映画の国のアリス

〜 ベルナルド・ベルトルッチ「革命前夜」

 

 1.「自転車という主題」

 ベルトルッチの作品を見る快楽はまず、あのゆっくりと滑らかに 滑り出すカメラの動きにある。その奇妙に遅い動きは退行の感覚とでも言うものにつながっていくのだが、 それは次に扱うことにして、この時、しばしば視点の移動を説明というか意味付けるものとして乗り物が 登場することに注目したい。多くの場合、車がそうなのだが、しかし、やはり車のスピードとしては 若干遅過ぎるような気がする。もう少し遅い乗り物の方が、動きと合っているように見えるのだ。

 例えば、船。「石油の道」はその名の通り、いかに石油が 運ばれているかを描いたTV用のドキュメンタリーで、第1部 イランの石油採掘現場の様子、第2部 イランから イタリアまで石油を運ぶタンカーの旅、第3部 イタリアから西ドイツの方まで延びているパイプラインに沿って旅行する ジャーナリストの旅、から成り立っている作品だったが、ベルトルッチだと思ったのは、第2部の一場面だった。それは、 スエズ運河をタンカーが北上している風景だったのだが、中東の街の中を巨大なタンカーがゆっくりと動いていくシーンは、 紛れもなく「ベルトルッチ映画」だった。船とベルトルッチはきっと良く合うに違いない。しかし、彼の映画に動く船が出て 来たのを見たことはない。

 では、他に何があるか、というと、当然、自転車となる。と言っても「革命前夜」「ラストエンペラー」しか自転車が出て来た記憶は ないのだが、どちらも出てくるシーンは、かなり重要な意味を持っているように思えるから、自転車という乗り物を意識しても 良さそうである。

 まず、「革命前夜」の自転車だが、これは話の最初の方で、自殺、あるいは 事故死する、主人公の友人の乗り物であり、彼が曲芸をしながら自転車を乗り回すシーンはこの映画で最も官能的なシーンである。 他の映画では、ダンスとして示される回転運動まで引き受けているこのシーンは色々解釈に富むと思われるが、他にも、段々と 恋愛関係に陥っていく叔母に対し、主人公が突然「自転車に乗れる?」と聞く所もあったりして、何か自転車が気に掛かる映画 である。

 もう一つの「ラストエンペラー」は、これを見るまで特に感じなかったが、 改めて考えると極めて自転車が重要かつ特権的な位置を占めている映画だといえる。

 まず「ラストエンペラー」は図式的なまでにメロドラマの構造が支配する映画 だということを確認しておこう。主人公は徹底して受け身的であり、それは乗り物との関係に置いても同様である。冒頭部、汽車で 連れて来られた彼は、そもそも幼少時、紫禁城に馬車で連れてこられた存在だった。後に、日本軍によって天津へと車で連れていかれ 、更に満州国の皇帝となったものの、日本の敗戦となり、脱出を目論んで乗った飛行機は当然のことながら、飛ばない。彼にとって 乗り物とは、いつでも自分の意志とは関わりなく「乗せられる」ものであった。

 それを思うと、いかに自転車が特権的な乗り物であったかがよく分かる。死んだ母に会うため、自転車に乗って 彼が紫禁城から脱出を図るシーンは極めて緊迫感のある感動的なシーンだが、それは何よりも、徹底して受け身の主人公が自転車と いう武器を使うことによって、自ら紫禁城の掟、そしてこの物語の構造そのものに対して戦いを挑むシーンだからである。勿論、 強固な構造は例外を許さず、主人公の目の前で、又しても、門が閉じることになるのだが。

 このシーンの印象が余りに強いので忘れがちだが、彼が自転車に乗るシーンはもう一回登場する。一市民と なった老フギが北京の街を自転車で通勤する場面である。もう、ここでは自転車は特権的な武器ではない。日常生活の当たり前の 一コマである。つまり、彼の晩年が何であったかというと、ささやかな自力で前進する自転車の生活だった。皇帝から市民への変化、これを最も象徴しているのが、自転車なのである。この2つの映画からただちに ベルトルッチにおける自転車の意味を確定出来るとは思わないが、見てきたように、自転車はかなりベルトルッチ的な乗り物 なのであり、今後も気を付けていて良い主題だと思う。

 

2.「ベルトルッチとルイス・キャロル」

 かなり奇妙な組み合わせである。大体、ベルトルッチが「アリス」を読んだことが有るのかさえ、私は知らない。少なくとも影響を受けているとは考えがたい。 しかし、一見かけ離れた両者も、ある一つの事に対する態度を考えると、まるで双子のようによく似ているのである。そのある事とは 、すなわち時、Timeである。

 大雑把に言うと、人間は後ろ向きのタイプと前向きのタイプとに分けられそうだが(勿論、前向きが優れている というわけではない)、両者とも後ろ向きに違いない。つまり、関心が過去に向きやすいのである。あるいは、過去との関わりに おいて現在を見ると言った方が良いかもしれない。

 まずルイス・キャロルについてだが、高山宏「アリス狩り」によると、「ヴィクトリア朝 という汽車に乗り遅れた、あるいは間違って乗ってしまった人物」であるキャロルの作品では、いつも時の流れが一つの大きなテーマ となっている。しかも、永遠に続くことになっている気違い茶会のように、そこでは様々にねじれた時間が登場する。あたかも、全て をあっという間に流し去っていく時間への恨みを晴らすように。

