それって、動物+罵りという共通項だけで、注釈者が根拠無く、勝手に同一視して書いたとしか思えない。

 「文春文庫」は、動物「ももんが」の形態について詳しく書くという、勘違いも甚だしい注。岩波と並んで漱石の文庫というイメージがある「新潮文庫」は実は注の数が非常に少なく、「モモンガー」の注自体、無かった(この場合、賢明だったかも)。

 というわけで、岩波文庫に限らず、小説「坊っちゃん」の「モモンガー」に関してまともな注を付けた文庫本は結局、一冊もなかった。ちょっと酷すぎるのでは?

 

 しかし、辞書ではどう扱われているんだろう、と調べ始めたら、この「ももんが」という言葉の歴史は、私が思っていたほど単純な話ではなかったのだった……(続く)

 

10/16

 BSの小津特集は、「晩春」の後半以外はまだ見ていません。「晩春」といえば、やはり、見所は原節子、ではなくて杉村春子の演技だと思う。蝦蟇口のシーンのおかしさ。

 

Novel  ディケンズ 「デイヴィッド・コパフィールド1〜5巻   岩波文庫

 ようやく読了。母親の再婚相手からの家庭内暴力、送り込まれた学校での教師からの暴力。 劣悪な環境で働いた少年時代。と不遇な幼少期を経て、社会的に成功し、親しい友人と良き伴侶を得るまでの「自伝」形式の小説。

 なるほど、こういう作品でしたか。本人が最も愛着があるというのも肯ける、作家の自伝的な要素が多い小説で、色々な意味で19世紀的な「物語」であるというか、時代的な限界を感じさせはするけど、それ以上に登場人物達の人物造形が魅力的。劇画村塾的に言うところの「キャラが立っている」脇役ばかり。

 なかでも、主人公の伯母さんの毅然とした様が格好良く、その存在が物語の背筋も立たせている(伯母さんはいつも背筋が立っていると描写される)という気がする。

 1巻では、いずれ成長した主人公とスティアフォースが(善悪の争いとして)最終的に雌雄を決するまでの話になるのか、と誰だって予想すると思うのだが、まさか、あれの方がラスボスだったとは…とその後の展開にやや驚く。まぁ、この作品では「卑劣」ということの方がより悪として扱われている、ということなのだろうけど。

 また、ロンドンのスラムの描写とか、社会問題は移民で全て解決!(オーストラリアが行き先)といった当時の状況を描いている部分の方も興味深い。

 それにしても、主人公コパフィールドの影の薄さときたら、近頃のアニメの主人公並み。善悪をめぐる倫理的な色彩が強い物語にも関わらず、主人公が倫理的に何事かを決断することが1回もない、いわば単なる傍観者というのは、どうなんだろうか。その分、脇役が存分に活躍しているから良いといえば良いのかもしれないが…

 ところで、よくディケンズと対比されるピークの「ゴーメンガースト」の中心人物スティアパイクは、本作品に登場するスティアフォースを当然のように連想すべき名前なのだろうか。

 

 ともあれ、「面白い」作品であったことは間違いなく、この機会に、ディケンズの代表作を一通り読もうかと考慮中(本来はディケンズの代表作なんて十代で読むべきものだと思うのだけど、読んでないものは仕方ない)。とはいえ、続けて読むと多分、飽きが来るので(^^;;、同じくこの機会に19世紀の他の英国文学の邦訳を、間に少し読もうかと(これまた全然読んでないので)。やっぱりオースティンかブロンティ辺りがまず挙がるべき作家なんでしょうか。何かお薦めが有ったら教えて頂きたいところ。

 ちなみに、そうやってヴィクトリア朝の英国社会について少しでも認識を深めることで、メイドさん漫画をより楽しむ背景を身につけようという深慮遠謀も実は含まれていたりする (というか、そっちが主目的?)。

 

