「屍鬼」以来の、小野主上の小説。本格推理と銘打たれているように、孤島ミステリとして厳格に描かれ、
このジャンルでの今迄の歴史を踏まえた上で新たな作品を作り上げている。とは思うのだが、それに拘る余り、小説としてはやや窮屈な
ままで終わってしまっている、というのが偽らざる感想。
途中からは抜群のリーダビリティ、いわゆる、「止められない止まらない」状態に陥らせてくれる作品ではあるのだが、全体として、
「ミステリをきちんと語り、終わらせる」ことに対して、やけに急いでいる、という印象が否めない。
もしかすると、新書のミステリとしてのスピード感を意識する余り、内容を切り詰め過ぎたのでは?
読み返してみると分かるのだが、無駄なページというのは存在せず、必要なことだけがギリギリのスペースに押し込んである、という
感じ。それだけに、舞台となる、島の文化・生活の描写も、「屍鬼」の外場村のように、それ自体圧倒的なリアリティを持つことはなく、
あくまでミステリの前提としての精緻に考えられた設定に留まっている。
解決編の近辺の慌ただしさはそういう意図に依るものだとしても、出てくる登場人物が揃って、ラストに向けて必死に協力している様に
見える様はやはり尋常ではない。というか、登場人物、皆、饒舌過ぎ(^^; 大体、余所者には閉鎖的な島民達では無かったのか?
「とにかく、どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が 始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故、男は発見の旅へと 出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。 多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。 儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡さるべき権力と発見さるべき貴重品とは、 深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。 発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、 ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。」
上の文章は、別に「黒祠の島」について書かれたものではなく、蓮實重彦「小説から遠く離れて」という本に
おいて、80年代の代表的な小説に読み取り得る、共通の物語要素として指摘されたことなのだが、この「黒祠の島」においても
充分に当てはまっていると言えよう。
勿論、そのことを指して、物語が独創的でない、などと言うつもりはない。ただ、作者に今さら、このような古典的な孤島ミステリを
書かせた、最大の関心事が何であったのか、ミステリのファンでもない私にはよく分からないのだ。
タイトルが示すような、京極夏彦的な設定への想像力なのだろうか? しかし、あいにくと京極夏彦ではない私には、「黒祠の島」
という設定の衝撃度もまた、よく分からないままなのだが…
小野不由美の小説の大きな特色として、二つの世界の境界に立つ者の葛藤、がある。しかも、それはどちらかの世界を正とするのでは
なく、その狭間に立ち続ける、という選択枝が選ばれることが多い。チャップリンの有名な映画のラスト、アメリカとメキシコの国境線を
跨いだまま遠ざかっていく彼の姿のように。従って、「黒祠の島」においても、同種のテーマが扱われていることを期待しても不思議では
ないだろう。何せ、冒頭から、外と内の違いを強調されて物語は始まるのだから。しかし、物語の中では確かに、外と内という価値は、
幾重にも反転していくことになるのだが、主人公は結局、外からの傍観者に終始するに過ぎない。恐らく、この小説を読んでいて残る
不満はそこに端を発するのではないだろうか。一体、この主人公はこの島にとって何だったのか。
ちなみに解決編で登場する、罪と罰という葛藤。ちょうど遅ればせながら、いなだ詩穂/小野不由美「ゴーストハント」5巻を読んで
いたところだったので、永遠のテーマの一つなんだな、という感想。確かに、小野不由美の世界において、この問題に答えは出ないかと。
というか、出すことを良しとしない世界だというか。
もう少し(あと150ページくらい?)分量が厚ければ、恐らく「屍鬼」のように、圧倒される作品になっていたのではないか、とも
思うのだが。ただし、そういうスタイルを選ばなかったということは作者の関心事がそこには無かったということで。やはり、
ミステリファンのための作品?