 中でも「鏡の国のアリス」でのハンプティ・ダンプティとアリスの会話は、時を 止めたいという彼の欲望が危険なまでに出ているところである。それは、既に7歳6ヶ月のアリスが「ひとは大きくならずには いられない」というのに対し、ハンプティ・ダンプティが「ひとりでは出来まいが、ふたりなら出来る。助けてもらえば、7歳で やめられていたかもしれない」と返す箇所である。即ち、死が永遠の可能性として浮上しているのだ。

 しかし、キャロルは当然の事ながら、別の方法で時を止めようと試みる。ひとつは二つのアリスに代表される文学、 そしてもうひとつは、当時ようやく実用的になった写真。「不思議の国のアリス」の元となり、かのアリス・リデルにプレゼントされた「アリスの地下の冒険」の最終ページに、キャロルが撮ったアリス・リデル7歳(!)の時の肖像写真が 貼ってあったというエピソードはこの二つの試みが一致した最も感動的な話かもしれない。

 片や、ベルトルッチだが、物語の構成要素として時間が重要視されていることは言うまでもない。しかし、 この「革命前夜」を見るまで、時が流れていくことにこんなにもこだわりを持っているとは思わなかった。 聖者と弟子では、時の流れが違っていた、という物語を語るジーナが「時間は存在しないのよ」と結ぶくだりは、まるでルイス・ キャロルである。

 確かに、改めて考えてみるとベルトルッチは時間がそのまま流れていくことに対し、抵抗を感じていた ように見える。「殺し」でのリリカルな、「その日」の反復は、傷の付いたレコードが何回も同じメロディを繰り返す様 を思わせた。「革命前夜」での、前半部に多いカメラの繋ぎ方(記者会見の長いビデオを短く編集したようなもの)は、 逆にレコードの針がやたらと飛ぶようだ。

 このようなベルトルッチが「暗殺の森」「ラストエンペラー」などで、フラッシュ・バックに向かうのも当然といえよう。いつの時代も時が経てば 風化していき、それは皆同じことだという彼の映画において、未来は決してより良いものではなく、意識は現在から過去へと向かう。

 「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のラストの悲劇は、色彩の物語等、いくつものレベルから説明出来るが、時間に関して言えば、マーロン・ブランドが現在に満足することを止め、未来を口にしたことが発端である。

 端的に言えば、未来はしばしば悲劇となる。それゆえ、未来を封じられた主人公達は、そこに 留まろうとするかのように、周り出す。円環のイメージ、それは他ならぬ、アリスでのコーカス・レースとして既に お馴染みのものだが、ベルトルッチでもダンスのシーンは、作品の中で最も輝く場面である。

 永遠を夢見て踊り続ける主人公達。しかし、それは所詮、続かない夢である。「殺し」の踊りが終わると共に逮捕される犯人から始まり、「暗殺の森」のダンスホールで踊った次の日、暗殺されるジュリアや教授、そして勿論、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のポールの最後と、多かれ少なかれ、ダンスの後には悲劇が 待っているのだ。だが、登場人物にとっては皮肉なことかもしれないが、そのことによって彼らは映画として永遠の 時間を持つのである。

 

 恐らく、同じ欲望「時を止めること」を持つ二人は、時代が違ったら、それぞれ互いの したことをしたに違いない。20世紀にキャロルがいたら間違いなく映画を(但し、多分「少女映画」を)撮ったに 違いないし、19世紀にベルトルッチがいたら、写真に凝った筈だ。しかし、20世紀の映画は、時間を止めると同時に、 時間の流れもその中に持ってしまったという点で、新たな矛盾を抱え込んでしまったとも言え、それだけにベルトルッチの 時間に対する意識の方が一層複雑だとは言えそうである。

 「鏡の国のアリス」の巻末に付けた詩の最後で ルイス・キャロルは“Life,what is but a dream?”と歌ったが、ベルトルッチならあるいはこう言うのかもしれない。“Life,what is but a film?”


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(補足、というか蛇足)

*自転車

この文章を書いた時には、ここで挙げている作品しか見ていなかったが、他に「暗殺のオペラ」に自転車が登場する。そして、この後作られた「シェルタリング・ザ・スカイ」でも、自転車でのツーリングが重要な場面として登場、やはり自分は間違っていなかったと、一人で興奮したりした。
 

*皇帝から市民への変化

自転車以外では、変化を象徴しているものとして、帽子について言及した批評を読んだことがある。そこでは、皇帝から庭師への変化が、王冠から、人民帽(だっけ?)への変化として述べられていた。

*高山宏「アリス狩り」

19世紀の大英帝国の文化についての名著。荒俣宏をもう少しアカデミックにしたような、博識な評論集(というのは、順序が逆だけど)。高山宏の本は、これに限らず、とても面白いのだが、大概大きくて高いので、興味ある人は図書館で探した方が吉。これも3千円くらいだったような。

*色彩の物語

ベルトルッチ映画には欠かせない名撮影監督のビットリオ・ストラーロは、撮影に当たって、独自の色彩理論に基づき画面構成をしていることで有名。すなわち、あらゆる瞬間の画面の色は当然ながら、全てコントロールされており、意味がある、ということになる。