今日も明日もいつもの道で 03'

「日記」ならぬ「週記」、と言いつつ、今では「月記」以上…

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44.「のぞみかなえたまえ」 10/4

 昔からの横須賀線沿線住人にとって、(もう大昔のことだが)総武線快速と乗り入れをするようになったことは、今でも許し難い「改悪」である。

 それまでの貨物線経由となったことで、以前より5分は余計に時間が掛かるようになり、東京駅が地下5階となったことで、地上まで上がってくるのに更に5分余計に掛かるようになったし、帰りも東京駅始発ではないので待っていても座れない、と一言で言えば、散々な目に遭っただけだったからだ。

 眠っていても成田空港まで乗り換え無しで着く、というのはその結果としての数少ない「利点」だが、そうそう成田まで行くわけでもなし、日々の生活が不便になったことの方が遙かに大きい。

 それを筆頭に、隣を走っている東海道線と比べて、横須賀線はいつも差別されている、というのが、横須賀線沿線住人の偽らざる実感ではないだろうか。例えば、ライナー号という(500円出して座席を買う)朝晩走っている快速電車があるのだが、横須賀線のライナー号は(昔の特急車両ではあるが)はっきり言ってボロい。換気は悪く、椅子は固い。同じ500円なのに、と思わざるを得ない。ホームについても、大船までの大抵の駅で、横須賀線のホームは東海道線より端にあって余計に歩く必要がある。

 中でも、19世紀のネイティブアメリカンの如く、端に追いやられているという印象が一番強かったのが、品川駅の横須賀線ホームである。まぁ、品川駅の場合、東海道線だってその隣ではあるのだが、毎朝晩と、山手線(西端にある)と横須賀線(東端にある)を乗り換えしている者にとっては、駅の端から端まで歩かされ、疎外されているという事実を日々感じさせられる駅ではあった。

 それが、この10月の新幹線品川駅の開設で、状況が一転した。今まで壁でしか無かったところに通路が出来、一躍、最新の駅の隣になってしまったからだ。ある意味、京都や大阪に一番近い東京都内のホーム(新幹線品川駅そのものを除けば)である。

 時代のエッジ、というのはなるほど一番端に有るのだな、と妙な感心をしたりした。人間万事塞翁が馬。

 ただし、実際に開通してみて、何かが変わったかというと、通路に東京土産の店が幾つか出来たこと以外、何も変わってはいない。サザエさんサブレとか。要らないし。

 そんなわけで、相変わらず、品川駅の端から端まで歩いている毎日。しかし、思い付いたら、会社へ行く途中、ふと右に曲がれば、どこにでも(というか、少なくとも西日本は)行ってしまえるようになったのは魅力的と言えなくもない。

 いや、別に、会社になんか行きたくない、そのままどっかに行ってしまいたいというわけではないのだが… 少なくとも今のところは。

 

43.「模写」 6/29

 この一枚を見るためになら、世界のどこへだって行く。という絵はあるだろうか。

 私の場合、可能ならば実際に見てみたい絵は沢山あるのだが、逆にそう言い出せば切りがないわけで、少なくとも一枚のためにだけ旅をする、と言えるほど、時間やお金に余裕がある生活でもない以上、そういうことは余り考えないことにしている。

 しかし、昔から、もしそういう贅沢が許されるなら、まず見に行きたいと思っていた絵、あるいは、この絵だけはいつか実際にこの目で見ないといけない、そう思っていた絵が、 実は1枚有る。だから、冒頭の質問には、その絵を挙げるのが、一番正解に近いのだろう。

 それが何かというと。正確に言えば「フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ロイテンブルフ副官率いる市民隊」。通常言うところの、「夜警」である。

 絵が好きな方なら、同感とまでは行かなくても、なるほど位には思って頂けると思う。「この一枚」としては多分、イタリアルネサンスの画家の作品を挙げる人が多いと思うのだが、レンブラントの代表作、かつ (大きさから言って外国に貸し出されることがないため)そこに行かないと見られない名画の一つとして、誰に言っても「恥ずかしくない」作品ではあるからだ。

 しかし、私の場合、それが名画だからとか、レンブラントが好きで好きでたまらないとか、必ずしもそういうわけではなくて、そう思うようになったのは、もっと個人的な、偶然の結果に過ぎない。

 中学の美術の時間に、教科書や副読本に載っている作品から一枚を選んで模写をする、という課題が出たことがある。その時、私は無謀にも、この「夜警」を選んでしまったのだ。

 芸もないのにレンブラントを模写する無謀さは言うまでもなく、よりにもよって(夜の風景とも勘違いされた)あの深みのある闇と光の画面を、画用紙上の不透明水彩の絵の具で真似しようということ自体、無理難題である。

