恋愛物語入門

〜「ときめきメモリアル論」序説〜

 


終章・Dream of You 〜館林見晴論〜


 

 私にとって、ときめきメモリアルというゲームは何か、というのは、館林見晴とは何者なのか、を問うことと等しい。彼女がいなかったら、こんなにもこのゲームにはまることは無かっただろうから。

 しかし、実際に、彼女は何者なのかと考え始めた時、そこに広がっていたのは思っていた以上に意外な光景であり、結果として私は、ときメモというゲームの奥深さ(と彼女の魅力)に改めて感動することになった。

 彼女に出会ってから、既に2年。正直なところ、この先、ときメモというゲームをPlayすることはないかもしれない。しかし、彼女とこのゲームに対する、私なりの深い感謝と別れの気持ちとしてこの館林見晴論を最後に提出しておこうと思う。

 

 館林見晴とは何者か。それを考えるに当たり、一番重要なことは、どの位置に立って考察するかを明確にするという点である。

 そこで、ここではまず主人公から見た見晴=作品内での見晴、プレイヤーにとっての「ときメモ」世界の中の見晴、そして、プレイヤーにとっての見晴という3つの視点から考察していくことにしたい。

 なお、ここで扱われる「ときメモ」とは、あくまで本編のゲーム(「ときめきメモリアル〜 Forever with you」)を指す。それ以外の作品は、パラレルワールド的な、一つの可能性として参照されることがあるだけである。本編にも、PcE版、PS版、SS版等が存在するが、ここではSS版に基づき書かれていることをお断りしておく。その理由としては、SS版が館林見晴のイベントが一番多いというのも有るが、もっと単純に私がきちんと体験したのが、SS版しかないからだったりする。

 

 そんなわけで、第1節は、作品を一つのテキストとして考えた場合の、主人公にとっての見晴=ときメモ世界内の見晴についての考察である。


1.「彼女について、私が知っている2、3の事柄」

「もしもし、館林です」

 

 ときメモというゲームを、テキストとして捉えてみる。それは、一つの世界として、ときメモという世界を捉えてみることである。そうやって見た場合、このゲームは、キャラクターによっては、ミステリ──それも叙述ミステリとして読むのが一番適切な作品ではないだろうか。

 ちなみに、叙述ミステリというのは、新本格以降のミステリ作家の作品(綾辻行人等)で、お馴染みになった手法の一つであり、地の文での正確性を貫きながら、叙述それ自体に読者を錯覚させるようなトリックを仕掛ける手法をいう。(例えば、「AがBの部屋で目覚めた」という文と、「私はBの部屋で目覚めた」という一人称による文が、同じ繰り返しのように置かれていても、A=私、とは限らない筈ということ)

 

 このゲームは、基本的にはまず主人公の見た目=一人称的視点から作られていると言える。女の子のときめき度合いも自分に対しての表情(赤らめ方)で判断することになる。と同時にその印象を客観的に裏付けてくれるのが、他ならぬ好雄の情報である。いわば、好雄はこの世界についての客観描写=地の文の役割を果たしていると言えるわけだ。この主観、客観のバランスの妙が、このゲームの面白さの核であるのだが、さて、その認識の元に、もう一度、プレイ内容を振り返ってみると、好雄という視点からの客観描写がきちんとされていない奇妙なキャラクターが二人存在していることに気付くはずだ。一人は好雄に聞くまでもなく、その電話番号を何故か知っている伊集院レイ。そして、もう一人は好雄もその電話番号はおろか名前すら知らない館林見晴。

 そう、この二人こそが、叙述ミステリとして読むべきキャラクターなのである。まず、伊集院レイについてだが、実際にエンディングを見た人には、先述の叙述ミステリを体現するキャラクターであるというのは、自明のことだろう。プレイヤー(=読み手)が必ず「誤読」するように、伊集院というキャラクターは、描かれている。そして、その真実に対する伏線も誠実に張られていると言って良いだろう。しかし、である。館林見晴、彼女については、何がミステリなのかと思われるかもしれない。あるいは「謎の女」だから、留守電の内容を元に、その私生活を想像するとか思われたかもしれないが、そうではない。ここで問題とすべきなのは、あくまで、ゲーム上に表現されたことだけである。

 

 それでは、この館林見晴というキャラクターが、このゲームにどうやって登場するのか思い出してみよう。一つは「どんっ」という音と共に学校の廊下でぶつかってきては「あ、ごめんなさい」と謝る『謎の女』。もう一つは、自宅の留守電に時々入れられている『館林見晴』からのメッセージ。『謎の女』の方は、学生生活の他の箇所でも現れて、一言くらい喋ったりするが、自分が誰なのかということは明らかにしない。

