OZU 2003
12/11
座談会「生きている小津」 蓮實重彦、吉田喜重、山根貞男
- 蓮實重彦からのシンポジウムの趣旨説明(生誕百年に誰も何かをやるつもりが無いらしいので、黙って見過ごすわけにはいかないと思った)。
大袈裟にしないこと、「日本的」な文脈に閉じこめないこと、「余りにも知られていない」映画作家として捉えること、をポリシーにした。
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蓮實重彦。
「東京物語」の原節子が顔を背けて、笠智衆の台詞を語気強く否定する「とんでもない!」という場面をどう理解したらよいのか等、小津については(本まで出しているのに)今でも「分からない」、という告白から話を始める。
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小津映画の女性が手ぬぐいといった布を放り出して「憤ること」について、ビデオの抜粋を見せながら説明。何だか大学の講義みたいだった(本人の講義には出たことないけど)。
- 山根貞男。小津生誕百年の百年の中には、日本映画の百年の歴史が含まれている。
- 吉田喜重。「父ありき」の二つの親子の釣り。小津映画の基調は「反復とずれ」。物の視線が描かれること。同時に死者の視線でもあること。
- 座談会と題しつつ、全く座談はせずに3人がそれぞれ話したところで終了。
海外の評論家が見た小津(司会:蓮實重彦)
シャルル・テッソン、ジャン=ミッシェル・フロドン、ノエル・シムソロ、クリス・フジワラ、イム・ジョチュル
- ノエル・シムソロ。ローアングルは子供の視線。映画館で映画を見る体験も、スクリーンを見上げる子供の視線だという指摘。
- シャルル・テッソン。小津と成瀬と溝口の海辺で会話する映画3本を比較。「晩春」の海についての解釈(父が期待した結婚とその結果)。
- ジャン=ミッシェル・フロドン。ローアングルは、人物の全身像と顔の両方を描くことの出来るポジション。普通の映画は片方を無視している。
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クリス・フジワラ、イム・ジョチュルの話は頭に残らなかった。聴きながらメモを取っていたわけではないので。特に2人については、原語の英語と同時通訳の日本語で、意識が分散してしまった(思い出したら、いつか補完)。
- 各人が15分以上、ぎっしり喋って時間を使い果たし、予定していたらしい討議はせず終了。
女優に聞く 岡田茉莉子、井上雪子 (聞き手:蓮實重彦)
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「秋日和」のおじ様方を叱るシーンの撮影について拘る蓮實重彦に「蓮實さんは何故かそういうのが凄くお好きなんですね」と突っ込む岡田茉莉子。確かに、蓮實重彦は女性に
ピシャっと叱られるようなシーンが好きらしいと私も前から思ってた。マゾっ気があるというか何というか。
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今なお、お元気な井上雪子。しかし、耳が遠いとのことで、蓮實重彦が訊くことと全然違う答えが返ってくるサスペンスフルな展開に。まるで小津の初期映画のような可笑しさが場内に出現したという点で、このシンポジウムで最も小津的なPartだったかも。
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共演した岡田時彦の声がどうだったか、岡田茉莉子に伝える、というのがここで謀られていた「感動」だったと思われるが、「覚えていないねぇ」との即答に笑う会場。そりゃ、普通覚えていないと思う。あと、「オッちゃん」の名付け主が井上雪子であると今回、判明。
世界の監督たちが見た小津(司会:蓮實重彦)
(アッバス・キアロスタミ)、マノエル・デ・オリヴェイラ、ホウ・シャオシェン、ペドロ・コスタ、吉田喜重
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アッバス・キアロスタミ。何と歯痛のため、すぐ退場。代わりに、来るまでに書いてきたメッセージを蓮實重彦が読み上げる。自分の映画が世に出てきた時、評価は二分したが、好意的な者が挙げる名前に小津が有った。小津は見る前から自分の弁護士だった…
- ペドロ・コスタ。自分は若い時パンクバンドをやっていたが、小津の中に共通するものを感じた。自分の理想の「家庭」の姿を小津に見た。現在、
一つの街で何年も撮り続けているのも、小津のやっていること(似た物語を撮り続ける)と近いものがあるかもしれない。
- マノエル・デ・オリヴェイラ。今日がbirthday(95歳!)ということで皆で祝う。
- ホウ・シャオシェン。今回持参した小津へのイマージュとしての新作「珈琲時光」。ようやく完成した(昨日0号試写したばかり!)。
- 吉田喜重。小津が語った「映画はドラマだ、アクシデントではない」の意味について。小津は軍服の人物を画面に一度も出さなかった。
- マノエル・デ・オリヴェイラが最後にした「晩春」に関する質問を、観客への良い宿題を頂きました、といなす司会者のテクニック?に会場全員、やや唖然。
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私としては、今迄にも散々インタビューに出ているヴェンダースはともかく、ヴィクトル・エリセからは直に小津についてのコメントを聴きたかった…(もし次回作を制作中のため?であるのならその方がより重要だとは思うけど)。
- 来春に新作公開予定のペドロ・コスタを呼んできたのは、蓮實流のpush策か、とやや邪推。本人は一番若いからか発言は控えめだった様子。
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ともあれ、小津とほぼ同年代(5歳下)のマノエル・デ・オリヴェイラが現役で話している様子こそ、今回の「同時代人としての小津」というテーマに最も相応しい姿だったかと。
12/12
日本の監督たちが見た小津(司会:山根貞男) 青山真治、黒沢清、是枝裕和、崔洋一、澤井信一郎
澤井信一郎
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(画面がギクシャクするためカットバックが嫌いな自分が考えたことは)小津もカットバックが嫌いでは無かったのか、嫌いな小津が考え出した手法が
(画面がスムーズに流れる)「逆目線相似形」のカットバックだったのではないか?ということ。そしてそのカットバックが最初に有って、台詞の長さといった他の形式が決まっていったのでは?
