「もののけ姫」note

映画「もののけ姫」に関しての個人的な感想、不満、疑問等を羅列。

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  • 一見して映画「ナウシカ」によく似た作品。あそこから、離れようとして、最終的にそっくりになってしまったという感じもする。一体、1997年にこの映画が作られた意味は?
  • 最初の疑問。少年の旅立ち。監督によれば、「見送られない出発」というのは、「追い出される」ことなのだそうなのだが、それでは村人の「やまとに破れて500年。長となる者が、西の地に赴くのは…」って、何? てっきり、(少なくとも村人としては)桃太郎的な、故郷に錦を飾ることを期待した発言かと思ったのだが。結局、蝦夷も、その王子という設定も、物語のきっかけにしか使われていないように見える。勿論、「故郷に帰らない主人公」というのは四方田犬彦が「ラピュタ」に関して指摘しているように、今に始まったことではない(というか、帰るのは「コナン」位?)のだが、この場合、孤児ではなく、王子と打ち出した以上、故郷に責任が発生するのでは? 少なくとも、代わりの王子らしい者の描写をすべきでは。無責任な王子では、いくら常民が主人公の映画だといっても、今までの「マンガ映画」と同じでは? この、王子という設定には、宮崎駿が20世紀の最高のアニメ監督であり、21世紀の監督になり得ない大きな問題を示しているように思う。ヒーローなしに世界は救えないのか?
  • カヤとの別れが、見送るものを登場させることで、出発のシーンの「視点」を作り出すという、一連のシーンは、最近の映画ではめったに観られない感動的な映画的瞬間。え、じゃあ、「王子」も同じことでは、ってうーん。
  • ここ数年のジブリ映画は、一般の観客を騙して感動させて、資金を回収するという方法を駆使してきたのだが、この映画のラストは、作者の誠実さとその欺瞞のテクニックが類を見ない調和を見せたとして記憶すべきかもしれない(笑)。今まで「トトロ」で糸井重里が「人は昔、木ともっと仲良しだったんだよ。」というようなことを口にする度に「嘘付け!」と突っ込みを入れていた私としては、ぐーの音も出ないというか。つまり、戻った緑は今までの照葉樹林ではなく今に繋がる広葉樹林。シシ神の森は消えてしまった訳なのだが、物語の大筋から言って、映画を観ている人にとっては、めでたしめでたしと感じる同じ「緑」としてだけ機能してしまう。こうして、作者の認識を裏切ることなく、物語は一見無難に着地する、というわけだ。
  • しかし、どうしても気になるのはたたら場のその後。であろう。エボシは「良い村にしよう」と皆に言うがそれは具体的にはどういうことなのだろう? 今までと基本的には同じ、としか私には思えないのだが。となれば、そこで活躍するアシタカがサンのところに逢いに行く、というぎりぎりの妥協点すら、どう考えても無理がある、という気がする。おそらくサンはこの地に長くは留まらないに違いない。もう、ここには森はないのだから。
  • 勿論、ここまで述べたことは作者である宮崎駿には分かり切ったことに違いない。それでも、これを作り上げたことに大して、私たちは、何を感じ、考えるべきなのだろうか。
  • 宮崎駿作品といえば、かつてはその映画を象徴するような「奇跡のポーズ」を含む奇跡的な瞬間が付き物だった。登場人物のイノセンスが奇跡を起こすというその瞬間は「腕を広げる」「手を握る」「空を飛ぶ」という3要素の集合体であり、最も感動的なその瞬間として例えば「ラピュタ」でのシータ救出劇のクライマックスを思い浮かべて貰えば良いのだが、「魔女の宅急便」の頃から、その「魔法の力」は弱まってきた。そしてこの映画に関しては、驚くことでは無いのかもしれないのだが、ついに奇跡は起きないのである。アシタカの手はサンの手を握り続けることは出来ない。そして、誰も空を飛ぶことは出来ない。しかし、奇跡の瞬間を誰よりも待ち望んでいるのは宮崎監督本人ではないだろうか。「飛ぶ夢を暫く見ない」宮崎駿が、次に作る物こそ、期待して待ちたいと思う。
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