 まず奇妙に思われるのは、先程も述べたが『謎の女』と留守電の『館林見晴』のどちらについても、好雄が決して言及しないということだ。伊集院の「ミステリ」について、好雄が沈黙を守らなければならないことは理解できる。しかし、私設軍隊という強制力もないのに、何故、館林見晴に対して、好雄は何も発言しようとしないのだろうか。それについては、好雄が彼女のことは知らない、と考えるべきなのだろうが、女の子のことなら何でも任せてくれよ(というセリフが有ったかどうかは忘れたが)という、あの好雄が、あんなに目立つ少女のことを何も知らないと言うことが本当にあり得るのだろうか。

 次に奇妙なのは、何と言っても『館林見晴』は、主人公のことを知り過ぎている、ということだ。いつでもあなたのことを見つめているから、といっても、あれだけ、把握するためには、文字通り四六時中、主人公を見張っていない限り、不可能に違いない。

 

 …ここまで読まれて、何を今さら、と思われたのではないかと思う。館林見晴とはそういうキャラなのだ。主人公のお助けキャラなのだ。制作者は、それ以上考えて、彼女を設定したわけではない、と。そうかもしれない。しかし、ここで考えたいのは、制作者の意図ではなく、実際に展開されているゲーム内で、彼女とは何者として理解すべきかということである。

 

 そこで、もう一度、彼女の「登場」について振り返ってみると、昼と夜、そのどちらもあくまで主人公の主観的な出来事であるのが分かる。勿論、他のキャラクターであっても、主人公との間の同じように主観的な出来事でしかないという指摘もあるかもしれない。それについては、好雄の情報として、その存在の客観性が保障されているということ以外にも、少なくとも虹野沙希、鏡魅羅、朝日奈夕子の登場においては、好雄が横にいることが挙げられる。そして、館林見晴以外のキャラクターについては、ときメモ特有の「悪いうわさ」を広めるネットワークが、キャラクター同士の存在を間接的に立証していると言えるだろう。そう、館林見晴は、主人公に大してあれだけ情報通でありながら、あのネットワークと縁がない。学年を越えて、一気に広まる位のネットワークである。同じ学年にいて、知らないほうが不自然ではないだろうか。

 館林見晴というキャラクターについて考え出すと、次から次へと浮かんでくる疑問。それはじきに、なかなか口にすることの出来なかった一つの疑問に辿り着く。そして、その疑問につい、肯定の答えを返した時、全ては完全に説明できることに、戦慄が走らずにはいられない。

 

 そう、そもそも館林見晴という少女なんて、このときメモというゲームの世界には存在していないのではないか、という疑問。そして、その通り、彼女なんて存在してはいない、との答え。

 

 例えば、私達は、先程の『謎の女』と『館林見晴』が、同一人物かどうかすら、種明かしされる告白エンディング以外、確認するすべが無い。つまり、館林見晴というキャラクターがよくぶつかってきて、留守電を入れていて、主人公をいつでも見守っていて、やっぱり一目ぼれを信じます、と打ち明けたりするキャラクターであると、考えているわけだが、それは実は全て、エンディングでの告白(あるいは222イベント)から逆算して、そう思い込んでいるだけなのだ。最後に告白する以上、今までの3年間もずっと主人公を見つめて来た筈だと。

 しかし、もし、そのエンディング自体、存在しないとしたら… 今までの彼女との記憶は、本当に有ったことと、どうして言えるのだろうか。というのも、この世界での客観性を象徴する、好雄からの描写が存在しない以上、館林見晴との出来事は、実はその告白エンディングも含めて、客観的には、この世界には存在しなかったと考える方が、自然なのだ。館林見晴を知らない好雄がいる、と考えるより、好雄の知らない館林見晴などいない、と考える方が、はるかに自然なのだから。

 

 では、留守番電話と、ぶつかってくる謎の女という、主人公の記憶とは何だったのかということになるが、残念ながら、それは主人公の心の中に存在する出来事というのが、(当たり前すぎるが)順当なところだろう。もっとも、それが、あくまで幻聴、幻想によるものなのか、別人格の吹き込んだものだったりするのかは、明らかではない。とりあえず、そのようなキャラクターを主人公が「ぶつかる少女」としてイメージしたのは、朝日奈夕子の登場方法の影響があるのかもしれないが、そのような謎本の解説的な推論自体には意味がない。ここでは、館林見晴は存在しないと考えれば全て納得が行くと言いたいだけである。

