佐藤さとる氏の講演会のレポート
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2007年8月4日に神奈川近代文学館で開催された、佐藤さとる氏の講演会「
私の本について話そう」(佐藤さとる著『本朝奇談 天狗童子』)についての簡単なレポート。
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当日会場で取ったメモを元に翌日作成したもので、聞き間違い、ニュアンスの違い等が多々有るかと思いますがご了承下さい。
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講演会と言っても、実際には聞き手(柴田祐規子氏、NHK横浜放送局アナウンサー)が、壇上に写しだすスライド写真を最初の話題として、佐藤氏より色々な話を聞く、というスタイルの内容でした。
- 「」の内の文章は実際の会話の雰囲気が出来るだけ、そのまま伝わるよう心掛けました(注、あくまでも雰囲気です。正確な速記ではありません)。
- なお、以下のレポートでは、柴田氏の言葉は「」内の普通の字体、佐藤氏の言葉は「」内の斜字で記しています。
始まり
- 聞き手の柴田氏に続き、佐藤氏登場。スライド用の正面のスクリーンが邪魔で、背の高い佐藤氏が通れず、スクリーンの後を回って登場した。
- 「今日はこれからお話を伺うわけですが、人前で話すのは?」「大嫌いですね」
- 「この暑い中、よく来て頂きました」
写真「佐藤家の人びと」
- 9歳の時の家族一同の写真。ライトペンを手渡された佐藤氏は以後、ご自身でスライドを指し示して説明。両親、双子の姉、弟(「今日もそこに来ています」)、叔父夫婦等。撮影場所は逸見。10歳まで住んでいた。以後は横浜へ。
- 「この頃の体験が『わんぱく天国』に反映してらしているんですよね?」「あれも、作った話ですけどね」
写真「桜木町駅近くでの記念写真」
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1944年。16歳。旧制中学5年生。眼鏡を掛けた本人を含めた学友4人が、屋外でポーズを撮っている写真。
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写真屋さんと仲良くなり、配給物資(小麦粉?)を持っていったところ、写真を撮って貰ったとのこと。
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「こっちがミツオといって、「天狗童子」の「光男」というのは実は彼のことで… こっちはアンザイさん。そこに来ている(ここでアンザイさんが立って聴衆に挨拶)。この二人は亡くなって、(アンザイさんと自分の)二人だけ(今も)生きてる」
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この頃、戦争が終わったら何をする、という話になって、「童話を書きたい」と発言した。
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その後、結核療養のため旭川に疎開した後、横浜に戻り、関東学院で建築を学んだ後、市の職員に、そして一時は中学で数学の教師に。
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「随分と色々なさっていたんですね」「気が多いというか」「役所にいた時に、下駄を履いていって、上司に「役所に下駄履いて行く奴はいない」と怒られて。今考えると当たり前のことなんですが、そんな五月蝿いところは辞めてやる、と(喧嘩して?)教育委員会に配属になって、で当時は先生の数が足らなかったので、教員免許を持っている自分も、お前やれ、ということで。でもしか先生の走りですよね」
- 「数学の先生って大変ですよね」「いやいや、大したことないです。当時の中学生は(戦時中、小学生で)碌に九九も教わっていないような有様で、それに代数を教えようといっても無理があって。X+Yとか書くと、先生、数学なんだから英語使わないで下さいと言われたり。でも楽しかったですよ」
写真「『豆の木』同人」
- 「この頃、平塚武二先生に師事されて。弟子にして下さいと」「言ってないですよ」
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「豆の木」というのは平塚氏が付けてくれた名前とのこと。「『ジャックと豆の木』の豆の木から来ていて、すくすく大きく伸びる、というので、それは良い、と思ったんだけど、あとで考えてみたら、「ジャックと豆の木」の豆の木って切り倒される」
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平塚さんに会うと書くように煽動された。「書かなくてはという気持ちになって。暫くすると、醒めるんだけど」
写真「『誰もしらない小さな国』私家版の表紙」
- 31歳。娘の誕生日に100部を自費出版。
- 「娘さんに書かれたわけですね」「誰も読んでくれないかもしれないと思って(娘だけは読んでくれるということで)」。
- 平塚さんの名簿を借りて、(出版関係者に)90何部送ったところ、90何部、返事が来た。「それは凄いことですよね」
- その中で、講談社が速達で「本当の本にしませんか」と薦めてきて、4月の私家版から半年も経たない8月にはもう出版された。
- 「この時は「暁」と本名で書かれていたんですよね」「平塚さんに、お前の名は(頭)韻を踏んでいる良い名だから、そのままで良いんだと言われて。だけど、この名前を誰も「さとる」と読んでくれない。さとしとか、あきらとか。読めたのは旧制中学時代の漢文の先生1人だけだった。それで、平仮名で書くように」
