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以下の文章で取り上げているのは主に6人の推理小説作家です。一応、リンク形式というか、ある種の関連性の元に作家を選んで書いているため、出来れば最初からお読み頂ければ、と思います。が、とにかく長文なのでbookmarkも付けておきました。
綾辻行人/宮部みゆき/北村薫/加納朋子/井上夢人/我孫子武丸/その他
三年半を振り返って一番多くの作家を知ったジャンルといえば、ミステリであることだけは間違いない。しかし、それはこのジャンルにそれまで私がいかに疎かったかを示すものでもある。
綾辻行人の「十角館の殺人」が出たのは1987年。それから始まる推理小説界の大変動に当時の私は殆ど気が付かなかった。あんなに暇を抱えていながら一体何をやっていたんだろう? 従って新しい作家(私にとって)を知ることは喜びであると同時にある種の後悔を伴わざるを得ず、その悔しさがここにその読書の軌跡を綴らせているのかもしれない。
……感傷的な話はやめよう。正直言って私にとってミステリーとは読者を物語の最後まで引っ張っていくための技術の一つにすぎない。ビルボ・バギンズの冒険を持ち出すまでもなく、謎が出されたらその答えを求めてしまうのが人間の悲しい業なのである。従って、新本格とは何ぞや(まして本格とは)とかは全然興味がない。とりあえず面白い小説を探していく中でこの新本格に出会ったというだけであり、それはつまり新しい才能が偶々この時期このジャンルに集まったという事なのだろう。
尤も面白いということでいえば真打ちの綾辻行人には若干問題がある。どう好意的に見ても不自然な文章である。
しかし、それでもデビュー作の「十角館の殺人」は、やられたと唸ってしまうし、「水車館の殺人」はその反省の下に読むのでつまらないと思うものの、「迷路館の殺人」で又こういう小説の約束事に対する注意不足を痛感させられ、「人形館の殺人」は単に世界が歪んでいるだけじゃないかと又ムッとして(この「事件」の時同じ京都に住んでいたわけだと思ったりするが)、「緋色の囁き」はまあステレオタイプな世界の話だしなあ(アニメ化するなら奥田誠治!)、「殺人方程式−切断された死体の問題−」は彼の中で最も馬鹿馬鹿しいトリックに思わず笑ってしまい(とはいえそれは僕が住んでいた相模原と町田という場所にまつわる独創的なアイディアなのでいずれご当地小説として紹介したいが)、「暗闇の囁き」は何だか作者は好きらしいが好きになれず、しかしながら「霧越邸殺人事件」はもう定番という感じで楽しんでしまったりもし、「時計館の殺人」も根本のトリックの気持ちは良く分かってしまう。
要は慣れた、ということだけなのかもしれないが、物語が進み次々に生存者が減っていくという絶望的な状況の描写には彼独特の雰囲気があり、とりあえず、文庫ベ−スで追うことにしている。
一方、同じ生年月日の推理小説作家でありながら、対照的にとにかく圧倒的に文章が上手いのが勿論宮部みゆきということになる。
最初は「パ−フェクトブル−」。探偵一家の愛犬の一人称が光るこの作品が、長編デビュ−作なんだから嫌になる。次は確か「スナ−ク狩り」、ちょっと卑怯なタイトルだが(後述の「レベル7」といい単行本出版当時からすごく気になる題名ではあった)、一気に読ませるという点で圧倒的。それに「魔術はささやく」を加えたときの印象は、語り口の多様性と逆に人は人を許せるかという極めて倫理的なテ−マへの一貫したこだわり。
