『犬家の一族』

 

 とり・みき「犬家の一族」を読む。彼がマンガ家としてデビューするまでを題材にした「あしたのために」が、この中短編集の目玉だろうが、それ以上に進研ゼミの受験雑誌に連載されたという「クレープを二度食えば」が久々にとり・みき自身のナイーブな素質を見せた作品として興味深かった。

 「あしたのために」を読みまでも無く、彼のベースとはSFなのだが、そのさらに中核には、不可能なことをテクノロジーという新しい考え方で可能にするという、ロマンティックな願望がある。つまり、SFは時を越えることが出来るのだ。ただ、そうした夢を語ることは余りにも恥ずかしい。だからこそ、彼自身がそうした話を描くことはほとんどなかった。あの「時をかける少女」の圧倒的影響下で描かれていた「くるくるクリン」の中の一話で試みた後、「泣かせる話」とは技術に過ぎないと失望を示し、敢えてその方向に進むことを避けてきたと言っていいだろう。

 そうした彼が、原作という言い訳なしに(大原まり子、火浦功原作では試みている)初めて描いたこの手の話、しかもずばりタイムスリップ物の、と来れば注目せずにはいられない。で、結果なのだが、水準は高いもののタイムスリップ物の歴史に新たな一章を刻むとかそういう作品ではない。まぁ、よくある話ではある。

 しかし、逆にそこに、このジャンルを愛する彼の姿勢が表れているとはいうのは言い過ぎだろうか。いたずらに独自性を狙うことなく、その技術によって「ちゃんとしたタイムスリップ物」に仕上げること。その冷静さが彼の作家としての成熟を示している。

 とはいえ、彼らしさも物語のここかしこに見られる。小松左京のタイムパトロール物を連想させる「T.T.S」を初めてとして、「リプレイ」「振り出しに戻る」「アルジャーノンに花束を」等、様々な作品の響きが聞こえるのだ。中でも『これからの8年間、真くんには過去でも私には未来なんだから』というセリフは「時かけ」を思い出させて(セリフの方向が逆向きになっているのがミソ)圧巻だ。あの映画から十年、時は流れたが、今でもとり・みきは時を駆けている。