 今の私なら、そういう負け戦は最初から避けるところだが、当時は若かったのか(確かに若かった。中学生だ)、あるいはそれでもやってみたかったのか、とにかく魔が差した結果、一週間、家に帰ってからの暇な時間をずっと、模写に打ち込むことになっ てしまった。多分、美術の時間内に仕上げるのが本来の趣旨だったのだろうが、見れば見るほど細部が目に入って、とても終わらない。一つには、当時の私が小心者で、思い切って塗ることなど出来ず、ひたすらちまちま塗っていた、ということもあるのかもしれない。

 一週間を費やしたものの、結果的には、満足のいく出来にはほど遠かった。時間が足らなかったこともあり、色調が明るいままなのだ。とはいえ、今よりも「多忙」だった中学生として出来る限りの労力を注ぎ込んだ絵であるのは間違いなかった。

 その後、文化祭か何かの関係で、それら模写は学年全員分が廊下に張り出されたのだが、私の「夜警」への教師の採点は良くなかった。まぁ、褒められた出来でないのは分かる。しかし、ターナーの夕焼けを真似して、適当に色を塗っただけの絵が 遙かに高い評価を得ているのを見て、それは無いだろう、と当時、強く思った。

 教師の採点には納得出来なかったものの、一週間、見て過ごしたことで、この絵にはかなり「親しく」なった。絵を見るとは、こういうことかと初めて知ったのだ。しかし、画集での複製を眺めているだけでは結局、よく分からない、と思ったのも確かである。

 したがって、いつか、実際にこの絵を直接、見てみなければ、とその時から思ってはいたのだった。

 だから、その時の思いが、今回のベネルクスへの旅行の大元になっている、と言えるかもしれない。

 とはいうものの、今までは正直言って、実際に行くことなど真剣に考えたことも無かった。ふと、旅行会社のパックツアーのパンフで、ベネルクスの美術館巡りというのを見て、そういうのも有りなのかと気付き、どうせなら、自分で回ってしまえば早いと思ったことがあった上に、「夜警」を収蔵しているアムステルダム国立美術館が今年になって、アスベスト騒ぎで一時閉館してしまったことが大きい。幸い、小規模ながら今は再開しているのだが、「売り切れると急に買いたくなる」の法則?と同じく、一時見られない状態が有ったので、却って肩を押された、 のは否定出来ない。勿論、「夜警」のためだけに旅行をするなんて、自分としては許せないのだが、これだけまとめて見るのなら、それなら良いのでは、と思った(というか、思うことにした)のだ。

 

 ところで、中学の時のその模写だが、この春、押入を整理していて再発見した。冷静に見れば、確かに全然上手くないのだが、夢中で「夜警」を模写した当時の私の思いはよく伝わってきた。この絵を評価しなかった教師は、やはり駄目な教師だった、と改めて思った。

 

42.「テニスコートの誓い」 6/20

 私の通っていた高校は、(前にも書いたが)首都圏近郊の地味な公立校で、歴史の長さ以外、特に誇るものもなかったのだが、当時は、よく言えば自由な校風、というのが僅かな取り柄だった。「自由」というのは、言い換えれば「いい加減」ということでもあって、その恩恵に 浴していたのは、当然ながら生徒だったが、当校の出身者が多かった教師にとってもそれは同様だった。

 中でも、数学の老教師は、在野で言語学に打ち込んでいた(若い時はもの凄く切れた人だったという噂は聞いた)のはともかく、「社会人」の「普通」からは大きく逸脱しており、日常生活にも、授業にも、全く関心が無かった。一応授業はしていた筈だが(寒いと自習になることが多かった)、覚えていることいえば、シャツを洗濯せず、捨てるまで着た切り だったため、夏場は前の席だと悪臭で酷い目に遭ったということ位。そういう教師を許容?するほど、「自由」な学校ではあったのだ。

 世界史の教師も、恐らくは個人的な趣味から、1年間の授業の内、半分以上をフランス革命の説明に費やすことで有名であり、しかもその話は面白く無かったので、皆、世界史の時間は自習に宛てていた。私はせめて世界史の本を読むことにしていた けれど。

 ところで、高校の創立記念日は6月20日だった。

 その頃、世界史の授業は、国民議会の結成辺りに差し掛かっていたらしく、「明日はテニスコートの誓いの日なのでお休みです」と前日の黒板か日誌に書いた奴がいて、受験生(といっても2年だが)特有の笑いを誘ったことが、当時、妙に印象に残った。

 お陰で、フランス革命での出来事など殆ど忘れてしまった今も、6月20日になると毎年「テニスコートの誓い」という言葉が自然と浮かんで来てしまう。もはや、ある種の呪いである。