とにかく3冊も読めば既にはまり状態、可能性に満ちた「我らが隣人の犯罪」、珍しくイマイチな「東京殺人暮色」、作者も認める不完全な作品でありながら、冒頭から途中まで最強の面白さで読者を引っ張り、存在し得たもう一つの傑作を幻視させる「レベル7」、何書いてもメジャ−になれたと思わせる「本所深川ふしぎ草紙」(ちょっと甘すぎるけど)、ほとんど外れのない乱れ打ちの後、いきなり「代表作」の「火車」。
元々ジャ−ナリスティックな題材を物語のマクガフィンとして上手く利用してきた作者だが、ここでは推理小説そのものがキャラクタ−を描くためのマクガフィンとなっているような気がする。とりあえず読了感では最高。それで一応満足したこともあり、又デビュ−時に読み損なった悔しさもあり、又別の意味で「文庫で読む作家」の位置づけを継続。その後、あんたはO. ヘンリ−かという「返事はいらない」、期待していただけにもう少し上まで行って欲しかった「龍は眠る」までが現在完了形の宮部みゆきということになる。
そしてその内「我らが隣人の犯罪」文庫版の解説を書いていたのが他ならぬ北村薫だった(あるいは北村薫の「秋の花」の解説を宮部みゆきが書いていた、いやそれより何より文庫版「空飛ぶ馬」の扉に紹介文を書いていたのが宮部みゆきだったというべきかもしれない)。
そう、この北村薫をリアルタイムで発見できなかったことが一番悔しくてたまらない。というか私こそが北村薫になるべきだったのだ、というとやはり少しおこがまし過ぎるか。少女小説をやや純文学的に処理した世界を舞台にミステリを解き明かす。といえば、私がやりたかったことなのに…
作者が中年の男性であることが判明し、幾多の読者がショックで寝込んだというが、登場人物の「私」は読書好きの男性の理想の女の子、というより理想の(アニマとしての)自分、どちらにしてもこういう男泣かせのキャラクタ−は(残念ながら)やはり男にしか書けないのである。それにしても、ずるいよなあ。どこか恥ずかしいと思いつつ、この少女趣味にはまってしまう。
とはいえ、これがシリ−ズでなければ(最初の3冊「空飛ぶ馬」「夜の蝉」「秋の花」は古本屋でまとめて買ったのだ)こんなにも惹かれることはなかったのかもしれない、今回もう一度読み返してそう思った。登場人物が時を重ねる間に起きて行く掛け替えのない出会い、そして取り返しの付かない事件。それはまさしく私たちが体験するもう一つの人生そのものだ。そして現在のところ最終巻の「六の宮の姫君」では鮮やかに史実をこの世界の謎として招き入れ、しかもその回答を「私」に出させることで「先生と生徒」という「少女小説」からの卒業を果たしている。
一方、その「少女小説」を確信犯的に再現した作品が「覆面作家は二人いる」である。前のシリ−ズであれば「私」と「正ちゃん」で表現されている二つの性格を二重人格という設定で集約したこの作品は、「少女小説」のテキストに採用したい位だ。元々世界全体、登場人物全体が一人の少女の世界に過ぎないのが「少女小説」なのだからこの設定は実は全く正しい。そしてこの奇妙な設定こそが現代に「名探偵」を復活させる基礎となっている(嘘を付くことでより大きな嘘を覆い隠すという)と共に、この設定を繋ぎ止めるのがその「名探偵」たる推理力であるという辺り、単なる少女マンガもどきに見えてなかなか一筋縄では行かないのである。
とはいえ読んで楽しいのはその馬鹿馬鹿しい少女マンガテイストのところだと思っていたら、実際に少女マンガになってしまって驚かされた。しかし、同じような非現実的設定かつ現実的な名探偵の「冬のオペラ」は厳しい現実で幕を閉じるし、短編集「水に眠る」は少女小説の恥ずかしさが無くなった代わりにただの純文学になっていて、早く「私」の続きが読みたいと思っていたのは私だけではないだろう。