 ディケンズもちくま文庫にある位は読もうか、って結構あるけど… その内、「荒涼館」全4巻だけは学生時代に読んだことがあった。

 印象的だったのは、運勢が悪くなる度に「東風が吹いてきた」と登場人物の一人が繰り返し言い、確か最後、運勢が好転したことを差して「風向きが変わった」と言う下り。

 題名からして風が出てくる、トラヴァースの「風に乗ってきたメアリーポピンズ」では、東風と共にメアリーポピンズが現れ、西風に「風が変わったので去ってしまう」ことを思い出すと、英国では「東風」というのは 「非日常」を象徴する「逆風」であるらしい。日本と同じ偏西風の土地だから当たり前といえば当たり前かもしれないが。

 しかし、その風向きの挨拶以外、気が付いてみると、もはや全然覚えていない私(^^;; しかも、どうやら処分してしまった様子。そういえば、私の人生で「荒涼館」を読むことは2度とあるまいと思って捨ててしまったような記憶が… もう一度買って読むのも何だか、という気がするし。どうしたものか。

 

10/13

 小津安二郎の映画を1本観る。といってもBSで放送した「一人息子」ではなくて、ようやく開封したDVDの全集から「彼岸花」。

 なるほど。確かに赤い。といってもどこかのアニメみたいな話ではなくて、永年の間にすっかり退色していたこの作品が当初そうであっただろうと思われる暖かい赤さ(アグファカラーというフィルムによる)。子供が新しい玩具に夢中になるように、初めてのカラーで赤や黄色を使うことが楽しくして仕方ない、といった感じだったことが今回の修復でよく分かる。

 そういえば、感想も仕切直しした方が良いかな… とりあえず、今回については保留。

 

 ところで、久し振りに小津映画の台詞を聴いて(昨年観たのは全て無声だった)改めて思ったことは、登場人物達が最近では使わない言葉を繰り返し使っていること。

 といっても何も難しい言葉ではない。今の「ちょっと」に相当する「ちょいと」という言葉なのだ。映画の中では性別年齢に関わらず、「ちょいと行ってきます」「ちょいとそこまで」「ちょいと良いもんでしょう」といった具合に誰もが使うのだが、今時、日常会話で「ちょいと」と言っている人など聞いたことがない(少なくとも私の周りにはいない)。

 辞書をみると、「少量」という意味に加え、(主に女性からの)呼び掛けという使われ方もあるようだが(ちょいとお兄さん…という、時代劇での呼び込み等)、どちらにしろ死語と化している。小津映画については、その家庭の姿が現在では 失われた「家族像」だとして語られることが多いが、「ちょいと」という言葉のここ数十年での消滅も同じくらい気になることである、と感じているのは私だけだろうか。まぁ、言ってしまえば、言葉が次第に短くなっている、というだけのような気もするのだが…

 

 

10/11

 ↓こうやって眺めると、まるで毎日書いていたように見えるけど(^^;;、先週に続いて、更新が途絶えていた一週間。相変わらず慌ただしかったり、人の歓迎会で遅くなったり、「ムリョウ」を録り逃したり(またか!)と書く気力が下がることが多かったので。

 う〜ん、「ムリョウ」は何とかしないとなぁ。とはいえ、見終えたばかりの作品のDVD-BOXを買おうとまでは、なかなか思えないし… 再々放送(って何年後だ)まで待つしかないのか。

 一方、10月開始分はぼちぼち見ているけど、1、2回見ただけではどれも、海の物とも山の物とも判断付かないという感じで、今のところ、先週以上の感想はなし。

 

 ところで、海の物とも山の物とも、という言い方で思い出すのは「海幸彦・山幸彦」の神話。先日の「ひるどき日本列島」で、宮崎県の青島を取り上げていたのを何気なく見ていたら、番組中、青島神社が作ったという子供向けの絵本でもって、NHKのアナウンサーが神話を紹介していた。