- 「最初は村上勉さんの挿絵じゃないんですね」「ええ、3冊目から。最初に描いてくれていた若菜?さんが、ちょうど絵柄が変わる時期で、絵描きとしては良いことなんだけど、今まで3cmのコロボックルが5cmになってはファンタジーとしてのリアリズムがなくなってしまうということで、若い村上さんにお願いした」
ファンタジーについて
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「ここで、(照明を明るくして貰って)(先生の考える)ファンタジーについて伺えますか」ということで、以下、佐藤氏のファンタジー論の概要。
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ファンタジーというのは「嘘だからこそリアリズム」。今では何でもファンタジーと呼ばれているけど、文学上の定義としての「ファンタジー」というのはメルヘンとは区別されるべきもの。「メルヘン」を支えているのは世間(実社会)のルール(規範)。「ファンタジー」とは世間のルールの中に、作者が決めた一つだけ新しいルールを取り入れたもの。そうでないのは単なる「荒唐無稽」でしかない。「ファンタジーもどきですね」
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「虚構を重ねて、大きな真実を描く」のがファンタジーの目的。だから、文章力が必要(「下手は書かない方が良い」)。構成力も必要。
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「元々、危ない橋を渡っている」のだから、リアリティは大切。3cmのものが(次の話で)5cmになってしまっては駄目。
コロボックル物語について
- 「シリーズ化したのは長い、終わらない話を書きたかったからですか」
- 作者としては恵まれたシリーズ。多い時は年間千通も「続きはどうなった」「こうなると思う」という手紙が届いた。。
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第1巻は「発見」の話。「何度も同じことを今まで言ったので、嘘を言いたくなるんだけど」、書きたかったのは第2巻からで、ただし、「こびとがいます」という話をいきなり書いても誰も信じてくれないので、発見の話が最初に必要だった。「せいたかさんが発見、コロボックルに出逢うまでに本の半分位、掛かっているんですよね」「それくらいは必要だと。簡単には見つからない」
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2巻は秋から春で半年位、3巻は3日間の話になったので、(作中時間を)これ以上縮めるのは無理だから、この話はここまでと思っていたところ、岩波書店に石井桃子さんの下で勤めていたいぬいとみこ氏から、「続きをうちで書きなさいよ」と言われ、あの岩波から注文されたということで、書いたのが4巻。原稿を岩波に送った後で、講談社にその話をしたら、ひどく怒られた(笑)。「コロボックルの物語はうちで全部出すんだから、返して貰って来なさい!」 仕方ないので、岩波に頭を下げて返して貰い、(既に岩波の編集者の赤ペンが入っ
た)原稿をそのまま講談社に渡した。
- その時、半年以内に絶対、他の作品を書きますからと約束をしたので、約束を守るために必死に書いたのが、「ジュンと秘密の友だち」。
- 「あれ、ボクは傑作だと思うんだけどね。せっぱつまって書くと良い物が出来るんだね」
- 5巻を書いたのは12年も経ってから。「あれは非常に難しいテクニックを使っている」←具体的な説明を聞けず、残念。
- 読んでも尽きない物語の夢。「どんなに厚い本でも段々(未読の紙が)無くなっていくのが残念。仕方ないんだけど」 出来るだけ長い話を書きたい。
- 最初は余り売れなかった。「5千部刷って、重版まで一年位掛かった」。
- 書いたのは昭和30年頃で、今思うと、(ラジオといっても真空管位しかないような)当時の生活の細部をきちんと書いておいて良かった。
写真「『天狗童子』表紙、および本の中の地図」
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天狗というのは、日本独特。よく分からない存在。カラス天狗と鼻高天狗の2種類あって、その中間がよく分からない。仏教、神道、修験道、いずれにも関わっていて、どこからも都合良く扱われていて、可哀相。書く上では(よく分からないので)自由で書き易い。
- 本作は連載で書いていた。連載は自分は向いていない。前に戻って直したくなる。「かといって、読者の家にすべて行って書き直しするわけにもいかないし」
- 御伽草子の天狗を時代を少し移して、しかもファンタジーとして描いたら、という実験だった。
- 天狗には位(階級)があるらしい。今回の作品では「軍隊」で考えると分かり易い。
(溝越天狗→兵隊、古参天狗→軍曹。本天狗→将校。木っ端天狗→士官候補生)
- 貴種流離譚。結局、ノーブルファミリーなのが気にくわない、と知人に批判されたりもしたが、物語の王道、定番を使っただけなので。
- 「ま、よく出来た話ですから、(ここで説明するよりも)読んで下さい」「先生、それでは、ここで終わっちゃうので…」
天狗屋敷について、天狗といえば何でも「しょうがない」
- (不思議な作りの)天狗屋敷については、書く前に(間取りの)図面を引いている。実は天狗屋敷については夢で見た。