 と他人事のように書いてはみたが、もしかしたら、それを書いたのは私だったのではないか?という気もしてきた。というか、いかにも当時の私が書きそうなことだ。

 若気の至りという奴だが、ここから、迂闊に馬鹿なことを書くと、後々、自分にどんな災いが降りかからないとも限らない、という教訓を導き出すことも出来るかもしれない。

 日々こうして綴っている文章も当時と大して変わっていない以上、これらの日記等のため、数十年後に肝心なことは忘れているにも関わらず、別のどうでも良いことだけ毎年思い出す、ということ がまた起き、その時は、この文章も既に忘れているので、また別の場所で似たようなことを書いて反省したりするのだろう、きっと。

 それにしても、私はこの先、6月20日は雨ザーザー、じゃなかった「テニスコートの誓い」の日、という連想から一生、逃れることのないまま生きていくのだろうか…

 

41.「考え過ぎ。」 5/31

 前から思っていたのだが、私は「どうでも良いこと」に対して、考え過ぎる傾向がある。人が考え事をする時間に自ずと限界がある以上、それはつまり、「どうでも良くないこと」に対して考えなさ過ぎである、ということも意味するのだが、考えて「考えている」わけではないので、いかんともしがたいのだ。ただし、その余りの内容の無さに、考えた後で後悔することは多い。

 例えば。一週間位前まで、駅の構内に張られていたリキュールのポスターだが、そこに書かれたコピーがある朝、気になる。

 「Don't think ACT.」。ACTのことを考えるな。…えーと。考えちゃいけないらしいACTって何のことだっけ?と寝ぼけたままの頭でぼーっと考える。数日後、正しくは「Don't think, ACT.」であることにようやく気付く。ああ、何だ。考えるな、動け。なのか。メインの写真が、褐色に日焼けした外人のお姉さんが、大きく胸をはだけて見せるポーズ、ということは、コピーと両方合わせて、何も考えずに私の胸の中に早く飛び込んでおいで、というメッセージなんだろう。勿論、その胸とは、カルーアのコーヒーリキュールというこの商品ずばりその物を象徴している、ということに違いなくて。

 でも、商品の魅力を性的なイメージに重ねて訴えかけるという、ウィルソン・ブライアン・キィのCM論そのまま過ぎるやり方は、日本の広告としてはむしろ逆効果なのではないだろうか、とも思い、しかし、実はそれは、そうやって「露骨過ぎる」と見た人に思わせることで却って、商品を印象付けるというテクニックを駆使している、ということなのかもしれず、とまた思い直して。

 と、(例によって、寝ぼけた頭でぼーっと)しばし考えた挙げ句に、そんなことを考えるいわれも必要もないことにふと気が付く。それにしても「考えるな」とわざわざ書かれたポスターを巡って、その意味をつらつらと考えてしまう私って一体…

 

40.「毎朝、迷うこと。」 5/10

 今の勤め先は、最寄り駅から10分ほど上った所にある。駅の直前で合流する二つの通りに挟まれた土地に有るそのビルへは、いわばYの字の下から進み、真ん中の三角形を少し奥まで歩く ことになる。つまり、駅を出て広場の歩道橋を上った後、 Yの下の棒の左側へ降りるか、右側へ降りるかを決めないといけないのだが、通い始めて二ヶ月経つ今も、定番のコースを決めかねており、毎日その日の気分でふらふらと選んでいる。

 左側は日当たりも良く、昔、同じ三角州の勤め先(三角州の先端のビルにあった)に通勤していた頃に通った道のりとも一部重なるため(一部というのは、昔は地下鉄利用で、もっと左側の道からYの交差点まで来ていた) 、馴染みもある のだが、左側を選んだ場合、歩道橋を降りる際にどう見ても後ろ向きに戻るのが無駄に思える上、三角州への急な歩道橋をもう一度上らなくてはいけない、という ネックが存在する。

 しかし、右を選んだ場合にも問題はある。歩道橋を直進し、右側で降りるこちらは、その後は緩やかな上りだけで階段はない。微妙な差とはいえ、少しでも低い方に流れるのが水であり、少しでも易き方に流れるのが人間である以上、歩き易さからはこちらを選びたいところだが、歩道橋で右側へ渡 るということは、三角州側へ戻るために道を渡り直す必要があり、その際、(歩道橋でなく横断歩道なのは良いのだが)信号待ちのリスクを抱えることになる。時間と距離は余計に掛かる のだ。

 結局、どちらも一長一短。したがって、これから述べることくらいしか、「違い」は無いのだが、ではどちらを選ぶべきなのかというと、これもまたよく分からない。

 とりあえず、一体、何が違うかというと。それぞれ別の学校の通学経路と重なっている、ということ。つまり、どちらの生徒達と一緒に歩く方が良いか、ということ になるわけだ(と言い切って良いのだろうか?)。

