北海道、でっかいどう。サイロのある牧場に、果てしなく広がる畑。木彫りのクマに、アイヌの人形。それから、えーと…、ホワイトチョコレートに、バター飴に、札幌ラーメン。そして、広く青い空。北海道については、これ位を思い浮かべるのがせいぜい、でした。
そんなわけで、大したイメージもないまま、上野発の夜行列車に乗り込んだのです。向こうに着けば、「北海道」が見付かるかと思って。
1.津軽海峡秋景色
とにかくひとまず何より即ち、本州を離れるというのは、僕にとって大事件であった。生まれてこの方、国外はおろか、島外にも出たことが無いので、北海道の土を踏むというのは、劇的なことに違いなかった。おまけに、北海道へは青函連絡船でなければならない、と勝手に思い込んでいた僕としては、その連絡船で北海道へ行くことは、さぞかし感動的な体験なのだろうと、これまた勝手に思い込んでいたのである。
しかし、想像と実像は違うもので、船の上で、僕は何というか、えらく散文的な気持ちで、海面を眺めていた。海峡を渡る連絡船と言えば、やはり東京湾フェリーとは違うのだろう、景色だって四方、海だけになるのだろう、そう思っていたのだが、船は大して違わなかった。海も、さすがに最初から対岸が見えることはないとはいえ、ずっと左右に半島が続いているではないか。もとはいえば、青森県の形をよく把握していなかった、僕の地理に関する知識の貧困さが悪いのだが、何にせよ、乗っている気分は、東京湾フェリーの時とほとんど変わらないのだ。ただし、それが四時間続くと、いい加減飽きてくる。まだ着かないのかと思う。
だから、船が函館に着いた時には、正直、ほっとした。勿論、それは、やっと着いたという安堵感であり、感動的なものとはとても言えなかった。ともかく、僕達は、こうして北海道へ着いたわけであった。
2.函館小夜曲
昼の函館は、どんよりとして精気がなかった。それは、確かに天気のせいではあるらしかった。しかし、さびれゆく港町、という印象が頭から離れることはなかった。もはや函館は、北海道の表玄関ではないのだ。堀だけが残る五稜郭、観光施設として成り立つトラピスチヌ修道院は、その感を強くさせた。過去の街……
夜の函館山からの眺めは、それだけに強烈な印象を与えた。溜め息を吐くような夜景。何だか、夜の方が生き生きとして見える街だ、そう思っている内に、一つの考えが頭をかすめた。この街は、こうやって夜、光り輝くためだけに、存在しているのではないだろうか、と。
馬鹿げた考えかもしれない。しかし、この夜景を眺めていると、いかにも有りそうな気がしてくるのだった。
3.大沼国定公園
それは、むしろ東北にでもありそうな光景であった。とっさに、磐梯山の麓にある五色沼を思い浮かべたのも当然かもしれない。目の前に広がる美しい紅葉に、僕は、ああ、これが北海道なんだと思いつつ、何か違和感があるのも感じていた。
茶店にジャガイモなどが売っているのは、確かに北海道らしいような気もする。しかし、あのダンゴ、あれも北海道なのだろうか。そう思い始めた時、この観光地に仕掛けられた、巧妙な罠のようなものを感じたのだ。
大沼、という恐ろしく平凡な地名。美しい沼の向こうに聳える山。国定公園の基本形をほぼ完璧にこなしている、プロトタイプとしての名所。そう、この地に訪れた僕達は、この風景そのものを見るのではなく、「大沼国定公園」という一つの概念を見ることになる。その場に居合わせていながら、作られた「国定公園」」のイメージを見て、満足する。それは、本来の「北海道」とは相容れない気がする。
だが、北海道もそう成りつつあるのかもしれない。それが、観光地化ということだから。ここ、大沼は北海道最初の道立、そして国定の公園である。
4.柴田屋の夜
九州の某旅館は、僕達の高校が来ると、校歌を流しながら盛大に出迎えるそうである。着いてからも、度はずれたサービスぶりで、誰しも二度と忘れられない位の「異常な」旅館なのだそうだが、洞爺湖畔の民芸店柴田屋は、何となく、そこに似ていなくもなかった。北海道に着く前から、割引券を寄越したり、宿に着く前、通りかかったバスに旗を振って歓迎の意を表したりと。あそこまでやる必要があるのかしらん、と思わずにはいられない僕であった。
しかし、白さの違いを訴える洗剤CFより明らかに、その夜の洞爺湖畔の様子は、その「効果」を語っていた。乱立する土産物屋のどこの店に入ろうが、大して値段は違うわけではない。それでも、何となく柴田屋へ入っていく、同級生の姿がそこにはあった。
かくいう僕も、8時過ぎには、その店内に立っていた。元々、土産物など買う習慣のない僕としては、土産物屋などへ行くより、泊まっているホテルのジャングル風呂へでも入りたかったのだが、浮き世の義理で、多少買って帰る必要が生じていたのだ。
ところで、北海道の土産物というと、白チョコとバター飴と木彫りのクマにアイヌの人形と、前にも書いたような物の他は、キタキツネの人形くらいしかない。
そう、どうして皆、見もしないキタキツネを、もう存在しないアイヌの物を、土産物として買えるのだろうか。僕にそれが理解できないのは、皆に豊かな想像力があって、僕だけそれに欠けているから、なのだろうか。