崔洋一
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「映画で2人の人がいたら、向き合って喋らないといけない」という思い込みに自分達が染まっていることに気付かされる。
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初めて見たのは、子供の頃見た「秋刀魚の味」。題名のサンマが出て来ないことに「不快さ」を覚えた。小津映画の印象は「異形のもの」。
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人間の思考を規定する「家」の重要性。家の中で人物が動く描写の厳格さ。「純正」と言っても良い。
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近代に対する批評性。時代と相沿わないという、時代との向き合い方。
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アグファカラーの土臭い発色。現実のストレートな色彩でないという点に、色彩での批評性があるのでは?
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オフィスから丸ビルの描写等、中から見た風景に拘る。居間等、通り抜ける空間での話が多い。
是枝裕和
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学生時代、「晩春」〜「東京物語」の辺りを最初に見たと思う。「不自然」という印象。
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特に台詞の反復に、現実にはあんな言い方しない、と思ったが、当時の自分の脚本(脚本家になりたい時期だった)には、反復が多くなった。
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「幻の光」。能登の大きな和風家屋。見た瞬間、小津が撮れる、と思ってしまった。実際には、小津風には撮らなかったつもりだったが、縁側で天気の話をしたりと2階の空き室が写し出されるというだけで、海外の映画祭で「小津みたいだ」と言われて、傷付いた。
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というのは、小津の似たような無人の静かな場面には映画として動的な印象があるのに、自分のは単に動かない静的な場面だったから。
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演技については、自分はnaturalさ(自然主義的リアリズム)を目標としてきたが、ルノワールの「ナナ」についての言葉を読んだこともあり、現在は、監督が作るドラマとしての演出に興味を持っている。
黒沢清
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シンポジウムに出ることもあって、今週、「風の中の牝雛」を久々にTVで見てしまった。不気味な映画だった。登場人物が全員死んでいるようにしか見えない。戦地から戻ってきた、亡霊のような表情の佐野周二。田中絹代も階段から突き落とされたのに、ゆっくりと起き上がってくる。前向きな音楽に皆、騙されている。
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80年代のフィルムセンターの小津特集が、作り手(当時の8mm作家)に与えた影響は大きい。真似した作品が続々現れた。自分もやった。
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しかし、やっていることは分かっても、その「意図」は全く不明だから、真似しても下手な真似にしかならない。
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だから、真似はしないことにした。特に危ないのが、日本家屋。なので、日本家屋では撮らないと決めた。ところが、「降霊」を撮る時、ついうっかり日本家屋を使ってしまった。すると指示してないのに現場でカメラマンも役者も皆、小津風にやってしまう。80年代以降の人間にとって小津は「魔術」のような恐ろしさがある。
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映画を撮り続けようとするなら、小津のことは考えてはいけない。
青山真治
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自分はこのメンバーの中では唯一、小津が亡くなってから生まれた。普通名詞(歴史)としての小津。固有名詞としての小津について話したい。
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学生時代、フィルムセンターでの小津特集には間に合わず、各所の名画座で追い掛けて見た。気が付くと、心身共に小津中毒になっていた。物真似は誰にも負けないという状態。むしろ、小津を抜く、小津断ちが、その後の課題だった。
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自分も「生まれてはみたけれど」を久し振りにTVで見た。(二人の登場人物が)並んでる、と気になり出すともう駄目。並んでるよ、並んでる、並んでる、また並んでる… 2人が並んでいるシーンだと、どんな映画でも「小津」に見えてしまうという「並んでる」病。
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自分の映画でも2人が並ぶシーンは避けようとしてきた。「ユリイカ」は4人で歩いた。あれは「ワイルドバンチ」であって小津ではない(つもり)。
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小津(を意識すること)から逃れられないので、反対に「徹底的に小津っぽい(ローアングル、切り返し、日本家屋何でもやる)けど、小津じゃない」作品を撮ろうとしたのが、「月の砂漠」。しかし、挫折
した。小津ではない、かもしれないが、面白くもないだけの作品になってしまった。
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固有名詞としての小津。小津自身は挫折したことが果たして有るのか? 山中貞雄の撮り方に対してもしかしたら挫折感を感じたことがあるのでは? そうだとすると自分としては、ほっとする。
という暗い話ですみません。
全体の感想
- 小津に影響を全く受けていないと言う年長者2人とそれ以外では、明らかに断絶が。
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一人だけ、小津の社会性について語ろうとしていた崔洋一は用事があるとのことで、この後帰ってしまった。言いたいことが余り話せなくて不満だったのかも(^^;;
- 作り手から見た場合の「小津」の厄介さ。一言で言えば、決して解けない「小津の呪い」とでも言うような?
