十二国記における物語の基本構造を考えてみる。
とは言っても、殊更難しいことを言うつもりはなく、物語がハッピーエンドを迎える、と言うことを
まずは確認しておきたいだけである。少女マンガであれば、ハッピーエンドとは即ち、恋愛の成就に他ならないが、
(十二国記には限らず、小野不由美作品に共通して言えることだが)ここで描かれているのは、そういったLove
Storyではない。
主人公たる少年少女の精神的な成長を縦軸に、そして、端的には王の正統性の確認で示される、
秩序の回復を横軸にして織りなされる物語。その幸福な達成感がハッピーエンドとして読者に感じられる。それが、十二国記の
少なくとも今までの構造であったと思う。
それだけに、今回の作品は織り糸の多彩さと精緻さに感動しつつも、今までと比べ、どこか違うことが気に掛かる。勿論、
今作がいわば、前編とでもいう状態で終わっていて、秩序が回復されていないことが最も大きい原因であるのは明らかだ。恐らく、
年内に刊行される予定の後編を読めば、今まで以上に感動できる結末が待っているのではないか、私もそう期待している一人でもある。
しかし、今までは所与の前提であった、この世界への在り方に再三、疑問が投げかけられていることが、その違和感のもう一つの
要因だろう。天綱、天帝といった存在への疑問、それは当然ながら、それを前提とした世界の秩序回復を疑問視させることになる。
「水戸黄門」で、徳川家支配の世界自体を疑いだしたら、一件落着のしようが無くなるようなものだ。もし、それを押し進めて
いったら、倒幕、即ち、その世界の終滅を描くしか終わりようがない。
正直言って、作者がこの世界をどこまで描こうとしているのかは分からない。公式・非公式に述べてきたとされることを
総合する限りでは、「十二国の一番長い日」まで描く意志は無いらしいのだが、しかし、今回の登場人物(というか、陽子)が
「王がいなくても済む世界」を実現しようとする方向で走っている以上、その物語は、十二国記の秩序の安寧とは衝突が
避けられそうにないのも事実である。
恐らく、今後の陽子達が、天というシステムと対決することは間違いない。そこで見出される真実とは何なのだろうか。
どこかのホラー作家のように、実はフェッセンデンの宇宙である、とだけ強引に言って終わることは無いとは思うのだが。
十二国記に少なからぬ影響を与えていると思われるC.S.ルイスの「ナルニア国物語」は、言うまでもなくキリスト教的世界観の
バリエーションとして、ナルニア国の終焉と真の世界の開始を描いて物語を終える。つまり、「ヨハネの黙示録」の翻案である。
そこでは、イエス・キリストに当たる聖獣アスランが全てを裁き、最終的な秩序が回復されることになる。
しかし、問題は堺三保も指摘するように、小野不由美の世界は、絶対者という考え方と馴染まない、ということだ。
天帝が出てきて秩序が最終的に回復するのであれば、登場人物達の苦労は何だったのだ、と言いたくなる。しかし、彼らの存在は
十二国という、天のシステムを前提に初めて成り立ってもいる、というジレンマもまた存在している。
「屍鬼」で引用される、アベルとカインの物語。あれは、人間が神の恩寵を失うことになった原因とその顛末を描いた物語でも
あった。恐らく、そこが幾ら不毛の大地であっても、かつてのエデンには戻れない、戻ろうとはしないのが、小野不由美の本来の
作品世界なのだと思う。
従って、十二国記の成り立ちが、例えば天帝という絶対者の存在を元に成り立っているとしても、その加護を離れ、自ら自分に
律した条理だけを元に、生きていこうとするのが、登場人物達の今後取りうる、一つの道筋のように思われる。それは、黄朱の民の
生き方に既に示されているのかもしれない。ただし、当たり前の話ではあるが、それは決して容易なことではない。
景国国王を彷彿とさせる、真摯な作者が、その困難さに目を背けたまま、単純に、その道筋を楽天的に描くことは出来ないだろう。
しかし、冒頭に戻るが、十二国記はハッピーエンドの物語である、というのが、作者がこの物語を描く上で自らに課した
約束毎ではないかと、何の根拠も無いながら、私は考えている。
では、それはどのような結末となるのだろうか。今はただ、物語の続きを楽しみに待つ他はない。