それらの物は、観光化されたイメージの複製に過ぎない。夢のカケラもなく、ただ観光客に売られるための土産物。それを買うことが、旅なのだろうか。買わなければ、北海道を実感できないのだろうか。商品を買うことでしか、生きていけないのが、今の社会なのだろうか。
しかし。そのような疑問を口に出すことも出来ないような、元居たクラブの「社会常識」に対する義理と、現に、やれそれと土産物を買い漁る同級生の間で、僕としても何かを買わないといけないような圧力を感じていたのも事実だった。皆がある方向へ向かって熱心に活動している時、その反対の方向を貫き通すのは、例え、それが土産物を買うかなどという些細なことですら、実は、すごく大変なことなのである。
結局、僕は、ここの名菓とかいう「わかさいも」を一箱だけ買った。何も買わずに立っているのは、ある種の罪悪感というか、何か情けないような気がしたのだ。
家へ帰って食べた「わかさいも」は、結構美味しかった。だけど、やはり買うべきではなかった、という気もするのである。
5.第4行動日の悪夢
昔、アイヌの人々にとって、万物は皆、神であった。特に、ヒグマはその中で最も畏怖された、誇り高き神であったことは想像に難くない。今、クマ牧場のクマは、人間にとって何だろう。愛想の良いケモノに過ぎないのではあるまいか。
狭い空間に沢山押し込められ、エサを貰おうと、観光客達に必死で媚びを売るクマ達の姿。その姿は人に近いゆえ、それが誇りも何もなく、ただ手を振る姿には泣きたくなり、吐き気さえ覚えた。何が「放し飼い」だ。何が「人間の檻」だ。ここには、見せ物としてだけしか生きていけないケモノの集まりしかいないじゃないか。
隣の檻では、あるクマが芸をやっていた。クマ使いの男は、「少し間の抜けた動物」という役回りを、そのクマに与え、「こら、駄目じゃないか」みたいなことを言って、観客を笑わせていた。
人の笑いの中には、他者の存在を貶める、嘲笑という笑いが確かにあると思うが、その笑いはまさしく、それだった。獣性という言葉を思い出した。そう、何て人間に相応しい言葉なのだろう。イジメの問題とか何とか言うが、この牧場を見る限り、人間はやはり、絶えず差別し、支配したがっているのだな、そう思った。
きっと、この牧場を笑って楽しむ家族も多いのだろう。「ねぇ、パパ、クマだよ」「そうだよ。ほうら、手を振ってお辞儀しているだろう」などと言いながら、楽しい一日を過ごすのだ。
だから、登別のクマ牧場に行けば、いつでも、ケモノに会えることは間違いない。人間という名の、残忍なケダモノに。
6.石狩旅情
かつて「襟裳岬」という歌が流行したことがある。「襟裳の春は、何も無い春です」という歌詞の。今の襟裳がどうなのか、僕の知るところではないが、石狩の秋は、何もない秋であった。夏には、百万もの海水浴客で賑わうというが、札幌のバスターミナルから50分の終点、石狩で降りたのは、僕達6人だけだった。
ずっと続く砂原。そこに色を付けるハマユウの群生。上空のトビ。波。くすんだ灰色の風景。イメージとして思い浮かべていたのとは違うが、ともかく雄大な自然に直にふれたのは、ここが初めてだったような気がする。観光地、ではない景色。
何も考えず、ただ眺めていたい。と思ったのだが、時間がない。もし帰りのバスに遅れたら、というわけで、こんな所に来てまで時間に追われる羽目に会ってしまったのが残念だった。
恐らく、ここへ来ることはもうないだろうが、良いところだったと思う。何と言ったって、ここには、「北海道」があったのだから。
7.第5夜
北海道の夜は、暗い。札幌発の臨時列車は闇の中をひた走り、気付くと函館に着くところだったのである。
従って、段々と北海道を去っていく、というより、突然、青函連絡船の甲板に立たされて、函館の光を見送っていた、という方が正しい。
海から見た函館の光は、函館山からの夜景に比べると余りにも貧相なものではあったが、ともかく北海道の最後の名残ではあった。しかし、その光もイカ釣り舟の光と共に、夜の闇に消えていき、船は、ただ夜の海を南へと進んでいくだけだった。
僕は、はっきりとしない頭の中で、「帰るのだな」と思っていた。あの関東地方の片隅に「日常生活」をするために帰る。それに、幻滅を覚えたというわけではない。ただ、帰る。何となく、この時間、こうして、この船に乗っているのが、不思議な気がした。腕時計の時間以外、何一つはっきりとしない、この時間…… まるで、白昼夢のように、夜の船の上で、ぼーっと立ち尽くしていたのだ。
船室に降りたのは、3時頃である。寝る場所もなく、座り込むしか無かったのだが、そんな中でも周りを配慮することも出来ずに、はしゃぐ連中が居て、結局、眠れなかった。しかし、もう怒る気力もなかった。ただ、こういう連中と一緒に同じ旅をしてきたのかと思うと、何だか口惜しい気はした。4時に青森港に着いた時、とにかく電車で寝ることだけを考えていたのも、無理はあるまい。
最後に
「北海道」のイメージは、この旅行をした後も、実は余り変わっていない。そこには、作られたイメージを追い掛けるように旅した僕達の不幸もあるわけだが、確かに、イメージに近いところだったのかもしれない。次に、北海道を訪れた時は、どんなイメージを感じるのだろうか。
もはや大昔の、高校の修学旅行で北海道に行った時の覚え書き。各所で、時代を感じさせますが、注釈等を付けるのも、余りに後ろ向きな気もするので、やめておくことにします。