 海から戻ってきた山幸彦が、海幸彦を溺れさせ、謝らせた後、「それからは兄弟仲良く暮らしました」。…て、おい。いきなり嘘神話ですか!と、音速丸に対するサスケたちの如く突っ込みたくなった私。「みんな仲良く」なんかじゃ全然ないでしょうが。朝廷側から見た、まつろわぬ民の征服史でしょ、「ヤマタイカ」でしょ(少し違う)。

 でも、まぁ、子供向けのリライトなら仕方ないかと思いつつ、一応、神社のサイト内の「神話」をチェックしてみると。……ここにまで「仲良く」って書いてある(^^;;

 

 今日の1枚。近所の家の花(258KB)。マクロが得意なカメラ、というのは確か。

 

10/10

 来週のBS2。待望の小津安二郎特集キタ━━━(゚∀゚)━━━ !!!!!

 ということで、第1段は「一人息子」「晩春」「宗方姉妹」「小早川家の秋」「秋刀魚の味」の5本を放送。放送前の解説を付ける周防監督のセレクションなのか、「父ありき」ではなく「一人息子」から始める辺りが渋いです。

 しかし、私の場合、その辺はDVD全集で補完可能なので、むしろ、全集に含まれない他社の作品こそ、この機会に保存しておくのが最大の目的かと。今回で言えば、新東宝の「宗方姉妹」と東宝の「小早川家の秋」だけは忘れずに録っておかなくては。…まぁ、12月以降に再放映するらしいので忘れても一応、大丈夫だけど 。

 ちなみにDVD全集第1集の方は未だに未開封… この連休に少しは見進めようか。放っておくと、また次のが来て、どんどん溜まりそうだし。

 

10/9

 押井守他「不帰の迷宮 上下巻」の復刊希望に投票して以来、メールが来るようになった復刊ドットコムから、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「いたずらロバート」復刊のお知らせが。そ、それは嬉しい(投票してなかったけど)。これで「魔女と暮らせば」の旧訳を除けば、(翻訳された)未読のままのD.W.J.作品はもう無くなるのかな?

 ところで、最近、何かのファンタジーの文庫本?の帯に「ジョーンズ推薦」と書いてあるのを見掛けたが、それが宣伝文句となり得る時代が来たのか…と感慨深いものがあった。まぁ、その帯を書いた(恐らくはD.W.J.ファンな)編集者の勘違いで実際には何の役にも立たない、という可能性も高いけれど。

 というか、「…が推薦」という帯でもって、その本を買うことを決意する人自体、そんなにいないと思う。

 

10/8

 谷山浩子の「猫森集会2003」、オールリクエストデイの2日目に参加。

 LP(!)時代からアルバムを購入しているというのに、実はこうやってコンサートで直接聴くのは初めて。なので、「オールリクエストデイ」が本当にその場のリクエストに応じる日だということすら知らなかった私(^^;; その都度、照明さんに曲の内容を説明したり、ヴァイオリンの斉藤ネコ氏が(よく覚えていない)曲は1番でコードを書き取って2番から弾いたりと、手作り感に溢れた、思った以上に楽しいコンサート 。

 参加者の年齢層は結構高く(そりゃあねえ…)、常連な方々ばかりなのか、通なリクエスト多し。楽曲提供曲の「イマージュ」とか「なつかしい朝」とか。クイズや抽選等で選ばれた人が その都度、リクエスト権を取得するという進め方で、「関係者」である某編集者の奥様もその一人に。リクエスト曲が「時計館の殺人」だったのには、なるほどというか。

 全体としては、アットホームな時間を共有出来て満足。いや、もっと前から行ってみれば良かった、と少し後悔。今後、90歳まで続けるのなら(ぼーっとしていてもピアノは覚えている、ということからそういう話 が出た(^^;;)、こちらも付き合おうかと思ったりも。演奏者、客席共に凄いことになっていそうだが、それはそれで面白いのではないかと。

 