そんな中、これを書いているその時に待望の新刊が出た。といっても「私」の続巻ではなく、17歳の女子高校生の意識で42歳の未来を生活することになる奇妙なファンタジ−、その名も「スキップ」という。
どこかの新聞評が中年青春小説と呼んでいたが、高校生の意識のまま高校教師をやり遂げる主人公に、女子大生の「私」の内面を私小説のように書きこなした中年の高校教師でもある北村薫が鏡像のように重なって見える。『小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。』 単行本の「空飛ぶ馬」でそう述べた北村薫ならではの、小説というもう一つの人生でのみ、体験できる「不思議」である。
特にこの作品の凄いところはスキップしたまま元に戻らないところだろう。そこには戻らない時の流れの厳しさとその上で生きていく人間の決意とでもいうべきものが窺えて感動させられるが、後書きによると最初に書こうと思ったのは何とスキップではなくタ−ンであるとのこと。是非そちらの方も完成させて欲しいものだ。
…などといっている内に今度は「覆面作家」の続編「覆面作家の愛の歌」が出てしまった。何だか凄い題名だが、内容はもっと興味深い。三つの事件のうち最初の一つこそお馴染みの人情噺なのだが、第二話は今まで北村薫の世界には出てこなかったような病的な犯人像であり、そして第三話はまるで往年の「刑事コロンボ」でも見るかのような確信犯的犯人との推理戦が描かれる。新たな世界を模索しているのだろうか。個人的には少女小説の世界を書き続けていって欲しいという気もするのだが、逆に「新たな北村薫」も早く読んで見たいというのも真実である。
では本物の女性が北村薫のような文章を書くとどうなるかといえば、それは加納朋子ということになる。
とはいえ、恐らく一つの偶然さえなければ、良くできたしかし所詮はエピゴ−ネンの一つとしか思わなかったことだろう。そしてその偶然とは、当時住んでいた街、相模大野こそが(名前こそ出てこないが)「ななつのこ」そして最初に何となく買った「魔法飛行」の舞台だったことだ。
駅前の市立図書館、隣町のプラネタリウム、そして駅に行く途中で横切る立体交差。退屈な首都近郊の私鉄の街の見慣れた風景がこうして一つの物語を構成していくのを読むのは正しく「魔法」とでもいうべきものだった。しかも「魔法飛行」は、自分の日常を物語として報告する女子大生駒子の手紙とそれに対する瀬尾さんの返事に加え、駒子の物語の読者として登場する謎の手紙から成り立つ「物語」なのだ。現実を素材とした物語の中の現実を再構成した物語の読者の読者… 正に世界が新しく見えてくる体験だった。
つい最近の新刊「掌の中の小鳥」では構成上の工夫は今一つこなれていないものの魅力的なキャラクタ−が登場するようになり、更なる次回作が楽しみである。
ところで現実と虚構が奇妙に入り乱れる体験といえば岡嶋二人の「クラインの壷」を読んだときのことも忘れるわけには行かない。ヴァ−チャルリアリティ−という言葉もない89年に上梓されたこの早すぎた傑作にようやく時代が追いついた頃出た文庫版を読んだのは、会社帰りの田園都市線の電車の中だった。物語の主人公も田園都市線に乗りバイト先へと通う。そこでモニタ−として精巧な疑似体験ゲ−ムをしていたはずの彼は、物語が進むにつれ自分の生活のどこまでが現実でどこまでが虚構のことなのか分からなくなっていく…
当時の私にとって帰りの電車での読書とは、日々欠かせない大切な「現実逃避」であり、そこで様々な「もう一つの現実」を体験する=読むことは大げさにいえば生きていくための数少ない希望とでもいうべきものだった。それでは私にとって「真の現実」とは一体何なのか。小説の中? それでは『クラインの壷』の中にいるのは私の方ではないだろうか?
