「to be,to be,ten made to be!」

 


「空を飛んだこと、ある?」

 突然、彼がそう訊ねた。その時、僕らは小高い丘にある公園の芝生の斜面に寝ころんで、ただ空を見上げていた。空は、申し分のない秋の青空で、所々に細く延びている雲が空の高さを感じさせた。
 公園には他に人影もなく、穏やかな静けさの中に、僕の意識は溶け込もうとしていたので、彼が何を言ったのか、理解するまでに、少し時間が掛かった。
「…飛ぶって、飛行機でとか?」
「違うよ。つまり、夢の中で、飛んだことがあるかっていうこと」
 僕は体を横にして彼の方を見た。彼は、話を続けた。
「僕は、今まで一回も飛んだ覚えがないんだ。どう、ある?」
 僕はしばらく考えてから答えた。
「いや、ない」
「そうか、仲間だね」
 彼は僕の方を見て、笑ってから続けた。
「実は、会った人には一度必ず訊くんだけどね。半分以上の人は、飛んだことがある、て答えるんだ。大抵、何かに追いつめられたような時に、逃げようとして飛んでしまうらしい。飛ぶって言っても、浮いてしまうのが、多いみたいで、他には泳ぐように飛んだりもする。ある人は、平泳ぎでしか飛べないので、時間が掛かって困るって言っていたな。いずれにせよ、僕らは少数派ってわけだ」
「なるほど。でも幸せなんじゃないかな。夢の中で飛ばないってことは、追いつめられることもない、ってことだろ?」
「それは違うよ。僕の場合、走って逃げるだけだ。つまり、夢の中まで、極めて現実的なんだな」
「いけないのかい?」
「いけないというより… 悲しくはないかい? せめて夢の中でくらい飛びたい、いつもそう思っているのに」
「本当に、そう思っているのかな?」
「え?」
「本当は、そうは思っていないんじゃないか。夢って、強く思っていることが出てきたりするだろ。だから、本当は、飛べないんじゃなくて、飛ばないだけなんだ」
「…そう、かなぁ」
 彼は少し気落ちした様子で、視線を頭上にやった。そこにはいつ来たのか、鳶がゆっくりと舞っている。僕も鳶をぼんやりと眺めながら、余り自信もなく、答えた。
「多分、ね…」

 頭上の鳶が鳴いた。と同時に今まで緩やかな円を描きながら少しずつ降りていたのが、一転して、上昇していく。僕は半ば独り言のように、
「ああいう風に飛ぶ夢を見たら、気持ち良いかもしれないな」
と呟いたが、彼からの返事はなかった。代わりに静かな息遣いが聞こえてきた。彼の方を向くと、いつの間に眠りに落ちたのか、安らかな顔で規則正しい呼吸を続けている。
 何となく馬鹿にされたような気がしないでも無かったが、かと言って起こすのも気が引けたので、仕方なく、頭上の鳶に目を移したまま、しばらくぼーっとしていた。どうせ今日は、急いでやることなど、特にない。

 と急に奇妙な考えが頭の中に浮かんだ。彼は今、鳶になって地上を見下ろしながら飛んでいる夢を見ているのではないだろうか。頭上の鳶は前より高いところで悠然と円を描き続けている。
 彼はと言えば、静かな寝顔のままだが、よく見ると微笑んでいるように見えなくもない。僕は、あの鳶の高さから見た地上はどのように見えるのか考えてみた。この辺りは市内では外れだから、他より緑は多いはずだが、それでも一面の緑ではないに違いない。この公園から少し離れて学校、そして、その向こうには、特急が止まらない私鉄の駅を取り囲むようにこぢんまりと発達した小さな町がある。ここから駅は見えるのだろうか。反対側のはるか向こうには富士山があるはずで、というのも富士見ヶ丘という名の指すとおり、かつてここからは富士山が見渡せたらしいのだが、今では建物が建ち並んで見ることは出来ない。上からは見えるのだろうか。それとも空気の変わってしまった現代では無理なのだろうか。
 僕は空からの眺めを色々想像して、何となく愉快な気持ちでいたが、その空想は、急にはるか上空を飛び去っていく一機のジェット機の轟音によって、遮られた。鳶もその音に驚いたのか、また一声無くと、どこかへ飛び去っていく。彼もどうやら、今の音で目を覚ましたらしい。しばらく、ぼーっとしていたが、上半身を起こすと、こちらを向いた。

「夢を見たんだ」
「夢?」
「ああ、空を飛ぶ夢だ」
 僕は思わず、先程まで考えていたことを口にした。
「それって、まるで鳶の目で下を眺めているような夢じゃなかった?」
 彼は少し驚いた様子だった。
「いや、実はそうなんだ。何で分かったんだい?」
 これには僕の方が驚かされた。
「いや、何となく… でも、良かったじゃないか。念願の、空を飛ぶ夢が見られてさ」
「だって、なぁ」
 そういう彼の口調は余り嬉しそうではなかった。不思議に思って理由を訊くと、彼は諦め顔でこう、答えた。
「飛んでいたのは君の方で、僕じゃなかったんだ」

 またどこかで鳶の鳴くのが聞こえた。

(了)


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