 ロビーの売り場で、前から探していた「透明なサーカス」のCDを購入。普段見当たらないCDも揃っているこういう機会は便利(^^;; 一昨年、ハンガリーでひまわり畑を見た時以来、もう一度、「ひまわり」を聴いてみたくなっていたので。…こういう場合、聴きたくなるのは普通、ヘンリー・マンシーニだろう、という気はするけど。

 

10/7

 本屋の画集コーナーを眺めていたら、山田章博のイラストが目に入った。ああ、これが薄いのに高い!と、巷で評判の「探偵 玄居煉太郎 からくり座」ですか。

 なるほど画集。というより絵物語で、14枚のイラストで1400円だから1枚100円という計算? 確かに安くはないけれど、山田章博の絵とその世界が好きな人なら許容範囲。まぁ、私の場合、本の収納には頭を痛めているので、「薄い本」には好意的だったりするからかもしれないけど。

 物語自体はどうというものでもないけれど、こういう語り口の作品は久し振りだったので、思っていた以上に得した気分。これはこれで良いのではないでしょうか。 というか、すいません、一見勝ち気な(だけど主人公に強いことが言えないでいる)お嬢様の一人称というのは、私のツボの一つでした(^^;;

 それにしても、この絵って初出は「Bstreet」の表紙だった筈だけど、物語なんか付いていたっけ?全然記憶にないなぁ(←冬目景だけ立ち読みしていた人間)。

 

10/5

 先日書いたように「モンテ・クリスト伯」という芝居を見てきた。

 CD収録の予告編?の印象からミュージカルっぽい作品かと予想していたのだけど(制作者も音楽劇とか言ってるし)、…ただの普通の芝居じゃん。歌の1曲も何故無いわけ?(いや、あの「ICECREAM EMPEROR」が使われるとは流石に思っていなかったけど…)

 「モンテ・クリスト伯」といえば、今さら言うまでもない有名な小説だが、子供の頃、「厳窟王」としてジュブナイルを読んだ位で、岩波文庫版(7冊もある!)のような完訳は、恥ずかしながら、実は読んだことがない私。…ええと。ジュール・ヴェルヌの「アドリア海の復讐」とか小池一夫・池上遼一の「傷追い人」で「読んだこと」にしては駄目ですか?

 という体たらくの者としては、原作からのダイジェストのセンス等はよく分からないのだけど、やたらと雷がドカンと落ちる「劇的」な構成の割には、ラストが物足りなかったような。復讐の人生から、敵に許しを与えることで自らも救済される、というのが多分、物語の落ちなのだろうけど、その辺の「回心」が盛り上がって描かれないので、カタルシスが余り得られない。

 主演の安寿ミラの立ち振る舞いはいかにも、という格好良さだったので、それさえ拝めれば、という人には良い芝居なのだろうけど。というか、来ている観客は普通、皆そうなのか。

 ちなみに、舞台のサンシャイン劇場の向かい側の部屋では、同人誌の即売会が開催されていた様子で、ロビーに宝塚ファン的な(主に中高年の)女性方が溢れているのに対し、通路の向こう側にはその種の?若者がぞろぞろと行き来していた。近くに居合わせながら、これほど互いに共通点が無い集団というのも珍しい。

 まぁ、人生いろいろだ、と思った。

 

 せっかくCaplio G4 wideを買ったことでもあるし、これから暫く、写真を撮った都度、適当に貼ってみようかと。

 というわけで、今日の「今日の1枚」。帰りにサンシャイン広場から見上げた。 (約1/3にリサイズ。274KB)

 

10/4

 今週、更新が途絶えていたのは、期末期初で忙しかったのと、先月からの未見テープの処理が残っていた(「LAST EXILE」と「ステルヴィア」と「ガド・ガード」と「コスモス荘」の最後の数話を見たらさすがに疲れた)のと、「ムリョウ」を1話録り逃して落胆のあまり寝てしまった、ことが主な要因。最終話で無かっただけ、まだマシだけど…

