小津についての記憶

ヴィム・ヴェンダース「東京画」

 

 小津を語ろうとする時、人は誰でも少し感傷的になる。一体、どこから始まれば良いのだろうか? 小津が亡くなったのは1963年の12月12日だった。僕が生まれたのはそれから4年とちょうど半年後のことだ。勿論、同時期に生きていたかどうかなど、どうでもいいことだ。しかし、小津については、この出遅れた感じがいつでも付きまとっている。それが、とても悲しい。

 

 例えば、ヴェンダース「東京画」の撮影をしていた1983年の春、僕は中学3年生だった。当時の僕はヴェンダースは勿論、小津の名も知らなかった。というより、映画を観るに当たって、監督の名前など意識したことも無かったし、映画自体、特に好きなわけでもなく、3ヶ月に1回も行けばいい方だった。名画=いいえいが、とはNHKが時たま思い付いたように放送するあれだと、素直に信じていた。

 では「パリ、テキサス」を最初に見た時はどうだったろう。1986年の2月、鎌倉の名画座での2本立てでの事だ。この時期には少なくとも現代の高校生の平均よりは多少映画好きだったし(僕の周りでは年2本も見れば充分、というのが普通だった)、自分の趣味が当時で言えばフランス映画社配給のものに片寄っていること位までは既に自覚していた。

 しかし、である。ここでもまた、ヴェンダースとはすれ違ってしまう。一言で言えばラストのどろどろに耐えられなかったのだ。当時のノートにはわざわざ「何とも長いだけの映画」と書いてあるほどだ。

 もっとも組み合わせがヴェンダースにとっては不幸だった、と言えるかもしれない。何せ、もう1本はエリセ「ミツバチのささやき」だったのだから。あの慎ましい雄弁さを見た後では「パリ、テキサス」がひどく冗長に見えてしまうのは無理もないことだろう。

 

 したがって、ヴェンダースと小津では、むしろ最初は、小津に出会うことになる。「パリ、テキサス」を見てから、凡そ2年半後の1987年の12月、舞台は京都の京一会館に移る。正直言って、大して小津安二郎に興味があったわけではなく、有名な原節子なる女優の顔を一度は見ておきたい、というくらいの冷やかしの気持ちからだった。

 1本目は黒沢明「生きる」だった。つまらなかった。それだけに、ということもあったのだろうが、しかし、それにしても次の「麦秋」は衝撃的だった。ほとんど無防備で映画の本質にぶつかってしまったようなものだ。

 今思うと、それは極めて幸福なことだったと思う。今どき、先入観もなく小津を、しかも映画館でみてしまうとは。

 このことが、後に(恐らく普通の人とは逆に)蓮實重彦という名前を近いものにし、更には、既にタルコフスキーベルトルッチという固有名詞の下では知っていた映画の美しさを、そういった限定無しに信じるようになった。

 ということは、とりもなおさず(幸か不幸か)この時から、真に映画好きとなったわけなのだが、しかし、皮肉なことにこの時のような限界体験は2度と無いだろう。なぜなら、このようなことが起きると知らないまま、それを体験することはもはや不可能だからだ。

 その意味で、小津でさえも、あの時の小津までは辿り着けない。とはいえ、それから京一会館で小津をやる度に見に行くのが恒例となったが、こともあろうにその京一会館自体が4ヶ月後に閉館してしまった。最終日の異様な熱気は今でもよく覚えているが、潰れてしまえばしょうがない。ここでまた、小津とは離されてしまう。

 

 その後、ヴェンダースをビデオの「アメリカの友人」で再発見し、そしてやはり「ベルリン・天使の詩」のラスト・クレジットに感動したり、あるいは文化博物館の上映で小津のサイレント時代のものを少し見、「東京の合唱」などでのスラップスティックの秀逸さや、「浮草物語」のフィルム・ノワールのような闇の美しさ等の別の側面の発見などと言ったことがあったが、依然として小津は「遠さ」として存在し続けている。

 

 そんな中で、先日見たヴェンダースの「東京画」は小津に近付くことの困難さを控えめに語ることで小津を感じさせてくれるという感動的な映画だった。あるいは、東京という都市を再発見させてくれる映画というべきかもしれない。これを東京で見ることが出来たのは幸せだった。

 この映画を見て思うのは、1983年の東京が既に懐かしいものに見えるということだ。梅本洋一によるとこの映画に出てくる風景の半分は既に変容しているそうだから、そう思うのも当然だが、ここで言えることがあるとしたら、「東京らしさ」は風景そのものではなく、その風景そのものが絶えず変わっていくことにこそある。押井守「機動警察パトレイバー」も東京を描こうとしていたが、そんなセリフがあったことを思い出す。しかし、残念ながらそれがセリフのレベルに留まっていたのに対し、この「ヴェンダースの東京」は残酷なまでに、その変化を描き出していた。それが、再発見ということだ。

 そもそも小津の東京は(「東京物語」にしろ)僕の眼には既に全く東京に見えない。逆に鎌倉−特に北鎌倉駅−は30年という年月を越えて、地元人の僕から見ても、全然変わってなく、最初見た時は、さすがにびっくりしたのだが、ヴェンダースはそのことには、感動しなかったのだろうか。それとも、まるで小津映画の中の父のような笠智衆に会ったため、鎌倉どころでは無かったのだろうか。

 それにしても、こんな楽しい映画は随分久し振りの気がする。小津へのオマージュ無しに、この映画は文句無しに楽しい。東京がこんなに楽しい映画になるなんて考えたこともなかった。

 