女優に聞く2 香川京子、淡島千景 (聞き手:山根貞男)
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(「東京物語」に出た)香川京子の記憶では小津には余り叱られなかった。尾道弁のイントネーションの指導を受けた位。尾道のロケで隣室の原節子の部屋に話をしに行くのが楽しかった。小学校の教室はセット。
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淡島千景も「麦秋」で割とスムーズに撮影が進んだが、二人でお茶を飲むシーンで「突っ掛かった」。ティーカップの上げ下げ、首の振り向き方が小津のイメージに合うまで何十回もテストを繰り返した。
全体討議とまとめ 海外及び国内の参加者たちを交えて(司会:蓮實重彦、吉田喜重、山根貞男)
マノエル・デ・オリヴェイラ、ホウ・シャオシェン、ペドロ・コスタ、青山真治、黒沢清、是枝裕和、澤井信一郎
シャルル・テッソン、ジャン=ミッシェル・フロドン、ノエル・シムソロ、クリス・フジワラ、イム・ジョチュル
- 最初に批評家の5人が感想と質問を述べ、その後、海外の監督がコメント。
- ホウ・シャオシェンは試写のためのフィルムチェックを行っていて、最初の数十分は欠席。
- アッバス・キアロスタミは別の仕事(NHKの取材への対応)終了後、会場に向かっているとの連絡が入ったが、シンポジウム中には到着せず。
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海外の監督は物語のテーマに関する関心が高いのに、日本の監督は撮り方に関心が集中しているのは何故か、との批評家からの質問に対しては(司会者の振り方のためか)明確な回答を返す監督は無かった。
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同じく批評家からの質問。海外の人間が、見落とししている(日本人にしか分からない)点を教えて欲しい。是枝、黒沢から、日本人にしか分からない点などがあると言うことは出来ないが、海外の人間が往々にして自分の持っている日本に関する知識(禅、俳句…)に強引にくっつけて理解しようとする傾向があり、小津に関しても同様の理解をしようとする人が多い、更に、その小津のイメージで他の日本映画(自分達のを含む)も同じものとして理解する(無人のショットが続けば小津的だと言われる等)人が多いとの指摘。
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昨日、司会者が闇に葬ったと思われたマノエル・デ・オリヴェイラの「晩春」に関する質問が蒸し返され、主に海外の監督の間で盛り上がる。質問は「晩春」の意図を問うたもので、要するにあの親子関係の「愛情」にはセクシャルな感情が含まれているか、というもの。
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吉田喜重はそう受け取られてもおかしくないことを認識しながら撮った小津の「たわむれ」だとし、ただし、それを最終的に否定するものとして壺の視線(第三者の視線)を登場させた、と説明。
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途中から登場したホウ・シャオシェンは、この話に加わり、親子の情愛で理解可能だとの認識を示す。
そして「家」を支配しているのは誰か、という観点から捉えてみるべきではないか、という話も。自分の家庭でも、仕事は自分の領分だが、家の中のことは妻の領分である… 十分位、熱心に話していたが、最後に小津の作品と比べると、自分の映画は長すぎる。話もいつも、この通りまとまらなくなってしまうと弁明して終わる。
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ペドロ・コスタは成瀬(ファンらしい)との比較について話を向けられ、成瀬のレトロスペクティブもぜひ開催して欲しいと要望。成瀬も2年後に生誕百年が来ますので、その時、我々に元気があれば…と答える蓮實重彦。
- 時間が来たので、ともあれ終了。
・候孝賢『珈琲時光』試写
感想は後日(→とりあえず、日記に書いた感想)
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