 部屋のビデオも、今週のトラブルの一つ。

 イジェクトボタンを幾ら押しても、ほとんど(10回に9回は)取り出せない。相当前に購入した物で、ついに稼働限界を超えたのか、まほろさんのように「機能を停止するまで残り何日」 の状態。まぁ、バネ?の問題かとも思うのであるいは自力で直せるのかもしれないが、録画失敗というもう一つの事故の原因を考えれば、これ以上、この機械に付き合うのは止めた方が良いという判断に至る。

 というか、これまで行ってきた、録画は居間にあるビデオで行い、見る時だけ部屋で見る、という変則的な運用方法自体に無理があったということ。

 どうしてそうなったかというと、この地域は受信環境が良く無くて、ノイズリダクション付きか否かで、写りが大きく変わるのだが、「付き」なのは居間のビデオだけだからなのだ。購入した当時(一昨年)は、TV画面の大きい居間の方が有効活用出来ると思ったのだが、居間を自分一人で使える時間など実際には余り無く、結局、いつも自分の部屋で見ることに(何だか、肩身の狭い中学生みたいだが)。

 この状況だと、どうしても録画のセット(とその確認)が疎かになり勝ち(なので、しばしば事故が起きる)。というわけで、この機会に部屋に今あるビデオを撤去し、居間のビデオを部屋に移動。居間ではビデオが見られなくなるが、他の者はビデオを使わない(というか使えない)ので、私以外は特に困らない。

 問題は、(居間にしかチューナーがない)BSデジタルを録画する手段が無くなること。昨日の若冲みたいな番組を見た後だと何とかせねば、いっそD−VHSを入れるか、とも思うのだが、 現実には難しい。チューナー、TVともに過渡期の製品で、D端子が一つしか無いため、D−VHSを追加するには直列繋ぎしかないのだが、そうするとHi Visonを見ようとする度に、チューナー、ビデオ、TVの3つの電源を入れなければならなくなり、チューナーとTVのリモコンを操作するだけでも大変な(確かに、D端子との切り替えが隠しスイッチ、という不可解なリモコンではあるけど)家族には到底手が終えなくなってしまう(と思われる)。

 こういう場合、チューナーは割り切っていつも電源onにしておけば良さそうなものだが、PanasonicのBHD200という一昔前のこの製品は発熱が凄く、一週間付けたままにしていたら、自らの熱で熱暴走して制御不能に陥る、というとんでもない代物なので、そうもいかない。まぁ、そんな不吉な製品は早く買い換えた方が安心なのだが、たまに見る分には支障はないので、そのままにしている。

 そのままにしている、といえば、部屋のビデオの下にあるLDだが、この前、久し振りに(数年ぶりに)ソフトを入れてみたら、再生が出来なくなっていて、ショックを受けた。こちらも駆動系が駄目になっているらしい。ビデオといい、LDといい、買い直すには余りに後ろ向きなメディアなので、めげる。しかし、こちらは色々と試してみた結果、B面側なら再生出来ることが分かったので、とりあえず良しとする。新たにLDを買うことは多分もう無いので、手持ち分だけ、何とか再生だけ出来れば良いし。

 ついでに言えば、ビデオとLDの左隣の棚にあるミニコンポもここ1,2年、CDとMDが使用不能に陥ったまま。CDはパソコンで再生出来るし、外ではNW-E10を使用していてMDは既に使っていないので、まぁ良いかと放置しているわけだけど。

 ……ひょっとして、私が持っている(ある程度大きな)家電製品で、今もまともに動いているのって、このパソコンだけ?

 

 と長々と書いてはみたが、自分以外には全くどうでも良いことだった。

 そんなわけで、更新する気力が起きなかった今週。新番組の方はとりあえず、「ゴーダンナー」1話の異常なまでのハイテンションと、「プラネテス」1話の完成度が特に印象的だったような。

 

 というだけなのも、あんまり?なので、週記の方も久々に更新 。