 左側は、某私立共学。10年前の通勤時、特に歩道橋の階段を上る際(笑)、カルチャーショックといっても過言でない位の衝撃を受けたそのミニスカートの短さは今も健在。腰下15cm? スカートが短いだけあって、足が本当に細い子が多いのも、さすが(何がさすがなのかはよく分からないが)である。

 そういえば、いかにも灰色の高校生活を送ったような歌詞で知られた某歌手が、実はこの学校の出身で、超ミニスカの同級生とのハイスクールライフを満喫した筈なのに、それで何が不満だったのか、と昔、文句の一つも付けたくなったことを思い出す。

 ただし、十年前は凄く垢抜けている、という印象が強かったが、今や、良くも悪くもこの街の高校生という感じ。唯一の学院の校則らしい、学校のマークのワッペン付きブレザーに、チェック(柄は自由)のミニスカの組み合わせは皆同じだが、足下はルーズとハイソックスが半々。紺ラルも少々、と要するに何でもありで、髪の毛は茶髪系がむしろ多数。昔風の見方で言えば、全体にだらしない、という方が近いかもしれない。男子生徒に至っては近い、のではなく、間違いなくほぼ皆、だらしない。

 一方、右側は某私立女学校の中高生。紺ずくめのセーラー服は、遠目で眺めていた昔は余りにも野暮ったい、と評価?していなかったのだが、21世紀の今はこういう保守的な方が むしろ希少価値が高いのかもしれない。

 例えば、靴下はルーズ皆無。全員、白のソックスで、入っていてもワンポイントまで。スカート丈は膝上10cm辺りを中心に、人によって上下している(膝下もいる)。広い意味ではミニなのだろうけど、 もう片方が超ミニなだけに、短いという気はしない。

 あるいは、紺のセーターの左肘に白いイニシャルが刺繍されている辺りも、さりげなく母校への誇りが感じられるようで、ポイント高い気がしないでもない。まぁ、実際はどうなのか知る由もない のだけれど。

 もっとも、冬服はセーラーカラーの白線を除くと紺一色で、リボンが暖色の中等部はまだしも、濃紺の高等部などは華が無さ過ぎ、という印象は変わらないが、夏服だと上は白になるので、いわゆるセーラー服のイメージに は近くなる。いや、私はその手の好事家では別に無いのだけど、定番のイメージというのはやはり、完成されている、ということなのだと思う。 しつこいようだが、私はそういったことに特別なこだわりがあるわけでは無いので、だから何だ、というわけではないのだけど。

 

 で、結局のところ。どちらを通ったからと言って、大した違いがあるわけでもなく、従って、今も迷っているわけなのだが、それでも、最近は気が付くと、右に進むことが多くなってきたような気がする。

 右を選んだ場合、歩道橋を渡りきった後、右側の歩道へ階段ではなく斜めの通行路を降りていくことになるのだが、その際、前方の道一杯に、生徒らの紺の制服姿が何十人もずっと上っていく後ろ姿を一望することになる。

 あたかも何かの巡礼者達の道のようにも見えるその光景が、眠気に満ちた目を少しばかり覚ますからかもしれない。

 とはいえ、道行く彼女たちの挨拶は至って普通で、「ごきげんよう」だったりはしない。世の中、それほど面白いことに満ちているわけではないのだ。

 ともあれ、私はいつものように、歩道橋の上で、どちらに進むか一瞬迷い、そして片方に足を進める。どちらに進もうと、辿り着くのは日常という同じ場所なのだから。

 

39.「そしてまた、歩き始める。」 1/1

 私に与えられた「2年間の休暇」(いや、勿論、その間も働いてはいたけれど。今までと比較した印象として)は今月末までには終わることになる。今や「休暇」を振り返り、総括すべき時期なのかもしれない。私はこの2年間を有効に使うことが出来ただろうかと。

 あるいは、これからの1年に思いを巡らすべき時期なのかもしれない。更には、これからの人生について。

 考え出すと切りが無く、また(今までの数十年間、描けたことが一度たりと無かったように)将来に渡る大計画、グランド・デザインを描くことなど、私には出来そうにない。ただ、昨年色々有った中で思ったのは、今のようなライフスタイルを可能な限り維持していく、ということ。帰属している社会の価値観に気を遣いながら生きていくのではなく、あくまで自分の価値観を大事にする(といっても、別に反社会的な価値観だというわけではなくて。…多少、非社会的かもしれないけど)生活。

 もっとも、実際、新たな職場になってみないと、どうなるのかは何とも言えず。結局、バタバタと時間に追われる殺伐とした日々を送るだけになってしまうのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、心(と体)の余裕は持ち続けたい、とは思っている。 

 だから、今年の目標を言えば、「(私にとって)普通の生活を、普通に送る」こと。


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