 駄洒落めくが、小津と言うことで、つい思い浮かべてしまう「Wizard of OZ」すなわち「オズの魔法使い」には、首都としてThe Emerald Cityというのが、出てくる。都のもの皆、空の色に到るまでエメラルドグリーンという結構な都市なのだが、実はそれは都に入る時に掛けさせられるエメラルド色のサングラスのせいに過ぎなかったというのが、少し悲しみを誘う。

 しかし、都市というのは、本来そういうものなのかもしれない。現実の東京がどれだけ映画的かは問題ではない。少なくとも、ヴェンダースというレンズを通して見た東京は、恐らく小津というレンズを通して見たかつての東京と同じくらい、魅力的だったのだから。

 

付記)

 尚、この時の同時上映は、あの「パリ、テキサス」だった。何だか、出発点に戻ってきたような気がした。今回は(ラストだけはやはり付いていけなかったけれど!)異様なまでの画面の美しさに見とれている間に終わってしまった。

 ところで、昔見た時も印象深かったのだけれど、トラヴィスと彼の息子が道の両側で同じ歩き方をするシーン、あのシーンが美しいのは、実はあれは小津映画のヴェンダース的消化だからではないだろうか。

 「父ありき」での釣りに最も美しく表現された、父子の行動の反復という、あの小津世界を移動というヴェンダース世界に移し替えたら、ああなるのではないか。

 そう見ると「パリ、テキサス」は、もはや小津の世界がこの世に存在出来なくなる悲劇を描いているようにも見える。なぜなら、トラヴィスはfather=模倣される存在、を降りてしまうのだし、もし息子のハンターが父を模倣しえても(いかにも有りそうな気がするのだが)、それは、あのラストを繰り返すことに繋がらざるを得ないからだ。


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(補足 or 蛇足)

感傷的
 
何だか、いきなり断言しているが、冷静に考えれば小津の映画ほど、感傷的という言葉と程遠い物はなく…要は、「当時の僕」にとっては感傷的にならざる得ない映画監督だった、というのが、今回の文章の趣旨である。
「東京画」
 
ヴェンダースが撮った、小津と東京に関してのドキュメンタリー映画、のようなもの。好奇心の赴くまま、パチンコとか、サンプル食品の工場とか、関係ないところへ色々寄り道しているのだが(笑)、それもまた楽しかったりする。
 
鎌倉の名画座
 
テアトル鎌倉。鎌倉駅西口前にあり、いつも2〜3本まとめて上映していた。チラシを持っていくと中学生600円で、当時の私は非常にお世話になった。しかし、ここも文中に登場する京一会館と同じ年に閉館してしまった…
 
京一会館
 
京都の伝説的な名画座。私が通っていたのは閉館直前の半年で、ところどころ椅子もないような凄い状態だったが、ピンク映画と交代に上映する、その邦画のラインナップは非常に魅力的だった。医大生時代の大森一樹が通っていたことでも有名で、京一会館最後のプログラムには彼の「さよならの女たち」が選ばれ、いつも数人しかいない劇場内は人で溢れ、非常に盛り上がった。
 
なお、当時スーパーの2階だった、そこに映画館があったことなど、今では偲ぶよすがもない。すぐ近くのゲームセンターは続いており、今も近所の学生が飛んだり跳ねたりしているし(笑)、同じ通りに有って、同じく学生時代の大森望(あ、どっちも大森だ(^^;)が通っていたという、ちょっと妖しげな啓文社という本屋は、私の卒業後、サブカル系専門書店としてますます妖しく変貌を遂げたのだが…
 
つまらなかった。
 
誤解の無いように言っておけば、「生きる」は極めて「良くできた」映画である。監督の言いたいことが120%伝わる、という意味で。しかし、それは「火曜サスペンス劇場」を副音声付きで見るような(笑)分かり易さ。
 
黒沢明の映画と言えば、驚くシーンで、動揺した顔のアップにドーンという効果音、ハッピーなシーンでは朗らかにラッパが鳴り響く。過剰な表現や余計な描写に一番手厳しい20歳の頃の私としてはただひたすら鬱陶しかった。
 
ちなみに、「生きる」での「良くできた」演出の一例を説明すると、自分が余命幾ばくも無いと知って、主人公の男が喫茶店の中の階段をふらふらと降りていく。その横を、(2階で自分の誕生日を祝うため待っている友人達へ向かって)足取りも軽く駆け上がっていく女学生というシーン。
 
人生の終着と、出発。下降と上昇。極めて分かり易い比喩を込めたシーンだが、余りにも明白過ぎて、…バカじゃないの?と呟く以外何も言いようがない。しかも、これが全編に渡って続くのだから、20歳の私にとっては、ほとんど拷問、だった 。
 
蓮實重彦
 
小津の評価は一時期は必ずしも高くはなかったらしい。その評価を最初に高めたのが、ドナルド・リチーの評論だが、これはその後の「小津は…無い」という紋切り型の見本ともなった。そこで登場したのが、あの真に画期的な、小津を否定形ではなく、肯定形で語るという、蓮實重彦の「監督 小津安二郎」で、この本は、それからの日本の映画批評の形を有る意味で決定付けた。
 
で、それ以降、この本の内容を確認するという意味で、映画青年が名画座に小津を見に行くようになったということが例えば金井美恵子の小説とかで分かるのだが、私の場合、自分の受けた衝撃を解き明かす本として、読んだわけであり、それは非常に幸福なことだったと思う。
 
北鎌倉駅
 
その後、自動販売機がホームに置かれるようになってから、さすがに30年前とは少し変わった(笑) 小津の映画で北鎌倉駅で列車を待ちながら、主人公達が、今読んでいる小説の話をする場面があるのだが、それが大河小説の「チボー家の人々」で、「ええ、まだ4巻」みたいな会話なのが、何故か印象的だったが、今、「チボー家の人々」なんて読む人はどれくらいいるのだろうか?(ちなみに自分も読んでいない )