 

 そう、館林見晴をめぐる叙述ミステリとは、他ならぬ館林見晴が、このときメモという世界には存在していないということであった。勿論、主人公の目を通してしか、この世界を体験できない読み手にとって、『館林見晴』は「見える」。しかし、この世界の他の誰にも館林見晴という少女なんて見えない筈だ。主人公の頭の中にある彼女で有ればこそ、主人公の全てを知っていてもおかしくないし、いくら好雄でもその存在を知りようがない。そして、悪い噂のネットワークに参加する筈もない。不思議なことなど何もない、のである。

 

 さて、館林見晴なんていないと述べると、次の反論が予想されるので、それについても少し書いておこう。それは、試験の終了時に掲示?される成績一覧である。好雄の情報と同じように、試験の成績一覧は客観描写に属する情報ではないか、そして、あそこには確かに館林見晴の名前が有るのではないか、という反論だ。

 確かに、あれは事実として扱うべき情報であろう。従って、あそこに名前が出ている以上は、館林見晴という、藤崎詩織並の優等生がきらめき高校に在学しているのは確かなようだ。しかし、問題はその館林見晴が、あの『館林見晴』と同一人物かということなのだ。色々解釈は出来るが、一番合理的な解釈は、館林見晴という生徒は別にいるが、極めて存在感が薄く、しかもその性別は男だということだろう。そう考えれば、好雄が、全く反応しないのも頷ける。主人公は、詩織に匹敵する成績の持ち主の館林見晴という名前を、架空の少女に与えた。もう一人の詩織であるべきその少女は、従って、詩織並の優等生でなければならなかったのだ、ということかもしれないが、それを判断する材料まではゲーム内には無い。

 

 繰り返すが、私達は、そんな主人公の目を通して、『館林見晴』という少女を見ていた/見ていたような気がした、のだ。

 

 館林見晴という少女のイメージはその名の通り、「見張る人」である。だが、見張っていたのは、彼女ではなく、主人公の側だったのだ。視ている主体の転倒。それはまるで、京極夏彦の「塗仏の宴 宴の支度」で聞いた話だ。あの話は、記憶の改変が一つのテーマになっていた。館林見晴に関しても、その記憶について、取り上げておきたいことがある。それは、彼女の「見張る」イメージを裏付けていた画面、遊園地の正面での画面についてである。当たり前ながら、遊園地に行くと必ず、館林見晴がコアラの影から見ているあの画面が登場する。不意打ち的に、好雄から誘いが入った筈の夏のダブルデート時でも例外ではない。もし、館林見晴が存在しているとするならば、主人公の家か、好雄の家の電話回線を盗聴しているとでも考えない限り、そこに彼女がいるのは納得しがたいが、いわば揚げ足取り的な、そんなことが言いたかったわけではもちろんない。

 

 全てを過去として振り返るあのアルバムをもう一度めくってみる。そこには、勿論、あの夏の日の一枚もある。遊園地の正面でこちらを向いている、結ばれた相手。そういえば… 主人公は、そこに他の誰かが居たはずだと思ったりもするのかもしれない。しかし、決してそれが誰であったかを思い出すことは出来ないだろう。何故なら、その写真は微妙にトリミングされており、片隅から見つめていた筈の一人の少女なんて写ってはいないからだ。

 館林見晴の姿が存在する画面と、存在しない「写真」。どちらが、この世界の真の姿なのだろうか。言うまでもない。写真を見ることによって、過去の記憶もそれによって決定されていくのだ。誰かとのエンディングを選んだ主人公にとって、館林見晴という過去の記憶は既に存在しない。現実に、そして記憶から、二重に存在を否定される少女。それが、館林見晴だというのは、哀しすぎる真実だろうか。

 

 …今回述べた、その存在自体が「主人公」の作り出した幻影であるというのは、ファンにとっては納得しがたい、悲しい結論であるかもしれない。しかし、だからこそ、彼女は、ときメモのキャラクターの中でも、永遠の存在足り得たとも言えるのではないだろうか。即ち、館林見晴こそは、「主人公にとってのヴァーチャル・アイドル」だったと言えるのだから。いわば、ときメモというゲームの中で、ときメモというゲームを実践してしまった主人公。それがいくら奇妙に、また何故なのか解き得ない謎として感じられようとも、ときメモというゲームを愛した私達に、そんな主人公を否定することは、だから出来ない筈なのだ。

 

(第1節 了)


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