しかし、 岡嶋二人最終作とはいっても事実上井上夢人の単独作品である「クラインの壷」に続く作品といえる井上夢人の「ダレカガナカニイル…」はエンターテイメントとしてのミステリを最大限に活用した作品で、読後の印象の強さはその数カ月後の某教団への大掛かりな捜査に対し当初必要以上に同情を感じてしまった程だったのだが、その後の短編集「あくむ」は小手先だけの凡庸な作品であったし、恐らくはかなりの意欲作の「プラスティック」も結論的にいえば縮小再生産的な「閉じた夢」に過ぎず落胆させられた。
自分一人だけで夢見る世界。今後もそれが続いていくのならば残念ながら井上夢人はもう要らない。「他者」が登場する、ドキドキするようなエンターテイメントでの復活を望みたい。
それに対し「内なる他者」に執拗にこだわり続けるのが、綾辻行人の後輩でもある我孫子武丸である。といっても彼の読者の8割が恐らくそうであるように、私も又「かまいたち以後」に過ぎない。従って鞠夫のシリ−ズの3作目、「人形は眠れない」だけは未だ幻の作品となっている。
ちなみに、スーパーファミコンソフト「かまいたちの夜」は今回取り上げた作品の中で間違いなく「読む」のに最も時間が掛かった作品だ(「再読」は30回を超え、「ピンクのしおり」には辿り着いたが、究極のシナリオがまだ残っているという噂)。このエンターテイメント性の高い「かまいたち」から入ったためか、「8の殺人」のトリックの奇抜さ、というより奇抜なトリックへの情熱は凡人の私には正直言って付いて行けず、ただともかく速水三兄弟のキャラクター(この兄弟のふざけたネーミングは田中芳樹の「創竜伝」の四兄弟のと双璧だろう)を楽しんだという印象があり、それは奇抜さがエスカレートした「0の殺人」でも同様だった。
そういう意味では「かまいたち」の陰の姉妹品のような「探偵映画」は全部が楽しめた、読後が最も爽快な(ある意味では最も彼らしからぬ)作品だったかもしれない。
さて、その後の作品はどれもその底流に「内なる他者」というテーマを抱えている。
ともすれば1作限りの奇抜なトリックに見えた「メビウスの殺人」のユーモアを剥ぎ取るとこんなにも恐ろしい作品になるのかという「殺戮にいたる病」(結末の真実に驚いた他の読者と同じように私ももう1回読み直した。ところで作者は岡村孝子のファンから剃刀とかを送り付けられなかったのだろうか)、逆に設定に取り込み、口当たりは軽くした「人形はこたつで推理する」と「人形は遠足で推理する」。落語ネタというだけで片づけられない恐さが残る、短編の「猫恐怖症」。「かまいたちの夜」に参加したのも同一キャラクターの多様性(を可能にするサウンドノベルというゲームシステム)に惹かれたからだと思われる。
そして、ようやく出た「腐蝕の街」は「近未来」という新たな装いの下にこのテーマを集大成する、「帰ってきたメビウスの殺人」とでもいうべき傑作だ。ここまで突き詰めてしまうとこのテーマではもう書けないような気さえするが、恐らく更に唖然とする設定の下、更に執拗に追い続ける次回作が(残念ながら余り「近くない未来」に)出るに違いない。とりあえずは鞠夫の3作目を早く文庫化して欲しい。
他にも取り上げたかった作家として「王女」宮部みゆきに対し「女王」といわれる高村薫(「黄金を抱いて飛べ」「神の火」「マークスの山」)、稲見一良(「ダック・コール」)、原寮(「そして夜は蘇る」)、そして虚を突かれたという感じの京極夏彦(「姑獲鳥の夏」「魍魎の箱」「狂骨の夢」)。ファンタジーでの方がそのユニークさが生きているとは思うが斉藤肇(「思い通りにエンドマーク」「思いがけないアンコール」)もいるし、ファンタジーといえば今最も優れた作家といえる小野不由美(綾辻行人と夫婦でもある)の作品もミステリとしても秀逸である(「東京異聞」等)。
電車での長距離通勤が無くなり、そこでの読書という時間が無くなった今後は、新たな作家を更に発見していくというのは難しいかもしれない。いやそれどころか、ここまでに挙げた作家の次回作をきちんと追って行けるかさえ怪しいものではある。しかし、「たかが小説」の面白さを味わせてくれたジャンルとして、推理小説の新刊の平積みはこれからも本屋で一番に目が行く場所に違いない。
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