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「アンザイが、といっても夢の中のアンザイなんだけど、天狗屋敷を見付けたというので、自転車で見に行った。5階建ての細長い建物で、こんなものかと思った」
- 天狗屋敷は上の方が広い作りで、「よく落っこちないと思うんだけど、そういうのは「天狗の術」だと言えば、誰も文句を言えないから楽」
- 「縮地法」は江戸時代、国学者の平田篤胤が残している、天狗に攫われたという「虎吉」?の話の聞き書きに出てくる。
- 余平が中峰さまの袂に入って飛ぶ移動法について。「入っちゃうんだからしょうがない」。
エピローグについて
- 大人になってからの展開(4枚半のエピローグ)。「本が出てから、終わりがあっけないと非難囂々で。」
- 「終わりについては色々考えた結果なんだけど、言われてみれば確かに、そういう嫌いは無きしにも…」
- もう一つ、(内容自体は基本的に変わらないが)4枚半で書いたものを、「40枚で書いたものを今年中に同人誌で出します」
- 「どちらが良い、ということではなくて(自分としては結論が有るのだけど、それは言わないことにして)、両方出すのは「趣向」ですね」
モデル
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「西安さん」はアンザイさんがモデル。実在の人物をモデルとして描くことがある理由は「あれなら、こういう時、どうするだろう」と考えると書き易いため。「そういう意味では(今回、アンザイは)随分、役に立った」 「天狗屋敷もアンザイさんですしね」「あれは夢の中のアンザイだけどね」
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護法尊者も、旧制中学時代の学友、杉原さん(級長)がモデルとのこと。ただし、こちらは護法尊者自体が伝承に有る存在なので、名前は違う。
今、天狗の話を書いたわけ
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「今、天狗、いないでしょ?」「何故いないのか、を書きたかった」
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「どっかの時代で(我慢が出来ず)駄目な人間をやっつけるのに、術を使ってしまった。だから今、天狗がいない。」
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「(そういう理屈が有るのだけど)理屈は書かない方が良いので、(そのことは直接的には)書いていない」
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「争いが止められないのが人間」「人間とはそういうものだと思う。今も戦争をやっているし」
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「(戦争体験を語る、ということ自体は否定しないが)100人いれば、100人の戦争体験がある(から、個別の体験を語るだけでは、人間の本質に辿り着くのは難しい)」
今後
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「いやぁ、もう余り書けないですね。本当は70歳の時に一回、隠居していたんですから」
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「短い物ならともかく、(作品を)書くことは命を削りますね。短い命を削っても…」
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「文章がちっとも上手くならない。今言うことでは無いですけども。良い文章というのは編集をやっていたから分かる。だけど、(自分の下手な文章を)良い文章に見えるように直すのは大変(で、その労力をするだけの気力がもうない)」
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「(ワープロの誤変換のままの文章を読むと面白いように)下手なのをそのまま、売りにしたら良いのでは?(と思うけど)、値打ちは無いですね」
テーマ、物語作り
- 余り、テーマでは書かない。書いた後で、(現実の何かを象徴しているという)テーマが分かる、こともある。
- 物語を作るとは、事件の後に、また起こりえる事件のどれかを選んでいく、分かれ道を辿る作業。
- その内に、「必然だけど、意外」なことが発見される。「意外性が、必然性の内の一つ」。
- 書いた自分でもその「発見」にびっくりする。読者も驚く=面白がる。
- 「天狗」でも、そういう「発見」があった(が、未読者もいるので、今は言わないことにしておく)。
最後に、サインについて
- 人の前で字を書くのはトラウマ。旧制中学の時、入学直後、健康診断の助手をいきなりさせられた時に「異常なし」が書けなかった。
- 自分の名前を間違って書いたこともある。サイン会で?慌てて書いて「佐藤さる」と書いてしまった。「それはやっぱり恥ですからね」
- 「なるべくサインはしたくない、人前では出来るだけ話したくない先生ですが、お話を伺うと、細部にまで(拘っていることを)詳しく話して頂きました」「物書きは皆、そうじゃないですか」
その後
- 講演会後、同じ会場で、整理番号順にサイン会。一冊一冊、字の向きを確かめながら、サインをされていた。
(2007.8.5)
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